智の庭

庭の草木に季節の移ろいを感じる、日常を描きたい。

浜松を旅する

2016年05月10日 | 国内旅行
4月29日から2泊3日で、浜松を旅してきました。

実家の姉が、「 鳥取砂丘は遠いので、日本3大砂丘の一つ、浜松にある中田島砂丘を 子供たちに見せたい。」と言うので、

私は、「浜松~?うなぎ~?それ以外に、何があるの~?」と半信半疑で、低いテンションで同行しましたが、

新幹線こだまのグリーン席に坐して後、観光資料を読み上げ、到着するころには、すっかり浜松旅行のスイッチが入りました。


まず、浜松駅ビルで、ウナギ弁当と甘味のだんごとお茶を仕入れ、いざ!中田島砂丘へ



足腰の弱った母はしばらく歩いて、それ以上はあきらめ、休憩。

私の夫は、4月上旬に左足首を酷く捻挫して、まだ治癒せず、足が踏ん張れない為、母と同じく休憩。

姉は、右股関節を痛めており、休み休み歩き・・・・

元気な小学5年と2年の甥っ子を引率したのは、私でした。

遠くに見える砂丘を越えると、ひらける景色は、



遠州灘。

「灘」とは、「浜」のように遠浅で穏やかに波が寄せる、のではなく、いきなり「砂の際」にドカンドッカーンと打ち付ける荒波で、

波打ち際に近づくのが、怖くてはばかれます。

強く吹き寄せる風が砂を運び、砂粒が頬に打ち付けて、痛いようです。


翌日は、ワンボックスカーをレンタルして、浜名湖を北上して、奥浜松の龍潭寺へ。



ゆるりと、小堀遠州の作庭を鑑賞しました。


彼は有名な作庭家ですが、改めて、彼は「遠州」と名がつくように、この地に縁がある人では?

と調べてみると、安土桃山から江戸初期の人で、家康によって、この「遠州」の地の大名に任じられたことから、

そのように呼び名がついたそうです。


なるほど~!日本各地に小堀遠州作の庭があり、彼の名と作品を知っていましたが、この地で納得しました。

茶人であった小堀は、千利休や古田織部を師匠と慕っていましたが、秀吉や家康によって彼らは切腹を命じられ、非業の最期を遂げました。

小堀は、師匠の二の轍を踏まぬよう、師匠たちのように各大名家への出入りを避け、権力者から疑われないよう控え目にしていたそうです。

最後の任地である遠州で、無事任を終えることができたから、後世に小堀遠州作の庭も残ったのですね。

小堀さん、お疲れさま、そして、ありがとう。



この日は、午後、洞窟を探検してホテルへ戻りました。

翌日は、浜松城と石垣を鑑賞し、ウナギの名店で食し、帰路につきました。


浜松の旅、お勧めですよ~

青森を旅する、6日目最終日

2015年12月10日 | 国内旅行
青森旅行も今日が最終日となりました。

浅虫は温泉が有名ですが、もう一つ、推定樹齢700年の赤松の巨木があります。



朝の澄んだ冷気の中、森林公園の落ち葉が敷き積もる山道を、1時間ほど歩くと南斜面に突如現れます。


根を傷めないように、周囲に侵入防止柵があり、また、周辺の木々を払っていないため、

写真では木の大きさを表現しずらく、感覚としてつかめないのが残念です。

幹回り6.6m、樹高28m、だそうですが、

いわゆる一本の「枝」が、周囲にある大きな松の「幹」ほどあり、

7本ほどの太い「幹」のような「枝」が2mほどの樹高から分かれ、スケールが大きいのです。

しばらく眺めて、気のエネルギーを頂きました。

紅葉を楽しみ、野生のリスも観察できて、新鮮な空気で心身ともに清められた感がします。


青森へ移動し、市場で中トロと、ウニと、ボタンエビで海鮮丼を作ってもらいました。

ボタンエビの甘さ、美味しさ、忘れられません。

りんごを試食して、お土産に木箱で送ってもらいました。

そして、新幹線で帰路につきました。

青森では色々な経験をして、旅の前の日々が遠くの出来事になり、

これからの日常を、また新たな気持ちで迎えられます・・・・


青森を旅する、5日目

2015年12月09日 | 国内旅行
浅虫温泉に泊まり、5日目は下北半島、恐山を目指します。

2008年の秋にも、青森を旅しました時は、八甲田山、奥入瀬渓流、十和田湖、そして秋田の玉川温泉を訪ねました。

前回も恐山に行きたかったのですが、断念した経緯があり、

今回の旅では、是非行く、と決めていました。


しかし、資料によると恐山社務所は10月末で閉じる、とのこと。

それでも未練がましく、行けるところまで行こうと進むと・・・・



門は閉ざされ、建設業者が冬支度をしていました。


社務所の正面は湖、裏山は至る所で温泉が湧き出て、



なんとなく「恐れ多い」雰囲気を感じます。


残念ではありますが、気を取り直して、大間のマグロを食べんがため、下北の先端の漁港を目指します。



大間岬から見える北海道の函館


港には10件ほどの食堂が並び、月曜日のその日は、数件しか開いておらず、

親子3代でマグロ釣りをする、という店でマグロの刺身をいただきました。

赤み、中トロ、香りもよく、味も美味、アワビの刺身も、コリッとさっくり歯切れよく、

「北の最果てまで 来た甲斐はあった」と肯けるものでした。


そして、駐車場にもどる途中、「ウニはいかがですか~」と声かけられ、

夫と顔を見合わせて、「入りましょう~」

その店主、アケミさんから、美味しいウニについて、いろいろ教わる中で、

夫が、「イタコは、今、生活の中では、どのようになっているのですか?」と訊ねました。


恐山も閉所して、客も少ない月曜日で、客は私たち夫婦二人だけ、ということもあり、

アケミさん、半世紀前の子供の頃から今に至るまで、日常生活の中でイタコが果たした役割について話し、

彼女自身や、叔母や娘の霊的体験について、幾つか語ってくれました。

社務所に入れませんでしたが、地元の彼女のお蔭で、恐山・青森の風土を感じることができました。


大間から浅虫温泉の宿まで、4時間かかって戻り、

なんとはなしに、若い仲居さん相手に、イタコの話をしますと、

21歳の彼女は下北の陸奥出身でありながら、裏山の恐山に登ったこともなく、しかも「イタコ」という名称すらも知らない!

驚きながらも、今日、アケミさんから聞いたイタコ文化について、かいつまんで話をすると、

彼女は「そのような体験は、私もしています。そういう霊感は、皆、持っていませんか?」


私と夫、「ええっつ!」と驚きながら、「皆、持っていないよ」

と彼女の霊的体験について、もっと話をしてもらうように促します。

親しい人の死の前日に、「蟲のしらせ」があった、幾つかのエピソードを聞きました。

そのような勘は、彼女の父親にもあって、母親はまるで無いそうです。

「あなたには、青森の代々続いてきた民族の血が流れていて、その霊感を恐れず、是非、大切にしてください。」

など励ましつつ、締めくくりました。

青森を旅する、4日目

2015年12月01日 | 国内旅行
昨夜、美味しい海鮮料理で満たしたので、今朝は青森名物市場の海鮮「のっけ丼」は避けて、ホテルの朝食ビュッフェで。

そして4日目は、津軽半島先端、竜飛岬で「上野発の夜行列車降りた時から~」と歌うつもりでレンタカーに乗り込みます。

まず、最初に立ち寄った先は、五所川原市の立佞武多(たちねぷた)



