歳を重ねるほどに予想通りの日々を過ごすことになり、過ごしやすい、暮らしやすい、ストレスのない日々を繰り返すことになるが、果たしてそれで良いものかは人それぞれの意識によるところが大きい。歳を重ねていれば経験値は大きい。しかし毎日同じ経験では真新しさはないし、重ねているものが薄っぺらなものばかりになってしまう。というよりも毎日同じ繰り返しだったら、どれほど歳を重ねても経験値と年齢は比例しないことになる。したがって日々とはいわないにしても、新しいことを始めることが経験値を上乗せするには手っ取り早い。しかしその気力を表に出すのは誰しも容易ではないだろう。
わたしも同じで、日々追われてばかりいれば新しいことを始めるなどとうていできない。宿題を置いといて新しいことを始めるなんて、自分の首を締めるようなもの。でもそんな日々を解消する日を待っていたら定年まで待つ事になるだろうし、定年したからといって暇になるとは限らない。年金がもらえるようになるまで必死に暮らしを補填しようとすれば、仕事をしなくてはならないし、とりわけ農業空間の維持には無駄な作業がつきもので、おそらく年齢に上積みしていく経験値は薄っぺらなものに相違ない。
かつて、いや今も経験値が人を成すと考えているが、気がつけば周りを見ればわたしより若い人たちばかりになった。もちろん地域社会はまだまだ中堅といったところだが、会社はもちろん、会社でお世話になって頭を下げに行く相手は、ほとんどわたしより若い人たちばかり。会社に入った当時は同期といえばわたしより4歳以上上の人たちばかりで、とりわけ若く捉えられしばらくは「若さ」だけで物言いを重ねた。それも特権だったかもしれないが、そんなイメージが自らにも、また周囲にもあったから、物言いが過激な印象に捉えられた。ようは敵を多く作ったかもしれない。そしてここ数年は会社に自分より先に入った者がいなくなり、経験値だけは飛び抜けて会社の長老的存在でもあった。でもそこでわかったことは、かつてのように経験値で物が通る時代ではなくなっていたこと。昭和の時代の経験値をお持ちの方はご存知のとおり、かつては「俺が若いころは…」とか「俺はこうやって覚えた」みたいな過去経験をふりかざす先輩がほとんどだった。今でもそういう人が皆無というわけではないだろうが、わたしは若い人たちにこういう語り口はしなかった。聞きたくないことを言う必要もないだろう、とは自分がかつて思った経験値だからだ。しかし、これほどまでに過去や経験値が薄っぺらなものになってしまうと、これからの時代の伝承性にも影響しかねない。そして事実、親から何も聞いていないという子どもたちの多いことに気づく。個人(家・家族)でしか知らないことが伝わらないのである。そして語りはどうなるのか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます