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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

下伊那の道祖神⑬

2016-03-29 23:05:50 | 民俗学

下伊那の道祖神⑫より

西国三十三番 二番 馬頭観音と「道祖神」

 

西国三十三番 一番 如意輪観音

 

 昨日「大根地蔵」について記した。上村街道が平谷川沿いに開削されたのは明治15年だったと触れた。それまでは鷹の巣を越えて茶屋谷川に沿って櫃ガ沢に出る道だったという。平谷川沿いの地形が険峻であったためにわざわざ峠越えをしたわけだ。明治4年から村三役を勤めた脇坂卯八によって新道開削が企てられ、明治15年に新道が開通した。脇坂卯八の名をとって「卯八街道」とも呼ばれたらしい。国道418号を「平谷」交差点から1キロほど岐阜県側に向かったところの道端に石仏が建てられている。高さ90センチほどの立派なもので如意輪観音を象ったものである。だいぶ風化して読み取り難いが、台石には「西国三十三番の一番」と刻まれている。『平谷村誌』上巻によると、明治34年(1901)1月に、上村街道の開削によって名古屋の藤川運送業者がこの街道へ物資を運び込んだとき、馬の守護と道路交通安全のために建立したものだという。「現在、観音像の建立されているのは、改修道路の石垣上であるが、かつては旧道の傍の源蔵洞の流れ落ちる滝上に大きな岩があって、その岩頭に祭られていた。昭和三十五年に道路改修が行なわれる前までは、通行人は岩頭の観音像を拝んで通った」という。この一番の祀られている場所は、「人を送り迎えるけじめの地」だったと同書では紹介している。ようはかつて出征兵士を送り迎える場所だったと。村人の意識として「ムラ境」という捉え方だったようだ。

 この一番観音から再び岐阜県側に少し下ったところのモルタル吹付けされた法面にやはり石仏が2体祀られている。一体は西国三十三番の二番にあたる馬頭観音、そして隣にあるのは「道祖神」なのである。昨年発行した『長野県中・南部の石造物』の道祖神一覧に、「道祖神の存在確認できず」と記した。それは元資料とした『風越山』30号「下伊那の道祖神」(飯田風越高校郷土班 1985)の中で平谷村には道祖神が確認されていないとあったからだ。これまでにも「下伊那の道祖神」で触れてきたように、この地域には新道を開削した際に道の安全を願って建てられた「道祖神」が多いことについて触れてきた。「道祖神」がないとされてきた旧南信濃村にも、同様の道祖神の存在を確認してきた通りだ。平谷村に唯一と言われるこの「道祖神」は、前述した新道開削の際に建てられたもの。「道祖神」の向かって右側に「昭和十五年」、左側に「美濃街道開祖 脇坂卯八」と刻まれている。「卯八街道」と呼ばれた生き証というわけである。三十三番の観音はここから上矢作の大きな集落にあたる横道の手前にある発電所上までの道に点在して建てられた。「愛知県内で刻んで、運ばれてきて建てられた」と『平谷村誌』には記されている。

 さて、昨日記した小椋角三君は、建立されてそれほど経っていなかったこれら観音さんに見守られて毎日通学していたことになる。改修され広くなった国道を岐阜県の方へ走っていくと、それほど険しくもなく通り過ぎてしまう現在の景観だが、川の中を注視すると、国道下には意外とかつての険しさを思わせる渓谷美がうかがえる。この道のことについて「御料林の中を通るので、巨木の枝が道路上まで伸びて、茂みの中をくぐって行くような所があります」、と小池筆男さんは『山村の今昔』に記されている。角三君が惨殺された時代のこの道の景色を表したもの。今はとてもそんな様子はうかがえないが、いずれにしてもそんな危うさのある道を護る意味でもこれら石仏が祀られていたわけである。

 続く


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