私のひとり言

出来事、出会いなど気の向くままに!

アベノミクスこの一年

2013-12-03 08:56:04 | Weblog
今年もあっという間に12月になった。そこでこの一年を振り返ってみよう。この一年で政治も経済も様変わりをした。安倍内閣誕生後、まず「デフレを止めよ」の大目標の元、異次元の(安倍へ総理の言)金融緩和を実施した。それではなぜデフレは悪いのか。少しだけ書いてみる。
デフレ下では需要が減少(消費・投資・輸出)し、雇用も減少する。失業率はアップし、人件費を削減するために非正規社員の比率が増加する。当然格差が拡大する。デフレは1998年から始まった。当時失業率は3%だったが、2002年には5%にもなった。
実質所得は、2011年は2000年に比べて8%も減少、実質賞与は21%減少した。消費も8%減少し、パイは減少している。
個人消費で減ったモノは、①被服・履物27% ②交際費20% ③教育14% ④娯楽7%となっている。このような状況の中では、今後もデフレが続くと予想するようになる。だから積極的な行動を起こさなくなる。物を買うのも先延ばしにする。物の値段が下がるとお金の値打ちが上がる。過剰な円高をもたらすことになる。
リーマンショック後、日本の主要産業だった家電や自動車産業が苦境に陥った主たる要因は、超の付く円高であった。こういう状況では生産は縮小し設備投資も抑制される。値下げ競争が激しくなり、生産拠点を人件費の安い東南アジア(当初は中国)に移すことになる。こうして日本国内では、モノ造りが空洞化していく。デフレスパイダルの始まりである。
学校で習ったインフレとデフレ。どちらも国民生活に大きな影響があるが、我々世代はインフレ下であったので、デフレの事は深く学ばなかった。日本にはデフレは起こらないように思っていた。ところがバブルの崩壊を機に、今まで右肩上がりを疑わなかった不動産が値下がりを始めた。これは一時的な現象で、生産できない土地などは、すぐに値上がりに転じると思っていた。
ところが、生産拠点が海外に移ることになって、土地も人も海外で調達することになれば、これは生産だけではなく土地も間接的とはいえ輸出してしまうのと同じことになる。このようなデフレ下では、財政も悪化していく。所得税も法人税も減少していく。90年度には税収が60兆円だったが(これは日本にとっての最高額。バブル下であった)、2012年度には42.6兆円と30%も減少している。
財政赤字を縮小しようと歳出を削減すると、それ自体がデフレを加速し、結果として税収はますます縮小すると言う悪環境に陥る。ざっと解説するとデフレを克服しないと大変な状況になるということが分かる。
このような状況下の中で昨年の12月、自公の連立政権の安倍内閣が発足した。デフレを克服することが安倍内閣の近々の課題であった。まず異次元の金融緩和が実行された。リーマンショック後に、アメリカや中国が自国通貨を大量に市場に流したのでドル安に市場は流れた。
しかし日本だけは貨幣をわずかな量しか増やさなかった。戦後の悪夢だったハイパーインフレを極度に恐れたからである。こうなると当然値打ちのある円が買われて超円高になるのは必然である。一年前が一ドル80円内外である。これでは自動車や家電はやっていけない。特に家電は韓国のサムスンを始めとする企業に浸食されていった。
それを克服すべく、安倍内閣のデフレ脱却の一の矢は、異次元の金融緩和であったが、それは市場の(主に金融機関)国債を日銀が大量に買い取ることであった。これによって円の貨幣量が増えるから円安に振れるのだが、しかしこれだけでは、日銀の各市中銀行の当座預金に巨額の預金が溜まるだけになる。民主党政権の時の金融緩和はほぼここで止まった。
安倍内閣は、この大量の預金を融資と言う形で市場に出すことを考えて、第二の矢として積極的な財政出動を景気対策として打ち出した。それの代表は昨年の補正と今期の予算で合わせて10兆円の公共投資であった。その結果、円安と財政政策が重なって自動車や建設業界に仕事が増え始めたし、そして輸出企業が息を吹き返すことになった。景気回復は通常大企業の製造業から始まるが、今回は建設・不動産とのツートップである。建設分野は、リホーム等の分野で中小企業も仕事が増加し始めている。
しかし来年4月からの消費税引き上げの影響による駆け込み需要との見方も強く、経営者は疑心暗鬼でもある。消費税引き上げの影響による景気の腰折れを恐れた政府は、5兆円の経済対策を決定している。その上前回の3%~5%への消費税の引き上げ時に比べて、駆け込み需要と思えるものはなだらかであり、消費税引き上げ後も極端な景気にブレーキはかからないものと思われる。
それでも、これだけでは景気の持続性が薄く、デフレ脱却まで届かないと思われる。そこで第三の矢は成長戦略である。続いて第四の矢は東京オリンピック招致である。次に先日アメリカのFRBの次期議長が、「アメリカの金融緩和」を継続すると取れる発言をしたことと、ドイツが大連立を発表して政治の安定が図られて、経済も伸びるとの観測が市場で広がり、この二つが相まって、ニューヨーク市場で史上最高値をつけ、日本でも1万5千円後半を付ける等の活発な動きとなっている。為替も円が売られドルやユーロが買われる動きが活発になり、102円台となっている。まさに6年ぶりのことである。
一方政治でも注目すべきことがらがあった。秘密保護法案ではなく、沖縄自民党県連が辺野古への基地移転を容認する決定に転向したことである。先に国会議員団の中から辺野古容認への転向者が多数あり、今回は県議会の自民党会派からの転向は、今月にも辺野古沖の埋め立て許可を決断する時期が迫っている仲井間知事に何らかの影響を与えるのではないかと言う憶測が浮上している。
一方で中国が設定した航空識別圏の問題は、大きな国際政治問題化している。ますます沖縄の安全保障問題の重要性が増す中での今回の転向は、注目するべき事柄である。---コラムより

