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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

豊丘村を歩く④

2014-09-04 23:26:14 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く③より

浪摺岩取水工

 

 松川町の南東の突端に中世の山城、大島城址がある。武田の築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、枡形虎口などの遺構が残る城跡であるが、この東側は天竜川の断崖となっており、その高低差は50メートル近い。天竜川はこの大島城址の位置で狭くなっているのであるが、それを利用して現在台城橋という狭い橋が架けられている。この大島城の城跡の対岸、若干低いがほぼ同じくらいの高さのところを、かつて畑田井という用水路が流れていた。昭和の合併で現在は豊丘村となっている旧河野村の北側半分ほどを潤すために引かれた用水路で、開鑿されたのは元禄元年(1688)と言われる。現在の松川町生田と豊丘村河野の境にある間沢川から取水されて導水しているもので、急斜面の山腹を開鑿したこの地域特有の用水路といえる。この地域に限らず長野県内では渓流から高いところに導水するために、同様の水路は至るところに現存する。もちろん既に廃止されてしまった同様の水路もおびただしくあり、かつての残骸が残されている光景もいたるところで見ることができる。それだけに、農業用用水路の歴史は長野県内でも欠くことのて゜きない歴史であることは言うまでもない。

 地図上で見ると気がつくのだが、この間沢川が天竜川に流出する南側の北面斜面に集落があることを知る。「滝川」と称される集落からは、間沢川を挟んで松川町の家々が望める。もはや松川町と言っても差し支えないほど豊丘村とは隔された地である滝川は、もちろん豊丘村、旧河野村の一集落なのである。この滝川の集落の下を巻き込むように畑田井は導水された。もちろん滝川の集落より低いため、滝川の人々が集落内でその水を利用することはできなかったわけであるが、そのせいか滝川の集落内には小さなため池がいくつかあり、それらを利用して少ない水田を耕作してきたわけである。

 間沢川左岸の浪摺岩から取水した畑田井は、等高線に沿って河野村まで導水したのが当初の水路である。この水路を維持するために「井林」というものが設けられたという。ようは維持費ねん出のための「林」であり、こうした水路にはつきもののようだった。それだけ木材に価値があったわけで、今もってムラが地区林を所有している背景も同様である。『豊丘村誌』によれば、畑田井には12町4反9畝の井林が存在したという。もちろん木材を売るという行為もあっただろうが、そもそも水路補修のためにも木材が使われたわけである。井林の木々の伐採に対しても規律が厳しく、盗む者には制裁が加えられたとも。

 城址が築かれたほどの要害の地の対岸、それも天竜川の狭隘地ということからもわかるように用水路が険しい地に建設されたことは容易に理解できよう。畑田井の歴史はそんな険しさ故、災害との戦いでもあった。何度となくナギの普請を繰り返した。『豊丘村誌』には寛延2年、宝暦3年、宝暦11年、明治5年といった災害改修の記録がある。そんななか、明治39年には最難所と言われたホッキ岩悪沢から字西坂に至る約180メートルを隧道に変更したという。当時工事を請け負った人の名をつけて「要助穴」とその後呼んだという。これもよくある例で、長野県内では開鑿された山腹水路を維持できなくなって隧道化する工事例が歴史上にたくさん現れる。ところがこうした事例の多くが素掘りの隧道、いわゆるコンクリートで巻きたてられていないため、落盤によって隧道の維持に苦労している事例は数多い。落盤はなくとも、その寸前であると思われるような隧道も多い。畑田井ではさらに昭和5年に大改修を行い、用水路のほとんどをコンクリート化したのである。

続く


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