先ごろ「銘文の引用という迷路」というものを書いた。そもそも石造物に刻まれた銘文を読み取るという作業は容易ではない。ものによってはたくさん刻まれていて、加えて陰影がはっきりしないと読みづらい。平成19年には松本市大村にある玄向寺裏山に散在する御岳講関連の石造物調査を行ない、この時とのことは「転んだ石碑を起こす」などに記した。可能な限り石造物に記された銘文を読んだが、正確さは欠けるものも多々ある。この石造物の調査報告は木下守氏によって行われたが、倒れている、あるいは埋もれている石造物の銘文までは読み取れなかった。したがって報告されている銘文が必ずしも正しくないということは致し方ないことである。調査後の大量なデータを、正確に原稿化したとしても間違いは発生するもの。もちろん間違いを指摘されて憤慨することもないし、間違いを指摘する側もそのくらいの間違いは大目に捉えなくてはならないだろうが、転載ともなれば最悪でも正確に転載するのが、引用先への配慮とも言えよう。
あらためて『長野県中・南部の石造物』の巻末資料である道祖神一覧を見ていると、転載間違いというよりも編集上の間違いが多々発見される。銘文欄が一行で入らない場合二行目へと続くわけだが、そのとき本文側に空白の改行をしなければいけないのに、それをせずに続けてしまうから、そこから下の行はすべて欄のズレが発生する。そんなページが何ページも発見される。この巻末資料は増補改訂版としてあらためて発行することになったが、前述しているように最低でも引用資料に正確に転載するというのが原則だ。
ところが引用資料の間違いも多々ありそうだ。繰り替えすが大量な銘文資料を正確に編集していくのも容易ではない、というよりもその価値にどの程度意識を持っているかにもよる。今回前掲書の間違いを指摘された方も、銘文によってその意味が大きく変わると言うのだ。それだけ銘文に価値観を見出している人々にとっては、こうした資料の価値を大いに評価されるものなのだろうが、間違いだらけだったら信用性は極度に低下する。
わたしも銘文に対してはそれほど価値を置いていなかったのも事実。石造物を訪れても、既存の調査報告書があれば「そこに書いてあるだろう」と銘文の読み取りは行わなかった。ところが帰宅後報告資料を開いてみて「どうも違うぞ」と思ったことはたびたび。それでもなかなか読み取り作業に時間をかけてこなかったのは、せいぜい造立年が解かれば良い、程度に捉えていたからだろう。しかし、ものによっては銘文に背景がうかがえる場合もある。それを見出すのも技量というものなのだろうが、いまだそれを身につけていないのが実態だ。昨日紹介した野沢温泉村の寺湯の道祖神。流暢な「道祖神」文字碑だが、この道祖神の銘文について『石造文化財』(野沢温泉村教育委員会 平成3年)にはどう記されているかである。一覧を見ると「碑名欄」には「道祖神碑」とあり、「建立年月日」欄には「文政十年」、「建立者・その他」欄には「建立者河野源右衛門」とある。実際の銘文は正面の「道祖神」のほか、背面に「天保十巳亥年 河野源右衛門常□」とある。「□」は現地で読み取ったのだが記録してこなかったので明確ではいが、はっきりと読み取れる漢字だった。報告書からこのような読み取りはまったくできない。そもそも造立年を間違えている。これほど違った報告書を見てしまうと、そもそも引用すべき資料に値するのかということにもなる。頭の痛い話である。
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