楽天イーグルスの日本一

2013-11-04 17:40:46 | Weblog
激しく降り注ぐ雨の中、地鳴りのような「マー君コール」が背中を押した。
3点リードの9回2死一、三塁。一発浴びれば同点の場面で、楽天のエース田中将大が最後の力を振り絞って腕を振った。
142キロのスプリットに代打・矢野謙次のバットが空を切る。その瞬間にマウンドで田中が両手を突き上げると、そこに女房役の嶋基宏が
飛び込んで抱き合った。その輪に一塁から銀次が、三塁からケーシー・マギーが、そして次々にナインが飛び込んで、クリネックススタジアム仙台に歓喜の花が咲き乱れた。球団創設9年目。楽天が東日本大震災という苛烈な試練を乗り越えてきた東北に、日本一を届けた瞬間だった。
「もう最高! 東北の子供たち、全国の子供たち、被災者の皆さんにこれだけの勇気を与えた選手たちを褒めてやってください!」
選手の手で9回、仙台の夜空に舞った監督の星野仙一が絶叫した。
苦しい戦い。王手をかけ、無敗のエースで勝利を確信して臨んだ第6戦に敗れて、土壇場まで追い込まれた。
「最後にオレを泣かせてくれよ」前日のミーティングでは、星野監督が直接選手にこう語りかけた。
「オレがミーティングをやったときは必ず勝っていたんだ。だからそういう験を担ぐ意味もあった」 
こうして悲願達成のためにやれることはすべてやり尽くした指揮官が、最後の“武器”として、懐に持っていたのは、一人の投手だった。 
則本昂大。 星野がこの投手を“切り札”とすることを決めたのは、シリーズ開幕直前のことだった。
日本シリーズ進出に王手をかけたクライマックスシリーズ(CS)のファイナルステージ第4戦。星野は万全を期して
「シリーズに向けた調整に専念したい」と申し入れていた田中をあえてクローザーで投入した。
しかし、このエース投入が日本シリーズに向けた首脳陣の青写真に狂いを生むことになった。1、5戦に先発させ6、7戦ではリリーフ待機を計算していた田中が、調整面の問題から2戦と6戦の先発を希望。首脳陣もそれを了承するしかない状況になってしまったのだった。
そしてその瞬間に、シリーズの“切り札”は田中から則本に変わったのである。
「オレは試合の最後から逆算してゲームを考える」そう語ってきた星野にとって、今の楽天の最大の悩みがリリーフ陣の層の薄さだった。
シーズン中のクローザーは青山浩二、ダレル・ラズナーに最後は斎藤隆と“使い回し”て何とか凌いできた。それでもどの投手も、日本シリーズの最後を任せるほどの絶対的な信頼には欠けるのが現実だった。 万全を期して第6戦に先発した田中が、まさかの連勝ストップで、巨人に逆王手をかけられた第7戦。もちろん星野監督が最後に頼りにしたのは、このルーキーだった。7回から好投の美馬学の後を受けて2番手でマウンドに。2回を2安打、3奪三振で抑えて無失点で田中へとバトンを渡した。一番大変なところを乗り切って、最後はこのシリーズが日本での最終登板となるとウワサされる先輩投手に花道を譲った。そう考えると、最後に球場を包んだ“マー君コール”は、このルーキー右腕の獅子奮迅の献身によって演出されたものだったのである。
「最後に3点差ではなく1点差でも田中投手を登板させましたか?」
日本一を達成した記者会見。こうたずねられた星野監督は、苦笑いを浮かべてかぶりを振った。
「いや、登板させなかったですね。そのときは則本を続投させていた」
前日に160球を投げ完投した田中の投入は、あくまでファンサービスだった。
最後の最後にチームの命運をかけて指揮官が送り出したのは、絶対エースと呼ばれた田中ではなく、実はこのルーキー右腕だったというわけである。
シリーズMVPは第3戦と7戦に先発して2勝を挙げた美馬の頭上に輝き、楽天から選ばれた優秀選手賞は田中と銀次が受賞して、則本は何の賞も手にすることはできなかった。
それでももし“影のMVP”というものがあるとすれば――それは間違いなく則本だ。
ただひたすら勝利のためにマウンドに立ち続けたこのルーキー右腕には、惜しみない拍手と祝福を送りたいと思う。

