火元が間もなく着くころの道祖神場
火つけの始まった社殿
おとなの火つけ
攻防戦の終盤
火つけ
火が道祖神場に着くと、一斉に灯が消える。午後8時30分ころのこと。着いた火は社殿から50メートルほど離れたところにある火元と言われるボヤに移される。まず野沢組惣代により松明に火をつけ社殿に火をつけようとする火つけがあり、続いて初灯篭を奉納する子どもが父親に背負われて同じように火をつけようとする。そして子どもの火つけが行われ、いよいよ火つけの攻防戦となるのである。この火つけの際に火元となるボヤは、徐々に社殿に近づけていくのだという(実際のところ大勢の見物人の中でそれを確認するには近くにいないと解らない)。これは人の手によって近づけていくもので、火元の前にボヤを置きながら送っていく。攻防戦が始まるころには火元がだいぶ社殿に近づいているというわけである。そして攻防戦が繰り広げられる間にも少しずつ火元は社殿に近づいていき、ある程度近づくころに攻防戦を終えて、いよいよ社殿に火がつけられるのである。ようは攻防戦の火によって社殿へ点火されるのではなく、火元によって社殿は燃やされるというわけだ。
攻防戦は「おとなの火つけ」と言われるもので、火つけ役は一般の村民である。火つけの火の消し役は25歳の厄年の人たち、サンヤンコウと言われる42歳の厄年の人たちは社殿の上からこの攻防戦を見守るのであるが、社殿上からはときおりオンガラの松明が投げ下ろされる光景が。ふと防いでいる社殿側からなぜ投げ下ろされるのか、と疑問が浮かんだがその意味は聞かずじまいだった。投げ下ろされた松明しか火つけの松明に使えないという。不思議な話だが、火をつけようとする村人、防ごうとする25歳の厄、社殿上では42歳の厄が様子をうかがいながら火つけの元となる松明を村人に供給する。この三者で攻防がサイクルしているようにもうかがえ、結果的に社殿上に用意された松明が終われば攻防戦も終わりになる。小正月の火祭りでは火つけの攻防戦が野沢ほど大規模でなくとも行われたようだが、サイクル形式ではなかっただろう。少し攻防戦の意図が野沢のものは異なるのではないだろうか。ちなみに攻防戦は社殿正面(前にも触れたように、御神木に祠が掲げられるが、その向き=火元である河野家の方角が正面となる)で行われる。ようは火を投じて良いのは正面のみなのである。こうして見てくると、常に「火元」と「社殿」という対峙によって点火が誘導されていることが解る。
松明がなくなると手締めとなって、社殿上にいた42歳の厄の人たちは降壇するのである。社殿上に人が残っていないかどうか、点検を行うのは道祖神委員長や副委員長を前回に担った、いわゆる卒業生たちだという。そしていよいよ社殿に火が入れられるのである。午後9時50分ころのことである。
会場は大勢の観客で埋め尽くされる。とりわけ攻防戦の繰り広げられる社殿前の観客は押しくらまんじゅう状態。よくも将棋倒しが起きないものだと思うほど、押され、返され、という状態である。何より驚いたのは、この社殿前の攻防戦を観ている観客の半数以上はガイジンさんである。ガイジンさんとこんなに身体を接したことは今までに経験がない。それほど現在の野沢温泉には外国の人々が訪れている。火元もらいから火元に寄り添って道祖神場まで移動したため、道祖神場ではなかなか良いポジションに身を置くことができなかった。攻防戦に至っては、「なぜそこでライトアップして撮影するのか」と嫌味でも言いたいくらい邪魔な人たちがいて、思うような攻防戦撮影とはならなかった。愚痴をひとつ書いてここは留めよう。
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