5階建ての大きな資料館、と思いきや、入ってみて「びっくり」

天井まであろうか、20メートル超える巨大なモニュメント、「これが、佞武多か・・・」と口をあんぐり開けて、見上げるばかり。

すると、案内係の女性が、「4階までエレベーターで上がり、スロープに添って降りてきてください。」


4階に上がると、目の前に



合計3体の立ち佞武多が



迫力で迫ってきます。

すると、佞武多の明かりが消され、館内の壁に映画上映されます。

1996年、人口の過疎化によって長らく絶えていた佞武多祭りを、一度限り、復活させようと市民の有志が立ち上がり、

8月の初め、三体の佞武多を奉納し、佞武多祭りを復興させたそうです。

すると、今年限りで終わらせることが惜しくなり、それ以降、毎年続けることになったそうです。


なるほど・・・と感心しているところへ、今度は祭り太鼓と笛の音が・・・・



佞武多が本館から出発するときの、意気揚々としたお囃子と、祭りが終わり本館に戻るときの、どこか寂しいお囃子を、

皆も手拍子で応えます。

私、感動して、涙を止めることができませんでした。


深川で育った私でも、祭りのお囃子とは、太鼓は生でも、笛や拍子、掛け声、歌声はテープでした。

全て、本物の迫力。

観光客相手の、観光演奏なのに、なぜか、胸に迫るものを感じました。


雪深く、長く閉ざされる青森の冬、対照的に短い夏の日に、この鮮やかで眩しい佞武多の元で、華やかな祭囃子が町や田畑に響き渡る・・・

そんな風景が目に浮かびました。

そして、音楽や踊りという愉悦も、本来は自らの手で作り出すもの。

与えられたものを消費する、都会の私たちの生活と、対極にある「自分で作り出す」生き方。

石垣島で、食や衣について感じたことを、同じことを、青森でも感じました。


演奏が終わり、静かになった館内で後始末をしている係員のお姉さんに、いろいろと伺いましたところ、

3体の佞武多それぞれに、16名ほどの専属お囃子がついて町内を練り歩き、また、町会ごとの小さな佞武多にも少人数のお囃子がついて、

お祭りのときは、町や村のあちらこちらから笛太鼓の音が響くそうです。

今日のお囃子チームの方々は、皆さんそれぞれ仕事をする傍ら、毎週日曜日に集まって演奏の練習をして、腕が鈍らないようにしているそうで、

3チームが交代で館内実演をされている、とのこと。


納得です。通る声に、ゆるぎない笛、乱れのない太鼓。

拍子のリズムが、皆さん体に染み込んでいらして、私などは途中からリズムがくるってしまうのです。

幼い時から、歌って、踊っていないと、無理です。

青森の人々の熱い血が、祭り文化を復興させた誇りが、じーんと来ました。


酔うような心地で五所川原を後にして、金木の太宰治の生家を訪問し、



地方財閥の豊かさを見せつけられ、

三味線会館では、津軽三味線とお囃子に踊りを鑑賞し、

さらに北上し、十三湖でシジミ汁を堪能し、あまりにも美味しいので皆へのお土産として発送を頼み、

いよいよ本州の北の果て、竜飛岬へと・・・一路走ります。


民家も無くなり、



野生のサルの群れが、迎える冬に備えて、せっせと木の実を食べている、

4時過ぎて、段々暗くなり、

「遥かに霞み、見えるだけ~」と歌にもありますが、

近づくにつれて、霧が濃くなり、山道のつづら折りが視界不良で、恐怖すら覚えて

「あきちゃん、諦めましょう、引き返しましょう。」


もと来た道を引き返しましたが、宿の浅虫温泉にたどり着いたのは、8時。

田舎道は暗くて運転は疲れます「あきちゃん、お疲れ様、ごめんね、強行軍になっちゃったね。」

青森は、地図で見るより、実際は大きいのだ、と実感しました。







青森を旅する、3日目

2015年12月01日 | 国内旅行
青森旅行3日目は、業界団体の皆様と共に、弘前から平川市「盛美園」に立ち寄り、



「仮ぐらしのアリエッティ」のモチーフになった建物に、

紅葉の真っ盛りの庭園



庭園管理を請け負った業者から、管理内容について説明を伺いながら、庭を散策します。

次に、三内丸山遺跡へ。巨大なタワーは、栗の巨木で出来ていたそうです。



東北地方は、縄文時代の生活様式、春は山菜、夏は漁業、秋は木の実、冬は狩り。

弥生式の稲作文化が入ってきても、自然の恵みを活用した狩猟生活を継続してきたそうです。

一帯の広い範囲に渡り、栗の木が栽培されていたことが分かっています。

確かに、旅行を通して、海の幸山の幸をいただきましたが、本当に美味しくて、

縄文時代の人々も、あの土器に火をくべて、お鍋でおいしく食していたのだろうな・・・

と想像できます


新青森駅で皆様とお別れをして、私たちは青森で宿をとり、旅を続けます。



青森を旅する、2日目

2015年11月25日 | 国内旅行
弘前2日目の午後は、業界団体主催による「弘前城桜守から、桜の管理方法について伺う」勉強会が弘前城公園であります。

それまでは、自由時間ですので、まずはお寺を訪ねます。

最勝院五重塔

長勝寺と共に津軽藩主ゆかりの建造物で、国指定重要文化財です。

雪の重さに耐えられる様に、柱や梁はどっしりと太いです。


明治期の豪商・藤田家の庭園から、北国の紅葉は色鮮やかで、まさに「錦」




弘前城の三の丸庭園



明治期、津軽家が東京に本拠地を移して以後、荒れ放題になっていた庭園を復興し、桜を場内に植え市民に公開したそうです。


世界を見渡しても、庭園文化をこれほどまでに開花できた民族は、イギリス人と日本人ぐらいではないでしょうか。

衣食住が十分に足りて、平和で富裕でなければ、「庭」に時間もお金もつぎ込めないと思います。

ティータイムと茶道も、余裕がなせる技でしょう。


午後の研修会では、有意義な講話を伺い、更に園内を散策しながら説明を受けます。

このような研修会に出席すると、常日頃から問題意識を持って仕事している人は、質問が出るものです。

また、質問の内容から、その人の意識レベルまで推し量れるものです。


私は、夫と結婚して「裏方・女将さん業」に徹して、現場の一線を退いてはいますが、

現場監督をしていた頃の疑問が浮上してきて、幾つか質問しました。

夫も具体的かつ実践的な質問をしていました。


夜の懇親会では、かって私が知り得た方と、久しぶりに旧交を温めることができました。

私が転職して、この業界の研修会に参加するようになって知り合った同業者であり、その方も積極的に鋭く的を得た質問をする人でした。

その方は今では、会の主催者になり活躍されていました。


自己紹介のコーナーで、夫がトイレで中座しており、妻の私が代わって挨拶し、夫の仕事の特色も宣伝しました。

今回、その方から、夫に仕事の引き合いがありました。

夫もまた、特殊技能に特化して職人(従業員)を育て、この業界で踏ん張ってきた歳月があり、

機が熟したところへ、私が三十代に頑張った仕事の「縁」が活きたのです。嬉しい限りです。


ちなみに、この研修会への参加お誘いがあった時、夫は断りました。

私は、即座に「参加します」と答え、「あきちゃん、出ましょう。せっかくのお誘いですから」

と渋る夫を説き伏せた経緯があります。

自分でいうのも何ですが、「内助の功」です・・・・えへへへ・・・・・


青森を旅する

2015年11月24日 | 国内旅行
11月上旬、5泊6日で青森を訪ねました。

今回は、前半の2泊を弘前、1泊を青森、後半2泊を浅虫温泉にしました。

弘前では、某業界団体の研修会に出席する予定で、前半は半ば仕事です。


さて、当日朝、新幹線のチケットを購入しようと、JRの窓口を訪ねると、

なんと、直近発は満席、1時間後なら空席がわずかに残っている、とのこと。

平日でも、紅葉のシーズンのため混み合い、しかも東北新幹線は全席指定!

知らなかった~~、とぼやきつつも、大宮でランチを楽しむことにしました。


そして、いよいよ「はやぶさ」登場



前は 「秋田こまち」と連結しています。

大宮駅では長野新幹線も到着し、にわか鉄道ファンになって、写真をパシャパシャ撮っている私。


ところで、東北新幹線では、東海道での「こだま」に該当するのが、「やまびこ」。

なんて、素敵なネイミング!

