Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続「後悔」をしないために

2013-11-01 23:40:51 | ひとから学ぶ

「後悔」をしないためにより

 わたしは技術屋だから、いわゆる「仕事を盗め」という昔風の言葉をいただいて育った。今時こんな言葉は人を育てないといわれる。しかしそれは本当だろうか。教えられなくても自分で先輩の仕事を見て覚えろ、とまでは言わないまでも、人の姿を追うのは良くも悪くも人間社会のひとつの教育だろう。「親の背を見て子は育つ」と言う。まさに良し悪しは別として、親は子にどういう背を見せるか、ということになる。それは自らにも問うことであって、けしてこの習性を消すことはできない。どれほど親子の縁が希薄でも子は経験を親の姿から積む。なにもかもが人は経験に基づいて人生を歩む。経験していないことをいきなりやれと言われても戸惑うのはふつうだ。危険な現場に居合わせて、それを回避できるのも経験があってこそのもの。それをよく感じるのは近ごろの運転事情からである。若者が車に魅力を感じなくなったのと比例するように、若者の運転はおとなしくなった。もちろん安全運転にこしたことはないが、どこかつまらなさを抱くのは、かつての時代を積み重ねてきた年寄の言い分かも。

 わたしは会社の若い世代に自らあまり小言を言わない。まさに先輩達の姿を自らの視線で見極めて欲しいとおもっているからだ。昨日も記したように、後悔をしないためにどうするべきか、結局人の仕事を見極める、成果物を見る、そういうことの積み重ねで自らの仕事に見せ掛けではあるかもしれないが、経験をもたせる。そうでもしなければ自らの仕事に自信の欠片も持てないだろう。それがわたしの若きころのせめてものハッタリだったかもしれない。しかし、人が何をしているか知らずに自らの知識だけで物ができるはずもない。それをしようとしている若者たちが、いや若者に限らず同僚たちが、もし「知らなかった」と間違いを犯すとしたら、それはやはり重き「後悔」と戒めて経験に積み重ねてほしいもの。しかし報酬ととっかえ引返してそれを解消するとしたら、それは経験の積み重ねにはならないとわたしは思う。

 わたしは古い考え方を彼らに押し付けようなどとは思わない。だから行動について寡黙だ。自ら人の背を見て学び、そして自らわたしの思う部分を悟って欲しいと・・・。がしかし、なかなか理解してもらえないのは、この時代だからだろうか。


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