Paul Simon and Art Garfunkel - "Bridge Over Troubled Water" (6/6) HD
ははの気まぐれ 「ぱらそるさして」(梅田HARDRAIN 2003.11.14)
Billy Joel - The Downeaster 'Alexa' (Live at the Los Angeles Sports Arena, April 1990)
藤原さくら - daybreak (Lyric Video)
流星のサドル 槇原敬之
Molly Tuttle "White Rabbit" Portsmouth, NH 5/25/23
そーたパパが会社員だった頃
了
ははの気まぐれ 「ぱらそるさして」(梅田HARDRAIN 2003.11.14)
Billy Joel - The Downeaster 'Alexa' (Live at the Los Angeles Sports Arena, April 1990)
藤原さくら - daybreak (Lyric Video)
流星のサドル 槇原敬之
Molly Tuttle "White Rabbit" Portsmouth, NH 5/25/23
そーたパパが会社員だった頃
そーたの名前は正式には颯大と書いて《そうた》と読む。苗字も入れれば神代颯大である。だからどうだっていう訳ではないが、皆がそう呼ぶのが彼にとってはちょっとだけ気に障るときがある。特に今年十五になる娘の茜音がそーたのことを《そーたパパ》と呼ぶのは勘弁してくれ、と彼は思うのだ。
そーたは県内に三店舗ある書店を経営している。不況のおり、経営は大変だが奇跡的に何とかやっていられる。
彼は、元々は勤め人だったが、茜音が生まれる半年ほど前に祖父が古くから営んでいた小さな町の本屋を閉めると言い出したので、勤めていた会社をすっぱりと辞めその本屋を継いだのだった。
最初、祖父は無理するなと言ってくれた。が、会社員でいることにあまり意味を感じられなくなっていたし、丁度その頃妻の真莉愛のお腹の中に小さな命が宿ったことが判明したこともあって、どうせなら何もかも変えてしまおうと思ったのだ。彼は自分が本屋を継ぐのだと決心し、当時住んでいた家も引っ越して今のこの土地へやってきたのだった。
店を継いでから十五年余り、たった一軒の小さな町の本屋だったのが、県内三地域に店舗があるそれなりの中小書籍小売企業にまでなった。地方の本屋が次々と消えていく中で、それは信じられないことだった。その間、茜音は活発でやや口が過ぎるところはあるが、親想いの優しい子に育ってくれた。真莉愛も茜音が自分から手が離れる頃に、会社の経営に参加してくれるようになった。幸せだなとそーたは思う。
ただ、そのようなことを思い浮かべるとき、どうしてもあの頃のあの少女との出会いを彼は思い出す。
―潮音ちゃん、君は今も元気でやっているのだろうか。
当時そーたが会社員としてぺーぺーだった頃、駅で二人の母子をしばしば見たことがあった。季節は冬になっていたと思う。
彼は服装を憶えていなかったが、お母さんと思われる方はまんまる顔の大きな目、子供の方はぺこちゃん風のお茶目そうな女の子、という感じだった。お母さんの歳は想像がつかなかったが、女の子は小学生になったばかりだったろうか。
ふたりはいつもそーたが下車する駅の改札を抜けて、すぐの階段を下りた先に立っていた。見るからに誰かを待っている風だった。
そーたは大抵十九時五十六分に駅に着く電車に乗って帰って来ていたので、彼女たちが当然その時間に帰ってくるお父さんあたりを待っていることは想像出来たが、それにしてもふたりの行動は妙だと思っていた。
彼はともかく後ろに人が付いてきて急がされるのが嫌で、いつも階段を下りる人の列の最後尾にいることを常としていたが、何気なく見ていると、ふたりの母子は先頭から最後尾の彼までの顔を確認しているようで、それが終わるとお母さんがやや腰を落とし気味にして、何やら女の子の小さな耳に囁いていた。すると明らかに女の子は残念そうな仕草をしたのだった。
待ち人来たらず、か?