「勝てる試合をどうやって確実に取れるかが短期決戦の鉄則。そのためには誰かにムリをしてもらわなあかん」
そうして指揮官が指名したのが則本だった。
「自分は気持ちで投げるタイプ。意気に感じてマウンドに上がりたい」
そう語ってきた則本も、指揮官の過酷な要求に見事に応えてみせたのだった。
「自分が与えられた場面で頑張るだけ」
実はCSファイナルステージの第4戦で、則本も田中と同じようにリリーフ登板している。しかし、そのまま中4日で初戦の先発マウンドに立つと、この試合は巨人のエース・内海哲也と渡り合って8回124球を投げて2失点で負け投手となった。そこから中3日で第4戦はベンチ待機。そして2勝2敗で迎えた第5戦では2点をリードした6回からリリーフ登板した。
この試合では9回に同点に追いつかれはしたものの、延長10回に自ら選んだ四球を足場に銀次の中前タイムリーで勝ち越しのホームに滑り込むと、その裏まで5イニング79球を投げて勝ち投手になった。
「信頼してもらっているのが嬉しい。その期待に応えたいし、監督が一番、1勝の重みを分かっているのだと思う。その期待に応えるだけでした」
試合後にはこう語った則本は、仙台に帰った残り2試合に向けてもスタンバイ。
「行けといわれたらいくだけ。自分が与えられた場面で頑張るだけ」
こう語って6、7戦もベンチ入りした。
 万全を期して第6戦に先発した田中が、まさかの連勝ストップで、巨人に逆王手をかけられた第7戦。もちろん星野監督が最後に頼りにしたのは、このルーキーだった。
7回から好投の美馬学の後を受けて2番手でマウンドに。2回を2安打、3奪三振で抑えて無失点で田中へとバトンを渡した。一番大変なところを乗り切って、最後はこのシリーズが日本での最終登板となるとウワサされる先輩投手に花道を譲った。そう考えると、最後に球場を包んだ“マー君コール”は、このルーキー右腕の獅子奮迅の献身によって演出されたものだったのである。
「最後に3点差ではなく1点差でも田中投手を登板させましたか?」
日本一を達成した記者会見。こうたずねられた星野監督は、苦笑いを浮かべてかぶりを振った。
「いや、登板させなかったですね。そのときは則本を続投させていた」
前日に160球を投げ完投した田中の投入は、あくまでファンサービスだった。
最後の最後にチームの命運をかけて指揮官が送り出したのは、絶対エースと呼ばれた田中ではなく、実はこのルーキー右腕だったというわけである。



