女性が旅をするのにかくも気を遣うものなのでしょうか・・・。家事に終わりはないと言う通り暮らしの中の仕事は生きている限り続き、自分の身の周りをきれいに整理して暮らしを楽しむことは、それはそれで尊いことです。ですが人は“自分だけ”“自分の家族だけ”の社会で生きているわけではありません。また、家族が被害を被って初めて世の中の理不尽な仕組みに抗おうとするのではなく他人の出来事を共感し、社会が平等でないなら、良い社会でないなら変えていくように何らかの働きかけをするべきです。
いんやくのりこさんが沖縄辺野古を訪れた時の海のテントの看板には3631日目とあったと彼女の著書にあります。その本を携え、私が訪れたのが5192日目と書かれていたが、その日は台風の対策のためにどんどんとテントを畳んでいたので本当はもう一日足してカウントする日だったのかもしれません。
私の今回の沖縄行は観光目的というより、今まで「日本は平和で良かった。」と思ってきたことの贖罪と、今辺野古への米軍基地移設が環境破壊と言われていることで、実際を確かめたかったから。
今年度の大河ドラマ、『せごどん』二回目の結婚が奄美大島の女性で、島の人々は薩摩藩からその労働力を搾取されていました。沖縄もかつては中国、台湾、朝鮮とも交流を持ち、賢く平和に国交を営んできた琉球王国が栄えていたのでした。なのに、日本の明治政府が力で支配を始め、日本に組み込まれ、政策に利用される運命を辿ります。言葉も全く違ったようで、沖縄の言葉を話せる人も減って、存続が危ぶまれていると聞きます。
思春期に観た映画で同年代の少女たちが負った苦労と悲運を思い慰霊をしたかったから。私が観たものは、吉永小百合さんが主人公の女学生を演じました。戦争は終わった、もうあんな苦労をしたり悲しい死(自決を含む戦場での死)を選ぶこともないのだと思ってきました。ところがそれは大きな間違いでした。今までもベトナム戦争にイラク戦争がありました。沖縄の基地から軍用機は兵器を積んで飛んでいたのです。
ひょんなことから辺野古米軍基地近くのゲストハウスに泊ることが出来て、そこでゲート前で座り込み行動を実際している人たちと話してみて、皆昔から社会運動をちゃんとしてきた人々で、政府の法案に意見して、働く権利を主張してもいいのだと改めて学びました。
辺野古には元々、弾薬庫があり、キャンプシュワブは国道の下に大きな道路が通っていました。国道を挟んで反対運動の人が集うテント(タープ)があります。県民集会もここで行われました。ただ、辺野古の、近隣の住民は、実ははっきりと反対はしていない。反対運動をする他県からのよそ者を迷惑だと言ってはばからない人もいるのだとか・・・。漁業組合は基地建設を受け入れて、反対派の監視をする立場をとっているとか。少し北の別の集落では、辺野古に基地が出来たら自分たちの住居の上を軍用機が飛ぶというので反対を表明しています。こうして、民間人同士の分断を生むのは原発誘致の土地と変わりありませんね。
高江のヘリパッドのゲート前にも行ってきました。もうヘリパッドは6つ作られ、完了しているので誰も反対運動をする県民もいないのに、そのゲート前には警備員だけが6人以上もいました。炎天下の下、立っているのです。交代の人員を考えると何十人もが誰も来ないゲート前に立って警備に当たるのです。然も、彼らの給料は全て国税で支払われます。
高江辺りの北側は元々使っていなかった土地を半分日本へ返したらしいのですが、国道が走っている東側も西側も海軍の訓練場やヘリパッドが設置されていて、ここも基地の中に国道が通されていると言った具合なのです。そこに住宅や、小学校がある・・・。ベトナム戦争の時には、住民が訓練のために集められベトナム兵に見立てられたとか。・・・引越せばいいと言う話でしょうか?戦後はもろにブルドーザーで家屋・農地を潰し立ち退きを迫ったのですが。
この今回の旅行は義理の兄弟夫婦には知らせない方が良いという義父と夫・・・。確かに、諸事情あり義姉夫婦は今始めた商売の運営のため、ハードワークとなっているのにこちらは“旅行”とは私も言い出せなくこの状況に、悶々とします。私とて観光旅行にただ「あははのおほほ」と出かけていたわけではないのだが。
沖縄に行くにあたって、もっと勉強しておきたく購入した書籍に『宝の海を守りたい 沖縄・辺野古』があります。先述のいんやくのりこさんの著書です。彼女は福島第一原発の事故後東京から沖縄へ移住したのでした。彼女が初めて辺野古に来た時に青い大きな女性が見えたとのこと。スピリチュアルな能力が突出された方のようですが、それを読んで更にその現場に行ってみたくなったのでした。
辺野古の海は、静かでした。キラキラしてエネルギーに満ちていました。スピリチュアルなエネルギー。・・・私がいつも見ている日本海と違い太平洋に面した開いた場所のはずなのですが、船から見た大浦湾は後ろの山との繋がりを感じました。
彼女の本の他にもうひとつ旅行前に急いで取り寄せた本に、矢部宏治さんの『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』です。書籍の名前にある私たちが知らないこととは、米軍機は島の人が住む家の上は飛ぶが、米兵の住んでいる場所の上は飛行の経路から外しているのです。それは、アメリカ国内での軍の在り方と同じルールを守っているだけで、日本人にはそのルールは適応しなくても良いという訳なのです。だから、本土の日本人は基地を沖縄県に集中させて放置し、本土はできるだけ危険が及ばないようにして来ていたのでしょう。
私が訪れた4日間は台風が去り、次の台風がまた向かってきている間の好天気で、台風に警戒して嘉手納基地も辺野古もひっそりとしていました。私がいつもの生活に戻り一週間たったころ工事が再開し、護岸が繋げられ辺野古湾の一部が囲い込まれてしまいました。19日には石がまた落とされ、破壊が続けられています。
いんやくのりこさんが沖縄辺野古を訪れた時の海のテントの看板には3631日目とあったと彼女の著書にあります。その本を携え、私が訪れたのが5192日目と書かれていたが、その日は台風の対策のためにどんどんとテントを畳んでいたので本当はもう一日足してカウントする日だったのかもしれません。
私の今回の沖縄行は観光目的というより、今まで「日本は平和で良かった。」と思ってきたことの贖罪と、今辺野古への米軍基地移設が環境破壊と言われていることで、実際を確かめたかったから。
今年度の大河ドラマ、『せごどん』二回目の結婚が奄美大島の女性で、島の人々は薩摩藩からその労働力を搾取されていました。沖縄もかつては中国、台湾、朝鮮とも交流を持ち、賢く平和に国交を営んできた琉球王国が栄えていたのでした。なのに、日本の明治政府が力で支配を始め、日本に組み込まれ、政策に利用される運命を辿ります。言葉も全く違ったようで、沖縄の言葉を話せる人も減って、存続が危ぶまれていると聞きます。
思春期に観た映画で同年代の少女たちが負った苦労と悲運を思い慰霊をしたかったから。私が観たものは、吉永小百合さんが主人公の女学生を演じました。戦争は終わった、もうあんな苦労をしたり悲しい死(自決を含む戦場での死)を選ぶこともないのだと思ってきました。ところがそれは大きな間違いでした。今までもベトナム戦争にイラク戦争がありました。沖縄の基地から軍用機は兵器を積んで飛んでいたのです。
ひょんなことから辺野古米軍基地近くのゲストハウスに泊ることが出来て、そこでゲート前で座り込み行動を実際している人たちと話してみて、皆昔から社会運動をちゃんとしてきた人々で、政府の法案に意見して、働く権利を主張してもいいのだと改めて学びました。
辺野古には元々、弾薬庫があり、キャンプシュワブは国道の下に大きな道路が通っていました。国道を挟んで反対運動の人が集うテント(タープ)があります。県民集会もここで行われました。ただ、辺野古の、近隣の住民は、実ははっきりと反対はしていない。反対運動をする他県からのよそ者を迷惑だと言ってはばからない人もいるのだとか・・・。漁業組合は基地建設を受け入れて、反対派の監視をする立場をとっているとか。少し北の別の集落では、辺野古に基地が出来たら自分たちの住居の上を軍用機が飛ぶというので反対を表明しています。こうして、民間人同士の分断を生むのは原発誘致の土地と変わりありませんね。
高江のヘリパッドのゲート前にも行ってきました。もうヘリパッドは6つ作られ、完了しているので誰も反対運動をする県民もいないのに、そのゲート前には警備員だけが6人以上もいました。炎天下の下、立っているのです。交代の人員を考えると何十人もが誰も来ないゲート前に立って警備に当たるのです。然も、彼らの給料は全て国税で支払われます。
高江辺りの北側は元々使っていなかった土地を半分日本へ返したらしいのですが、国道が走っている東側も西側も海軍の訓練場やヘリパッドが設置されていて、ここも基地の中に国道が通されていると言った具合なのです。そこに住宅や、小学校がある・・・。ベトナム戦争の時には、住民が訓練のために集められベトナム兵に見立てられたとか。・・・引越せばいいと言う話でしょうか?戦後はもろにブルドーザーで家屋・農地を潰し立ち退きを迫ったのですが。
この今回の旅行は義理の兄弟夫婦には知らせない方が良いという義父と夫・・・。確かに、諸事情あり義姉夫婦は今始めた商売の運営のため、ハードワークとなっているのにこちらは“旅行”とは私も言い出せなくこの状況に、悶々とします。私とて観光旅行にただ「あははのおほほ」と出かけていたわけではないのだが。
沖縄に行くにあたって、もっと勉強しておきたく購入した書籍に『宝の海を守りたい 沖縄・辺野古』があります。先述のいんやくのりこさんの著書です。彼女は福島第一原発の事故後東京から沖縄へ移住したのでした。彼女が初めて辺野古に来た時に青い大きな女性が見えたとのこと。スピリチュアルな能力が突出された方のようですが、それを読んで更にその現場に行ってみたくなったのでした。
辺野古の海は、静かでした。キラキラしてエネルギーに満ちていました。スピリチュアルなエネルギー。・・・私がいつも見ている日本海と違い太平洋に面した開いた場所のはずなのですが、船から見た大浦湾は後ろの山との繋がりを感じました。
彼女の本の他にもうひとつ旅行前に急いで取り寄せた本に、矢部宏治さんの『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』です。書籍の名前にある私たちが知らないこととは、米軍機は島の人が住む家の上は飛ぶが、米兵の住んでいる場所の上は飛行の経路から外しているのです。それは、アメリカ国内での軍の在り方と同じルールを守っているだけで、日本人にはそのルールは適応しなくても良いという訳なのです。だから、本土の日本人は基地を沖縄県に集中させて放置し、本土はできるだけ危険が及ばないようにして来ていたのでしょう。
私が訪れた4日間は台風が去り、次の台風がまた向かってきている間の好天気で、台風に警戒して嘉手納基地も辺野古もひっそりとしていました。私がいつもの生活に戻り一週間たったころ工事が再開し、護岸が繋げられ辺野古湾の一部が囲い込まれてしまいました。19日には石がまた落とされ、破壊が続けられています。
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