役所 信太のひとりごと。。。(カウントダウン365×4→0)

旅先で感じたことや報道など私的に思うこと

いつもながらの考え事・・・、いじめ犯罪の境界線、原発デモに潜む人の性質など・・・

2012年07月21日 21時58分59秒 | Weblog
今日は音威子府の駅からフラフラと散歩中。

誰もいない道をただ歩くだけの散歩。

今日は蒸し暑いからか

虫が多いような気がします。

なんだか憂鬱です。
そんな中
地元の小学生でしょうか

“こんにちはぁ~”

とあいさつの声をかけられる。

一瞬で
気持ちが変化するこの魔法の言葉・・・。
田舎の子供たちは
どこに行っても
知らない人でもあいさつしてくれる。
四国の田舎町でも
北海道の田舎町でも
沖縄の田舎町でも。
都会ではありえない習慣です。

都会ではまず
不審者扱いされるか
無視されるのが普通。

このあたりが田舎の素晴らしさです。

まぁ
不審者の異常行動の抑制にもなるのも事実ですが・・・。

こういったことは学校で教えるのでしょうか
それとも親でしょうか。

学校だったら
全国共通にしてほしいものです。

とても良いことだから。

もし学校の先生の指導だったら
こういったことも
評価の対象になるのでしょうか。

そういえば、
この“評価”という言葉・・・

かなり奥が深い言葉だと私は思います。

なぜなら
世の中の人すべてが
この“評価”という言葉に対し
かなりの恐怖を感じていると思うからです。
この“評価”を下げてしまうと
人生のすべてが否定され
そこで終わってしまうかの如く
人々は感じているように思えるからです。

だからでしょうか
“評価を下げることを防止すること”
に対し
全身全霊精神を傾ける傾向にある。
評価を下げれば
一生の恥だと思うのでしょうか
その羞恥心と、
そこから派生する批難されるという恐怖
これらの感情がその源なのでしょう。

多くの人々を支配するこの
“評価を下げないように防止すること”への情熱は
どこの世界にもあることで
普通の人間なら
誰でも存在しているものだと私は思います。

しかし、
その程度がはなはだ異常をきたし
その異常が積もり積もって
最悪な方向に向いているのではないでしょうか。

人ならだれでもミスをするものなのに
一度ミスをして
もし評価を下げてしまう様なことがったらと
隠ぺい、言い逃れ、嘘、誤魔化し
他への転嫁、責任放棄が蔓延し
そこに全集中力が向いていること
それにも気付かず自己正当化へ邁進、
最近の多くの事象が
この異常な情熱の向け方に
起因しているような気がしてなりません。
その警鐘を鳴らします。

ところで、
先日からのテレビや新聞での報道・・・。
原発反対集会、
大津のいじめ自殺問題、
小沢氏の新党結成問題を取り上げています。

中でも
大津の教育長や校長先生のインタビューが
無性に気になってしまって
この事件に関連した成り行きを見届けたくなりました。
亡くなったお子さんには
安らかに眠ってくださいとしかいいようがありません。

ただ、
この事件で
“いじめ”という言葉が出てくるたびに
私にはどうしても違和感があって
馴染めないのです。
なぜなら
10年も
20年も前から
学校内で存在するいじめの問題、
こういった自殺事件が起こるたびに
世の中では、
報道がエスカレートし過剰に意識し
今後の対策など
どう行政から出てくるか、
今後の成り行きを見守ることなく
いつの間にか
注目度合いは薄れ消え去ってしまい
また何年かして浮上してくることを繰り返している。

そのたびに言われる“いじめ撲滅”ということば
軽くてしょうが有りません。
私は残念でなりません。

いじめがなくならない根本の原因は何なのか・・・。

“いじめ”
という言葉だけが独り歩きして
根本的なことが見落とされるのでしょうか。

言葉の定義としては
「子どもが
 一定の人間関係のある者から、
 心理的・物理的攻撃を受けたことにより、
 精神的な苦痛を感じているもの」
というのが一般的だったけれども最近は、
「自分より弱い者に対して
 一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、
 相手が深刻な苦痛を感じているもの」
といわれるようになった。

また、
いじめか否かの判断は、
いじめられた側の立場に立って行うものとしている。

ここで問題になるのは
苦痛の程度。
苦痛を感じる程度はかなり個人差があり
外傷や恐怖感を覚えるような心痛でも
“犯罪”に該当するかは
その時の裁量にゆだねられる場合が多い。。
結局、
“いじめ”と“犯罪”の境界線は、
非常に曖昧なものだと思います。

