ここ2日ほど小浜湾の西津の地蔵盆について触れたが、今の地蔵盆の様子はわからないものの、昭和の終わりごろ訪れた地蔵盆は、地蔵盆というものを知らなかったわたしにはけっこう感動ものだったことを思い出す。子ども達が夏休みの終わりを迎えるにあたって、最後の楽しみの場であったことはその様子から十分うかがえた。盆が終わるとすぐに学校の始まった長野県内の小学生にはない世界だ。例えば阿南町新野ではウラボンに盆踊りが行われるが子どもたちにとってはすでに学校が始まっていて、盆のさなかの盆踊りのようなこころにゆとりのある夜を送れない。数年前までは必ず24日の晩に踊られたから、ウィークデーの真っ只中ということも当たり前のことだった。もしこれが地蔵盆のように夏休み中の出来ごとだったら、子どもたちに十二分な楽しみの時間になったはずだ。いわゆる祭日がかつてのように固定されたものではなく、土日開催に変更されてしまったのは残念な部分もあるが、いっぽうで子どもたちにとっての遊びの場はしっかりと記憶にも残されたはずだ。だから幼い日々の、そして成長過程の生まれ育った地域への思いという面では配慮されるべき事実だったともいえる(実際は大人が平日では集まれないという理由だろうが)。夏休みの短かったわたしの記憶からすれば、地蔵盆の子どもたちの雰囲気はとても緩やかな時間の中に展開されていて、それでいてそのこどもたちが自由に賽銭を請うことが許されたその日は、実に楽しそうに見えたのである。
実はこうしたトキが長野県内の子どもたちになかったわけではない。地蔵盆とよく類似しているとしてとりあげられるものに長野県における道祖神祭りがある。小浜のそれには子供組なる組織が出来上がっていたわけではないが、道祖神祭りを執行したのはかつては子供組と言われるような年齢集団であった。小浜の地蔵盆でもよそのお堂にあげてある旗を奪いに行ったり、行燈を こわしに行くような習わしがあって、「アンドン破りに来たら、元帥や大将が追い払う」ことが、かつてはあったという。同じようなことは道祖神の祭りにもあって、たとえばサンクローと呼ばれる火祭りでもよそのサンクローを壊しに行くということもあったり、またそれを阻止するために石投げ合戦になることもあったとようだ。それらを指導する者として親方とか大将と言われる年長者があった。また、地蔵盆では小屋がけした堂に泊り、おこもりをしたという。これらも道祖神の祭りにみる習俗と類似し、朝早くに「起きろ起きろ」と町内を囃して回る点は、わたしがかつて何度か訪れた長野県下水内郡栄村箕作(みつくり)の道祖神祭りとそっくりである。さらに前述したように賽銭を献じさせ、それを子ども達が分配する習俗も道祖神の祭りに見られる。松本あたりでは通せんぼをして通行銭を請うたという。また佐久地方に夥しく分布する正月の獅子舞では、子ども達が各戸をまわり御祝儀をもらうわけであるが、親方が分配権を持っていた。こうした正月の行事も冬休みの最中であったりしたが、多くは小正月を中心としたもので、小浜の地蔵盆のような環境は無かった。今では成人の日の月曜移行によって小正月らしさはまったく絶えてしまったとも言える。こうした中に子どもたちの思いが晴れる環境はないとも言える。そういう意味でも盆の終わったあと、行く夏を惜しみながらも風流に染まる地蔵盆の日は、特別な景色をわたしに見せてくれたのである。
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