私のひとり言

出来事、出会いなど気の向くままに!

あれから二ヶ月

2011-05-11 21:47:54 | Weblog
<葉桜を吹き渡る風よ記憶せよここにみちのくといふ国のありしを>。
俳人、長谷川櫂さんは東北の被災地に尽きせぬ思いをあえて短歌で表した。
東日本大震災が起きたとき、桜のつぼみはまだ堅く小さかった。満開になっても花を楽しむゆとりを持てなかった人が多かったろう。桜前線が東北を通り過ぎ、葉桜となった今、あらためて被害の甚大さが身に染みる。
震災から今日でちょうど二ヶ月。ライフラインや交通網の復旧が進み、「日常」をほぼ取り戻した地域もある。だが、岩手、宮城、福島の沿岸部では、深い爪痕が癒える気配さえ見えてこない。失われた海岸線、大規模な地盤沈下。街や港の青写真が描けない。多くの人が今も避難所で暮らす。福島第一原発事故も収束への確かな道筋は示されない。あの日あの時から時間が止まったままの人もいるのだ。
長谷川さんにこんな一首もある。
<「求道すでに道である」ならば大津波の瓦礫の原にすでに道あり>。
宮沢賢治の有名な言葉を引いて、道を求め始めた時から、復興に向けて歩み出しているのだと励ます。どれほどの時間がかかるか分からないが、一歩ずつ前へ進んで行きたい。日本中の人々が、みちのくの再建を信じ、力を貸してくれている。
誰もが余裕をもって桜を愛でる日がきっと来よう。
5月11日の河北新報の「河北春秋」から

暗黒の日から二ヶ月が経過いたしました。
被災地の方々の正直な気持ちが「河北春秋」に表現されているのではないかと思い、拝借いたしました。

来年こそ、いや一年でも早く、被災した方々が穏やかな気持ちで桜の花を愛でることができたらいいな、と願わずにいられません。
「がんばろう宮城」「がんばろう東北」の掛け声が一層大きくなっております。
被災地、被災者に、末永い、ご支援、ご声援、宜しくお願い申し上げます。

希望

2011-04-23 16:57:04 | Weblog
オリンピック以上に世界の参加国が多いワールドカップ、サッカーはボール一個で世界の隅々まで元気を与えられるスポーツであることは誰もが認めるところである。われらがベガルタ仙台、東日本大震災があってJリーグが永らく中断していました。そして今日アウェイ等々力競技場で対川崎フロンターレ戦、前半に先制され1対0で折り返し、後半太田の脚を吊りながらの渾身のシュートそして終了間際リャンからのコーナーキックを鎌田が右隅に逆転のヘディングシュート。サポーターは喚起の嵐、東北の被災者に届けとばかりに、そして希望と諦めない気持ちを届けとばかりの勝利だったようにも思われてなりません。この一勝は忘れられない勝利のようである。ベガルタ仙台のテーマソング「カントリーロード」被災地のみなさんも口ずさんで前を向いて歩んでもらいたいものです。

融資

2011-04-20 21:18:51 | Weblog
原発事故により、その近隣の畜産農家も避難勧告や避難退避で涙ながらに愛する故郷を、家族同然の家畜を捨て、いつ戻れるか見当も付かないまま、離れることを余儀なくされている。誠に痛ましい限りである。その畜産農家に対する売掛債権はどうすればいいのか?東京電力に請求書を送付すべきか?今日一日政府系金融機関や県庁の中小企業関係の金融課、みやぎ産業経済相談所等、歩き回った。二次被害の現状を説明し、高額な借入金になるので、少しでも低利の資金を調達ために。

開花

2011-04-16 18:22:39 | Weblog
大災害から1ヶ月以上が過ぎ、気がついたら桜の花が満開に近づいて、プロ野球も開幕し今日で五戦目。被災者と共に闘うと誓ったイーグルスナイン、岩隈、ラズナー、田中、永井と勝利し四勝一敗と被災地の応援を背中にファイト溢れるプレーは感動ものである。桜の花も今年も忘れずに咲き誇っている。やはり例年のように、お花見気分にはいかないようであるが(桜の花は)被災地の皆さん少しでも私を見て気分を和らげて、元気を出して…と声をかけているようでもある。来年はスッキリした気分で桜の花を愛でたいものである。

遠き郷人への手紙(帰らぬ家族を、遠い避難所で待つあなたへ)

2011-04-13 21:46:45 | Weblog
     お元気ですか
慣れない土地でさぞお疲れのことでしょう
   あの日から時だけが流れて
 心は 動けず止まっているかのようです
   夜が明けるたびに
  夢であったならと思います
    どんな偉い人の
  どんな立派な言葉よりも
    どんな沢山の
 どんな温かいメッセージよりも
  かけがいのない あの人の
  「ただいま」を聞けたなら
  あなたは元気に勇気をもって
    生きていけるでしょう
   でも それが叶わなくても
心を悲しみだけで満たしてほしくないのです
  あなたの「ただいま」を待っている
   <わたし>がいるからです
     あなたの生まれた
    あなたの愛する町です
 <わたし>は何もかも流されて のまれて
  ガレキに 埋もれてしまったけれど
あなたが「ただいま」と帰ってきてくれたなら
    この大地いっぱいに
   花を咲かせることでしょう
   もうすぐ 春がやってきます
   冬の寒さに 凍えていた木にも
    満開の花が咲くように
     わたしたちの心にも
      一輪 一輪
   花を咲かせていきましょう
  大切なあの人の笑顔のような 花を
    心 あたたかく
     瞳 くもらせず
      力 たくましく
     愛する この大地に
  希望の種を 蒔いていきましょう
      その種を
    少しずつ 少しずつ
    育んでいきましょう
   あなたの「ただいま」を
 <わたし>は いつまでも待っています

それならできる

2011-04-09 14:33:30 | Weblog
3月11日から一ヶ月が過ぎようとしております。
悪夢を追体験しているかのようなM7・1、震度6強という余震。
恐怖がいくらか薄らいだところに今度は暗闇も手伝って津波警報も出され多くの
人が恐怖を感じ避難に追われたようでした。今後余震との闘いも待ってるようで
こちらも厄介ではありますが、復興の足並みは留まることなく一歩一歩前に踏み
出して行かねばならないことは被災者みなさん強く思っていることだと思います。

我社の社員、家を全損した者は隣町角田市に仮住まいを借用し、窮屈な会社の
住まいから引越し、祖父祖母と一緒に暮らすことが出来るようになり安堵しました。
床上浸水の他二名はライフラインが復旧しておらず依然として会社に仮住まいを
強いられており、もう少しの辛抱と励ましております。
一昨日、山元町の海よりの方を見てきました。大きい道路は通れるようになった
ので(被災者関係でないと通行できませんが。)舟、自動車などの残骸は片付けて
ありましたが、道路脇には瓦礫が以前見た光景と変わっておらず、相当の時間が
費やされるであろうことは、容易に理解できる光景でした。
東北の湘南、ストロベリーラインといって「いちご」で潤った緑豊かな海岸線の
亘理町山元町はしばらく姿を消すことになりそうで、実に残念でなりません。

世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし   在原業平

この季節になると、心がうきうきしてきます。各地の桜情報が伝えられると
「ことしはいつ咲くのだろう、どこで花見をしようか」と気にかかるところです。
仙台の桜の蕾もふくらんできました。確実に当地にも桜の季節、春がやって
来ているようです。桜には酒はつきものです、農作業前のひと時、花を愛で
酒を楽しむのは、長い長い東北の冬が終わり春到来を告げる農耕民族の儀式とい
えるかもしれません。理屈なしに「日本人に生まれてよかった」と思う季節です。
昨年までは?

さまざまな事思い出す桜かな   芭蕉

来週末あたりが当地では桜が開花することでしょう。でも、ことしはお花見の気分には
なれないのは私だけではないようです。寂しい限りです。しかし報道されているように、
空元気でもお花見も自粛しないでやった方が経済全体のためにはいいと思います。
東京上野の山も例年のようには花見客が訪れてない様で、破目を外さない程度に是非
大勢の方に酒宴花見をやっていただきたく思っております。自粛ムードは景気を押し
上げません。元気のあるところは遠慮せずドンドンやってもらっていいと思います。

いま原発の影響で福島の野菜等は風評被害で売れてません。しかし、流通しているものは
安全が保証されています。是非とも東北で生産された野菜を、東北で生産された牛肉
豚肉鶏肉を、東北で生産された牛乳を、東北で水揚げされた魚を、東北の美味しい日本酒を
消費していただくことが東北を元気付ける手立てではないかと思っております。
(今では産地名が表示されておりますので。)
ボランティア、救援物資、義援金も涙が出るほど有り難いと思いますが。
東北被災地のために何ができるか?「それならできる」という方々が大勢いらしゃると思います。
隣近所の奥さん方にもお声掛けいただければ幸いです。 

それならできるⅠ

2011-04-05 18:46:40 | Weblog
東北被災地のために何ができるか?ボランティアで援助するのも有り難い。義援金を寄付してもらうのも涙が出るほど嬉しい!他に何ができるか迷っている方、東北の野菜でも肉でも魚でも一品でも食べて下さい、東北の牛乳でも地酒一口飲んで下さい。「それならできる」という方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。それが大きな支援になるように思われます。自粛ムードは景気を押し上げません。元気のあるところはドンドン消費してもらいたいものです。

畜産業界

2011-03-21 06:17:49 | Weblog
畜産業界の現状の報告
畜産業界もこれまでか?
太平洋岸の畜産農家も生死の境を彷徨っているような状態を呈しております。
飼料工場はほとんどが大きな港に隣接して建てられており、こちらも壊滅のような
状態です。八戸、釜石、石巻、仙台港、福島県小名浜、茨城県鹿島このような港に
点在しておりましてエサの供給は完全にストップしております。
家畜はエサと水が無いと機能しません。
採卵鶏は卵を産まなくなり衰弱して死んでいきます。
ブロイラー(食肉鶏)は暖房を取らないと一箇所に固まって死んでいきます。
豚も同様、共食いの状態になるそうです。

拙店は牛の飼料が大半を占めております。
乳牛は年に約一回お産しお乳を出します。
配合飼料と草(乾草)と水がないと乳は出ません。
現在の酪農家では大規模化が進んでおり30~50頭の乳牛を飼養し牛乳を生産して
おります。200頭の大規模の生産者も拙店のお客さんにもおります。
200頭規模ですと1日約5トンの牛乳を生産出荷します。
このように多頭肥育ですと乳を搾るのも機械になっており、電気がないと搾ることは
不可能です。牛乳は酪農組合に出荷するわけですが現在は集乳の車も来ない状態です。
結果、搾った牛乳は捨てている状態で、牛にも最小のエサと水をやり、あまり乳を
出ないようにしております。生かさず殺さずの状態といってもいいかもしれません。
もったいない牛乳を被災された方々に分けてやりたいと思っている生産者も沢山
おりますが、いろいろの食品に関する規制があって出荷できないし、被災地まで
運ぶ容器と手段が皆無といったところです。ガソリンも底をついております。

肉牛は多くのエサと水で大きな牛に育て、特に黒毛和牛はサシを入れ日本でしか出来ない
安心安全なおいしい牛肉をつくってきました。こちらも多くの生産者は多頭肥育が進んでおり、100頭200頭規模は普通で中には3000頭10000頭の牛の生産飼養もこの業界では珍しくなくなっております。(肉牛100頭規模でエサの食下量は月間30トン位、金額にしますと約150万円位になります。)今日明日にも出荷したい牛がいても牛を肉にする屠畜場も仙台では被害にあい復旧はいつになるか分らない状態になっております。それでもエサは与え続けなければなりません。

乳牛にしても肉牛にしても畜産農家はここ当分大きな赤字経営を強いられることは必死と思われます。家畜はエサを必要としております。拙店ではAと2,3の倉庫に全得意先で使う約一週間分位の飼料をストックしております。
震災の翌日から工場での生産がストップの状態を聞きつけた生産者が今日まで倉庫に殺到しております。少しでもエサを確保しておこうと。

原子力発電所のあるあたりまで飼料を配達しておりました。
生産者は退避命令勧告で鶏、豚、牛を涙ながらに置いて避難しております。
この生産者にも現金商売ではないので先月分(2月分)の飼料代は売掛になっております。
行き先不明の生産者の、どこに請求書を送付すればいいのか案じております。
回収不可能ではないかと眠れない日々が続くのもやむをえないのかもしれません。

創業者が立ち上げた会社、小生が携わって36年の月日が経過しました。
小規模ながら利益も上げることが出来、優良企業とおだてられたときもありました。
これまで得意先である畜産の生産者には私はじめ社員その家族ともども沢山のいい思いをさせていただきました。代金回収が難しいのに商品を販売するのは商人の風上にもおけないと創業者は言うでしょうか?
もう一分張り、いままでの生産者に対する恩返しも含め、BSE、口蹄疫、鶏インフルエンザどころではない、この未曾有の この難局、危機に どこまで体力が続くかわかりませんが、もう少し挑戦したく思っております。

親族一族のみなさま、この現状をご推察いただきたく一筆書いてみました。
読み流していただきたく思っております。

またテレビ等でご覧の通り、この地震 津波 原発事故で被災された無限大の方々に、  ご声援ご支援をお願いしたく宜しくお願い申し上げます。
                    H23・3・17

愛する人のために

2010-12-01 10:49:39 | Weblog
保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、
パソコンの便利さもありません。
けれど目に見えぬこの商品には、
人間の血が通っています。
人間の未来への切ない望みが
こめられています。
愛情をお金であがなうことはできません。
けれどお金に、
愛情をこめることはできます、
生命をふきこむことはできます。
もし愛する人のために、
お金が使われるなら。

団塊の世代

2010-11-17 21:46:42 | Weblog
「戦後、子供の出生数は、昭和22年(1947年)以降、六年連続で年間二百万人
をこえたが、このうちとくに出生率の高かった昭和22年から昭和24年までに
生まれた世代を、団塊の世代といっている」

この世代のライフヒストリーとして次のようにいわれている。
「高度経済成長期の後期に就職、直後にオイルショックと狂乱物価に遭遇、
同年代入社数が多く、競争は激しかったが、日本経済の発展とともに、
企業戦士としておおむね順調な生活を送る。
40歳前後の働き盛りの時期にいわゆるバブルを経験。
バブル崩壊後は企業の人件費削減のターゲットとなり、50代になるとともに
本格化した職場のIT化に苦戦する」

「小、中、高校時代はすし詰めの仮設教室、受験戦争をくぐり抜けた大学では、
大学紛争を経験、高度成長期を経た豊かな時代に結婚(恋愛結婚が増加、
専業主婦が一般的)家族形成期には消費を牽引、3Cなど耐久消費需要を生む
(ニューファミリー)バブル前後にマイホーム取得、バブル崩壊後は
住宅ローン返済の重圧と、子供の教育費負担に苦しむ」

「この世代は、平成19年には58歳から60歳に達し、全部で七百万人弱、
総人口の5パーセント強を占めている」