昭和61年12月17日撮影
須沢を訪れた翌日は、大町を訪れている。以前にも記した通り、当時は現在の三遠南信道の矢筈トンネルはなかった。したがって旧南信濃村の和田周辺へ行くには、飯田から赤石林道経由ではなく、阿南町から天龍村を経て平岡ダムから遠山川を遡上する道の方が近い、あるいは走りやすい道だった。もちろん大町は、天龍村に近い集落だけに、当然のこと、後者の道を経由した。大町は、遠山川左岸の集落。南側に山を背負った、どらかというと日陰のムラである。ふだんであれば、けして足を踏み入れるような集落ではない。大町の霜月祭りは、当時から開催日が流動的だったが、昭和の終わりには、ほぼ17日開催に固まっていたものの、平成に入ると23日ころに日取りは変わっていた。
和田、尾之島、そして大町と、この3社は同じオモテを使う。3社のうち大町は集落が小さいということもあって、観客は少なく、当時としても落ち着いて見られる祭りであった。写真を見ても、周囲の人々は少ない。
大町の開催日が流動的であったように、後に祭りは中止された。ところが今年は復活するという。もちろんよその人々の手を借りて、ということになるのだろうが。
大町には、当時祭りでしか足を運ぶことはなかったが、数年後、須沢同様に、道路開削の仕事で度々訪れることとなった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます