猫と共に余生を穏やかに過ごす

猫との生活記録が主です。
サブでヘルニア闘病記事も有りますが、徐々に趣味の記事へと移っていきます。

【少しだけ追記しました】【発行101周年直前特別企画】義士大観 義士會出版部 大正十年四月二十四日発行 非賣品

2022-04-23 21:15:05 | 趣味・興味

西暦で1921年の発行ですので、今日で発行100年と364日ということになります。せっかくなので明日投稿したら発行101年記念日でちょうど良い、と思われるかもしれませんが、本の箱の修理相談は今日の話でしたので、忘れないうちに書いておきたいと思います。アンドロメダ・ストーリーズも読みたいですし。相談の結果、無理に修理しないで、本の箱を別の箱か何かで保護して、今日も輸送用に用いた綺麗な刺しゅう入りの布で丸ごと包んでおいた方がいい、という話になりました。糊とかで素人修理しても、みっともなくなるだけですし、これ以上、箱が痛まないように基本的に手を触れない事になりました。

まずは本体です。天と地の二巻組です。上辺に、作成中のつばさ用藁ベッドが見えます。表紙などには金糸、金箔が用いられています。説明が遅れましたが、赤穂四十七士のまとめ本です。

これの上は解説本、下は付属資料で、地の巻末の内容をコピーかなにかして、粗末に綴じたものです。これらは私の老後の楽しみとして大事に取っておきます。これのうち、天地二巻を収める箱がボロボロで、ご近所さんに修理の相談をしたというわけです。中身を少しだけお見せします。

題辞や序文その他を書いた方々の紹介です。なにやら知ってる名前が三人ほど載っています。

最も有名だろう一枚を載せて終わりにしたいと思います。

なお、この本は100年前の本ですが、それなりの数が日本には現存しているみたいです。国会図書館にも、その関西館にも所蔵されています。誤解の無いように申し上げますが、それほど高価なものではありませんでした。運が良かっただけです。本体は四千円くらいでした。解説と付属資料は捨て値で、ほとんど送料のみでした。まあ、本体も捨て値でしたが。そうそう、包んだ刺しゅう入りの布も載せておきます。これに包んで保管します。物凄い刺繍ですが、絹ではなく綿です。中に何かが入っている様子が判ると思います。ボロボロになった箱が入っています。みっともないのと破損の恐れがあるので箱の撮影はしません。

本書は手放す予定はなく、相続に回します。

★以上で終わろうとしたのですが、ご近所さんから突然、板を貰いました。畳んだ状態の箱にぴったりサイズです。本当に左右2㎜ずつくらいの余裕があるだけです。手前に見えているのが箱の表紙です。箱はひしゃげて背後に見えています。板に乗せた状態から空き箱でも被せて布を掛ける形になりそうです。

写真ではひしゃげた箱の端がはみ出ているように見えますが、実際には、ぴったりと板に収まっています。遠近法のトリックです。指先でちゃんと確かめました。

★★追記 奥付を載せておくのを忘れていました。

あ、もしかして、関東大震災や戦災で多くの部数が焼けてしまったかもしれません。そうだとすると、貴重品なのかもしれません。そして、よくよく見ると、第一東京市の牛込区とありますね。

 

★4/26追記

ネットで少しだけ調べてみました。義士大観には少なくとも四つのバージョンがあります。まずは大正九年発行の十冊組バージョンです。オリジナルであるためか大変な高値で取引されているようです。次に私の持っている大正十年発行の天地二巻本黄金バージョンで、取引価格は大正九年の物ほど高くはありません。そして昭和四年ごろ(ちょっと曖昧です)発行の天地二巻本緑色バージョンです。最後に最近発行された十巻組くらいの小型バージョンがあります。古い本を取引する時はこのようにバージョン違いに注意しないといけませんね。大正九年バージョンは高すぎて身の丈に合いませんので、欲しいとは思いません。今の物で十分、満足しています。


【完結?】2022-04-23 百億の昼と千億の夜 光瀬龍著 感想になっていない雑文 その5

2022-04-23 19:18:43 | 趣味・興味

★一番下に訂正を載せています。

「第六章 新星雲紀」、添文は「かがり火のもと、夜はつどえり。夜は旅人の胸に入りて そのおそれとはじらいのしるしをかかげぬ」です。終盤ですし、今日は時間があるので、本日中に読み終わりそうです。次に読む作品も決めています。記事にするかは決めていませんが、待望のアンドロメダ・ストーリーズの漫画版です。しかも大型本(雑誌型)を入手できました。弥勒像と阿修羅像をミックスした例の像がどう描写されているのか、イルの描写がアニメ版と違うという噂は本当なのか、などなど、今から楽しみです。それでは感想に移ります。オリオナエはいつの間にやら活動可能になっていてほっとします。かなり酷いやられ方をした描写がありましたので。シッタータ視点で語られる事が多いようです。変化の時代を新星雲記と呼ぶ、というのは何だか痺れますね。正に新世紀です。ちなみに星雲賞というネビュラ賞をもじった賞があることを以前紹介しましたね。ご興味のある方はぜひ両賞を受けた作品群からSFの世界に入っていただけたらとても嬉しいです。それにしても物語が終わりに近づくのは少し寂しいような気もしてきます。再読においては、あらすじが判っているので当然、細部に目が行き届きます。本作のような衝撃の大きい作品では、ついつい話に圧倒されてしまって、細かい表現をなおざりにしてしまう私の性格に、再読はとても合っていると感じました。

早朝の中神社で特記事項がありました。お供えに置いた小さなお酒がないのです。一番に考えたのは誰かが盗った事です。しかし、この地域でそんなことをする者がいるとは非常に考えにくいです。地域と言えば、何らかの地域の禁忌に触れて撤去されたのかもと次に思い浮かべました。中山間地としては非常に開明的なこの地域ですが、私の知らない何かがあるのかもしれません。派手でポップな虎の干支柄がよくなかったのか、もしかして置く場所が不味かったのかもしれないと観察すると、拝殿奥にある奥の扉が目につきました。あの扉の中に入れるべきだったのかもしれない、と思い普段は足を踏み入れない奥へと進みました。すると一番奥の賽銭箱の中に以前私の置いたお酒が転がっていました。風雨のせいで転がり落ちたのか、そう言えば参道の小さな松ぼっくりのようなものが大きく数を減らしていると気づいていたはずなのに、と自らの観察力と統合力の無さにガッカリしました。同時に自分は改めて俗にまみれているとも痛感しました。まっさきに思い浮かべるのが泥棒かよ、という点に人間としての格の低さを感じました。まあ、出家した僧侶ではないので、そこまで思いつめてはいませんが、とにかく発想が貧困なのは事実なようです。探偵にはなれそうにもありません(笑)。まさに迷探偵とはよく言ったものです。

脇道にそれたついでに、食事時につばさがいつもおやつをおねだりしてくる件について、少しだけ補足しておきます。私は結構、スパルタです。「草テチかちゅ~」といつも書いていますが、たまには丁寧に説明をしておきます。以前決めたこの略称は、最強の整腸剤である猫草に口内炎の薬であるテラ・コートリル適量と風邪対策のすり潰したチョコラBB+を十分の一粒分、それにかつおぶし(最近省略気味)を振りかけた後でちゅ~るを適量かけてよく混ぜて作るおやつです。工程順に略称を決めたので、最近は工程を間違えることがほぼありません。たとえば、先にチョコラBB+を振りかけると、テラ・コートリルを乗せる時に薬剤にチの粉が付いていとわろしなのです。ちゅ~るを最後にかけるのも同じ理由からです。で、スパルタというのはちゅ~るの量です。猫草は余り多量に与えると体に悪いはずなのですが、ちゅ~るの量もギリギリに少なくして薄味に慣れさせています。ちゅ~るを突然食べなくなる猫が居ると聞きます。できるだけちゅ~るに飽きる時期を後ろに伸ばすために、与えるちゅ~るの量は極限まで減らしています。これを書いていて、はっとしました。重篤な持病を複数持つつばさはあと何年生きられるのだろうか・・・。つばさは数回、猫草を残すのですが、その度に床に落とした猫草を集め、裏返しにしてやるとまた食べることが多いです。草の裏にちゅ~るが残っているためです。どうしても食べなくなったら少量のちゅ~るを足します。これを繰り返します。猫草をほどほどに食べたらその時点で中止します。あとはウインナーを少しだけあげて、これで終わりだよって言葉と手ぶりで伝えます。猫草小皿の整備のために霧吹きをすると、私の作業を眺めていますので、これが草終了の合図として認識しているのかもしれません。猫の事は猫しかわからないとは思いますが。そういえばプラトン=オリオナエはアテネでしたね。いい感じで物語に戻りたいと思います。

なんとも言いようのない虚しさしかありません。355ページ、首席、一緒に来る気配がないです。ここも改変なのでしょうか。しばらくで、第六章が終わってしまいました。主席は遂に来ませんでした。萩尾氏による大きな改変であることがはっきりしました。なかなか大胆で、良い改変だったと思います。ドラマティックにもなりましたし。ふたつの銀河の話も上手く組み込みましたし、しつこいようですが名作を漫画化する上で萩尾氏をおいて他にはなかったと言えます。

「第七章 最後の人々」、添文は「北方に柵あり。柵に符ありて曰く。宿星、これにかかるとき空、焼く。かならず憂いあり」です。もう読書以外の事、例えばwowsを間に挟む気持ちなんて起きません。昼ご飯がまだなのは体に悪いですが、なんだか食欲もありません。つばさは寝てて相手をしてくれませんし、トイレもしていません。残りは五分の一を切っています。読むしかありません。ありました、名セリフ「な、な、なにをするんだ!」。おいおい。やはりイエスのキャラは良いですね。阿修羅王による盛大なネタバレタイムが続きます。凄惨です。そしておそらくはクライマックスがやってきました。阿修羅王ですら恐怖を覚えるもの。いつのまにか主体はシッタータから阿修羅王に移っていました。主人公キター! 永劫の門。まさにゴルゴダ・オブジェクトです。あくまで個人の感想です。別に全ての願いをかなえてくれるわけではありませんので。382ページ、なるほど柵か、と言葉もなく、自分の表現力の乏しさに悲観する暇もなく、物語は進みます。無数のラミエルもしくは巨神兵に繋がるかのような、はたまたそれ以前にも多数あった細かい描写もすばらしいのですが、物語の言わんとすることが、ずっしりとした物理的な重みをもって、心にのしかかってきます。なんちゅう話を半世紀前に完成させていたんですか、光瀬先生。結局、帝釈天は漫画版だけだったと、この時点で断じて良いでしょう。萩尾先生による涙の演出も素晴らしかったと改めて思います。と思っていたところ、そうでした、ここで現れるのでした。漫画版は手元にありますが全く開いていませんでした。ですが、これは虚像か、心理攻撃か、記憶の中の過去の出来事なのか、漫画版を見る気が起きません。一神教から二神教へと思いは移ろいます。三人寄れば文殊の知恵。第七章が終わり、最後の目的地へ向かいます。