はしゃぎながら、ふと「こだま と やまびこ、そもそも何が違うの???」と夫に質問。

二人してしばらく考え込みますが、答えはでません。


車窓を眺めると、仙台は紅葉の色づきは浅く、盛岡もまだぼんやりで、青森に近づくと晩秋の候となりました。

新青森駅で奥羽本線に乗り換え、弘前へ。

普段、車で生活している私たちは、電車に乗ることが非日常ですのに、しかも見知らぬ土地の単線。

白神山地、八甲田の山々、岩木山、稲刈り終わった津軽平野、りんごの木々に沢山の赤い実が見えます。

旅情が かき立てられます。


夜は、翠明荘で懐石料理をいただきます。

お食事を終えた後、館内を案内していただきました。



明治28年に青森銀行の迎賓館として建立され、贅が尽くされ、

至るところに、鹿児島の「屋久杉」が使われています。

案内された仲居さんに、「鹿児島の島津邸では、秋田杉や青森ひばが、贅沢に使われていましたよ」など会話しつつ



板扉は、南方の楠木の一枚板に 彫刻され、

襖絵も絵師を呼んで描かせ



当時の地方財閥の財力のすごさ、そして、貧富の差に思い至るものでした。

最後、玄関の風よけ室の天井もまた、圧巻の屋久杉の玉杢、

「ご馳走でお腹一杯になり、美術品で胸も一杯になり、ありがとうございました」と辞しました。

初秋の上高地

2015年09月11日 | 国内旅行
8月終わりから9月初旬にかけて、上高地に行ってきました。



連日の秋雨にも関わらず、水は澄み、



河童橋から、氷河の名残も眺めることができて、



雨が止んだ日に 散策しました。





ホテルを出てすぐに、山野草の美しさに足を止め、「名前が分からないね・・・」とぼやく私に、

夫が 「ちょっと待ってて!」とホテルの売店に飛び込みます。

あら・・・おトイレかしら・・・?と花を愛でつつ待っていましたら、

夫は小さなポケット図鑑を手にして戻り、

「えーっと・・・」とページをめくり「これは・・・ハクサンチドリ」と教えてくれました。


「あきちゃん、あっ、ありがとう・・・すごい!・・・どうしたの?」

夫の「らしくない」言動に感動すると共に、絶句する私。

夫は照れながら「さっき、たばこ買うついでに、売店で見つけたんだ・・・」

「あきちゃん・・・」

夫婦は似てくると申しますが、10年経つと、私の言動が夫に移るのでしょうか、

と感慨に耽りながら、二人で歩んで行きますと、



「わー、きれいねえ」と 私がカメラでアングルを探す間に

「これは サラシナショウマ」と夫が名前を探し当てます。

夫の機転のお蔭で、秋の山野草を4種知り得て、山歩きに華を添えることができました。


正午、明神橋に辿りつき、おにぎりを食し終えた頃、ポツポツ雨が降ってきました。

河童橋まで戻ると、大勢の観光客で賑わっています。

ツアー客は、駐車場と河童橋の往復200mで、上高地はオシマイです。

私たちは団体客の人ごみを避けて、川沿いの小道を上高地帝国ホテルへと歩を進めます。


往復4時間の行程を終えて、帝国ホテルでアフタヌーン・ティーにします。

3段のプレートには、サンドイッチ、スコーン、プチ・ガトーが美しく盛られています。

夫がサンドイッチ、私がスコーン、4つのケーキの内、夫が一つを選び、私が残り3つ、

と相成って、商談が成立!?


