昨日山室宮沢を訪れたわけだが、周辺の正月明けの様子を見わたすと、宮沢で小正月の飾りはしないと言っていたが、地域によって正月飾りは様々だと感じた。旧長谷村の溝口から黒河内にかけての玄関先を見てみると、すでに正月の飾りは皆無の家がほとんど。正月を終えても飾りすべてを外すわけではなく年神様の飾りは残したはずなのだが、今はそれがないのである。いっぽう山室川沿いの非時山へ入ると年神様の飾りを残している家が見えた。お客さんのところに寄ってその話をしてみると、非時山では正月明け、いわゆる小正月にどんど焼きはせず、小正月の飾りが下ろされたところでどんど焼きをするという。したがって今は子どもたちの都合に合わせており、二十日正月明けの土日にどんど焼きになると言うから、1月下旬になることもあるようだ。「1月7日のどんど焼き」で触れたように、どんど焼きが早くなる傾向があるなかで、旧長谷村ではどんど焼きは遅いようである。
熱田神社南辻の「道祖神」
溝口にある熱田神社南側の辻に「道祖神」があり、その道祖神の背後に松飾りが集められていた。まだ数軒分にすぎないが、周辺の道祖神においてもちらほら飾りが出されている光景はあったが、外された飾りはまだ家々に置かれているという印象だった。
さて、熱田神社南側辻にある「道祖神」、凝灰岩系の石に「道祖神」と掘られているが年銘はなく、それほど古いものではない。この道祖神の脇、写真で見ると右側の土台手前の小さな石も「道祖神」と刻まれたもので、大きな「道祖神」の四隅を囲むように根元に石が四つ置かれている。とりわけ写真では分かりづらいが、左側根元にある石は明らかに奇石であり、反対側の裏側にあるものも奇石である。主尊のように見える大きな「道祖神」が目立っているが、おそらくこの主尊より周囲にある四つの石の方が古いはず。実は上伊那の道祖神を見ると、このように奇石が多い。旧長谷村を見渡しても、『長野県上伊那誌 民俗篇上』には美和で20箇所、伊那里で26箇所の道祖神が掲載されている。このうち奇石が一緒に存在している事例が美和で6箇所、伊那里で11箇所ある。3箇所に1箇所程度に奇石が祀られているのである。それら奇石が現在どのように意識されているかは解らないが、これらがかつてはどんど焼きの際になんらかの意味ある存在であったのではないだろうか。
宮沢箱入り道祖神の双体像
まったく話は別の話であるが、昨日触れた宮沢の道祖神のことである。箱入り道祖神の中に小ぶりの双体道祖神がある。背面に「延享三□寅正月□□」の銘があるというが(『長野県上伊那誌 民俗篇上』)、『伊那谷長谷村の民俗』(長谷村文化財専門委員会 昭和48年)に「道祖神盗みの言い伝え」という項がある。
下中尾に昔道祖神双体像があった。いつか宮沢の人達が人夫か何かの用事で来てそれを見て余りに良い出来だとほれこんだ。連れの中に石屋がいてしっかり据えつけてあったのを道具を使って取り出して持って行ってしまった。そして「神様が『おれをどこかへ連れて行ってくれ』と言ったのだ」などと理屈をつけていたという。宮沢では「とり返しにあってはてけない」と近辺を若い衆に守らせ、まわりを年寄が囲んで酒を飲んでお祭りをしたという。また区長送りで守っているという。
実は宮沢にある小ぶりの双体像は18×12×5センチほどのもの。そして中尾に残る90×60×20センチの石には、19×12×6センチの溝が切ってあるという。大きさがちょうどこれにはまるほどのもの。実に実しやかな話なのである。宮沢で現在も聞かれるのは、箱入りにして持ち回りしていたのには、盗まれないようにという理由があったという。どらの話にも符合するのである。
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