昭和56年8月23日早朝、台風15号通過による豪雨によって長野県内、とりわけ北部と東部で記録的豪雨を計測した。記録的とはいえ、菅平の午前4時から7時までの3時間雨量は97mmというから、近ごろよく言われているゲリラ豪雨に比較するとたいしたことはないと言われるかもしれない。ただ、集中的に狭い範囲での記録と、広範な地域での記録では状況が異なるのだろう。この3時間量97mmを記録した菅平の西麓において、悲惨な土石流災害が発生した。須坂市仁礼地区を襲ったものである。災害にかかわる仕事に従事して以来、初めての仕事と関連する中で意識した〝災害〟であったと記憶する。仕事で災害と関わらなければ、どこで被害が出ようとその認識は低くなる。たまたま仕事柄ということもあるが、その後災害とのかかわりは長い。そういえば、この災害を引き金にしたように数年の間長野県内では大きな災害が繰り返された。
この土日は長野県民俗の会177回例会で再び須坂市を訪れ、聞き取り調査を実施した。そして今日、須坂市仁礼宇原の方に話をうかがうことができた。仁礼といえば須坂市から菅平へ通じる国道406号(災害当時は県道須坂・菅平線といった)沿いにある地区である。まだ社会人になって数年のわたしにもこの仁礼の地名はまったく認識になかったわけではない。昭和55年の冬、佐久の出先への応援で夕方この道を雪の降る中菅平越えのために通った。翌日の仕事なのだが、先輩が前日から行って泊まるというのだ。わたし的には嬉しくなかったが、先輩が行くというから否定もできなかった。かなり大雪の状態の中菅平を越えるのは、まだ運転免許を取得して1年少しというわたしにはけっこうつらいものがあった。もちろん当時はスパイクタイヤというものがあって急坂でもチェーン無しで走れたが、まだ後輪駆動車が一般的でいわゆるバンの多くは後輪駆動車であった。だからなぜ雪の菅平を越えなくてはならないのか、という思いがわたしにはあった。そんな菅平の山道に入るのがこの仁礼から先である。だから口元にある仁礼は、菅平への関所のようなものであった。宇原を過ぎると仙仁川を渡り仙仁の集落に入る。ここからいわゆる菅平越えの険しい道になる。今でこそ菅平まで道は広くなったが、当時は急で道も狭かった。その後も何度も通ることのあったこの道、目印として仁礼があったのである。その仁礼の土石流災害はわたしにとってはインパクトがあった。その地に暮らした方に聞き取りができたことは何かの縁のようなものを感じた。
さて、昭和56年台風15号災害として知られることになったこの仁礼の土石流災害、信濃毎日新聞の8月24日朝刊から引用してみよう。
炊き出しなどに駆けつけた二軒の主婦ら六人が一瞬、濁流の中へ-。二十三日午前六時半前。宇原川沿いにある西原地区の民家で突然、悲鳴が起きた。「アー、助け…」。それっきり姿は見えなくなった。地響きに近い無気味なうなりをあげる茶色の川。近所付き合いも良かった谷間の小集落。応援に駆けつけた近くの人たちが生命を奪われる、というむごさに、深い悲しみが広がった。
「気を落とすなと言われても、あすからどうやって暮らせばいいのか」―。一家五人のうち、息子の貞士さん(41)、正江さん(45)夫婦と孫娘、百合子さん(14=須坂東中三年)を濁流に飲み込まれ、高校生の孫一人と自分だけが残された田中つやさ(84)。家の中で、突然「ドーン」というものすごい音を聞いた。すぐ外に飛び出すと、自宅前の水田や畑はもう茶色の〝海〟。「もしか、貞士たちがやられたのでは…」という悪い予感が、現実のものとなってしまった。
貞士さんは十七世帯ある西原地区の組幹事(代表)。常に地区の会議や催しをまとめる立場にあった。宇原川の増水で、十五メートル離れたおじの田中竹治郎さん(71)宅にも浸水の恐れが出たこの朝、近所の人に声を掛けて水防作業に出るのは当然の務めだったかもしれない。
鉄砲水のあとの午前十時ころ、竹治郎さんの妻れんさん(89)と百合子さんが、続いて昼前に貞士さん、そして夕方には百五十メートルも下流で竹治郎さんの遺体が相次いで見つかった。正江さんは依然行方不明だ。親類方に泊まり、難を逃れた長男の博徳君(15)の表情は青ざめ、元気づける親類の人たちの声も耳に入らない様子。
すぐ下流の田中政宏さん(33)方にも、百五十メートル離れた親せきの田中貞男さん(64)の妻ますさん(58)と、三女の照美さん(39)が、電気釜などを持って応援に駆けつけていた。ここでも、土のう積みで近くの堤防に出ていた政宏さんと、家の下敷きになった政宏さんの家族四人が助かるといううれしい奇跡の一方で、〝応援組〟のますさん、照美さんが死亡するという悲惨な結果に―。気丈夫な貞男さんみ「ますの方はあきらめたが、照美だけはなんとしても助けたかった。孫は上が小学二年、下はまだ五歳なんですよ」と涙を抑え切れなかった。
西原地区は、十七世帯のうち十三世帯が田中姓という〝親せき社会〟。今回被災した全家族と親せきという人もいる。それだけに地域内のつながりは強く、この朝、消防団や、自主的に水防作業に参加した人も多かった。
記事にある西原という集落は、今回話をうかがった方の住む宇原から見ると、宇原川を挟んだ向かいの集落にあたる。
参考に同じ8月24日信濃毎日新聞に掲載された地区略図を転載する。
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