どこか不思議に思いながらも気になったのは最初の頃だけで、いつしかその時間にふたりをみることは、風景のひとつのようになり気にならなくなっていった。
彼は恐らく春を過ぎたあたりでふたりの姿が見えなくなったことに気付いたが、普通に少しだけ残念に思い、普通に忘れていったのだった。
ふたりのうち女の子の方に再度出会ったのはそれから三年くらい経ってからだった。
その日そーたは最悪な気分だった。
当時彼はある会社の営業担当で日中外まわりをしていたのだが、最後の訪問先のある商店で入口に入る際、シャッターが少し下がっているのに気づきながらも頭を下げるタイミングを間違え、しかも急いでいたこともあり大きな音とともに額をシャッターに打ち付け、なんと流血してしまったのだ。ありえないこともあるものだ、と今にしてそーたは思う。
大きな音に驚き、その顔を見た商店主は一瞬口を半開きにして、その後あきらかに笑いを隠しながら奥の部屋から救急箱を下げてきて、そこから手早く脱脂綿に消毒液を含ませ近くの椅子に座れとそーたにいいつつ、彼の鼻脇から額までこれでもかというくらいに押し付け拭い、最後に流血場所である眉間のやや上に超特大のカットバンをパンと貼ってくれた。
「悪いがこんなドジな奴とは、ちょっとなあ、危なくて契約できないやな」と商店主はまだまだ抑えきれないといった風に口に手を遣り、目は明らかに笑いを含んでいた。そーたは商店主が彼の不幸をこれ幸いと契約を断る口実にしたことは分かっていたが、信用を失ったという点は確かなので、怪我の手当てをしてくれたことに感謝の言葉を述べつつ、その場はすごすごと引き下がるしかなかった。
会社に帰ってから事の経緯を上司に報告すると「バカ」と怒鳴られ、十違うそーたが秘かに社内一可愛いと思っていた新人女子社員には軽蔑の目を向けられるという散々な日であった。
そんなこんなで悲惨な一日の仕事を終え帰路に就き、列車に乗ってルーティーンどおり十九時五十六分に地元の駅のホームにそーたは降り立った。改札を通って人の列の最後尾で顔を伏せながらゆっくりとその日一日の悪夢を振り返り、「バカだなぁ」と独り言ち階段を下り切ったときだった。
足を大地につけ一旦伸びをして、駅から十五分くらいかかる我が家へと向かおうとしたところ、なにやら刺すような痒いような視線を感じたのだ。
ん、レーザービームか?
ゆっくり視線の先を手繰ると、少し離れたところに女の子が立っていることに気が付いた。
どのくらいの歳なのか、まだ思春期に入る前なのかな、とそーたは思った。
彼女は彼と目が合うと、にこっと笑った。……お茶目そうだ、と彼はその笑い顔に好感を持った。
女の子に笑いかけられるのは結構いい気分になるものだ、とも思ったが、なんだか面倒に巻き込まれそうな予感がしたので無視を決め込み、そーたは再び前を向いて歩き出した。しかし百メートルほど歩いて軽い下り坂にさしかかると、女の子のことがどうにも気になりだして仕方がなくなった。いつになく大きなカーブを描く駅前道路を走る車の風切り音が背中に感じられた。
そーたの記憶の底に住む形のない何物かが「思い出しなさい」と囁いていた。
俄かに立ち止まり考えてみた。
お茶目そうな女の子だ。何故こんな時間に駅のあんな場所に……誰かを待っているのか。
キーワードを繋ぎ合わせてみた。
ふと「もしかして」と思い至り、そうなると答え合わせをしたくなって居ても立ってもいられなくなる癖のあるそーたは、早速走るように歩幅を広げ駅へ舞い戻った。
彼女と目を合わせてから十分もないと思われたが、もといた場所には誰もいなかった。そーたは焦ったが、幸運なことに女の子はすぐに見つかった。駅前広場の少し離れたところにベンチがあり、そこに座っていた彼女が吃驚した顔でこちらを見ていた。