までいライフ

2013-10-20 14:29:58 | Weblog
「までい」とは「までいに子供を育てないと後で苦労するよ」などと使われていた方言である。辞書によると「までい」の語源は「真手(まて)」で、「左右そろった手」「両手」を意味する。お茶を出すのにも両手で「どうぞ」が基本である。両手ということから、さらに「大切に」「念入りに」「じっくりと」「心を込めて」「手間暇惜しまず」「つつましく」しいては「もったいない」など多くの言葉が内在されている。「までいライフ」には「大量生産、大量消費、大量破棄」で発展してきた日本経済であるが、今後の暮らし方を変えていく必要があるのではないか。また日本人特有の良い国民性をもう一度取り戻して、「お互いを気遣い合う」環境や土壌とし、住みやすい地域をつくっていくことが必要ではないか。また日本国民は、自分で考え、自分で判断し、自分で責任を取ることが薄い国民に、いつのまにかなってしまっていないか。権利を主張するばかりでなく、義務を果たすことを再度考える必要があるのではないか。「ないものねだり」から「あるものさがし」へ、さらに「循環型社会」を組み立てていくことが大切ではないのか。この「までいライフ」とは、むしろ日本の20年30年先の在りようではないかだろうか。経済成長だけが国を救う道だという時代ではなくなったのではないだろうか。成熟社会の中でどう発展していくかを考えるべし、と天は原発事故という、とてつもない災害をもって、われわれに問い詰めてきたのではないだろうか。「失われた20年」というように、後ろ向きに考えてしまい、もっと便利に豊かにと願って多くのエネルギーを必要とし、それを原発に頼ってしまったようである。この「までいライフ」を日本国民一人一人が実行に移していく「転換期」ではないだろうか。   福島県飯舘村村長 菅野典雄 のコラムから 

パリーグレギュラーシーズン優勝

2013-09-27 21:20:45 | Weblog
近鉄球団が消滅という事態になった時、IT企業の楽天が名乗りを上げ、当時のオリックスと近鉄の選手たちを分配トレードで振り分け、都落ちのような格好で選手たちが宮城仙台を本拠地にやってきたのが九年前。宮城東北の人達は喜びましたね!我らのプロ野球球団が出来たことを。プロ野球の球場にはほど遠い施設の県営宮城球場を突貫で改修工事、何とか開幕に間に合わせクリネックスタジアム宮城という見違えるスタジアムに生まれ変わった姿には驚きを覚えました。一年目は田尾監督のもと地元の期待を一身に集めスタートしましたが、如何せん寄せ集めの選手達、監督も苦しかったと思う、100敗近い敗戦で首位から50ゲームも離され一年目は無残に散って行きました。田尾監督にもう一年位やらせてみてもよかったのではないかとあの時思いました。二年目からはボヤキの野村監督が就任、4年間で一度は2位になりCSに駒を進めましたが優勝という声は聞こえませんでした。野村監督の影響で特に嶋捕手あたりは成長したようにも思われるが、「いい時は俺のお陰、悪い時は選手のせい」そんな姿がちらほら見受けられたのは私だけではなかったでしょう。ブラウン監督を挟んで七年目から星野仙一監督が就任、私はあまり好きな監督ではなかったが今までの実績を鑑み彼の手腕に期待した人も多かったのではないでしょうか。就任早々、あの忌まわしい東日本大震災3・11の大震災が起きてしまいました。楽天選手会長、嶋の言葉が印象的でした「東北人の底力を見せましょう・野球の底力を見せましょう」と。この時から楽天が勝利するたびに被災地で特に仮設住宅に入っている方たちは元気をもらった方も沢山いたことと思わます。そして九年目の今年ジョーンズ、マギーの4番5番の助っ人を補強し、育ててきた生え抜きの銀次、舛田の台頭、1番に定着の岡島、2番イブシ銀鉄壁な守りの藤田、メジャー帰りのベテラン松井そして入団2年目島内の活躍、足の速い聖沢、セパ交流線あたりから打線が繋がり、楽天ではなく逆転イーグルスと言われるほど諦めない野球が浸透し、全員野球が完成していったようでした。投手をリードした嶋の成長も見逃せません。最後になりますが何といってもやはり守りの要はピッチャー、田中将大の活躍なくしてはこの優勝はあり得ない、ここまで開幕から22連勝の負けなし、星野監督にして「こんなピッチャーに巡り合えて幸せ」と言わしめたほど、「これだけの投手は100年に一人」と。また新人にして現在14勝の則本の活躍も特筆すべきものである。青山、小山、辛島、仙台出身メジャー帰りの齊藤、長谷部、ラズナー、ハウザー、の活躍も忘れてはならない。全員で勝ち取った優勝であろう。
速いのか遅いのか解らないが苦節九年目にして初めてのリーグ優勝、3.11から二年半が経過し精神的な復興がここに来て少々意気消沈しているところに、この東北に明るいニュース、元気勇気を吹き込んでもらえたことは確かなような気がしている。これからCS、日本シリーズとまだ一山二山残っているが何とか勝ち進んで「てっぺん」を勝ち取ってもらい、ふたたび被災地に元気を吹き込んでもらい、勝利の美酒を東北の皆で分かち合い復興の活力にしたいものである。とりあえず東北楽天イーグルスのリーグ優勝おめでとう!感動をかりがとう!

