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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

赤子石

2016-04-24 23:45:05 | 民俗学

 

 平谷村の中心からは浪合に寄ったところに靭という集落がある。現在の国道は集落の上を通っていて、気がつく人は少ないが、旧道に入って行くと柳川の対岸に別荘群が見えてくる。今や平谷村も別荘地が村のあちこちにあり、旧来の家々に匹敵するほど別荘が目立つ。そんな別荘群の対岸の掘割りに「滝之澤城郭跡」という大きな看板が右手にある。ここは中世の城郭跡で、天正10年(1582)に織田の軍勢と激戦を交わした場所だという。この看板の反対側に朱に塗られた「赤児石堂」という小さな堂がある。中には石仏が3体祀られていて、中央にある文字碑には「赤児石尊」と刻まれている。堂は「昭和五年三月に建立された」と『平谷村誌』上巻(平成8年)には書かれているが、現在のものがその当時のものかは定かではない。もともと赤子石は「現在地の反対側(道を挟んで)」にあったといわれ、「赤子石」と言われるだけに石仏ではなく、平たい石だったようで、その石の上に赤子の足跡が二つあったという。大正15年(1926)ごろ現在堂のある前のあたりに埋めたという。その後現在の「赤児石尊」が祀られたようで、向かって右側面に「昭和五年三月建之」と刻まれている。ということは石仏の建立と堂の建立は時を同じくしたということになるだろうか。石仏の左側面には「家内安全」と刻まれており、赤子信仰のみならず、家の安泰を願って建てられたものと思われる。

 堂外に掲げられた説明板によると、その「由来は、合戦時の落人が、赤子を連れて逃げていましたが、追手の追及が厳しく、ついに石の上に赤子を置き去りにして落ち逃れて行きました。赤子は長い間、石の上に立ったまま泣いており、その足跡が石に残って、以後この石を「赤子石」と呼ぶようになった」という。「赤子が患った時や夜泣きをする時に、平癒の願をかけてお参りすると御利益があるといわれており、御礼に朱色の旗を奉納するのが常であります」とも。堂内には「奉納 赤子石様」という旗が納められているほか、よだれ掛けらしきものや帽子、マフラーなどがお地蔵さんに被されている。「石尊」と彫られた左手あたりに小さな足跡がふたつ刻まれているのは、石工によって刻まれたものらしく、本当の足跡があった石は、前述の説明のように、堂前に埋められているというがあくまでも言い伝えである。

 赤子石ということで、前掲書『平谷村誌』上巻の「人の一生」を開いてみたが、こちらではそのことは触れられていなかったが、興味深かったのは村誌を発刊された年(平成6年という)に生まれた出生児のみなさんが全員写真付きで紹介されていたことだ。おそらくこのような村誌をよそで見ることはないだろう。平成6年出生ということは現在21歳、総勢6名の村の宝であった。


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