セレモニーが済み、いよいよ植樹です。
場所は森林院横に広場で、絶好の場所です。
私も属している鳥取県議会ブラジル友好議員連盟は2本分の寄付をしましたので、私が植えさせていただきました。
1本目は「Paineira rosa」という木で大きくなるとピンク色の花が咲き乱れるそうです。
2本目は「Aldrago」です。
私の木は「Jeriva」という木です。マタ・アトランティカの樹木60種を約300本植樹しました。
平井知事の木は「ブラジルの木」ですが、手配が間に合わず、はらはらしましたが、植樹式の途中に届き、事なきを得ました。これが南米式なのかもしれません。
今回は西尾元鳥取市長ご夫妻、西尾元鳥取県知事夫妻の名前での植樹も植え、鳥取とブラジルの友好の歩みを再確認しました。
森林院の博物館も案内頂きましたが、建物の床と天井は、ブラジルの様々な樹木を組み合わせて造られており見事でした。様々な森林院の職員が制作された日本の木象嵌と同じ技法で作られた家具などがあり、その中には日本から持ってきて栽培した漆で作った食器もありました。
夜はブラジル県人会の皆さんは歓迎会を開いていただきました。私は本橋会長のご子息ご夫妻と同じテーブルに座らせていただきました。写真右端は今回の植樹で大変お骨折り頂いた山添第一副会長です。
ご子息のEduardoさんの見識は高く、ブラジル経済の現状から将来成長の見込み、さらには日系企業が頑張っていることなどを、奥さんのMikiさんからはブラジルの教育の現状と、それが格差社会を生んでいることお聞きし、本当に勉強になりました。やはり、足を運んでファイス トウ フェイスで話さないと何もわからないと感じました。
森林公園に着きました。ここを訪れた理由は、ブラジル鳥取県人会創立60周年記念植樹式に参加するためです。ブラジル県人会は鳥取大火で故郷が灰燼に消えたことを悲しんだブラジル移民の皆さんが、復興のための募金を集めて送金しようと設立されたもので、そういう意味では、こうして設立記念のセレモニーに参加することは、受けた恩を忘れず、大切に継承していく上で大きな意味があると思います。
セレモニーは森林公園のサンパウロ州森林院の本館前で開かれました。
県人会の山添源二・第一副会長は前任の森林院の前総裁。それだけに今回の植樹に思い入れがあるのだと話されましたし、ミゲール総裁も移民100周年の植樹が終わった後、「県人会の創立60周年で植樹祭をするなら、ご自宅まで迎えに行きますよと冗談を言ったら、今日、冗談が現実になりましたと思い出を語られました。伊藤議長もスピーチされました。
鳥取大火への募金活動で県人会が創立されたことを紹介し、その感謝を忘れませんと話し始め、「今日、植えるのは西海岸森林のマタ・アトランティカにある樹種と聞いています。斧を振るって開拓をした日本人の原点であり、そこに思いを致しつつ、』粛利したいと思います」などと語られました。
祈念碑も敷地の中に設けられました。
今回の植樹に際して、寄付した人の名前が刻まれています。
私の名前も、ブラジル友好議員連盟の名前も刻まれており、うれしくなりました。
慰霊碑の参拝を終えた私たちは本橋会長らと森林公園へ移動しました。サンパウロ新聞、ニッケイ新聞の記者、カメラマンは慰霊碑参拝から同行取材を続けられています。
移動する途中、石のオベリスクを車窓から見ました。
1932年の護憲革命を記念するもので、このとき、射殺された4人の大学生の遺体もこの下に埋葬されているのだそうです。
ブラジルの未知の土地へ旅立った冒険隊の祈念碑もありました。船を引いているのは、サンパウロは高地にあり、そこから船で内陸地に入っていった様子を再現するものだそうです。
昼食はシュラスコというブラジル料理を本橋会長らと頂きました。牛の様々な部分をいただき、1頭の牛でも部位でずいぶん味が違うもんだなと思いました。
テイエティ川の両岸は高速道路です。
右岸だけで2、3車線の道路が5本あり、片側だけで12~15車線の道路になります。これでもラッシュ時は大渋滞だそうで、驚かされました。
国際見本市など開かれる地域です。カーニバルはサンパウロでも開かれ、そのときのメイン会場にもなるそうです。
高級住宅街には高層マンションが谷地並んでしました。治安の問題から、富裕層には一軒家より、マンションが好まれる傾向にあるそうです。
一軒家ばかりの地区もありました。ブラジルがコーヒー豆の生産で潤った1950~60年代に開発された地域で、当時は人気だったそうですが、今は、マンション地区の方が人気で、店舗や事務所に変わりつつなるのだそうです。
17日は日本移民開拓者先没者慰霊碑の参拝から始まりました。ホテルからイビラブエラ公園までは車で約30分でした。
車窓から広い分離帯にオブジェが見えました。
日系人のアーチストであるオオタケオtシエさんの作品で、ブラジルの日系社会が4世の時代になったことを表現したものだそうです。
公園に着くと休日だと言うこともあり、たくさんのサンパウロ市民が楽しんでいましたが、ジョギングする人がたくさんいました。
慰霊碑は公園の一角にありました。
慰霊碑の回りには大木が生い茂り、移民の皆さんが切り開いた原野を彷彿とさせます。
この慰霊碑は、厳しい環境の中では、点々と開拓地を動かすことがたたり、少なくない開拓地で亡くなった方のお墓が無縁仏のお墓となっていることに心を痛め、ブラジル日本都道府県人会連合会が1975年に建立された者で、毎年6月18日の「開拓の日」の慰霊祭には多くの人が参列し、ブラジル日系人の皆さんの鎮魂の場になっているそうです。
右の2人が案内していただいた連合会の原島副会長と木原理事。中心になって慰霊碑のお世話をされているそうです。その右は今回、大変お世話になっている鳥取県人会の本橋会長です。
まず慰霊碑に参拝させていただきました。
献花もさせていただきました。
慰霊碑の後ろに回ると、慰霊碑の中に入れるようになっており、亡くなった皆さんの名前を記した過去帳と平和慈母観音菩薩木像、観世音菩薩像、厨子に入った地蔵尊が安置されていました。こちらでは線香を立て、参拝致しました。
記帳もさせていただきましたが、伊藤議長、横山議員ともに、ものすごい達筆で、その下にミミズの這ったような字を書く自分が恥ずかしく思えました。帰国したら、名前ぐらい筆でビッシと書けるようにしたいです。
参拝を終えた訪問団の皆さんとブラジル県人会連合会の役員の皆さんです。
慰霊碑前の通りは「ありがとう通り」というのだそうです。