からくの一人遊び

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泉 沙世子  『カス』 Music Video(歌詞入り)

2022-09-18 | 小説
泉 沙世子  『カス』 Music Video(歌詞入り)



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(ちんちくりんNo,90)



終章


 真っ暗だ。右も左も上も下も勿論前後も。

 夢を見てきたような気がする。目が覚め最初はぼんやりと夢の尻尾を掴んでいたような感覚があったのだが、意識が明瞭になっていくに従って自分の周囲が闇に包まれ、しかも足が地についていないことに気付いて、海人の心臓は一気に跳ね上がった。そのため思わず夢の尻尾を離してしまい、後に残ったのは何故自分がこうして深い闇の中に浮遊しているのかという疑問だけだった。ここは何処なのだろうか。海人にはまるで見当がつかなかった。
 暫くして、はて、ところで俺は一体誰なのだろうか、彼は自分に「神海人」というれっきとした氏名があることさえも全く記憶の外に置いてきてしまったらしい。言いようのない不安にかられた。無理もない。辺りは闇で宙に浮いている状態、その上自分が何者であることも分からないとなると、疑問符だけが頭の中に溢れるばかりで、終いにはその後の自分のごく近い未来さえも想像出来ないことを知ってしまったのだから。
 海人がその状態から腕や足を泳ぐように動かせば、とりあえず移動出来ることに気付き、幾ばくかの落ち着きを取り戻した頃、正面に光るものを見た。円形であることは認識できたが辺りを照らすような光ではない。円形の中だけが白色に光り、その周辺に全く光が漏れていない。まるで黒い色紙をそこだけ彫刻刀でくりぬいたようだと海人は思った。光るものが近づくにつれ、海人はその「もの」が奇妙な動きをしていることに気付いた。まず、円ではなく球であること。その球が大きな揺れもなくただ一直線に海人に向かってくること。つまり、球は宙に浮いている状態ではなく何かに乗って、或いは何かに支えられてこちらに向かって来ているようなのだ。球の背後にそれを運んでいる誰かがいる?それにしては人の気配というものがしないのだが……。
 光る球の正体がどうやら水晶玉のようで、占い師が使うのに丁度手ごろな大きさだ、と海人が感じたとき、その水晶玉は微妙な距離を残して俄かに静止した。海人は目を凝らしたがそいつの背後は相変わらずの暗闇で、何者かがいるのかどうか分からない。だが、ふっと呼吸音のようなものが聞こえたと思った瞬間、静止していた水晶玉はまるで下手から投げられたりんごのごとく、緩やかな放物線を描いて海人のもとに向かってきて、彼の目前を今まさに通り過ぎようとしたので、思わず海人は両掌を前に差し出しそいつを捕獲した。衝撃はないに等しかった。
軽い、というよりも重量を感じさせない白色に光る水晶玉。海人が不思議に思い、どれどれと覗き込むと、光るだけだった玉の内部に黄色や赤や青など何色にも重なった渦のようなものが現れた。渦は幾つかに分かれ、また統合し横に広がり縦に広がり、それを繰り返すうちに、徐々に何かの映像のようなものが浮かび上がって来た。
最初に目にしたのはドアの映像だった。周囲の様子から恐らく玄関の。天井から斜め下、引き気味に撮影されているため部分的に土間も映っている。妙にきっちりと揃えられた男物と女物の靴が一組ずつ端に見える。誰の家か。海人が想像していると、しばらくしてドアが引かれた。女が玄関内に入って来たのだ。コンビニの買い物袋を左手に下げている。歳は五十代にも四十代にも見える。髪を前で切り揃えボブ系の頭にしているせいか若く見え、アラフォーと言っても通用しそうだ。画面の中にはいないが、彼女のすぐ前方には誰かがいるのか、一言二言声をかけているようだ。音声がないので何を言っているのか分からないが、多分名前を呼んでいるのだろう。カメラの位置がやや下方に降りたのか、女の表情が見て取れその表情が見る見るうちに変わっていった。異変?彼女は下げていた買い物袋をするっと落とし、サンダルが脱ぎ捨てられるように軽く宙に舞ったと思ったら、女は式台を飛び越えるようにして駆け画面の縁の先に消えた。何があったのだろう。
 海人は先ほどから女が誰なのか気になっていた。何処か懐かしいような容貌。見知った人物のような気がしたが、思い出そうとすると脳髄の底にイソギンチャクでも張り付いているような重く鈍い違和感が広がった。再び水晶玉に目を落としても、画面には誰もいない玄関が映っているだけ。この画面の縁の先だ。その映っていない「先」で何か大変なことが起こっているような気がする。アングルだ。アングルが逆にならないのか……。すると海人のその意思が伝わったのか、突如画面が切り替わった。そこには……尻を地につけアヒル座りになっている女がいた。やや後ろからだが辛うじて横顔が見て取れた。廊下?彼女はその廊下の上に横たわっている「男」の上半身を抱きかかえ、「男」に向かって必死に呼びかけを行っていたのだ。意識を失っているのか。脳梗塞かなにかで倒れたのか。彼女はそれこそ泣きじゃくりながら、必死に「男」の意識を戻すべく恐らく、彼の名前であろう言葉を連呼していた。夫婦だろうか?海人はまた「男」の方にも興味を持った。ただ、「男」の表情が海人には、女の体が邪魔になっているせいかよく分からない。くそっもう少し回り込んでズームアップしてくれれば……。すると、また映像の視点が横へ回り込むように移動していき、「男」が見える位置で静止して、その位置で徐々に「男」の顔をズームアップしていった。画面いっぱいになった「男」の顔、海人はその「男」の顔のパーツ全てを、顔を擦り付けるように見た。まさか、そんな馬鹿な。大きな衝撃を受けた海人はその反動からか、瞬時に「男」が何者かを知った。

