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野沢温泉の道祖神祭りを訪れて①

2016-01-22 23:39:32 | 民俗学

はじめに

 野沢温泉の道祖神祭りを訪れるのは、県内のあちこちの祭りをこれまで訪れてきたものの初めてであった。何より雪深いということ、観光地ということもあって人出が多いというようなことがあって、容易く足を向かわせなかっのが事実かもしれない。民俗の会の例会というきっかけがあったからこその初見学となったわけである。国の重要無形民俗文化財に指定されている長野県内9件のうちのひとつ。年中行事で指定を受けているものでは県内唯一である。

 「35年後の景色」で触れたように、今年の奥信濃は雪が少ない。この週末寒気がやってきているにもかかわらず、いまだに飯山では雪が少ない。ということで野沢温泉でも祭日当日普通タイヤでも行けるほど雪は少なかった。道祖神祭りの行われる道祖神場と言われる広場には、圧雪された雪が20センチほどあって、まったく雪がなくて泥の上で観戦というほどではなく、見学にはちょうどよい環境だったかもしれない。

 そもそも道祖神祭りといえば多様なことは言うまでもないが、野沢温泉の道祖神祭りに似たものを周囲には見ない。ここでいう「似たもの」とは祭りを行う組織とか、大規模な社殿を造る、あるいは高い灯篭を奉納するというような祭りの全体的なカタチとしての「似たもの」である。ということは周囲に見られないだけにここだけに伝わった、あるいは創造された何らかの理由があったのだろう。とりあえず祭りを外観してみる意味で、文化庁が公開している「国指定文化財等データベース」に掲載されている詳細解説を見てみよう。

 野沢温泉の道祖神祭りは、地区を代表する野沢組惣代が総元締めになり、経験者のなかから選ばれた山棟梁や社殿棟梁などの役員の指揮のもと、サンヤンコウ(三夜講)の男たちが具体的なすべての作業を担って行われる。
 サンヤンコウは、この祭りに数え年42歳の厄年を迎える男たちを筆頭に40歳までの3つの年齢層のトモダチ衆で編成され、これに数え年25歳の厄年を迎える年齢の青年たちが加わって、3年間にわたって道祖神祭りの中心となるのである。
 祭りの準備は、前年10月下旬から始まり、村の共有林から「道祖神の社殿」の用材になるブナ材を伐り出す。芯木になるのは直径1尺(約30㎝)・長さ10間(約18㍍)ほどのブナ5本である。1月13日には芯木を集落まで曳き下ろし、14日早朝からは社殿棟梁の指揮のもとに社殿造りが行われる。この巨大な社殿を、近年は15日の昼までに完成させている。
 一方、前年に長男が誕生した家では初灯籠を作る。灯籠作りは七日正月頃から、灯籠棟梁の指揮に従って親戚や友人たちが集まって行われる。11日にはトウロウマルメ(灯籠まるめ)と称して、家の前に灯籠を組み立て完成の祝宴が開かれ、15日夕方には、灯籠送りの練りが関係者によって行われる。タイマツの火に先導されて町内を巡って道祖神場まで道祖神歌を歌いながら送り出す。
 一般の家々では、前年の秋にカワグルミ(和名サワグルミ)の木を伐って乾燥させておき、祭りまでに高さ5寸(約15㎝)ほどの男女の道祖神の木像を作る。15日には「道祖神の年取り」と称しご馳走を供え、夕方には「社殿を見せる」といって道祖神場へ連れて行く。
 15日夕方、厄年の世話役6人が使者となり、火元の家に「火元貰い」に行く。火元の主人は白丁に烏帽子の装束に着替え、床の間の正面に据えられた道祖神木像を拝み、その前で火打石で火をおこし、種火を弓張提灯に移し、この火をオンガラの大松明に点火する。
 午後8時すぎ、松明が道祖神場に到着すると、いよいよ道祖神の火祭りが始まる。厄年以外の村の男たちが火付役で元火の火をオンガラの束に移し、社殿に投げつける。これに対して厄年の男たちは火消役になり、社殿前面に25歳の青年たちが、社殿上には42歳の男たちが陣取って応戦し、松の枝でオンガラの火を叩き消す。激しい攻防戦が社殿棟梁の合図で終結すると手締めが行われて、社殿に火が入れられる。炎に包まれた社殿には、初灯籠が順番に立てかけられ、燃やされる。
 この行事は、長野県北信地方の小正月行事のうち、厄払いの性格や火をめぐる競技的な内容、子どもの成長祝いの性格など地域的特色が豊かである。

というものである。

 このほか野沢温泉観光協会が公開しているホームページで紹介されている「野沢温泉の道祖神祭り」がかなり詳しい。


 さて、道祖神祭りというから「道祖神」があるのか、ということになる。現在の道祖神場から北東に200メートルほど行ったところに道祖神が祀られている。これを「下(しも)のドウロク神」と言っており、ここから140メートルほど南東のさかきや旅館の脇にもうひとつ道祖神が祀られていて、こちらは「上(かみ)のドウロクジン」と言われている。かつてはそれぞれの道祖神のある場所で道祖神祭りが行われていたと言うが、大正元年に火災予防のために警察から「人家から離れること百間以上たること」という通達があって、上下一緒に行うようになったという(「野沢温泉の道祖神祭り」長野デザインセンター 2002年)。この時場所を上組片桐家所有地の馬場ノ原へ移し、元火は寺湯の河野家から出すことになったという(前掲書)。実際のところ、現在の両者の場所で現在の道祖神祭りを実施することはどうみても不可能。もちろん大正時代の景色は今とは異なるだろうが、この場所で火祭りを行うとしたら現在のような大きな社殿を造るのは無理だろう。とすれば、上下一緒になった以降、社殿が大型化したと言えるのだろう。下には石祠型の道祖神が祀られており、その脇には平成11年に建てられた道祖神社殿記念碑がある。祭り発祥地に記念として建てられた経緯は、長野パラリンピックにおいて社殿を聖火台として用いたことによるもの。ちなみにこの時の社殿造立の際に棟梁をされたのは、道祖神まんじゅうを製造販売されているみゆき商店の主だという。下の道祖神のある寺湯には石祠型道祖神の背後に年銘の刻まれた「道祖神」文字碑も祀られている。そこには「天保十巳亥年 河野源右衛門」とある。おそらく石祠の方が古いのだろうが、そこには年銘はない。いっぽう上の道祖神は明治32年に造立されたもの。野沢温泉村にある年銘のある道祖神は、いずれも古くて江戸末期までしか遡らない。そもそもこの地域では石造道祖神造立以前から道祖神信仰そのものは存在していたようだ。

寺湯道祖神石祀(前面向かって右手に「道祖神」が見える)

 

続く


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