こんな曖昧な基準に沿って判断されるなら
本当に苦しんでいる被害者側にとって
救済が必要な措置が遅れる可能性が高くなる。

法律は
厳格な基準に準拠しなければならないことはわかっていますが
こんなことで犯罪に該当させられないならば
外傷を負っても曖昧に片付けられ
いつになっても厳しく罰せられない。
いじめはなくならない。

このことは後で触れ直すとして
もうひとつなくならないついでに
人間の性質がある。

人間の性質に
「サディズム」と「マゾヒズム」がある。
そのため
強いサド的性質を持った人間は
欲望の追求の一部になっているからです。

このことを考えると
「失くす」のではなく
減らす方向に持って行くべきです。
それには
エネルギーに満ちた若い世代の豊潤な意欲を
「興味」と「憧れ」に持っていける方向性を見出してあげることが
重要だと思うのです。
エネルギーの消耗を
そこに持って行かせるべきなのです。
だからこそ
大人は魅力的であり
憧れられる人物ではないといけないのです。

テレビでの大津いじめ事件の報道を観ましたが
保身と言い訳に終始している大津の校長や教育長の発言は
すべての生徒の信頼感を削ぎ落し
教育者への
大人への
失望に変えてしまいました。

学校や教育委員会といわれる組織も単に行政の一部です。
しかし、
子供に対する教育を目的にしている場ということを考慮すると
すべての人が神聖視し
特別な場所という認識を持つことは自然な成り行きで
学校や教育委員会を
崇高な組織と勘違いするのは無理もありません。

学校(公立)側の先生は
「私は職員で単なるいち公務員だ」との
認識を示すことでしょう。

そのズレが
主役であるはずの子供を置き去りにして
“いじめと犯罪”を曖昧にし放置し
面倒な問題とまで考えてしまう傾向を
助長してしまっているようにも見える。

また、教育委員会など
行政庁の諮問機関で
事務方の教育総務課や社会教育課などを束ねる教育長がいて
その第三者の監視役の意味合いで
地元の教育経験者や人権啓発の専門家など
数人のおっさんやばばぁの集まりにしかない。

それがいつしか
ものすごく偉い人たちの集まりという具合に
崇め奉られてしまった。

今回の大津市の問題で
尾木先生のような教育評論家が
第三者委員会を結成し
いじめに対しどういった対応をして来たのかなどを
審査するらしいが
おかしな話である。
教育長をトップに
行政機関として事務方があり
その事務方の監視、諮問役の役割を果たすべく
教育委員会があるのに
その上に
どうして第三者機関を置く必要があるのか
私には不思議でならない。
事実上、
教育委員会が機能していないことを
行政組織の方が
認めた形になっているということか。

無能で役に立たないと
レッテルを貼ったのならば
仕事をしていない訳で
教育委員は
報酬をすべて返金するべきでしょう。

いじめの問題を
生徒や生徒の親、現場の先生の対応など
吟味して今後に生かすことは大変大事なことです。
しかし、
何十年も前からずっと同じようなことが繰り返され
自殺者が報道機関に取り上げられたときだけ騒がれる現状
これを何とかしないと
明日も明後日も
1年後も2年後も
ずっと同じ繰り返しをする。

政府や行政機関の無能力にも
原発問題で出てくるエライさんも
学校教育のエライさんも共通して言えるのは
対応力のなさと
プライドの誇示なのか
ミスを怖がっているのか
地位の保身なのか
責任逃れが甚だしく
自分は悪くないという保身に満ちた対応に終始して
非常に見苦しいという共通点がある。

上記で最初に言った

多くの人は
“評価を下げることを防止すること”
に対し全身全霊精神を傾け
その羞恥心と、
そこから派生する批難されるという恐怖から
逃れることに終始するという性質です。

機能不全に陥った組織は
硬化が始まり
循環や代謝がなくなりいずれは死滅する。
こういった腐敗は
長くは続かないだろうけど
不顕性病魔のごとく内部でじわじわ進行し
悪化が最高点に達し
一気に噴き出し
その時の世の中の人々が
えらく迷惑する可能性がある。