 アノオトコノナハ、ジン・カイト。アレハオレ、ダカラ、ココニイルオレモ……。

 特に記憶が蘇ったという感覚はなかった。実際目が覚めてから、海人は自分が何者なのかここが何処なのか全く記憶というものがなかったし、しかも自分の顔というものもこの暗闇の空間では確認しようがなかったのだから、「男」の顔が自分の顔と瓜二つであることなど、気づくはずがなかった。直感だった。直感が海人に事実をもたらしたのだ。
 水晶玉の中に突然七色の渦が出現した。その渦はまるで火の玉のように尾をなびかせてアップになった「男」の映像の周囲を飛び回る。予想外の動きをしながらも、それは中心に向かって幾重にも大小の円を描き、飛翔するものだから、やがて「男の顔」はそれに巻き込まれるようにして崩れた。渦巻きは、今度は分割されるのではないようだ。逆に膨れ上がり、暴れまくったために、水晶の表面にかなりの熱を広げた。熱で持てなくなった海人は水晶玉を手放す。と同時に水晶玉は一瞬のうちに粉々に散った。すると外部に出た七色の渦巻きは瞬く間に人間二、三人は呑み込めるほどに膨れ上がり、そこまでの大きさになると、今度は空間の一部にまるでドリルのように回転して丸く大きなトンネルのようなものを掘り進めていった。空間の奥底、深く深くどこまでも。さながらそれは「時のトンネル」というべきか。そのトンネルの前で海人は立ち尽くした。このトンネルを行けというのか?―と、海人の右手を何者かが握りしめた。温かく優しい手。彼の手を握りしめるノッポの女の影。海人にはそれがもう誰なのか分かっていた。かほる、お前なんだな。女の影は振り向き、こくんと頷いた。……ここはまだあなたが来るところじゃない。あなたにはまだやらなければならないことがあるのよ。それに……わたしは姉さんを悲しませたくないもの。海人も頷き、その後二人は、トンネルの中に飛び込んでいったのだった。


 病室というものは何処もこういうものなのか?

