『伊那路』昭和38年6月号に赤穂高校3年だった本田妙子さんの「大島の梨-下伊那郡松川町-」が掲載されている。かつての『伊那路』には、こうした高校生の投稿記事がときおり掲載された。さすがにわたしは高校時代に『伊那路』に投稿したことはなかっただけに、それを後押しする土壌が、上伊那地域にあったのだと教えられる。もちろんわたしも上伊那で生まれ育ったので、その機会が閉ざされていたわけではない。記憶では高校時代といえば、『歴史研究』と『歴史読本』に投稿した記憶はあるが…。
さて、本田さん家族は疎開して大島に来られたようで、冒頭「私の家は、戦争中に横浜からこの大島に疎開して来たのであるがその頃には、大島の梨はかなり有名だったので、果樹園を買って、この村に住みついてしまったのである。」から始まる。まず大島の梨の歴史を紐解いている。「明治二十年代に、大島村に早生赤梨の栽培を始じめた人がおり、村内の各所でこれを試みたが裁培技術や、消毒法が未発達であったために、全滅してしまい、果樹園を桑園に転換せざるを得なくなった」という。その後「大正時代の初期に、鈴木源三郎・矢沢菊太・平沢兼四郎等三氏によって、現在の果樹栽培にもつながる最初の開拓が行われ、果樹栽培が試みられ」、一応成功をおさめた。そして「昭和三年頃には、梨の華ともいわれる二十世紀梨が植えられる様になり、今まで盛んにつくられていた桃や、ぶどうは、少しづつ滅ってゆき、これらに変って二十世紀梨が、多量に生産されるようになり、今日では、果樹栽培の王座を占めるに至った」という。しかしながら戦争が激しくなるとともに、果樹園は減少したようだ。肥料や資材の欠乏は、容易にそれらを衰退させたというわけだ。終戦後「昭和二十二年には、杲実の統制は解かれ、自由販売が出来るようになった。そして、大島村果樹農業協同組合が設立された。果実組合は、日に日に発展し、遂に、農家の半数を上回る人々が、果樹栽培を行うようになり、今日では、共同防除、共同選果所等の設備も整い、又、耕うん機等も一般に普及し、大島の果物―いわゆる伊那梨として、広く知られるようになり、名実共に立派に成長し、今後の発展が、特に注目され、又期待されるところとなっている。」と述べている。
繰り返すが本田さんがこれを書かれたのは昭和38年。確かに「注目され、期待される」ところだったのだろう。まだ交通網の発達は「これから」という時である。本田さんも「輸送にはほとんど鉄道に頼っている様な状態であるが、一日も早く道路の舗装が完備して、自動車による輸送が、今までより多く出来るようになったらと、果樹栽培者は、その日のくるのを待っているようである。」と書かれている。まだ中央自動車道の開通は先のことだった。さらに労働力不足についても触れている。「これ程梨の産地として、有名になりながらも、一つ、の悩みを持っている。それは果樹に対する労働力の不足である。これはこの町が、工場誘地に積極的なために、現在すでに大きな工場だけでも四つはあり、その他、小さい工場がいくつもあるので人手が足りない。その上、まだいくつかの工場が設けられる予定になっているそうである。工場に勤めるような人は、一般に若い働き盛りの人達ばかりなので、尚更、人手が足りないのである。」と。そしてその打開策として考えられたのが中学生による花つけや袋掛け作業だった。
花つけ作業にかかわってかつては不必要だった人工交配についても触れている。「昔は果樹栽培者が少なく、したがって、梨の木が少なかったために、蜜峰が人工交配の役目をしてくれたのであるが、現在では梨の木が多すぎるために、蜜蜂が役目を果し切れなくなったために人工交配をするようになったのである。」と。花つけは「開花後一日から二日が一番良い時期であり、この短い日に、園内を少なくとも二回から三回はまわらなくてはならないので、人手を多く必要とする」。また袋掛けのうち小袋かけは「少しでもおくれると、それだけ実がぎたなくなって良い梨がとれない」という。「大島地区だけでは人手が足りないので、高森町や飯田から泊り込みの人を頼んで来て手伝ってもらっている」という。そして「こんな事位ではまだ人手は足りないし、人を頼っていたところで仕方ないので若い人達は少しでも速く沢山の袋がかけられる様にと研究しそれを一般に発表している。袋掛けの競技会等も設けられている。これを見てもこの町の青年達が人を頼らずに自分達でやろうとしているかがうかがわれる」と記している。
本田さんは末尾にこう記している。
今度このレポートを書くために、色々の梨に関する本を読んでみて、十八年間も梨によって養なわれながらも、果樹に対する何の知識も自分が身につけていないことを知らされ、恥ずかしい次第である。今後どのように大島の梨が発達していくかわからないが。成長産粟といわれている果樹栽培の前途は明るいと思う。今でも少しは梨を外国に輸出しているが、今後も輸出が増々ふえ、又加工等の方法を研究して今後増々梨の需要がふえ、大島地区が、みかん産地と同じような豊かな町となる事を期待して止まない。
大島に限らず周辺でも盛んになった二十世紀梨は、その後ほかの品種に変わりつつ、今ではリンゴの生産地としてもよく知られる。しかしながらわたしの住む周辺もそうだが、果樹が伐られ、耕作放棄地となっている姿も、今は珍しくない。本田さんの時代からほぼ60年、まだまだ果樹栽培地として知られる地ではあめるが、その時代の人手不足が、さらに進んだ姿が「今」なのかもしれない。
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