日々の雑感をお話しする(時々動画)ブログです。

仕事漬けの毎日なので、仕事の話は多いですが、色々話します。

現在の仕事の先生(師匠)のこと

2023-06-14 18:15:37 | 日記
今所属している個人事業主の電気管理技術者の加入している団体への加入を希望した。共済組合があるし、損害賠償保険も団体で入れるし、労災保険にも入れる。それは、個人でやってみるとわかるがかなりの保険料となる。
加入説明会に行くと、「入るには保証人が必要です。同じ地区の人でないとダメです。」えっ!そんな知り合いいるわけない。質問をした。「あのう、同じ地区どころか、この業界に知り合いがいないのですが、それでは加入は無理でしょうか?」
「えーと、あなたは○○県ですね。○○支部というところがあるからそこへ電話して相談してください。」
直ぐに電話した。
「入会を希望しているのですが、知り合いが一人もいません。どうしたら良いでしょうか?」
「はい。あなたがもし入ることになったら〇〇地区になります。そこの地区長さんにAさんという人がいますので、その人に電話して相談して下さい。」
直ぐにAさんに電話した。奥さんが電話に出た。
「こういう訳で電話を差し上げました。ご主人はいらっしゃいますか?」
「はい。ちょっとお待ちください。」
「もしもし、Aですが。」
「あの、入会を希望しているのですが、保証人のあてがないのです。支部に電話したら、Aさんに相談するように言われました。どうすればいいだしょうか?」
「じゃあ、履歴書を持って家に来てください。」

履歴書を用意し、手土産を持ってAさんのお宅を訪問した。
「プレハブの建物が庭に建っていて、そこが仕事部屋になっていた。」
履歴書をさっと見て、一つ二つ質問されて、「じゃあ、俺が保証人になるから、次の例会に出てきてくれるかい。」
「ありがとうございます。」
これが師匠との出会いだった。
例会に出て、師匠からみなさんに紹介されると、「あのさぁ、20年くらい前に空手道場に行ってなかったかい。俺のこと覚えてないか?」
「あっ、Sさんじゃないですか?」
「なんだSくんの後輩かい。じゃあ入会に異議なし。」
たまたま知り合いの先輩がいたので話はスムーズに進んだ。
「空手じゃ、Sに意地悪されただろう?」なんて冗談言う人もいた。
Sさんは「とんでもない。俺じゃあかなわなかったんだヨ。選手としてあちこちの試合に出てたやつなんだよ。世界大会に出場した奴と対戦したこともある奴なんだぜ。」
「へえ~」
と和やかに挨拶は済んだ。
それから煩雑な手続きを踏んで入会し、経済産業省、保安監督部から承認番号をもらった。
当時のしきたりで、保証人は全て保証人となった相手の面倒を見なくてはならなかった。
毎週日曜日は師匠の年次点検の手伝いにいった。
はじめていったとき、接地抵抗を測る準備をするように言われ、その様子を見て「だいたい仕事のレベルはわかった。知っていることは全部教えてやるから毎週手伝いに来い。早く一人前にならないと、自分のお客さんのところで事故が起きた時に対応できないからな。」
「はい。でも、もし明日にでも、来週にでも事故が起きたらどうすればいいですか?」
「俺に電話しろ。何とかしてやるから。」
安堵した。それが一番の恐怖だったから。
それから一人前になるのに2年くらいかかったんじゃないかと思う。自己評価では。
師匠はいつも「検電!間違いなく検電しろ。あっ間違えた。まあ次に気をつければいいやの「次」は電気屋には無い。死んでしまうから。次は無いんだぞ。
と必ず仕事を始める前に言った。何年たっても。
空手の先輩のSさんも良く手伝いに呼んでくれた。
3人で仕事をすることも多かった。
Sさんは渓流釣りが好きで、毎年3月解禁になると俺を連れていってくれた。
師匠は渓流はあまりやらない。アユ釣りが好きで。
何とか一人で事故対応できるようになったころ、師匠にアユ釣りに誘われた。
「行きたいのはやまやまなんですけど、アユ竿はすごく高いし装備が大変なんでちょっと。」というと、仕事部屋の隅の方をごそごそと何か探し、
「竿はちょっと古いけどまだ十分使えるからこれをあげるよ。おとり缶も俺のお下がりだけど、これをやるよ。あとは仕掛けは数百円、ウェーダー、水中靴を買えば行ける。上州屋にこれから行って買って来よう。」と言われるがままに、「これとこれを買うんだ。あっ、これは渓流やってるからそれを使えばいい。」
そして解禁日に連れていってもらい。何度か一緒にいった。
アユの友釣りは難しいんだよ。
でも、人生で一番楽しかった時期かもしれない。
ある夏の暑い日、師匠から電話があった。「また手伝いかな」なんて思っていたら「ちょっと家に来てくれないか。頼みがあるんだ。」
「はい。」
何だろう。
「実は、ぼうこうの後ろ側にガンが出来て手術することになった。非常に珍しいガンで、抗がん剤も無いそうだ。摘出して再発せずにいつまでもつかの問題だそうだ。1か月入院するんで、お客さんの代行点検を頼みたいんだが行ってくれるか。」
「もちろんです。他の人に頼まなくても俺が全部行ってきなすよ。」
「はは、それじゃ自分の仕事が出来ないだろう。半分はSくんにたのんだから。」
「はい。」
「そして一か月後無事に退院してきた。」
「転移はなかった。問題は再発だ。抗がん剤が無いっていうんでな。」
1年間は何もなく過ぎた。
1年過ぎたころ電話があった。
「ちょっと家に来てくれないか。」
「はい。」
行くとSさんもいた。師匠の後を追って入会してきたSさんの同僚だったBさんもいた。
「再発してしまったんだ。これで仕事は辞めるから、受け取れるお客さんを紹介するから受けて欲しい。」
俺は「師匠、治療は出来るんですか?」
「いや、もう待つだけだ。」
「そんな!」「また直してアユつり連れてってください。」
SさんもBさんも黙って下を向いていた。
「あとは俺の体力がいつまでもつかだな。」

それから数か月して、息子さんから俺に電話があった。
「親父が〇〇市のガンセンターに入院したんです。もう自分で寝返りもできない状態なんです。」
最後に師匠に会った後、S先輩が脳梗塞で倒れた。
その時はまだ退院して師匠の見舞いに奥さんと来ていた。
俺はガンセンターにすっ飛んでいった。
「師匠!」
「ああ。トミ。来てくれたのか。ちょっとすまんがそこのテーブルの上にある水のペットボトルを2~3本こっちのベットのとこへ持ってきてくれ。」
「はい。」
「見たとおりだ。もうダメだ。延命措置は取らないように頼んだ。心臓が止まってももう何もしない。いよいよさよならだ。」
「師匠。がんばってくださいよ!」
「いててて。ちょっとナースセンターに行って痛み止め頼んで来てくれ。早く。」俺は走って行って痛み止め急ぎお願いします。
「はい。今行きますよ。」
部屋に戻ると痛みで顔をゆがめていた。
注射を打つとしばらくして、また普通に話ができるようになる。
今は、法律が変わっていくらでも痛み止めを打ってくれるらしい。
親父の時はダメだった。
俺はガンセンターに2日と開けずに師匠に会いにいった。
数週間後師匠は亡くなった。62だったと思う。
俺は奥さんに頼まれ受付を2日間やった。
通夜、葬儀後の振舞膳にもどうしても出てくれと息子さんから言われて出席した。俺の悲しみは、親を亡くした時と同じだった。まだ教えて欲しいことたくさんあった。釣りにも連れてってもらいたかった。
悲しかった。
それから2年後くらいだろうか、S先輩も脳梗塞で亡くなった。
ずっと遠くの病院に入院していたんでほとんど会えなかった。55だったと思う。

頼りにしていた2人を亡くしてしまった。
あまりの悲しさのせいなのか、俺の病気のせいか、師匠が最後の入院をしてから亡くなるまでとS先輩が亡くなるまでの時系列が全然思い出せない。今も。
震災の前だったことだけはわかる。年月は全然わからなくなってしまった。
俺もまだ50歳になっていなかったと思う。
50歳を過ぎてから、懇意にしていた仕事仲間がやはり亡くなってしまった。
5歳下だったのだけれど、師匠無きあと唯一の業者仲間だった。
見舞いに行ったその晩亡くなった。
俺は、呆然自失だった。49だった。
今度こそ一人きりになってしまった。
同業者もみんな、前職が同じ会社だったとか、仲のいい人とか、昔から知っていたとか、そういう人たちでグループが出来ている。「機器の更正はどこにだしてる?」「〇〇はどこに頼んでんの?」などとみんなに質問すると、「俺らはどこそこへ。とか、僕らのグループはどこそこへ。」と返答してくる。
俺は電気の業界じゃないところから入ってきたからそういう仲間は居ない。
もう、年齢から考えて仲間を作るのは難しいだろう。
相談できる人も誰もいなくなってしまった。
だから、「すべて1人でやって行かなくては」 と思っている。