 海人は周囲を見渡す。ベッドの左には大きくもなければ小さいわけでもない普通のサッシ窓、角には壁に寄せた冷凍機能のない小型の冷蔵庫があって、その上に16型のテレビがのっかっている。右にはゴロが付いていて、動かせるようになっている三段の収納机。奥の方に引き戸になっている出入口があって、その横にはトイレと洗面所が設置されていた。あとは……、点滴スタンドやら、血圧や血中酸素濃度とか心拍数とかを計測する機器が足許に並んでいる。なんてつまらないところだ、と思った。もっとも病院に入院していて楽しいなんてことがあるわけないか。
 海人はベッドをたてて、身体を起こしていた。すぐ前にベッドテーブルを掛け、その上に仕事に使う15インチのノートパソコンが置いてある。

 海人がこの病院に運ばれてからもう二週間になる。運ばれて来たときには意識もなく、心臓も止まっている状態だった。それを、医師の懸命な処置によって海人の心臓は再び動き出したが、意識だけはそれから三日間戻らなかった。裕子は医師から、「呼吸がなかった時間を考えると脳に何等かのダメージがあったろうし、それを考えるとこのまま植物人間状態になってしまうか、もしくは意識が戻ったとしても普通の生活はもう無理だろう」と言われ、彼女自身精神的にもかなりのダメージを受けたが、海人が目覚めたとき、恐る恐る私が誰だかわかるかと問うたら、彼はきょとんとして「裕子だろ?裕子だよ。俺の大事な大事な恋女房」なんて言うものだから、彼女は途端に脱力してその場に座り込んでしまい、バカ!と大きな声で泣き出してしまった。
 意識もなく?裕子からそう聞いたとき海人は奇妙な思いにとらわれた。海人の記憶からすると、一度、彼の意識は戻っていたからだ。意識が戻ったとき、海人は裕子に抱きかかえられていた。はっきりと目を開け見たわけではないが、彼女は泣きじゃくりながら必死に彼の名前を連呼していた。彼の胸に顔を埋めながら叫んでいたものだから海人は返事をしたつもりだった。―大丈夫、俺は生きているよ、と。確かにはっきりとそう返事をしたはずだ。その後、彼は無性に眠くなり再び意識が底へ落ちていくのを感じたが、その意識のはざまで裕子の声とは別にもう一人の声も聞いた。

 さようなら海人、好きだったよ。またいつか会える日を期待して―。

 ああ懐かしい声だ。あれは悔いが残る、胸が締め付けられるような思い出。あのとき、もう三十数年も前にもなる″かほる″との別れのとき。好き、という言葉を二人とも、とうとう口から出すことが出来なかった。かほるはそう言いたかったのだろうか。……本当は、あのとき俺の方がそう彼女に伝えるべきだったのに。

 入院して三日後に目覚めてから、海人は意識が戻っても意外なほど筋力が落ちていることに驚いた。脳の機能的にも異常がないかMRIを撮ったり、脳波を調べたりして様々な検査を受け、そちらの方は記憶力がやや落ちているようではあったが、その他は特に異常がなかった。なので日々筋力を取り戻すためのリハビリを受けている。もう十日ほどリハビリを受けているので、海人はもういい加減いいではないかと言っているのだが、担当医師の返事は「まだ、何らかの後遺症が出るかもしれない。様子を見るため一か月は入院してもらわないとね」とつれなかった。
 海人は病室にてパソコンを前にして考えている。龍生書房の七瀬社長に依頼された書下ろしの小説はほぼ完成していた。学生時代の海人とかほるの出会いと別れの物語。倒れる前に書き終えていたのではあるが、最後を直したくなって裕子にそれを保存してあるノートパソコンを持ってきてもらったのだった。元は主人公とヒロインが好きとも言えず別れたところで終わりにしていたのだが、それは削除し別れることは必然だと分かっていても、告白を選ぶ主人公という場面設定にしてそれを詳細に描いた。どちらも悲劇には違いないが、読んでいる人により想いを伝えるためにはそうすることが一番だと考えたし、海人自身も自分の過去に何らかの決着をつけたいと思ったからだった。

