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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

彩色される石仏・前編

2012-10-09 23:41:37 | 民俗学

 

昭和62年8月23日

 

 「なぜ色を塗るのか」、そんな疑問はいまだはっきりと解明されていないのが石像に彩色を施す習俗である。ふつうには石仏・石神は石の素材そのままの姿を見せるものなのだがそこに彩色する習俗をときおり見ることがある。かなり少ない事例と言え、彩色されたものは稀とも言える。長野県内で彩色されたものというと安曇野の道祖神に例を見る。安曇野と言えば道祖神、そしてその道祖神の中でも彩色されたものが映像として映し出されることが多く、認知度は高いかもしれないが、それ以外の地域、あるいは道祖神以外にそれを見ることはほとんどない。『日本の石仏』143号はそんな彩色される石仏を特集している。この安曇野を中心とした道祖神の事例について、同号では石田益男氏と窪田雅之氏が報告している。その中でも彩色の意図については石田氏は「石材の花崗岩の白さで、はっきりしない像容を、彩色で際立たせる」、あるいは「迎え祀る道祖神に、お祭りの「晴れ着」や「婚礼衣装」を献納する意味で彩色する」と述べている。また窪田氏は筑摩野の道祖神の彩色について「他地域からの影響」を強調し、その上で「身近な神である道祖神を美しく見せようなどという単純な理由とも相まって彩色が行われた可能性」を指摘する。安曇野を中心とした道祖神の彩色については、石田氏が穂高神社の行事にかかわる人形師の存在が、この地域に彩色道祖神を顕著にさせてきたと指摘しているが、いずれにしても彩色の意図ははっきりとしない。

 石仏に彩色を行う事例としてもっも知られているのは「化粧地蔵」ではないだろうか。京都を中心として地蔵に彩色を行う習俗が分布しており、とくに知られているのは若狭小浜で地蔵盆に行われるものだ。8月23日の地蔵盆には、マチの中に祀られている地蔵を若狭湾の水で洗い流し、あらためて彩色を施すのだ。これらは子どもたちが行うものである。『日本の石仏』143号では一矢典子氏が「若狭小浜の化粧地蔵」の事例を報告している。「今回、多くの方に「なぜ、色を塗るのか」尋ねたが、その意味は分からないが、昔からのこと」という回答を掲載している。ここでも安曇野の道祖神同様その意図がはっきりしないという。平成も24年も経過しているわけで、この時代の継承者でその質問に答えられる人はいないということを示すわけであるが、伝承すら聞き取れないところに若干の違和感は残る。

 さて、この小浜の地蔵盆には昭和60年ころ何度か訪れた。今も同じように地蔵盆が行われているのか気になるところであるが、写真の小浜湾を背景にした写真には苦い思い出があ。この写真を撮ろうとしたらまわりにいたカメラマンたちから「撮るな」と罵声を浴びせられたのである。なぜならばそのカメラマンたちが賽銭を褒美にここまで子どもたちを連れてきたからだ。もちろんわたしは言われるまで知らなかったことなのだが、海の端でこのような勧進をする光景はふだんはあまりないということ。ふだんならマチの辻々で通せんぼをして賽銭を請うのだが、カメラマンたちにとっては海をバックに行う勧進がとても絵になったというわけだ。

 続く


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