「第八章 遠い道」、添文は「旅人、去りしあとにつぼあり。村人、つぼを樹に懸く。(改行)旅人、もどりて言う。このつぼこそ汝らの故郷なり。と。」です。たしかに壺ですね。さて、結局のところ、帝釈天と涙の下りは萩尾先生の発案で決まり、という事がわかりました。いや、光瀬先生も噛んでいたかもしれませんけど、漫画版のみでのなかなか素敵な描写ということは確定ですね。いよいよ最後の章で、ここを終えると残りはあとがきだけとなります。追記部分とは一体どこなのか、非常に気になっていますが、とてもではありませんが私の記憶に頼ることはできません。これは以前所持していた版を買って、比較するしかないかもしれません。そこまでするか、と言われると、お恥ずかしながらするかもしれませんね。つばさが起きました。いや、寝ぼけているだけのようで、また熟睡に戻りました。夕方にはご近所さんに御願い事があるのですが、なんだかさっさと読むのがもったいない気がしてきました。ちょっとやることの順番に悩みます。陽が強くないのでベンチでタバコを吸ってきます。

ちょっとのめり込み過ぎたようです。家の周りのいつもそこにある豊かな自然や人の営みの有難さを強く感じました。これこそがこの作品の真価なのでしょう。井戸水を溜める外の巨大バケツに致命傷を発見しました。修理のタイミングはまだ先です。慌ててもしょうがありません。明日の朝には溜めた水はなくなっているでしょう。その時に補修を行います。水面で苦しんでいる虫を、何故か外に出してやりました。別に命を大切にとか思った訳ではありません。ただなんとなくです。普段は放置して絶命するのを待つ虫でしたが。また、色鮮やかな毛虫を裸足の先に見つけました。静かに迂回しました。さぞかし巨大な蛾になることでしょう。鳥に見つかるのは時間の問題のような気もします。準備は整いました。粛々と最終、第八章に進むことにします。

早速ですが、唖然としました。私が無謀にも空想し、書きたいと思っていたテーマがここには記されていました。呆れたことに、三十年以上前に見た夢の欠片を私はいまだ追い続けていたのです。具体的には書きたくありません。私の書いたものが完成することはないでしょう。見果てぬ夢というやつです。まずもって能力がない、更に時間もない、したい事が他に多すぎるし既に今後数十年間楽しめるだけの物品が家に揃いつつあるのです。人の寿命のなんと短い事か。出来る事だけをしていこうと心に留めました。その点、私はかなり、超のつく現実主義者なのです。

錫は銅との合金として青銅になり、鉄にメッキしてブリキになります。名称からの印象に反して毒性はなく、逆に滅菌効果があるとされています。純錫の酒器を製造する会社が富山県高岡市にあり、酒の味が変わるそうな。この仕組みは未解明とのことです。正倉院の宝物にもあるらしく、最後の晩餐の食器も錫製品だそうです。井戸を掘ると錫を投げ入れる地域もあったとか。貴重な情報もネットには転がっているものです。株式会社、能作をここにご紹介しておきます。フィクションを現実が超えた例かもしれません。テクタイトについても解明されており、隕石の落下、爆発により上空で作られた天然ガラスだということです。こうゆうことを書く点に私の現実的な一面が見え隠れしています。あまり重要な件ではないし、揚げ足を取るつもりもありません。ただ、事実はこうだ、と言いたかっただけなのです。現実は小説より奇なり、です。

話は壮絶な展開を続けます。瞬く間に時は過ぎ去り、ご近所さんからと思しきラインの通知音がしました。ほぼ読み終わりと同時でした。本書の帯にはこのように書かれています。2001年のフェアのようですね。

まったくもって同感です。二十二世紀でも、二十五世紀でも読み継がれていってもらいたいと願っています。

さて、念願のあとがきです。私の記憶を確認する時間がやってきました。438ページの二行目と三行目を読んで赤面しました。わたし、完全に無意識だけどパクってるやん! あちゃー、という穴があったら入りたい気分です。無意識恐るべし。同頁最終行、うわぁ、光瀬先生までも・・・。記憶にあったよりもずっと短いあとがきで、かなり驚きました。次のページの表現も、パクっている自覚があります。もうオマージュとは言えません。私もかなり重症のようです。さて、加筆・訂正は極僅かだということです。であれば、改訂前の物を入手する必要などない、と思われるかもしれませんが、そうは問屋が卸しません。重大な事実があります。私がオマージュした、例の下りが、あとがきから削除されていたのです。これに今、強い衝撃を受けています。光瀬先生の意思を尊重するならば、今更改訂前の物を入手して、ブログに書くというのは悪趣味極まります。それがたとえ3人ほどしか目にせず、流し読みで、該当部分にまで目を通さない事が明らかであったとしてもです。