「あら、なにを難しい顔をしているの」

 唐突に病室に入って来た裕子が腕組みをしてパソコンの前で考えている海人に向かって訊ねた。

「いや、タイトルを何としょうかと思ってね」

「タイトル?まだつけてなかったの?」

「俺がタイトルは最後に付ける性分だということは知ってるだろ」

 海人がそう不機嫌そうにすると、裕子はムスッとして何が言いたいのかぶつぶつと呟き出す。海人はまずいなと思ったけれど、そういった自分たちの今までの関係、経緯を客観的に考えてみると、何だかコミカルではあるなと思った。ならば(何がならばか分からないけれども)思い切ってタイトルはコミカルにしよう。

「なあ」

「何よ」

「『ちんちくりん』ってどうだ」

「ちんちくりん?それはあなたとかほるのことをモデルにした小説よね。かほるのこと?ちんちくりんって。かほるはほっそりとしたモデル体型よ。ちんちくりっていうのは背が低くてぽっちゃりした人が、全くサイズの合わない服を着ている様っていうか……そういうことじゃないの」

「俺は、ちぐはぐな様相で、性格も超個性的なんだけれど何だか憎めない奴って意味に思っているんだけどな。かほるってそういう奴だったんじゃないか」

「うーん。憎めない奴っていうのは確かにそうね。ちんちくりん、かあ。そういえば何だか愛らしい響きがあるね」

「うん。そうだろそうだろう。じゃ、決まり!」

 海人は早速パソコンのキーを打ち込んだ。

″ちんちくりん″

 おお、よいではないか。改めて活字にするととてもしっくりくる。
 海人が悦に入っているところに裕子が収納机の一番上の引き出しを引いて下着の入れ替えをしながら、訊いてくる。

「ねえ。あなたとかほるの物語はこれで終わりよね」

「はあ、そうですが」

「なら次回作は?」

「へえ」

「当然私とあなた、との物語、を書くのよね」

「へえ」

「なら良し!」

 嘘である。いや、勿論いずれは書くだろうが、海人はその前に誰もが憂い、誰もが苦しむ問題、例えば犯罪、事故、病気、天災などのもう少し大きなテーマに挑戦してみたいと考えていた。その中で人間は如何に生き抜いていくか、さまざまな人間模様を描きながら、それを読んだ人々に何らかの癒しになったらそれでいい。
 2011年には東日本大震災にみまわれ、ここ何年かは毎年夏の時期になると各地が大雨による洪水の被害に遭っている。今後何が起こるか分からない。もしかしたら殺人的な病原菌が現れ、人間は苦難の道を歩かねばならなくなるかもしれない。そういったときに、何か救いになるような小説が書けたら……。
 
―ねえ。

裕子に呼ばれて海人は顔を上げた。すると裕子は海人の肩に両腕を巻き付けるようにして体を寄せ抱きついた。

 ―よかったあ。本当によかった。

 ―心配かけたね、ありがとう。それに、きみに出会えて俺こそありがとうなのだから。

 海人は心底そう感謝しながら、裕子の小さな背中を優しく撫でたのだった。







 調べたらこの小説を書き始めたのは2021年の2月26日でした。なんと書き上げるのに1年7か月もかかるとは。もっとも、ペースも遅く不定期の連載でしたからまあこんなものかなと思います。
 これからこの小説を再度読み直して修正をかけたいと思います。恐らく直さねばならないところは多数あるでしょう。原稿用紙にすれば300枚近くはあるこの小説は、バージョンアップしたのち、再度またここに載せる予定です。そのときにはかなり読み易くなっていると思います。
ということで……では、また、いつか成長した神海人が皆さんに会いに来ることでしょう。

2022年9月17日
小説「ちんちくりん」終了す。

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