そーたはゆっくりと女の子のもとへ歩み寄った。すると彼女もベンチから腰を上げ、なんと今にも泣きそうな表情をしてそーたのもとに駆け寄って来たではないか。そーたと女の子との間の距離がそーたの歩幅くらいになったとき、女の子は立ち止まり、ハアハアさせながら彼を少し見上げながらこう言った。
「やっぱり潮音のパパ?パパだよね」
女の子の名前は遠藤潮音。
小学校四年生だといった。
三年前の母子の子はやはり潮音ちゃんで、母はママで「会ったことのないパパ」に潮音ちゃんが会いたくてママと二人で駅の階段下で待っていたのだということだった。
「で、結局会えなかったわけだ」
「うん」
ふたりはベンチに並んで座り、事の経緯をそーたはできるだけ優しく潮音ちゃんから聞き出そうとしていた。
夜だったが駅前の広場には街灯が何本かたっていて、それほどの暗さは感じなかった。
「潮音ね、なんとなくわかっていたんだ。……パパがはじめからいないこと」
「だから諦めたんだね」
「うん」
どうやら三年前の潮音ちゃんは自分だけなぜ父親がいないのか母親に迫ったようだ。彼女の話は今ひとつ判然としないところがあったが、推測するに父親は潮音ちゃんが生まれる前に亡くなったのだろう。もしかしたら事情があって、籍を入れる前だったかもしれない。それで仕方なく、母親は「遠くに行ってるのよ。列車に乗っていつか帰ってくるよ」と……。十九時五十六分に駅に着く列車に乗って。そーたは考えを巡らせたがそこでひとつ疑問が沸いた。
「じゃあ、なんでまた今日、駅で待っていたの。お母さんは一緒じゃないの?」
「夢を見たの」
「夢?」
「うん、ママがでてきたの……、パパらしい人も一緒に」
そーたは潮音ちゃんの顔を見ながら少しおかしいぞ、と思った。父親はともかく母親までも一緒に夢に出てくるって、そのシチュエーションは……。
すると潮音ちゃんはそーたの様子を見て気づいたのだろう、軽く笑顔をみせながら「ママは今お墓のなかだよ」と言った。
そーたは少なからず心が揺れた。
亡くなった母親が夢に出てきた。しかも父親らしい人と。だからもしかしてと、またここへきたのか。それも根拠はない。それだけ母親、いや、だけじゃない……ふたりに会いたかったのだ。列車に乗って帰って来たふたりが、手をつないで駅の階段を下りてくる姿を想像し、それを期待しながら。
そーたはしばらくの間沈黙した。潮音ちゃんにどのように言葉をかければ良いのかわからなくなった。父親も母親もいない潮音ちゃん。今日初めて会話を交わした彼女に同情するのは卑怯だと思いながらも突然悲しくなった。
「……泣いてるの」
「いや違うよ」
「でも泣いてるよ」
「違う違う」
「六月二十二日ね」
「うん」
「ママのね、誕生日なの」
「もうすぐじゃないか」
「うん。だからね、それまではここにくるんだ」
それはいけない、小学四年生の女の子が夜出歩くのは危険だぞとそーたは言おうとした。が、この子はきっとそれでも来るだろうなと変に言うのを躊躇っていたら、潮音ちゃんはすっくと立ちあがり、「そろそろおばあちゃんが起きてくるんだ。帰らなきゃ。おばあちゃん、晩御飯のあと必ず横になるんだよ」とそーたを見下ろしくるりと帰ろうとした。それを「最後に―」と呼び止め、再びこちらを見た潮音ちゃんに向けたのは、先ほどまで躊躇っていた言葉ではなかった。
「なぜ俺をパパと思ったの?」
「決まってるじゃん。超大きなカットバン!夢のパパもそこに貼ってたんだよね」
そう言い残すと彼女は一目散に駆けだしやがて闇に消えた。
しばらくの間それを見ていたそーたは、額のカットバンに指で触れながら、こう呟いたのだった。
―あんまりな理由だぜ。
平屋の一戸建ての賃貸住宅のドアを「ただいま」と開いて入ると、奥から真莉愛の「おかえり」という覇気のない声が小さく返ってきた。
夕べのことが未だ尾を引いているのか…。