スコーンは今一歩でしたが、生チョコ、プチ・タルト、マカロンは、絶妙な味わいで、秀逸でした。

歩き疲れた体と脳が、美味で活性化するのが分かります。

夫曰く、サンドイッチも食パンと具材、いずれも美味しい とのこと。


珈琲と紅茶のお替りをサービスしてくれたスタッフに、感想を伝えると、

「お菓子は、二人の若いパティシエが作っています。二人に、お客様のお言葉を伝えます。」

「パンもパン職人が毎日作っています。売店でもパンは販売しています。どうぞ、お立ち寄りください。」

さすがは、帝国ホテル。若いスタッフが活き活きと働いています。


ただ残念なことに、帝国ホテルは温泉を有していませんので、お風呂が所謂「バスタブ」です。

朝晩、源泉かけ流しの湯に浸かりたい私たちは、「温泉がある」宿を選んでしまいますが、

山間でありながら、帝国で「一流の口福」も頂ける、上高地の魅力を改めて見直しました。


次は、5月下旬の新緑の時期に訪れたいと思います。




石垣島を訪ねて 5日目最終日

2014年10月29日 | 国内旅行
最終日、台風は関東を通り過ぎたようで、波も穏やかで、シュノーケリングをしました。



様々な色合いの魚が泳いでいます。赤い珊瑚や、青いのもありました。

残念ながら、白骨化しているのも見受けました。

グアムでもシュノーケリングをしましたが、石垣島の方がいい、と思います。

夜の最終便で羽田へ。



自宅に戻り、いつもの朝、いつものニュース、いつもの天気予報。

まず、沖縄地方の天気が示されます。

夫「きちんと、正確に、省略しないで日本地図を出して欲しいな。

  あれじゃあ、八重山諸島が、沖縄のすぐ近くにあるように誤解するよ。」


最近の冷え込みで

私「年取ったら、冬は、グアムでもハワイでもなく、石垣島で、機織したい。」

夫「(夫の卒業した大学の教授)先生が引退後、沖縄のどこかで暮らしたそうなんだ。

そういう生き方もいいね。今なら、解かるよ。」


秋に、紅葉と温泉を求めて北海道にするか、

およそ旬とはいえない夏に遡る沖縄にするか、

行き先を悩みましたが、「星の砂」が気になって、

一度は行ってみたい、と石垣を選びましたが、

本当に良かった、再び訪れたい・・・余韻を残した旅となりました。


石垣島を訊ねて 4日目、星の砂、由布島

2014年10月28日 | 国内旅行
さて、西表島のツアーで、星砂の浜に立ち寄りました。



手を海水に濡らして、砂浜に手を当てると



このように、くっついてきます。持って帰っていいそうです。

星の砂は、珊瑚礁の浅瀬に住む有孔虫の死骸でして、取れる砂浜は限られているそうです。


星の砂には想い出があり、

私の父が出張で沖縄を訪問した折、星の砂をお土産に帰ってきました。

ビンの中の星の砂は、金平糖のようで美しく、珍しく、

小柳ルミコさんの「星の砂」の歌と相まって、是非にと思っていたら、夢が叶いました。


次に、由布島へ移動します。



水牛の先に見えるのが由布島で、西表から400mほど離れた小島で、

昔は、水牛車が生活の足として使われ、今は、観光用に残されています。

水牛は、御者が三線を奏で島歌を唄い始めると、足を止めます。



島は、植物園で



たこの木と実



その実が熟れて、種がバラバラに落ちている様子。軽くて水に浮きます。

種は芳香があり、触ると、発酵して熱くなっていました。

黄色、褐色、こげ茶の3色が、ドイツの国旗のようです。



蝶蝶の部屋があって、オオゴマダラがふわりと飛んでいます



この黄金色に輝くのは、オオゴマダラの蛹。

蝶も蛹も幼虫も毒があり、鳥はペッと吐くそうです。



海岸には、珊瑚が打ち寄せられ、ヤドカリがゴソゴソ、ウヨウヨ。

帰りの航路は、波穏やかでした。


石垣島を訪ねて 4日目、西表島

2014年10月27日 | 国内旅行
石垣島4日目、台風が遠ざかり、船は運航するものの、シュノーケリングはボツ。

ということで、西表島の滝めぐりツアーに参加しました。

往きの1時間、船が揺れるわ揺れるわ・・・

うわ・・・参加しなければよかった・・・と後悔先立たず・・・


しかし、到着して、マングローブの壮大な林を見て、「わー!来て良かった!!!」



浦内川の河口から遊覧船に乗って、川を遡ります。



マングローブの林



板根のサキシマスオウオノキ、カンムリワシが空を飛ぶのを眺め



下船して、滝へ向かい歩きます。



マリュドゥの滝に



カンピレーの滝。下船してから、往復1時間40分の所要時間が与えられましたが、



恐竜時代からの生き残りのシダや



トカゲやら、一瞬足を止めましたが、滝をじっくり観察して、心に留め置く時間も無い。

次回は、弁当持参でフリーで来て、滝を眺めながら、お握りを頬張りたいです。

