私のひとり言

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長崎の悲劇

2014-08-09 22:36:12 | Weblog
【無機質の奥にあるもの】
今日8月9日は長崎原爆の日。私にとっても、異母姉2人の命日である。
南啓子6歳、英子4歳。ともに、爆心地から南西約500メートルの国鉄竹の久保官舎で死んだ。摂氏1万度を超す熱線、秒速360メートルの爆風。ひとたまりもなかったろう。瞬時に炭と化したその「亡骸」は、風呂場の跡付近で見つかった。二人の姉葉子12歳は12日に長与の救護所で、兄寛之9歳は16日に喜々津の親類宅でそれぞれ息を引き取った。一番上の兄だけは爆心地から離れた旧制中学へ出かけ、辛うじて難を免れている。
 子どもたちは前月末、入院中の母親を亡くしていた。父は長崎機関区の仕事で忙しい。乏しい食糧事情。いつも、母親代わりの長女葉子はご飯に添える味噌汁の具を父の椀にだけ入れ、弟や妹に「お父さんは仕事で頑張らんといかんからね」と優しく諭していた。原爆が直撃した時、啓子と英子は留守番しながら、風呂場で仲良く水遊びをしていたのか。原子野で、父は機関区の焼け跡の片付けや救援列車運行の指揮に忙殺され、子どもたちの捜索がままならない。葉子は「お父さんはまだでしょうか」と言いながら息を引き取った。
 長男を抱えた父は戦後間もなく再婚し、男女4人の子どもを設けた。いずれも、名前の1字には「久」。「幾久しく、しっかり生き抜いて」―。原爆で幼子を一瞬に失くした父の願いが伝わってくる。私たちに原爆の話をして聞かせる時、父は必ず寛之の最期の言葉を口にして泣いた。「お父さん、今何時?」。
 父は私が大学を出て就職する前年の夏、死んだ。大学による解剖の結果、肝臓の機能が普通の人の3分の1しかなかった。「自分の一生は重い荷を背負って長い坂道を上り続ける人生だった」。父はそう言っていた。父の死で、親不幸を重ねていた私には、その恩に報いる機会が永遠に失われてしまった。
 私はこれまで、一瞬一瞬を大切に悔いのないよう生きたい、と願ってきた。胸の中には、生きる時を求めながら断たれた兄姉や、被爆の後遺症に苦しみ抜いた父たちに寄せる無念の思いがある。
 長崎原爆の死者74000人。無機質な数字の裏には、私たちと同様、いやそれ以上に大切な人生の物語がその数だけあったはずである。そして、それはナガサキ、ヒロシマに限らない。今も、世界のあちこちで戦争や紛争による犠牲者の報道が絶えない。ともすれば麻痺しがちな日常に抗って、「無機質」の奥にあるかけがえのない「生」の物語に想像を馳せたい。