震災の反原発派が掲げる
将来のため、
子供のためという言葉を使うならば
やはり
一度壊して再構築する必要は
早急にあるのではないでしょうか。

既得権益があって
保身に走りたいと思うのは人情かもしれません。
家のローンや
今の贅沢な暮しを捨ててまで
火中のクリを拾うような真似は普通はしません。

やっぱり無理なことなのか・・・。

そして
別のインタビューで聞いたのですが
ある大津の先生の話、
学校の先生としての仕事以上に
他の仕事が山積し集中できないと
言い訳していました。

どこの職場でも
そんな言い訳は存在するし
どうしようもない馬鹿な大人も多い昨今
業務が増えることは
仕方のないことではないでしょうか。

以前は
学校教育の現場では
50人の生徒が1つの学級を作り
運営されていました。

中に必ずぐれた問題児が2人~3人はいました。

他の約47~48人の生徒(約95%)は
いたって真面目といわれる問題を起こさない分類に
はめ込まれ
実際に問題行動は起こさず
卒業して行くのが常でした。

しかし
顕在化しないからといって
そのことが
本当にまじめな生徒ということなのでしょうか。
中には
不良の2~3人を見て
いつも先生にかまってもらって羨ましい
と思っていた子もいたのではないでしょうか。
中には
問題行動を起こすことを
頭では想像できたけれども
怒られる不安と恐怖から
我慢していただけの子もいたのかもしれません。
中には
もっと自分に注目してほしい
と思っていた子もいるかもしれません。
中には
内申書のために
言わず・聞かざる・見ざるを
演じていたただけかもしれません。

そんな子供たちが
何も問題行動を
その時に実際に起こさなかっただけで
心の中では
失意に似たもの葛藤があったのかもしれません。
何らかの我慢が働いたため
顕在化しなかっただけかもしれません。

彼らの我慢の中に
学級は営まれていたのかもしれません。

そのことに気が付いていた教師がどれだけいたでしょうか。

きっとどこかで
サインを出していたはずです。

“自分は真面目なんかじゃない、
 あいつらみたいに目茶目茶やって先生と話したい”

“本当は自分も注目されたい、でもできない、
 自分はどうしたらいいのだろうか”

ちょっとしたアドバイスで
目からうろこが落ちるのも子供の特徴なのです。
校則に従い服装が学生らしく
問題を起こさない子が
まじめな良い生徒とするなら
ほとんどの生徒は
それを演じているだけで
多くの生徒は
現状の闇の中にいる自分が不安でしょうがなく
何らかの
“ヘルプ”サインを出していたはずなのです。

体は大人に近づいているのに精神が追い付かず
未熟を痛感させられる
うまく成長したいのに
先の行くべき道がわからず
表現の仕方も考え方もわからない
だから不安になって来るのです。
闇の中に入ったような錯覚に陥るのです。

そんな生徒たちを
さらりと受け流してしまう教師・・・。
演じているだけの真面目を
大人に都合よく解釈し
何の問題もないと
平然と看過している教師が多く存在する。

上記でのインタビューでの発言のように
本当に
「山積したその雑用がなかったら
 もっと対応できた」
と言い訳している教師達が
大津のような複雑ないじめ問題に対し
うまく対処できたのか
私には疑問です。
否、
私には無理だと思います。

私が今まで見てきた
“できる”人間は
言い訳はしなかったから。

時間は作るもの
あとは他人をうまく活用していました。

今回の事件を見てみると
蜂を食べさせたとか
お金を盗んだとか
家を荒らされたとか
いじめの域を超えた“犯罪”といっていい事象が
多くアンケートにあったとのこと。

その情報を生かせず
信憑性を疑うなどと
言い訳し、
取り上げなかったところを見ると
情報処理能力もなければ解決力もない。
ならば、
刑事事件の可能性があるとして
どうして警察に相談しなかったのか。
警察と連携して対処しなければいけない事例ではなかったのか。
現場の教師だけでなぜ囲い込むのか。
警察沙汰をなぜきらうのか。

警察はミス(犯罪)を犯した者が関わる場所
そういった認識があるのでしょうか。
私など
落し物の届け出で毎週警察に行っていたので
会計課などの事務職員とかなり親しくなりました。
彼らも普通の人間です。
悪いことだけが警察の関わるお仕事ではありません。
しかも悪いことをして警察という組織のお世話になっても
罪をつぐない反省する期間
またはその代償を支払うことで
今の社会には更生が認められています。
どうしようもない悪人は存在しますが
多くは更生できて
社会復帰していると私は思います。

