飯田市虎岩原 “青面金剛”
小浜の地蔵盆に登場する地蔵、今はカラフルに彩色されるが、かつてはもっとシンプルなものだったのだろう。前編に掲載した地蔵堂に祀られた地蔵は、主にベンガラで塗られた割合シンプルなものだった。一矢典子氏も「江戸時代の末から明治の頭には、ベンガラなどで色を付けていた」と「若狭小浜の化粧地蔵」(『日本の石仏』143)に書いている。また「現在、多くの町で色づけに絵の具やペンが使用されているが、西津で唯一、現在でもベンガラの赤、石灰の白、墨の黒の3色のみでお地蔵さまに色を塗っている」と紹介しているのは下竹原東仲町のもの。記憶が定かではないが、前編に掲載した写真は、下竹原東仲町のものだったと思う。
さて彩色される石仏の代表的なものに不動明王がある。憤怒の形相には赤が似合う。そして光背に刻まれる火炎も赤く燃えるように見えればより一層それらしくなるというもの。かつてはかなりの不動明王に彩色されたと思われるが、色あせて色が落ちてしまったものをよく見る。不動明王に彩色されるのは一層不動明王らしさを表現する演出とも言え、化粧地蔵とは少し意図は異なるのかもしれない。
長野県内では特徴的な彩色習俗のある地域がある。飯田市周辺で行われる青面金剛(庚申様)への彩色である。飯田市下久堅下虎岩原第三常会の寺沢重徳方の前の祠に、彩色された青面金剛が祀られている。前の道が拡幅される以前は、現在の位置より少し北側にあったというが、この話を聞いたのはもう10年ほど前のこと。その際にこの道がさらに拡幅されて再び青面金剛が移転されるというような話をされていた。その後訪れたことがなく、今はどうしておられるものか、いずれ訪れてみたいものだ。祠の裏に坂道があったが、かつての秋葉街道で、この道を下り舟渡りを経て天竜川対岸の八幡へ向かっていた。彩色された青面金剛は、このほか喬木村氏乗をはじめ同村富田などにもみられたが、それも今はどうなっていることか。かつては多くの地域で彩色を施していたともいわれ、この虎岩の庚申様を訪れた際には毎年色を塗り直していると言っていた。ここの庚申様は周辺の家々が仲間となってまつられていたが、現在は講仲間での祭りは行われておらず、寺沢家において細々と祭りを続けていた。もとは旧暦の1月1日が祭日であったが、話をうかがった際には1月の終わりから2月の初めの都合の良い日に祭りをしていると言っていた。かつては前日に前年に塗った色を井戸水で洗い落としたという。そして絵の具を買う場所も毎年決まっていて、飯田市鼎の飯田橋の近くにあった店に行ったという。そこで「庚申様に塗る絵の具を下さい」というと、店の人も何がほしいかわかったという。今では洗わずに普通の絵の具を使って、上に重ねて塗ってしまうという。このように店に行けば庚申様に塗る絵の具があったというのだから、この地域ではけっこうふつうに行われていた習俗だったようだ。
終わり
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