Plastic Blues
灰色の瞳(スタジオ録音盤)
Pete Seeger & Judy Collins - Turn, Turn, Turn - 1966
Paul Weller - Wild Wood (feat. the Orchestra of Syrian Musicians)
ネトウヨと呼ばれる方々が、「終戦記念日」を「敗戦記念日」と呼びたがるのが不思議だ。
彼らは戦後の太平洋戦争に対する歴史教育、その底にあるものを自虐史観と呼んでいる。
要するに、あの戦争は日本が悪い、日本は負けたのだから何も言えない、原爆を落とされたのも結局は戦争を終わらせるためには仕方がないし、そのことで何十万もの世界の命が助かったではないか、というともかく反省に次ぐ反省、洗脳のことを言っているのだと思う。
それは理解できるのだが、私個人としては思い返してみてもそんな教育は受けたことはないし、ただ戦争の悲惨さやどこの国が正義とかではなく「戦争それ自体が悪」である、と習っただけだ。
そしてまたそういう方々が言うには「あれは欧米からのアジアの開放のための戦争だ」ということらしい。
それはしっかりと文献を調べてみれば判るのだが、ならどのような理由で世界大戦が起こったのか?石油?そうだねそれも原因のひとつ。
けれども、じゃあ何故石油輸出とめられたの?欧米の植民地支配をやめさせようとしたから?既得権益?
確かにそういう面もあったのかもしれない。
しかし歴史的にはっきりしていることのひとつとして、日本陸軍は石油資源を求めて印度に侵攻した。そして決して「解放」ではなく印・欄・英とぶつかったのである。
米国の戦争回避或いは禁輸政策の緩和の条件の中にはそれに対する撤退も含まれていたのである。けれども時の陸相東条英機は「出来ない」と言ったのである。相手が植民地として支配していようがどうあれ、「石油資源を求めて」印度に侵攻し米国との戦争の危機があるにもかかわらず、断ったのである。しかも天皇の判断は一に政治的解決、二にやむをえなければだが、それでも武力衝突は避けること、だったのに・・・。
まあ、それはいい。
私はその時代の人間ではないし、あらためて考えてみると自分の目で見てきたことではないので彼らのように100パーセント真実とも言い切れないのだから。
そして彼らがその日本の戦中戦前の行為の正当性を訴える流れの中で、何故「敗戦記念日」という言葉にこだわることがどうしても判らないのである。
もし私が彼らであったならば私としてはあの戦争の正当性を訴えたいのであれば「敗戦」という言葉の響きはどうしても許しがたいし、使いたくもない。
なのに何故使いたがるのかその理由がどうしても判らないのである。
灰色の瞳(スタジオ録音盤)
Pete Seeger & Judy Collins - Turn, Turn, Turn - 1966
Paul Weller - Wild Wood (feat. the Orchestra of Syrian Musicians)
ネトウヨと呼ばれる方々が、「終戦記念日」を「敗戦記念日」と呼びたがるのが不思議だ。
彼らは戦後の太平洋戦争に対する歴史教育、その底にあるものを自虐史観と呼んでいる。
要するに、あの戦争は日本が悪い、日本は負けたのだから何も言えない、原爆を落とされたのも結局は戦争を終わらせるためには仕方がないし、そのことで何十万もの世界の命が助かったではないか、というともかく反省に次ぐ反省、洗脳のことを言っているのだと思う。
それは理解できるのだが、私個人としては思い返してみてもそんな教育は受けたことはないし、ただ戦争の悲惨さやどこの国が正義とかではなく「戦争それ自体が悪」である、と習っただけだ。
そしてまたそういう方々が言うには「あれは欧米からのアジアの開放のための戦争だ」ということらしい。
それはしっかりと文献を調べてみれば判るのだが、ならどのような理由で世界大戦が起こったのか?石油?そうだねそれも原因のひとつ。
けれども、じゃあ何故石油輸出とめられたの?欧米の植民地支配をやめさせようとしたから?既得権益?
確かにそういう面もあったのかもしれない。
しかし歴史的にはっきりしていることのひとつとして、日本陸軍は石油資源を求めて印度に侵攻した。そして決して「解放」ではなく印・欄・英とぶつかったのである。
米国の戦争回避或いは禁輸政策の緩和の条件の中にはそれに対する撤退も含まれていたのである。けれども時の陸相東条英機は「出来ない」と言ったのである。相手が植民地として支配していようがどうあれ、「石油資源を求めて」印度に侵攻し米国との戦争の危機があるにもかかわらず、断ったのである。しかも天皇の判断は一に政治的解決、二にやむをえなければだが、それでも武力衝突は避けること、だったのに・・・。
まあ、それはいい。
私はその時代の人間ではないし、あらためて考えてみると自分の目で見てきたことではないので彼らのように100パーセント真実とも言い切れないのだから。
そして彼らがその日本の戦中戦前の行為の正当性を訴える流れの中で、何故「敗戦記念日」という言葉にこだわることがどうしても判らないのである。
もし私が彼らであったならば私としてはあの戦争の正当性を訴えたいのであれば「敗戦」という言葉の響きはどうしても許しがたいし、使いたくもない。
なのに何故使いたがるのかその理由がどうしても判らないのである。
「日本は正しい事をしたと思いますー」
老婆心ながら・・・。
戦争そのものが「悪」です。
ですから、どんな大義があろうと関わったものには正義はありません。
だだし、原因を追究しそれを総括する必要はあります。日本はそれをしなかったために未だに未来が見えていません。
それから、情報を得るにしても偏ってはいけないと思います。ネットから得るにしても予想以上にあてにならない情報ばかりです。出来るだけ公平な目で見ていると思われる人のしっかりと調べ上げられた著書を読むとか(今はネットでも読めるでしょう)テレビのドキュメンタリーだってまだまだ捨てたものではありません。要は情報の取捨選択と対比が必要かと・・・。それでも100パーセントの真実にはとどきませんけど・・。
だから私なんぞは皆何故断定口調で言えるのか?羨ましい限りです。
実はあなたのブログを読んでいてどうも、情報の正・誤で言えばグレーゾーンまでも正と断定してしまっている情報番組を中心に情報を得ているのかなと思ったのです。
だから老婆心ながら、です。
まあ、余計なお節介だったかもしれませが・・・。
あ、それから最後に一つだけ言わせてください。お願いいたします。
「誇り」は現代を生きている私たちにとって過去の人や事象に対してではなく現代の私たちが持つものだと思っています。過去の人たちに対しては感謝、但し本人たちの本心が判らない以上、必要以上に崇める事はしない方がいいと思います。
ごめんなさい、こんな答えしかできなくて・・・。
(*^-^*)