それを認めないならば
学校教育は
ミスを許さないという非常に厳しい組織になって行くと思います。
未熟な子供だからこそ
教育があって
勉強していくわけで
そこには
未熟ゆえの失敗や誤解が数多く生まれ
失敗を繰り返す。
その失敗を糧に
良い方向に修正して行くことが
本来の教育ではないでしょうか。
そして
度を越した行いには
警察や裁判所といった公の機関で
社会的制裁が加えられることも
躊躇してはいけません。

大人という立場にある教職員は
手本にされるべきであって
決して友達ではない。
教師と生徒が信用できない関係ならば
公の教育機関の意味があるのだろうか。
少なくとも
教師の対応を見て
大人という存在の対応の仕方を認識するはずです。
そんな時に手本になるはずの行いが
保身と不誠実では
信頼関係など出来るわけがない。

“信用してほしい”
そう言葉だけで訴えても
本当の信憑性は保身からは生まれません。

組織が機能せず
問題を学校の対応だの
教育委員会の対応だの
文部科学省の役人だの
責任のなすりつけ合いをしても
亡くなった子供は戻ってきません。

長期間機能していない組織に何を言っても無駄というわけでしょうか。
潰して解体して再構築するしかないのでしょうか。
学校教育が何を目指すか
それは
「憧れ」と「興味」の持てる人が目の前にいるということ
人を大事にしない組織などいずれはなくなる。
いじめがないことの報告書が
評価を上げる対象であったり、
評価を下げないための研究レポートなど
こんな教員の仕事が
本当に子供のためになるのでしょうか。
そんな組織などいらない。
無用です。

将来ガンダムを作りたい
そこからロボット工学の学者になった人もいるように
ナサにあこがれ
宇宙天文学に興味を持てばいいし
オリンピック競技に興味を持って審判の道に興味が行く子もいるでしょう。
そういった興味が、
憧れが、
人を動かすエネルギーになること
誰もが知っていることなのに
それをうまく学業に持っていけるようにすればいいのに・・・。
物事を知るということは楽しいことなのに・・・。
なぜそれが勉強ということばに変わると
人は楽しくないことになってしまうのだろう・・・。
そこから改善してほしいものですね。

大人が
ミスを認め謝罪する姿を見せ
そこから再度再生し
立ち上がる姿、
努力し続ける姿を見せることも
大事ではないでしょうか。

ところで
そこで思い出した反原発の話・・・

政治家も専門家もみなさん評価が下がらないように
頑張って都合の悪いことは隠ぺいし騙し
ごたくを並べてはりました・・・。
それに嫌気が差し
信頼性ゼロ
なのに強引な大飯原発再稼働。

原子力発電所の放射能漏れ問題での
国の行政機関や原子力保安院と呼ばれる付属機関
それに追随する組織などの危機管理のなさや
緊急事態での不手際対応と無能力さをさらけ出し
わからないなら
わからないなりに対応すればいいのに
プライドだけは富士山級に高く
言い訳と保身に走り
支離滅裂なことに気が付かず終始し
収集が付かない状態に陥れた。
なのに・・・。
だから暴動デモが起った・・・。

同じように
民主党政府の政治家の無能さも
今回の政権交代で期待が大きかっただけに
非常に残念としか言いようがない。

再度の話になるが
民主党が分裂してしまい
小沢氏が
消費税法案に反対し
新党を結成してしまいました。

この名も“国民の生活が第一”
なんと滑稽な名称でしょうか。
震災当初から1年ずっと地元にも帰らず
傍観していた政治家が
国民の生活第一など茶番も甚だしい。
剛腕といわれる彼ならば
震災の初期段階から
地元で震災復興庁のような機能を有する部署で
剛腕を発揮すればよかったのですが
それができなかった。
岩手のみならず
東北の支援者は
誰もが期待したはず。

この裏切りは万死に値する。

そんな政局をやっている最中に
大飯原発の再稼働はすんなり始まった。

それに反発する形で
首相官邸に集まった10万人のデモ隊
報道では
原発をすぐに止めるようにと
集まった人たちは主張しているようですが
私には
このデモが妙な違和感が湧き
あくまで個人的な意見ですが
残念にも思えるのです。