タイムマシン

2013-08-30 10:37:01 | Weblog
歴史に<もし>はない、というあの有名な言葉どおり、いっぺん起こってしまったことは二度と変えようがない。タイムマシンを持たない僕らに許されているものは、過去の上に今を、今の上に未来を積み重ねていくという地道な方法だけだ。後戻りはできない。でも、過去を繰り返し見つめ直すことで、未来を変えていくことならたぶん、できる。簡単ではないにしろ、可能ではあるはずだ。

八重の桜

2013-02-23 11:04:31 | Weblog
このところNHKの大河ドラマ「八重の桜」に見入っている。ことしは福島の復興支援の意味もあるし、なによりも幕末の会津藩の生き様には心を惹かれるものがある。会津藩に対しては、白虎隊の悲劇性ゆえの同情論、戊辰戦争の敗者への判官贔屓という面もある。しかし、本質は、会津藩が時勢に流されず自分たちの生き様を集団で一途に示した行動が日本人の心を打つのだと思う。微塵も揺るがぬ忠誠心の美しさと言っていいかもしれない。日本人が好きな忠臣蔵の四十七士もそうだが、死もいとわず自ら価値観を貫き通した生き方の美学を感じる。藩士教育の根底には「ならぬものはならぬ」という「什の掟」がある。その精神を藩校・日新館で日々たたき込まれたが、むしろ会津の女性達が家庭教育の中で綿々と受け継いできた面が強いのではないかと思う。信念を貫く教育を体に染み込ませた会津の女性は、価値観を切り替えても強かった。「八重の桜」を見ながら改めて家庭教育の大切さを思っている。・・・あるエッセイより