必要な時間は、往復3時間でしょう。







石垣島の風土について思うこと

2014年10月26日 | 国内旅行
個人旅行は、手配を全て自分で行う中で、土地の人々と会話をします。

旅中、様々な疑問が生まれましたが、教養あるご亭主との語らいで、

理解も深まる一方、未明であることに思い至ります。



私「石垣島は沖縄県ですが、沖縄本島となんだか違うような気がします。」と問い、


ご亭主「沖縄から150km離れており、東京と静岡ほど離れている。

生活、文化、において異なることが多々あります」


夫が「台湾と地理的に近いが、日本と大陸のどちらの影響が大きいのですか?」と問うと


ご亭主「日本です。台湾とは距離が近くても、海峡の海流が強くて、昔の航海技術では辿りつけなかった。」

そして、東日本大震災後、津波で流された漂流物が、カナダに辿りついたものと、

太平洋の還流で、沖縄や高知の方に戻ってきた潮流の話をされた。


ご亭主「沖縄や鹿児島との交易から、様々な文化が入ってきた。

言葉は日本の古語が残されて、万葉集の中で使われた言葉が、方言として残っている。

平家の落人が流れてきた伝説もある。」


私「そういえば、「平良さん」は「平家」の子孫かもしれませんね。」

そして、先に旅した九州で、熊本の人吉に平家の落人の由来があり、

鹿児島の島津と熊本の細川に挟まれても、独自の文化を築いてきたことを話しました。


私「タクシー運転手Yさんを始め、お年寄りの方々の姿勢がよく、若い方たちも背筋が伸びていることに、驚きを感じました」


ご亭主「冬でも10度以下になることはなく、1年通じて朝晩の温度差も無いからか。

健康で長生きな人が多いのは、食事も比較的、伝統的な料理を食べているからか。

沖縄本島は、ファーストフードなど食事が外来化されて、成人病の人が増えている。

ここでは、コンビニも最近できたばかり。」


「オキナワ」という言葉が入りましたので、少しずつ聞きにくいことも質問してみました。

私「沖縄の基地問題は、こちらの方は、どのように捉えていらっしゃいますか」

ご亭主「立場によって、意見が割れているようですが・・・

ただ、沖縄本島は精神を病んだり、犯罪が多いのは、騒音のせいではないか、と思う。

あれだけの騒音の元では、普通の生活ができない。

石垣には、基地が無いので、あまり意見を言いにくい・・・」

私「それは、本土の私達も、同じですよ。」


私「こちらの人々と接して思うのは、私の母方の親戚と雰囲気が似ています。

母方は、福岡で酒問屋を代々営んできて、他人に対して心が開けていて、温かく、折り目正しい。

私は、石垣で、私の親戚のおじやおばと話しているような感じがしました。」


ご亭主「沖縄は古来より戦争をせず、交易で栄えてきました。

アジア圏の交易を通じて、異なるものを受け入れる気質になったのでしょう。

戦いを始めて経験したのは、あの沖縄戦でした。」


そして、司馬遼太郎氏が石垣島を旅したときの紀行文が掲載された、古い雑誌を持参され、

司馬先生曰く「日本人のルーツ、「倭人」について、考える旅となった。・・・」


そう!先生も「古き良き日本人」が、この島に今も存在していることを察したのだ、と解し、

私の直感も正しいのだ、と嬉しくなりました。


私「日本人は閉鎖的といわれ、ヘイト・スピーチも問題になっていますが、

これは「日本人」全体の気質ではなく、鎖国政策を敷いた江戸、攘夷の京都の気質であって、

古来、外国との交易で栄えた町、人々の気質ではない、と思うに至りました。」

「首都がある関東に住むと、そこでの考えが中心となって、全体かのような錯覚をしてしまいますが、

先の九州旅行で、稲作を始めとする大陸由来の文化は、九州が起点となっていたことを示す遺跡が、

現在の視点から見て「田舎」、の各地に遺され、九州を再認識しました。

諸外国からの文物は、沖縄や九州が、交易の拠点となっていた長い歴史は、

人々の気質に大きな影響を与えた、と今回の旅で思いました。」

更に、ご亭主と歴史談義に花が咲きました。

奥様、「もう、歴史の話になると、止まらなくてね・・」


沖縄戦については、もう少し歴史を自分で学んでから、次回訪問した時に、伺うつもりです。

と、申しますのは、旅行の本にも多少記されており、

また、70歳過ぎたタクシー運転手のYさんのお話からも知り得たことですが、

戦闘、殺戮が行われたのは、沖縄本島であり、

石垣島を含む八重山諸島は、戦闘に巻き込まれなかったようなのです。

強制疎開をさせられ、移住した場所はマラリア発生の地で、多くの人はマラリアで亡くなったようです。


台湾、沖縄という重要拠点に日本軍の目が向いて、離島の八重山諸島は、ある意味、捨て置かれたのが幸いしたのでしょうか?

