すなば たかひろ

「元気で人に優しい鳥取」を取り戻すため、県議になった元新聞記者の挑戦記。みんなで鳥取の未来像を考えましょう!

長島愛生園で「人権」という言葉の意味を改めて考えました

2012年02月12日 | 日記
 岡山県の長島愛生園に行ってきました。小学校から来ていて4回目という若者、初めてというお年寄り、用瀬人権文化センターの職員のみなさんに、椋田市議と共に同行させていただきました。 記者時代は何度か取材でお邪魔していますが、もう10年以上訪れていないので、みなさん元気なのか、少し不安を持っての訪問です。

まず、金泰九(キム テグ)さんの御宅にお邪魔して、お話をお聞きしました。以下、金さんのお話の要約です。
私は南の慶和尚南道出身です。12歳で日本にきました。日本に来て74年、長島に来て63年になります。今は個室で、どこに行くも自由ですが、昭和40年代までは、外出の自由はありませんでした。当時は強制作業に駆り出されました。まずは塵芥集め。18-19人で班を作ります。リヤカーがないから大八車です。4台あって、これで全島のゴミを集めるんですが、高いところまであげるのは大変でした。1年ほど働きますると、炊事場に来いと同じ寮の人に誘われて、職場を変えたんです。刺身を腹いっぱい食べさせてあげると言われて、それで喜んで行ったんです。そんな誘い文句で喜ぶほど、食事は貧しかったです。でも、1ヶ月余りでで、理髪部に行って、自治会に移りました。炊事場は朝がとっても早いんです。それも毎日でしょう。それで希望者が少なかったんでしょうね。
 ハンセン氏病に罹患して、一番困るのは手足に感覚がないことです。手足に感覚がないから、怪我しても分からない。そこで、ほっとくから、すぐ、ばい菌が入って、化膿してしまう。外科場に行くと、「もうだめだよ」と、すぐー切られた。それで、手足の指の欠損した人がたくさん居られんですね。
 治療薬ということで、DDSという薬を飲むかと医師に言われて服用したんですね。すると、足が下垂になった。指も下垂になった。ご飯が食べようとすると箸が持てない。神経がやられたんです。入院して電気治療をやったが効果はなし。肘から下は感覚がなくなったんです。昨年の6月3日のことでした。電気ポットのお湯を捨てて、右手を見たら、真っ赤になっていたんです。熱湯がかかったのか、熱くなったポットの内部に触ったかは分からない。感覚がありませんからね。即日入院して治療したんですが、結局、指を3本切ったんです。12月17日まで入院していました。今も皮が薄いので、いつも手袋をしています。食事は部屋に運んでくれるので、1人で食べますね。

 椋田市議(写真の上段左端)が「昨年、訪れたとき、金さんの部屋でキムチ鍋を囲んだですが、『いつも食事は1人。みんなでは食べないので、今日は美味しい』と金さんが言われたことを強烈に覚えていますと言われていました。

 歴史館を訪れました。院長室のあった本館が資料館に改修されていました。

 説明をしてくれたのは神谷さんです。
 島に来て63年。本館の思い出と言えば、光田医院長にハンセン病改悪の抗議に来たときのことです。当時は職員地区と職地区の中心施設なので、患者が来ること厳しく制限された。反対に患者地区に入ることも禁止された。子供が親に会いに来ても、怒られた。もらった御菓子も外に捨てられた。有名な職員は3人。神谷美恵子さん。精神科医として初めて愛生園に赴任。園内の記録を執筆した。小川正子さんは、愛生園に勤務した女医。1938年に「小島の春」を出版。ベストセラーになり、翌年に映画化された。ハンセン病患者のために尽力したが、隔離政策の世論形成した側面は否定できない。良くなっても退院できません。橋がかかっても予防法はそのまま。人権侵害。病気は選べない。どうして癒すのか。青春を返してくれと叫びたくなります。
 院長は三代目まではライの専門家。以降はあて職。院長は勅任官で、知事くらいの高位だった。敗戦後、患者が1000人くらいまで増えたが、暮らしが良くなると激減しました。初期の治療は、大風子油をお尻に注射することだけ。これがお尻の中で固まって痛いのなんのって。プロミンが開発され、さらにDDTになって、感知するようになりました。
 マッチ箱のような10坪住宅に戦後、すぐのころは住んでいました。部屋は二つ。夫婦で入ったのですが、一間に2夫婦が入れられたました。6畳ですよ。でも、500円出したら、一軒建ててもらえ、一間を園に寄付すれば、一間は夫婦だけで住めました。ここにも、貧富の格差があったんです。
 園内だけで使えたお金もありました。包帯は200回くらい、洗って使っている。膿などが着いもので、最後は黄色になりました。1988年に邑久長島大橋が完成しました。日本で唯一、厚生省がかけた橋です。富士見病院事件で厚生省は大騒ぎの時でした。東京に陳情に行くと「隔離しなくていい証として、橋を架けましょう」と園田厚生相と約束してくれたんですね。感動しました。一番嬉しかった。

 歴史観を出ると、神谷さんの案内で島を回りました。
 最初に訪れたのが回春館です。

島に付くと、1週間くらい、ここに居て、病状などを確認後、性別、年齢ごとの各施設に分かれました。

 ここに桟橋がありました。

島には船で来たんです。桟橋に着くと、看護婦さんが荷物を素手で取ってくれたことが嬉しかった。みんな怖い伝染病になった人というような扱いでしたからね。
ここで家族とは離別したんです。親も、子も、慟哭しながら分かれたんです。だから毎日、ここに来る子もいました。不憫でした。

 次は独房跡です

 島から逃げたという理由で入れられた人が多かったです。食事も2回、それも、おにぎりで、病気が急に進行した人もいました。

納骨堂にも行きました。

2月に2人亡くなったにで、今は300人が島に暮らしています。この納骨堂に祀られているには3500柱。初代は東本願寺の裏方がお金を出して昭和初期に創建されました。遺骨を引き取りに来ても、偏見や差別があって、どうしても遺骨を持って帰ることができず、泣きながら遺骨を海に捨てる方が相次いだということをお聞きになって、寄付してくれたそうです。ところが、老朽化して屋根に穴があきた。ちょうど裁判で勝ったこともあって、そのお金を出し合って再建したんです。献花し、お線香を手向けると、神谷さんが「故郷を歌ってあげてください」というので、みんなで合唱したんですが、哲人の島田等さんら知っている人もここに眠っているので、目尻に涙が浮かんで困りました。

 ここは高校跡。

大学に進学した人もいたそうで、教育で人間回復をしたのだと言う石碑もありました。

最後に鳥取県出身の加賀田さんが体調を崩しておられると聞いたので、お見舞いに行って帰路に付きました。

 いつも長島愛生園に来て思うのは、これだけの人権侵害を国家があげてやってきたことの恐ろしさです。鳥取県も無ライ県運動の先頭に立った過去があります。そして、入所されている方々と接すると優しさと思いやりを端々に感じます。辛い思いのある人ほど、人に優しくなれるのかしれません。島での高齢化が進んでいます。私の子どもたちを含め、多くの人にここに足を運んでもらいたいと思います。人権とは何か、やはり、深く考えさせられるものがあります。
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