こころの旅。。。一休み。、 休んでばかり

見上げれば青空、、、ならいいけど


2010年07月17日 00時30分34秒 | Weblog
   

    何とし久ぶりなんでしょ・・・・


     電車の乗って 歩いてきました。


      5959  たいして歩いてないね。


     ちょこっと  足の裏が痛くなりましたわ。


      相変らず  元気な先生に逢って来ました。


      う~~~~ん   

中学

2010年07月03日 17時45分54秒 | 言葉
京都府舞鶴市の中学校で、イジメ問題に対するユニークな取り組みが行われている。
生徒は「イジメをしません」と宣言し、バッジを制服に付ける。イジメられたり、イジメを目撃した生徒はバッジを外して、SOSを周囲に知らせるのだという。*1

似たような取り組みとしては、自分が妊婦であることを周囲に知らせることを目的としたバッジがあり、電車での席を譲ってもらったり、喫煙を遠慮してもらえるなど、相手に配慮を押し付けずに、それとなく気付いてもらうことができる。また障がい者が手を貸して欲しいときにアピールをするための黄色いハンカチなどもある。

しかし、妊婦や障害者など、人に気付かれることが必要ならばそうした取り組みも意味があるのだろうが、果たしてイジメを「人に気付かせる」ことは正しい対処法なのだろうか?
イジメをすることに明確な理由はない。昔のように大勢の中に貧乏人の子供がみすぼらしい格好をしていてイジメられるというようなこともなく、イジメられている子はただ「イジメられている子という記号」を持っている。すなわち、同じクラスという関係性において「イジメてもいい子」という烙印を押されることによって、イジメが発生する。
すると、子供がイジメられているときに、バッジを外したとしてそれはクラスの内外に「私はイジメられている子です」ということをアピールすることになってしまう。それは見えない烙印によって起こっているイジメを、バッジを外すという行為によって、見える烙印に変化させてしまうことを意味する。それはイジメられっ子にとっては「私はイジメてもいい子です」とアピールすることに等しいのである。その恐怖はどれほどのものだろう。

もちろん、バッチを外すことが一時の苦痛であって、このバッジ本来の趣旨通りに、イジメの存在に気付いた教師が対処してくれて、イジメの問題が解決するのであればいい。
しかし、イジメられている子は、イジメられているという烙印があるという理不尽な理由でイジメられているのだから、論理的手順をもってイジメが解決するということ自体を信用していない。
そこで信用を得るためには、いじめられっ子に教師が信頼されることが必要だが、そんな信頼がつくりようがないことは、数多くのイジメ事件において、教師が責任逃れの態度を繰り返したり、下手をすれば自らイジメに加担しているような現状を見れば明らかだろう。
さらに、授業時間の増大や指導力の強化に子供の安全、果ては道徳や修身教育をを社会から求められながら、教育関連の予算はロクに増えない現状に、教師たちはきりきり舞いさせられている。そうした中でイジメというきわめて煩雑な「やっかいごと」が発生することを教師たちは恐れている。そうした状況ではイジメが意図的に見過ごされるかもしれない。

まぁ、このように問題点を列挙すればキリが無いし、結局のところは人間関係の問題を、単一のシステムで解消することは不可能だ。このバッジのことを「イジメ解消に役に立たない対外向けのパフォーマンス」と非難することもできるが、「やらないよりは、どんな方法でもやってみたほうがいい」とも言える。

ただ、イジメに対して1つだけ私が明確に言えることは、人間関係がある以上、イジメは絶対になくならないということだ。
人が誰かを愛することと、誰かを嫌うこと。そして誰かをイジメることは、人が人に向ける感情ということで同じ意味なのだと思う。それを無くすとすれば、各自が儀礼的無関心を徹底するしかないが、それでは社会が人間の生きる社会ではなくなってしまう。
イジメが当たり前に起こる物である以上、「イジメを無くそう」と構えるよりは、イジメがあることを前提に、それによってイジメられた子供がドロップアウトしないようなシステムを構築するほうが、建設的なのではないだろうか。たとえば、イジメで1年間勉強が遅れただけで人生を違えかねない、学歴偏重の社会を見直すなど、それはワーキングプアなどの貧困問題に対する対処にもつながっていくはずだ。