目の前で、人が人を殺すのを見て、人間の冷酷さ非道さを心に刻み、民族の記憶となった沖縄と、

これを避けられた八重山諸島では、人々の気質が異なってくるか、と察します。

石垣島の伝統料理「こっかーら」

2014年10月25日 | 国内旅行
石垣島の伝統的なお料理を食したい方に、是非、お勧めしますのは

「こっかーら」



「こっかーら」とは、琉球アカショウビンのさえずりから。

こちらのお店は、宮良殿内のご亭主から紹介されました。

予約して伺うと



冒頭から末尾まで、地元の素材のうまみを最大限に引き出し、彩りも美しく



器も、石垣島の陶芸家の作品で、一つ一つに趣きがあり、料理を引き立て、



室内のしつらえも、落ち着いて、なんだか親戚の家に来たような


お料理は、ご夫妻の祖先から伝わる調理方法をアレンジして、奥様が担当。

建築、内装、器の選別など美に関わることと、お給仕は旦那様が。

最高のおもてなしでした。

あまりにも美味しかったので、翌晩も続けて予約して食しました。


2日目は、ご亭主や奥様から、色々なお話も伺えました。


まず、お料理は、

石垣島に古くから伝わる、年次の行事で供されるお料理で、

オオタニワタリ、アダンの新芽など、郷土料理だそうで、沖縄本島の人も知らないそうです。

京都南禅寺前にある豆腐懐石料理店の亭主も来て、5日間連続して食し、

ついには豆腐職人も連れてきて、教わって帰っていったそうです。


ご亭主から、感想を求められ、

「私達夫婦は、南禅寺の老舗で食べましたが、「特段に」とは思えませんでした。

京料理、京の気候風土に合ったもので、宮廷もあり、洗練されている、と感じますが、

内陸で冬は寒く、保存食的な要素もあり、塩が強く感じます。

こちらのお料理のほうが、新鮮な食材の味を、活かしきって、本当に美味しく思います。」

と答えますと、ご夫妻、ニコニコしていらっしゃいます。


奥様が、「大学が東京で、子供達が、水も食べ物も口に合わない、と言っています。」

私は、各地のお水のおいしさと、料理の関係について語り、

奥様が、「島の伝統料理が廃れてきて、多くの人は、買ってきて済ませている。」

私は、機織を体験したことで、実感したこと

「元来、布は買うものではなく、作るもの。 お食事も買うものではなく、作るもの。

最近は、食事すら、買うものになりつつあります。」と憂え、

「こちらの、このお料理は、是非、代々、伝えていっていただきたい」とお伝えしました。


夫が、内装や建築美について触れると、

ご亭主が20年かけて木材を収集してから、大工に作らせた家とのこと。

使用されている器や、布の工芸作家の作品集を拝見し、

島の歴史、気候、風土の話に至り、話はつきません。

石垣島を訪ねて 3日目

2014年10月24日 | 国内旅行
台風19号が大型で、ゆっくり北上しているため、この日も飛行機も船も欠航。

もちろん島巡りも、シュノーケリングもできません。

それでは、心置きなく機織をしましょう。


昨日に引き続いて、朝10時の開店と同時に、ミンサー織工芸館に出向き、

スタッフに顔も覚えられて、温かく迎えられ、

夫は、大作の壁掛けタペストリーに挑戦、

私は、マット2枚。


お昼12時。スタッフから、お弁当を手配しましょうか?と問われる。

はい。ということで、御握りをほうばって、お茶を頂いて、1時に再開。

私は、夫がまだ終わらない様子なので、更に、マットを2枚追加。

3時過ぎに完成した頃には、二人とも放心状態。


機織は無心になれて、そして、奥が深くて、楽しいです。

初めて、布をこの手で、この足で、作り出して、感動しました。

布は、買うものではなく、元来、作り出すものなんだ・・・・と。

また、石垣島に来て、機織したいです。


後日帰宅して、二人の作品を、和室に飾ってみました。





石垣島を訊ねて 2日目

2014年10月23日 | 国内旅行
2日目は、台風19号がいよいよ沖縄に再接近して、飛行機も船も全便欠航。



ホテルの前のマエサトビーチも侵入禁止。

因みに、石垣島は沖縄本島から西へ150km離れ、台湾や尖閣諸島に近く、

暴風でしたが、雨はさほどではありません。

となると、雨風を凌げる洞窟を探検しよう!石垣島鍾乳洞



琉球王朝時代の島の名主、宮良氏の家。



外の門から家の内部が直接見えないよう、中にも塀と門があり、風除けにもなっている建築様式。



庭には、珊瑚の化石と八重山の岩が据えられています。

200年経つこの家には、宮良の殿様の子孫が住んでおり、受付をしており、

一族が経営する「八重山膳符料理」店を紹介されました。後日、詳細に語ります。



雨風しのげる場所といえば、数少ないのですが、

夫が、機織機械の仕組みに、前から興味がある、というので

私も初体験の機織に挑戦してみました。



二人とも初めてなので、まずは、コースターを作りました。

・・・・・・すっかり、夢中になりました・・・・・


更に、芭蕉布、当麻上布、ミンサー織について説明を受け、

天皇皇后陛下がお見えになった様子、星川ミリさんの紅白での衣装展示、と説明され、

売店では、あれもいいし、これもいいし、と迷っていると

夫が、「お母さんの分と、お姉さんの分と、自分の分、3セット買って、貸し借りすればいいじゃないか?」

と素晴らしい提案をしてくださるものですから~~~~~

すっかり嬉しくなって、バックとポーチの3組合わせ、選びました。

母用に選んだのは、偶然、美智子妃殿下が身につけられたのと同じ。

姉用は、都会的なスタイリッシュな折柄。

母も姉も、もちろん喜んでくれました。

私は、夫の心遣いにジーンと、幸せを噛み締めております。