お茶とタバコで落ち着いて、などとするまでもなく、私の腹は決まっています。道は一つしかありません。入手し、ブログには書かない。ファンとしては、これしか選択肢はありません。毛虫はまだ移動をしていませんでした。私の通り道なので、いつも使っている二本の枯れ枝をお箸のように使って、庭の草むらに放しました。あくまで、通り道の邪魔になるからです。さて、メルカリに行きますか。【完結。一応ですが・・・。】

★訂正

やはり記事は完結していませんでした。訂正があります。Wikipediaによれば、私の記憶違いによる間違いがありました。両先生の間の電話での相談で、正確には阿修羅王の性別を問うたのは光瀬先生の方でした。原作では、登場時に「少女」という記述があり、またWikipediaに、より正確だと思われる記述がありました。訂正します。

なお、Wikipediaには捨て置けない記述もありました。改訂前のあとがきを評して『早川文庫(旧版)にあった特異な「作者あとがき」』とあり、失礼な言い方ではないかと感じました。特異より特殊の方が適切ではないでしょうか。ログインして訂正しちゃおうかな。早速ですが、訂正してきました。

せっかくなので、ウェブ上の感想でも見てみます。「ライトノベルの嚆矢の一つ」とあり、ラノベってこういうのなのかなと思いました。ラノベは読んだことがありません。実は手元に1シリーズだけあります。平井和正氏の作品ですが。「日本SFの金字塔であり、ギリシア神話×仏教経典×聖書×量子力学をかけ算したような作品」とは完全同意です。100点満点で120点をつけている記事を発見しました。勢い余ってリンクを貼っておきます。

ttps://www.ehkmh.com/entry/Hyakuoku_no_Hiru_to_Senoku_no_Yoru

このhなしは、今どき通用しないらしいですが、作法として削っておきます。とにかく全面肯定の記事でした。

さて、次はアンドロメダ・ストーリーズの原作に取り掛かるのですが、その前に一つ、記事を書きたいと思います。ご近所さんに修理の相談をしてきたのですが、それは本の箱です。私としては珍しい写真中心の記事になります。「義士大観」という本です。


トイレ掃除について つばさ日記2022-04-23 

2022-04-23 03:54:25 | 日記

読書の感想が「つばさ日記」化している状態ですが、思いついたことはこのように記事にしていきます。タイトルの通り、つばさのトイレ掃除に関する短い記事となります。

一日に五回くらいでしょうか、トイレ掃除は。幸い、大も小も順調で、胃腸の調子は良さそうです。特に小を頻繁にしているのは安心材料です。とにかく腎臓が猫の弱点と言われており、寄付により、特別な研究所が設立されたのは猫業界では大ニュースになっていました。腎臓問題が解決したら、猫の平均寿命が20歳くらいにまで伸びるのではないかとも言われています。野良ちゃん達の避妊手術の件と並ぶ、猫業界での注目の話題なのではないでしょうか。

つばさを迎えて四か月半が経ち、なんとなくトイレ掃除の方法も確立されてきました。一言で言うと、トイレ掃除は荒っぽいです。猫スコップで乾いた猫砂を振るい落とす作業はもうしていません。周辺の乾いた猫砂丸ごと牛乳パックに落とします。これはもちろん猫類補完計画をしているからです。一階へ降りながら牛乳パックの中を振り回し、側面や底面にへばりついた湿った猫砂を離れさせ、大きすぎる粒を少しでも小さくします。この時に乾いた猫砂が活躍してくれます。外に出て平たい段ボールの上にパラパラと落とします。そして天日干しです。夜は軒下に段ボールを置いています。雨の気配のある日も同じです。晴れたらチャンスで日向に置きます。春になり日差しが強いため、あっという間にカラカラになります。ついでにバッテリーの切り替えをすると丁度いい塩梅です。裸足なので足の裏も刺激できます。