そーたは困ったな、と思いながらも靴を揃えて上がり、短い廊下の右奥にあるキッチン&リビングを覗いた。
背中を見せている真莉愛は遅い夕飯の支度をしていた。
もう一度、「ただいま」と声をかけたが、彼女は振り向かず事務的に「お風呂沸いてるから」と返した。
そこにいても仕方がないので、そーたはその隣のクローゼットがある寝室に入り、素早くスーツを脱ぎハンガーに皺にならないように掛けて、下着を用意しそそくさと風呂に向かった。
風呂は熱かった。
軽く湯を浴び、左足から湯船に入った。ジン、として少し足を戻しそうになったが、我慢し勢いで右足、そして体全体をザブッと湯船に沈めた。
五分くらい経つと体も熱さになれ、額のカットバンのことが気になり、「ああ今日は頭を洗おうかどうしようか」などと思う余裕もできた。
それにしても……。
あの子はまた来ると言った。
いくらしっかりとしているとはいえ小学校四年生の女の子が夜の八時にあそこにいるのはやはり危険だ。駅前には高校生らしい不良が集まってくることもある。不審な男が声をかけてくるとも限らない。心配だ。
普通に考えれば警察に事情を話して保護してもらえばいいだけの話だが、そーたは、そうはしたくなかった。自分勝手だが、そーたが関わりそーたが心配し、心配ないように確認したいからだった。
六月二十二日まであと五日か。
今日が十七日の月曜日で明日の火曜日も大丈夫だ。土曜は休日出勤だが調整はつく。ただ、水曜日から金曜日までは確実に残業になる。恐らくルーティーン通りに帰ってくることは不可能だろう。誰かその三日だけでも。最も信頼出来る誰か……。
そーたは湯船により深く、顎まで沈めながら「そうするしかないのか」と短い溜息をついた。
風呂からあがり、スウェットに着替え、キッチンのテーブルに着くと向かいに座っていた真莉愛がそーたを見て急に大声で笑いだした。溜まっていたものを吐き出すような笑い方である。
「なあに、それ」
そーたの額の大きなカットバンを指差して、今度はケタケタケタに変わった。
「名誉の負傷だ!」
「名誉の負傷?どこにぶつけたの?」
「なぜ、暴漢に襲われたのとか言えない。…大丈夫なの、とかもさ」
「だってそーたドジだもの。それを考えたらねぇ」
くくく、とまだ笑うのをやめない真莉愛。でも、怒る気にはなれなかった。それどころか良かったと思った。前日言い争いをしていたからだった。
真莉愛とそーたとはそのとき出会って二年が経っていた。同じ業界の別会社で、彼女は受付嬢(勿論仕事はそれだけじゃないが)、そーたは営業で忙しい毎日を送っていたものだった。
そんなとき、詳しくは言わないが、会うべくして会った。そして、付き合うようになって何か月かで、いつのまにか彼女はそーたの家の同居人となり、次の年の十二月に「そろそろ花嫁修業しなくちゃ」とそれなりに勤めた会社を彼女はあっさりと辞めてしまったのだった。それからそーたはずっといつ彼女と籍を入れようかと深く悩み続け、恐らく真莉愛の方は日が経つにつれ、会社を無暗に辞めてしまったことを後悔するようになったのだった。それなりでもやりがいのある仕事だったことに気が付いたのだろうとそーたは考えた。
今思うと馬鹿らしいが、「前日の言い争い」は子供が出来たらどう自分たちを呼ばせるかの意見の相違による争いだった。つまり、子供が出来る前から、そーたは「お父さん・お母さん」、真莉愛は「パパ・ママ」と呼ばせるということで一歩も譲らず、その末に喧嘩になったということである。でも、これも心の裏ではそーたの「悩み」と彼女の「後悔」が微妙に絡まって火花が散った結果と言えなくもなかった。
ようやく笑いがおさまった真莉愛は、「ごめん、ごめん」と言いながら立ち上がり、食卓にごはんを並べ始めた。そして、並び終えた彼女が席に着いて「いただきます」を言う前、一瞬の間を狙ってそーたは「話したいことがあるんだけど」と話をもちかけた。