なにか
主義主張が本来あるべき方向ではなく
単なる善か悪か
白か黒か
二分するだけの暴動にしか見えないのです。

本当に国の将来を憂いて、
建設的に物事を考え
現状・今後・今までの経緯も踏まえ
中間的な考えを持った人や
原発ゼロを念頭にしているものの
今回のデモには
やや反対的な立場の人など
「彼らを受付ない」
としている様にも見えるのです。

3・11の震災後
「絆・絆」と
日本中に
その言葉が流れ
復興に向けて一致団結しているような風潮が流れました。
現状を鑑みると
1年以上がたっても
20年は処理にかかるといわれる瓦礫の山が
未だに受け入れ先も処理する焼却炉も決まらず
放置状態が続いている。
それに加え
依然として仮設住宅や避難所で暮らす人が何万人もいて
先行きが見えない状態が続いている。
復興住宅や復興都市の方向性すら
具体化されず、
補償や救援も
被災者全員に行きわたっていないと聞く。
本当ならば
デモが起こるなら反原発ではなく、
先に
政府の復興の遅れを非難するデモが
起こってもいいのではないでしょうか。

本来なら
白黒つける反原発ではなく
「今までどうして原発が推進されてきたのか」、
「廃棄する処分場も決まっていない放射性廃棄物の
 最終処理を棚上げにし
 危険と分かっていたはずなのに推進してきた推移」、
「もし、
 原発をなくすならば
 どういう方向性で
 代替エネルギーの政策を行っていくのか
 過渡期に起こる電力不足に対応するため
 どのような政策を行い
 その間のために民間はどう対応していくのか
 産業構造は
 どのような構造に変わって行くのか」
など
建設的な議論と
実態ある行動計画と指針を
積み上げていかねばならないはずです。

そのことがなされていたでしょうか。
震災直後
テレビでは
毎日毎日いろんな専門家が出演し
模型などを使って
原発の内情を解説していました。

ほとんど知識のない民衆はそれを信じ
ほとんど知識のないマスコミも
にわか専門家を信じ
不安を煽る方が視聴率が上がるからか
本当は
100のうち30くらいの信憑性しかないのに
90くらいの不安を煽り
反論は
ほとんど流さず
新聞紙面でも100のうち
見出しが「爆発」や「メルトダウン」など
危機感を煽る見出しが
所狭しと並んでいました。

間違いだかどうかもわからず
核爆発といった報道もありました。
訂正記事は
ごく少量で気が付かないような極小な場合もありました。
危険をあおり
扇動した責任はかなり大きいのではないでしょうか。

建設的な議論はほとんど行われず
一部の冷静な専門学者が沈着な判断をしても
時の時流に合ってないと判断されたのか
表にほとんど出てこなかったように思える。

そういう自分も
震災直後は報道にかなり煽られた。
かなり厳しい意見も言ってきました。
しかし、
今冷静に考えるなら
原発の行方は
今日明日には終わらない。

福島原発の4号機が
先月2回の事故が起こって
水温が上がったと報道されました。
去年12月に
冷温停止になったと
安全宣言が政府から出ました。

それなのに
今回のような状況が未だに続くということは
原因がまだはっきり分かっていないということと
今後の見通しも
綱渡り状態だということ。

そういったことを
訂正されることもなく
隠ぺいするという
誤った方向に流れている気がします。

ここでも
自分の評価が下がることを防止することについて
プライドか何かはわかりませんが
そういったことに対して
かなりのエネルギーを使っているようです。

何度も書きますが
評価を下げることを防止することについて
躍起になるのが
世の中の人の普通の心情だとすれば
このことがらも
普通の成り行きなのかもしれません。
しかし、
その感情を改めなければ
この問題は
解決には向かわないような気がします。

大津のいじめ問題と同じく
それが原因ではないのでしょうか。

いじめが
なくならない構造も
根本に流れる人間の性質において
同じではないでしょうか。

いつの間にか
忘れ去られ沈静化し
忘れたころに
「福島の4号炉あたりの水温が上昇・爆発」
と記事が出てデモ再燃とか・・・。

本当に
議論の建設的な積み上げが成されて
デモ隊に参加しているならまだましですが
多くは、
反対しなければ
評価が下がる・・・
そう思っているのではないでしょうか。
大変失礼で申し訳ありませんが
そう思ってしまうのです。

自己の評価が下がることを防止することに
躍起になって
物事の本質を見逃しているのではないでしょうか。

そんなことを考えて歩いていると
日は傾き
夕刻を迎えるのでした。



。。。