Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“おこりぼうず”

2022-09-20 23:03:00 | 民俗学

(左)おこりぼうず

 宮田村から大田切川を渡れば南側は駒ヶ根市。広域農道の大田切橋を渡ったところの西側の水田地帯を南から北に向かって排水路が下っている。この排水路はほ場整備がされた後に現在地に設置されたもので、それ以前にこのあたりにあったのかどうかははっきりしない。このあたり、ほ場整備が行われたことによって、だいぶ様子が変わっているようだ。昭和45年6月28日に撮影された国土地理院で公開されているMCB704X-C10-5という航空写真を見ると、少し西側にそれらしいものが見えるが、それが水路なのかどうかは、高解像度のものを閲覧してみないとわからない。もうひとつ、昭和40年9月30日に撮影された同じ国土地理院のMCB658X-C7-18を見てみると、おそらくそのあたりに水路が南北に流れていたのか、と問われるとない雰囲気だ。だいぶほ場整備で様子が変わったと記したが、同写真で見ると、このあたりの南側に樹木が東西に並んでいる様子がわかる。もちろんそれは現在地にない。現在は水田が一面にあり、南から北に傾斜していることはわかるが、大きな地形変化は認められない。この木々の並ぶ場所は、段丘である。木々が緩やかに蛇行しながら東西にラインを見せる。それは東までずっと続き、最後は現在の北の原にある共同墓地の西の旧道西側で終わっている。現在はまったくの痕跡のない段丘であるから、段丘といっても小さなものといえよう。過去と現在を比較すると、こうした小さな地形変化がを捉えることができて面白い。

 ここにあげた写真は「おこりぼうず」と言われているもの。いわゆる墓石であり、表には「籤瘧法子墓」とある。「ほうろうほっす」と呼ぶらしいが、「籤」はそのまま籤を意味し、「瘧」は「おこり」と読むから、まさに「おこり」なのである。「おこり」とはマラリアのことを言い、現在ではほぼ無縁な病となっていて親近感がない。『長野県中・南部の石造物』(長野県民俗の会)に塩澤一郎氏がこの「おこりぼうず」について記している。「松崎文徳という医者があって、上穂から上がってくる道を辿ると行き倒れの人をみつけた。医者であるので介助してやったが、それからふるえがきて熱病がおき病みついてしまった。大変な目にあっのは、あの仏のたたりがあったとして碑を建て祀ったという。以来熱病などおこりに病む人がお参りすると不思議に治るという評判になり、誰いうとなく「おこりぼうず」と云い伝えられている。」という。その通り、碑の側面には「天保九戊戌天四月八日 志主松崎文徳尚信建之」とある。塩澤氏によると背面に由来が書かれているというが、そもそも彫ってあるのかどうかもはっきりしない。塩澤氏はその概要を示しており、「この墓はおこりをきる効果がある。おこりを病んでいる人は発作のある日の夜明けにここへお参りを怠らなければきっと回復する。病み始めの人なら、二・三度もお参りすれば快方は疑いなしである」という。

 もともと現在地にあっのかはっきりしないが、ほ場整備のされた水田の脇に馬頭観音とともに建っている。その傍らを冒頭記した排水路が流れている。塩澤氏によるとほ場整備前には湿地のような場所の田の畔に建っていたという。もちろん今は排水路のおかげもあるのだろう、乾ききった土地である。


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