11月ももう終わりで、いよいよ師走である。ことしももう終わりかと、毎年一年のむなしさを、あと一月というところで感じているが、何も変わっていない。情けない話である。11月23日、長野市では恵比寿講の花火大会が行われる。この時期としては、大規模な花火大会である。恵比寿講=花火というイメージさえできあがっている。恵比寿講というと、古くからの商店街では売り出しを行い、「恵比寿講大売出し」などという看板をよく見る。大規模店などでも売り出しを行うが、常に大売出しという印象だから、恵比寿講という看板はあまり似合わない。やはり、昔からの商店街に似合うフレーズである。
恵比寿様のことを伊那では「おいべっさま」という。恵比寿講=大売出しというイメージがわくほど、商店では、この時期に売り出しを行なった。11月1日に出雲に出かけた恵比寿様が、20日に帰ってくるという。まさしく恵比寿様は出稼ぎに出るのである。旅立ちの日には、餡を入れない空焼餅を供える。これは、旅たつまでの稼ぎでは空の焼餅しか持たせてあげられないという意味だといい、出稼ぎから帰ってくる20日には、稼いできた恵比寿様をねぎらって餡の入った焼餅を作って供えるのだ。神様だというのに、旅たちにはみじめなお土産で「稼いでこいよ」と送り、稼いで来る日には、現金にもよくがんばったとねぎらうという、なかなか考えた話である。稼いでくるという意味もあって、恵比寿講は商店にとっての稼ぎ時となる。
上伊那でいわれる恵比寿講の事例をいくつかあげると、
○稼いで帰った恵比寿様を迎えるので、感謝の意をこめて小豆を黒砂糖で煮た甘い餡の入った焼餅をこしらえ、鰯かなにかのお頭付でお迎えする。黒砂糖の少なかったころは柿や小柿で甘みをつけた。(伊那市山寺)
○一升枡に大焼餅二個と、家にあるだけの金を財布に入れて恵比寿様に供える。(長谷村中尾)
○十一月一日にお恵比寿様がお立ちの日といって小豆を入れない「から焼餅」作る。金を一杯にしてきてくださいと祈念する。宵恵比寿にはお祀りしてある戸棚をあけ、西宮のお恵比寿様の掛け軸をかけ、その上に麻を一かせかけ下げる。財布の口をあけて供える。金銭が入るようにとの願いである。柿を供える。かきとるようにという。小豆を煮て明日の準備をする。昔砂糖が僅かだったころは柿渋を入れて煮た。二十日朝暗いうちにお燈明をあげ焼餅を焼く。恵比寿様に供えるのは、俵とかますの形に作り、一升枡に入れて普通の形のものと供える。土蔵にも恵比寿大黒のお札が貼ってあってそれに供える。神棚にも普通の形のを供える。(伊那市天狗平)
というようなものである。なかなか都合のよい願いであるが、こんな時代であるから、まさしく恵比寿様にお願いしたいこのごろである。おいべっさまが出雲からお帰りの日には、掃除をしないともいう。せっかく稼いできたお金が出て行ってしまっては大変だから、掃きださないのだ。
平成7年に亡くなられた松村義也先生の『山裾筆記』に、昭和33年に東春近の小学生の女の子から聞いた話が書かれいる。「おいべっさまはやきもちが大好きなので、大きく作ってますへしんぜました。お田植えの時しんぜた苗を、その日には取って川へ流してやりました。次の朝はおいべっさまがお金をしょってくる日なので、入り口を20センチぐらいあけておきました。」
かつての行事では、神様や仏様が帰ってくるために、戸を開けておいたりしたものである。今では戸など開けておいたら、泥棒が入ってしまうのだから、そんな気持ちなど吹っ飛んでしまっている。ましてや、「せっかくやきもちを作っても、家人に喜んで食べてもらえるかどうかわからないと思うと、つい手をひっこめてしまう(山裾筆記)」という年寄りの言葉を聞くと、「おいべっさま」も意味を持たない行事になってしまっていると、つくづく思うわけである。
恵比寿様のことを伊那では「おいべっさま」という。恵比寿講=大売出しというイメージがわくほど、商店では、この時期に売り出しを行なった。11月1日に出雲に出かけた恵比寿様が、20日に帰ってくるという。まさしく恵比寿様は出稼ぎに出るのである。旅立ちの日には、餡を入れない空焼餅を供える。これは、旅たつまでの稼ぎでは空の焼餅しか持たせてあげられないという意味だといい、出稼ぎから帰ってくる20日には、稼いできた恵比寿様をねぎらって餡の入った焼餅を作って供えるのだ。神様だというのに、旅たちにはみじめなお土産で「稼いでこいよ」と送り、稼いで来る日には、現金にもよくがんばったとねぎらうという、なかなか考えた話である。稼いでくるという意味もあって、恵比寿講は商店にとっての稼ぎ時となる。
上伊那でいわれる恵比寿講の事例をいくつかあげると、
○稼いで帰った恵比寿様を迎えるので、感謝の意をこめて小豆を黒砂糖で煮た甘い餡の入った焼餅をこしらえ、鰯かなにかのお頭付でお迎えする。黒砂糖の少なかったころは柿や小柿で甘みをつけた。(伊那市山寺)
○一升枡に大焼餅二個と、家にあるだけの金を財布に入れて恵比寿様に供える。(長谷村中尾)
○十一月一日にお恵比寿様がお立ちの日といって小豆を入れない「から焼餅」作る。金を一杯にしてきてくださいと祈念する。宵恵比寿にはお祀りしてある戸棚をあけ、西宮のお恵比寿様の掛け軸をかけ、その上に麻を一かせかけ下げる。財布の口をあけて供える。金銭が入るようにとの願いである。柿を供える。かきとるようにという。小豆を煮て明日の準備をする。昔砂糖が僅かだったころは柿渋を入れて煮た。二十日朝暗いうちにお燈明をあげ焼餅を焼く。恵比寿様に供えるのは、俵とかますの形に作り、一升枡に入れて普通の形のものと供える。土蔵にも恵比寿大黒のお札が貼ってあってそれに供える。神棚にも普通の形のを供える。(伊那市天狗平)
というようなものである。なかなか都合のよい願いであるが、こんな時代であるから、まさしく恵比寿様にお願いしたいこのごろである。おいべっさまが出雲からお帰りの日には、掃除をしないともいう。せっかく稼いできたお金が出て行ってしまっては大変だから、掃きださないのだ。
平成7年に亡くなられた松村義也先生の『山裾筆記』に、昭和33年に東春近の小学生の女の子から聞いた話が書かれいる。「おいべっさまはやきもちが大好きなので、大きく作ってますへしんぜました。お田植えの時しんぜた苗を、その日には取って川へ流してやりました。次の朝はおいべっさまがお金をしょってくる日なので、入り口を20センチぐらいあけておきました。」
かつての行事では、神様や仏様が帰ってくるために、戸を開けておいたりしたものである。今では戸など開けておいたら、泥棒が入ってしまうのだから、そんな気持ちなど吹っ飛んでしまっている。ましてや、「せっかくやきもちを作っても、家人に喜んで食べてもらえるかどうかわからないと思うと、つい手をひっこめてしまう(山裾筆記)」という年寄りの言葉を聞くと、「おいべっさま」も意味を持たない行事になってしまっていると、つくづく思うわけである。