タイミングによっては段ボールの数が足りなくなるので、予備の中型トイレ二個を使います。日向に置き過ぎると劣化するので出来るだけ使わないようにしています。丁度良い平たくて面積の大きい段ボールを更に用意すればこの問題は解決します。乾いた猫砂は新品の猫砂袋に戻すこともあれば、屋内物置の中型トイレに溜めることもあります。気分次第です。メイントイレの猫砂減少が激しいので、何回か前に使ったパックに乾いた猫砂を入れて二階に持って上がることもあります。これは四、五回に一回くらいで十分です。たまに屋内物置の中型トイレにつばさはトイレをします。苦笑します。

大についた猫砂はサヨナラします。といっても猫草のお陰か、あまりたくさんの猫砂はついていません。小さな袋が無限にあるのでそれに入れて一回でゴミ出しコースに乗っけたり、大きな袋に溜めてからまとめて捨てたりと気分次第です。現在、大きな袋はなかなか壮観です。大きさはつばさの体格を超えてしまいました。写真は載せることができません。

以前にも書きましたが、つばさ特別区のメイントイレにはサーチライトが設置してあります。非常に猫砂の判別が楽です。たまたま余っていたのが転がっていてそれを転用しました。

しかし、こんな未明にトイレネタをせっせと書いているなんて、私は一体何をしているのでしょうか(笑)。ちょっとだけwowsをしてから読書に戻って夜明けを待ちたいと思います。なお、空は曇っていて、ようやく上ってきた月が雲から顔を覗かせている状態です。


2022-04-22 百億の昼と千億の夜 光瀬龍著 感想になっていない雑文 その4

2022-04-23 01:35:02 | 趣味・興味

前回の記事通り、午前四時前に起床しました。背中全体と左肩が硬いです。ゆっくりと伸ばしていきます。雨は上がり、月が顔を見せていますが星は見えませんでした。128ページに栞が挟んでありました。ああ、このシーンか、と思い出します。寝ている時、つばさから「髭ツンツン攻撃」がありました。つばさの髭の先が顔に微妙に当たり、ちょっと寝にくかったです。少し頭をつばさから遠ざけると、顔と枕の間に今度は左手を差し込んできました。何度か顔がつばさの方向に倒れ、その度につばさの左手を顔で強く枕と挟むことになり、はっとして頭の位置をずらす、という事を繰り返していました。あと、膨大な情報量の夢を見ました。懐かしい本の読書をしたために、過去の記憶が蘇っているかのようです。内容は短編映画3本分で、①香港マフィア風の何かの競争みたいな話、②鶴の恩返しの変形バージョン、③エヴァのラストの新バージョンでした。①は中二病風味、②は生々しいホラー風味の愛の話、③は新キャラまで出て来て、14歳のままの新生活が復活するという、テレビ版エヴァの「あったかもしれないもう一つの世界」に近いものの、非常に暗い印象の物語でした。あと何か重要なエピソードが抜けていますが、記憶の海の中に消えてしまいました。あっさり諦め、早く原状復帰をして読書を再開します。

