Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

手紙を書く

2025-01-22 23:14:43 | つぶやき

 新年早々「年賀状じまい 後編」において、「「年賀状」ではなく、自分スタイルの新年のあいさつに変えれば良いだけのこと」と書いた。そして「もう少し歳をとったら、そんな仕掛けに変えていきたい」とも。その後6日ころ新たに年賀状が届いて、遅くなったがもちろん返信は投函した。しかし、あまりに遅い年賀状となってしまったため、あらためて「自分スタイル」ではないが、手紙を書くことにした。近ごろはメールで返信すれば早いし、字のきたなさも目立たないから楽なのだが、あえて手紙を書くことを選択した。ということで、久しぶりに手書きの手紙を書くことに…。最近は、もし手紙だとしてもワープロで印刷して出していたから、本当に久しぶりだった。もちろん半世紀近く前は死語となった文通好きだったから、面倒とも思わないが、なにしろ年老いてくると漢字を忘れているし、勢い文字を間違えたりする。なかなかワープロで文字を打つようなわけにはいかない。

 とはいえ、実は最近はワープロも、かつてのように早く打てない、というか文字を間違える。文字を羅列していく順番をよく間違えるのである。したがってこの頃、backspaceキーを押すことが多い。なんだかしらないが、最近のパソコンは昔のように思うような漢字変換をしてくれない。ようは思うような文章を書くには時間がかかる。単純に年老いた、だけではないと自分では言い訳をしている。先ごろ提出した原稿も、初校があがってきて読み返していると、あまりに程度の低い間違いをしていて、「こんな間違いをするはずがない」と印刷屋のせいにするが、あらためて原稿をパソコンで開くと、確かに間違っている。情けない事実である。

 さて、その後も数通手書きの手紙を出している。いずれも年賀状のお詫びのようなもの。さすがに茶封筒では、と思い便せんや封筒を買い足そうと文具を売る店に行ってみると、ちょっと気の効いたものを買うと、1000円くらいしてしまう。そこへ値上げされた郵便料金となると、手書きで手紙を書くのも、もはや贅沢な世界だ。だが、手紙をもらう方の気持ちになってみればどうだろう。もちろん年老いたわたしの捉え方であって、若い人は無駄だと思うのだろうか。カタチ、モノにこだわってきたわたしたちとは、世界が全く違うように見えるこの後の世界。そもそも年賀状を「出す」という意図が意味不明なら、手紙を書くなどと言う行為は選択肢から消滅しているのだろう、若い世代からは…。今こそ、「手紙がいい」とわたしは思う。


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