Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「後悔」をしないために

2013-10-31 23:53:26 | ひとから学ぶ

 仕事上のミスとはどういうものなのか。その意識と自らの報酬と言うものに対して人それぞれの考えであるのは致し方ないが、わたしの考え方は一貫している。例えば納品した成果品が、現場に照らした場合問題があったり、あるいは違う考えの方が現場に適していた際、後悔するのは当たり前である。「あのときなぜこう考えることができなかったのか」と。特に手間暇かけていればいるほどに、その落胆は大きい。そうした後悔をしないために、成果物に対して多様な視線を与えるとともに、自らの意思をお客さんには伝えることにしている。しかし、「これが良い」と思って熱心に説明しても「何を無駄なことをしているのだ」とお客さんに叱られることもある。だから経験を頼みに、それぞれの場面に応じて口数を調整していく。そしていかに後悔しない仕事をするか、それが自らの心の痛みを和らげる第一となる。後悔しない人生を送られれば、人は満ち足りたものとなるのだろう。

 そもそも人は経験を糧に学び、改善することで他人に対して満ち足りたものを見せられるもの。もちろん世の中には人を騙すために経験を積む人もいる。悪人と呼ばれる人生であっても、それもまた経験がその人には満たされたものになるのかもしれないが、それが人生の最善なのかは、人の世の常識から判断すれば容易に回答は出る。それでもこの世からそうした行為はなくならない。それを後悔とは思わない人々にとってみれば、やはり人は性悪説に基づく生きものと言える。いかに学び、人の世にして善を築けるか。まさに「人間の本来の性質は悪であり、善とされるものは、偽(い)(後天的に作為した結果)である」という思想家荀子(じゅんし)の説がわたしには最もだと思う。

 さて、今年は自分の所属している出先の仕事をたくさん他所の出先に出して仕事を納めている(ひとり当たりの仕事が多いため)。結果的に自らに「後悔」を積み重ねないため、成果物の事前チェックをするのだが、何度指摘しても同じ過ちを繰り返したり、成果物への意識が低くてわたしの視点では「成果物に達していない」と判断される成果を見続けている。なぜ「仕事をすること」と「成果物を作ること」という意識が一致しないのか、依頼している同僚には何度も意見するが理解してもらえない。まだ数年の経験なら致し方ないが、わたしとそう変わらない経験を持っているというのに初任者とそう変わらない意識に、むしろ「なぜ後悔しないのだ」と投げかけたくもなる。彼にとってはミスとはそれも仕事のうちだという意識が育まれているのだろう。ミスは自ら犯したものならそれを取り返すために努力する、そしてその努力はけして報酬に値しないもの、という意識が微塵もない。当たり前のようにそれも報酬に値するものだと勘違いしているから、ミスもまた仕事だと思い込んでいる。したがっていつまでたっても同じ繰り返しをする。仕事に対する意識がわたしとはまったく異なる。それでいてわたしより高い報酬をもらっているのだからこんな不合理はない。「後悔」をしないための努力、当たり前のことだと思うのだが、その意識は明確に低い。性悪説の人生を送る人々は、きっと「後悔」をしない人々なのだろうと思う。


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