第三章の続きです。ついに阿修羅王が登場、描写の端々に漫画の登場人物のような印象を受けました。光瀬氏は元々漫画化を視野に入れていたのではないか、と感じました。まさに小説の描写通りに漫画では見事に表現されていました。漫画版の感想でも取り上げたはずの「人間、孤独であるよりは悪とともにあった方がよいとみえるな」という印象的な台詞で締められる阿修羅王の「例え」が長い長い。まあ、それがまた良いのですが。小説全体では、三分の一はとっくに過ぎました。持ち上げられすぎの梵天王はあっという間に転輪王に捲られます。そして帝釈天が出てこなかったです。漫画版では二枚目でしたし、独自の追加だったようです。しかし165ページ冒頭のかっこ書きは気になります。龍樹ってナーガールジュナの事だったのですか。凄い当て字ですね。このような情報はネットでは見つけにくいかもしれないですね。安易に検索すると小説の楽しみがなくなりかねないので止めておきます。この第三章の印象はかなり漫画版に近いものに感じました。第二章が違い過ぎたのかもしれません。

「第四章 エルサレムより」、添文は「はじめにことばあり ことばはかみとともにあり ことばはかみなればなり」です。第三章でも少し感じていたのですが、第四章はより一層読みやすくなっています。文体が変わったのかとも思えるような変化です。逆に言うと、プラトン・オリオナエ編は非常に難解に書かれていたという事です。更に逆に言うと、第一章と第二章でとんでもないものを見せられ、その後、阿修羅王に魅せられて、読むのを止められなくなる、という形を意図して組んでいるようです。ちなみに第四章序盤は色々と良い勉強になります。漫画版では構成に手を入れていた事もわかります。そして最大の衝撃の事実が。漫画版の私の感想をお読みになった方はもうお気づきだと思いますが、ユダが判決前に姿を現さなかった事です。この時点で、ユダは漫画版のみの登場なのか、それで私はユダの存在を忘れていたのか、とも思いました。直後にこれも裏切られ、大きく地位や年齢を変えて(小説が元なので「変えて」は変ですが)登場します。立ち位置は微妙です。漫画版では途中で態度を入れ替えるという点もありますし、原作ではイエスに利用されはしなかった、程度には覚醒していたようですので。いずれにせよ、私がユダを忘れていたということは変わりがありません。小説と漫画版で大きく異なっているため、長期記憶に残りにくかったのかもしれません。漫画版は原作を一部改変するものだ、という事実を知っておれば矛盾なく両方のユダを受け入れ、覚えていたかもしれませんね。第四章末にも、ノンフィクション風の解説が書かれており、不気味な緊張感を感じさせて良い味を出しています。ここより前にあったものも効果的でしたね。いったい、光瀬氏がどこまで本気なのかは判断できませんが、このように捉えることも出来て興味深いのは間違いありません。この時点で小説は5分の3近くになっており、漫画版よりも後半が駆け足になることが判ります。逆に言うと、漫画版は後半のロードムービー感をより丁寧に仕上げたと言えそうです。

「第五章 喪える都市」、添文は「死者の水辺に在りて問う。汝、いずこに帰せんとするや、と。」です。生き残っている人を見て、ふと私も考えました。書きたい事だけ書きますと、人生、社会的財産、享楽的態度、運命、継承などについてです。突然何を、と思われるでしょうが、頭に浮かんできたのだからしょうがないです。歳を取るのは素敵な事です、と中島みゆきも歌っていました。感想に戻ります。漫画というメディアの強力さを感じ入りました。小説を読んでいるはずなのに、漫画のシーンで補完されるのです。横に置いて見てる訳ではありません。漫画版を記事にした時の記憶が残っているのです。お時間ある方には、小説、漫画、小説二回目、という順番をお勧めしたいです。初見初読時は新鮮で大切ですし、再読にも価値があるなぁと思いました。さて、描写が目に浮かぶといってもそれには限度があります。漫画版で描写されてなかったものは文字から自力で想像するのですが、それが物凄いものになってきます。空間を曲げたり、異空間を挿入したりしないといけないのでなかなか大変です。この想像力こそがSFの楽しさに繋がるのだと思います。第五章が終わり、残りは4分の1くらいになりました。このあと、帝釈天に果たして出番はあるのか、とても気になります。

日付が変わりましたので、投稿します。