幸橋の改修と同時に、足羽川では福井豪雨での被害を受けての堤防改修も行われていた。今では工事も終了し、堤防には旧堤防時代からの桜(右)と、古い桜の伐採後に新たに植えられた桜(左)がある。将来は、右側の古い桜もなくなり、左側の桜へと世代交代していくという。
さて、この幸橋南詰付近に、幕末・明治の福井を代表する由利公正(ゆりこうせい(1829-1909):三岡八郎とも)の家についての石碑と案内板が新たに置かれている。
三岡八郎が生きていた幕末の頃、幸橋はまだなく、福井城下へは九十九橋のみが唯一の橋であった。三岡は1861(文久元)年に御奉行役見習、翌年に御奉行本役となり、この辺りに役宅を与えられたという。また三岡はこの頃、役人に対し新たな橋(幸橋)の必要性を強く訴えおり、当初は福井城の城郭の観点から反対されたものの、架橋が許可され、1862(文久2)年に木造の橋が完成した。この新しい橋は、人々から大いに喜ばれ「幸橋」と呼ばれたことから、以後この橋の名前となっている。
なお、三岡は福井藩での業績もさることながら、かの坂本竜馬(土佐)や、幕末の政事総裁職に就く松平春嶽の政治顧問として招かれた横井小楠(熊本)とも交流があり、彼の住まいを訪れたという。
由利公正自身は、幕末において五箇条の御誓文を発案(最終案は桂小五郎(長州)、福岡孝悌(土佐)が修正・加筆)し、明治時代に新政府の参与(金融財政政策)を務めている。また、東京府知事(第4代、1871-1872)の頃には、防火対策として銀座通りを整備するなど、東京の都市計画にも関わっている。
残念ながら、跡地自体は明治33年~44年の河川改修工事により川の中に消滅し、じかに見ることはできない。しかし、この辺りに福井を代表する偉人の住まいが確かにあった、ということを示しておくことは、後世に伝えるためにも重要なことであるだろう。
想像以上に、深い歴史をもつ幸橋。新たな幸橋は、これからどのような歴史を紡いでゆくのだろうか?
・参考:幸橋のあゆみ(福井県土木部都市整備課,福井県福井土木事務所都市計画課)
さて、この幸橋南詰付近に、幕末・明治の福井を代表する由利公正(ゆりこうせい(1829-1909):三岡八郎とも)の家についての石碑と案内板が新たに置かれている。
三岡八郎が生きていた幕末の頃、幸橋はまだなく、福井城下へは九十九橋のみが唯一の橋であった。三岡は1861(文久元)年に御奉行役見習、翌年に御奉行本役となり、この辺りに役宅を与えられたという。また三岡はこの頃、役人に対し新たな橋(幸橋)の必要性を強く訴えおり、当初は福井城の城郭の観点から反対されたものの、架橋が許可され、1862(文久2)年に木造の橋が完成した。この新しい橋は、人々から大いに喜ばれ「幸橋」と呼ばれたことから、以後この橋の名前となっている。
なお、三岡は福井藩での業績もさることながら、かの坂本竜馬(土佐)や、幕末の政事総裁職に就く松平春嶽の政治顧問として招かれた横井小楠(熊本)とも交流があり、彼の住まいを訪れたという。
由利公正自身は、幕末において五箇条の御誓文を発案(最終案は桂小五郎(長州)、福岡孝悌(土佐)が修正・加筆)し、明治時代に新政府の参与(金融財政政策)を務めている。また、東京府知事(第4代、1871-1872)の頃には、防火対策として銀座通りを整備するなど、東京の都市計画にも関わっている。
残念ながら、跡地自体は明治33年~44年の河川改修工事により川の中に消滅し、じかに見ることはできない。しかし、この辺りに福井を代表する偉人の住まいが確かにあった、ということを示しておくことは、後世に伝えるためにも重要なことであるだろう。
想像以上に、深い歴史をもつ幸橋。新たな幸橋は、これからどのような歴史を紡いでゆくのだろうか?
・参考:幸橋のあゆみ(福井県土木部都市整備課,福井県福井土木事務所都市計画課)