38年を振り返って

2013-01-05 10:03:25 | Weblog
学校を出てから暫らく東京の方で会社勤めをしておりましたが、先々代の社長(父)よりB町に帰って商売を手伝ってくれとお達しがあり、昭和50年(1975年)9月5日に弊社に入社いたしました。27才の時でした。
一年間ほど畜産の飼料販売のノウハウを勉強すべくA社の研究所に通い畜産飼料のいろはを教えて頂き、同社のT県にある畜産試験場(養豚場)で豚の管理で汗をかき、生産者に指導するべき養豚の勉強をさせて頂きました。その後会社に戻りB町での勤務が始まりました。IさんYさんNさんが先輩として勤務しており配送の助手として手伝ったのがスタートでした。そのころは庭先養鶏が盛んで配合飼料を一袋二袋と配達して廻りました。A町、B町、C町と養豚農家に飼料の販売の矛先を転じた時期でもありました。C町の養豚団地に入り込み拡売するべくA社の営業の方と夜遅くまで巡回したのが昨日のことのように思い出されます。
Kさんも入社していただき、少しずつ牛の飼料にも力を入れ始めました。M県のZ町近辺を車で通行した際、大きな畜舎が点在しており飼料のタンクが立ち並んでいるのを見たとき、いつかこの牛屋さんにエサを販売してやるぞと思ったことが今でも忘れられません。南の方はKさんに専属で巡回していただき、私はA県の牛屋さんに販売するべく足繁く通いました。
配合飼料だけでは先細りになると考え、単味飼料、輸入物の牧乾草にも力を入れるようになりました。畜産業界で弊社のようなディーラーが飼料販売の分野で生き残る為に、戸数減少大型化の養鶏養豚の生産者から、酪農肉牛の生産者に販売先をシフトしていったことは、時代の流れに沿った適切な方策ではなかったかと思っております。
入社当時は月間200~300トンの販売量だったと思います、このところの販売量は月間2500トンにまでになりました。
この間Iさん、Yさん、Nさんが定年退職し、現専務、Kさん、T君、K君、I君、S君、T君、Oさん、S君に入社していただきました。Y君、A君にも手伝っていただくようになりました。
一度入社したら定年まで、長年に亘って在籍してもらっていることは会社にとって本当に自慢してもいい、素晴らしいことだと思っております。
残念なことに一昨年の3・11の忌まわしい地震津波原発事故の大災害にみまわれ、皆さんが苦労して繋いできたF県の得意先が一瞬のうちに白紙になったことには言葉がみつかりませんでした。長い間営業や配送で親しくなり懇意にしていただいた得意先が各地で避難生活を余儀なくされていることを思うと一日も早く、故郷に帰還されることを願わずにはいられません。
私の部屋に父の残した色紙が掛けてあります「努者勝」。努める者は必ず勝つという言葉を信じ励んできました。そしてお客様が弊社に一番何を望んでいるかを常に考え接してきたつもりです。お客様の利益になることがあれば多少会社がマイナスになっても実行してきました。我々の商売は家電製品のような一回限りの商売ではありません。信用と自分を売り込むのが仕事と思って努力してきました。
しかし社長一人の力など微々たるもの、みんなの力が重なり合ってはじめて大きな力になることは明白です、そんな意味からも長年に亘ってのみなさんのご尽力に感謝感謝に尽きると思っております。
仕事は面白くないと長続きはしません。与えられたどんな仕事でも自分で噛み砕いて自分で計画を立て自分で納得のいくように実行に移せば面白くなるはずです。上にいる者はある程度権限を与えフォローしてあげなければなりません。いやいやながら会社に出勤すれば、何一ついいことはないし、いい仕事など出来るはずがありません。
会社に関わっている者全員が、与えられた仕事として動くのではなく、自分から進んで自分の仕事として働いていただければ、面白くもなり、その会社は上昇し継続すること間違いないと思われます。
『社員ひとりひとり、それぞれがそれぞれの仕事に邁進し、それ以上の仕事の幅を充実させ、代々引き継がれた仕事を、どのような形であっても、後につなげたいと思います』・・・と、先日の送別会の席である方からこのような貴重なありがたい言葉をいただきました。
私は今年で第一線を退きますが、次期社長T君を中心にして盛り立てていただき、また社員ひとりひとりが、自分が社長のつもりで奮闘精進していただき、後につないでいってもらいたいと切にお願い申し上げる次第です。
長い間みなさんのご協力ご尽力に感謝申し上げます。          H24年12月末日
 

武士道

2012-11-17 09:29:24 | Weblog
新渡戸稲造は名著「武士道」で、「『誠』―なぜ『武士に二言はない』のか?」との一章
を設けている。
その中で、武士にとっては、うそをつくことや、ごまかしは等しく臆病とみなされ、高い
身分には、より高い誠が求められた―と述べている。
首相の決断基準は、これだったと思う。新渡戸は「武士道」の中で、「誠という文字は
『言』と『成』という表意文字の組み合わせでできている」と書いている。
「言ったことを成す」のが「誠」だというのである。 
衆院が16日に解散された。次期衆院選での民主党の大敗がわかっている中で、衆院解散
の決断した野田佳彦首相の誠実さを高く評価したい。
この3年間の民主党政権のダメさ呆れていた国民も、「遅きに失した」と思いつつも国益
の点からは解散を歓迎したと思う永田町では、「衆院解散ではなく民主党解散ではないか」
との現実的なジョークを口にする人もいる。
小沢一郎、鳩山由紀夫、菅直人の各氏をはじめ野田路線に反対する人を排除し、純化を
進めれば、総選挙後に野田民主党は自民、公明と提携できる、そうすることが日本のため
になる―と、首相は考えているのだろうか?