「なに?」
「明後日から三日間、水曜日から金曜日まである女の子を見守って欲しいんだ」
「女の子?」
「うん、小学四年生の女の子。夜の七時五十六分着の列車を待ってるから、駅の階段の下にいるから、君についていて欲しいんだ。出来たら彼女が家に帰るまで何もないことを確認してもらえたら嬉しいんだけど」
真莉愛はそーたを見た。ロングの艶のある髪、程よい大きさの顔、大きく瞳に輝きを持った彼女に見つめられ、そーたは少し心臓の鼓動が高鳴った気がした。
一分くらい彼女はそーたを見つめていただろうか。
真莉愛は、はあ、と笑みを見せ、軽く頷きながら「いいわよ」と言った。
いただきますを言って箸を持つ彼女に「なにも聞かないの?」と不思議に思って訊ねると、「だってそーたって不器用なんだもん、嘘もいえないし、悪いことも出来ないし、だから信用してるのよ。まあ大好きだし」と頬を赤らめた。
そんな真莉愛にそーたは大いに感謝し、同時に信用しているという彼女の有難い言葉に助けられた思いもあって、今日の営業での失敗もこれで帳消しだねと大きく手をあわせて彼も「いただきます」を言った。
「あっ、でもその子の名前は教えて」
「潮音ちゃんっていうんだ」
そーたは熱い味噌汁に口を付け、あちちっ、と片方の目尻に微かな汗を出した。
翌日の帰宅途中、そーたは駅の階段下に佇んでいた潮音ちゃんに声をかけ、昨日真莉愛と相談したことを潮音ちゃんに伝えた。
「いいの、ホントに」
「ああ、君が夜ここにいるのは心配だからね」
「そーたさんのお嫁さん迷惑じゃない?」
そーたのお嫁さんと言われて、何だか気恥ずかしいような気がしたが、そーたは優しい笑い顔をつくって「本人も乗り気だから大丈夫だよ」と答えた。
それから潮音ちゃんを家の前まで送り届けたが、その家は、築四十年は経っていそうな古い平屋の一戸建てだった。そーたは自分が幼少期に住んでいたアパートに似ているなあと眺めながら、潮音ちゃんを送って来たひとつの理由を忘れてはいけないと思いそれから腰を落として潮音ちゃんに「おばあちゃんは?」と訊ねた。
「まだ眠ってると思うよ。何?」
「今回のことをおばあちゃんにことわっておかなきゃね」
「それはダメ」
「でも心配させちゃかわいそうでしょ」
「いつも眠っているから大丈夫だよ。それに潮音がやっていることおばあちゃんが知ったら、そっちの方がかわいそう」
「そっちのほうが……かわいそう」
ちょっと考えてから「そうだろうな」と思った。孫が亡くなった父母に会いたいあまりに夜な夜な駅に向かう。そんなことを聞かされたら、しかも潮音ちゃんの母親はおばあちゃんの娘でもあるのだから、きっとおばあちゃんは悲しむことになるだろう。それでも知らせずにいて、もし途中でわかってしまったとしたら、潮音ちゃんが隠し事をしていた、そのことの方が残酷ではないか。そーたは迷ったが、潮音ちゃんに「できるだけ大丈夫なように説明するから」と約束して彼女を促し玄関のドアに手を遣った。
水曜日からのそーたはやはり多忙だった。
潮音ちゃんのおばあちゃんは、そーたが説明し終えると信じられない程あっさりと「お願いいたします」と頭を下げた。予想外の事だったので、そーたが慌てて「何故‥…」と問いかけると彼女はそーたの目の前に手をかざし、彼を制した。まるで「全部分かっている」という風に。そーたはその圧力に負けて、結局それ以降はただ一言「お預かりします」と言って帰ったのだった。
当初の計画では真莉愛にただ一緒に付いていてもらうだけのつもりだったが、おばあちゃんとの話の中で、そーたは勝手に「学校の帰りにうちに寄ってもらって、時間になったら駅に行き、終わったらお宅に送り届けます」という風に変更してしまった。真莉愛に怒られると思って恐る恐る話したら、こちらもあっさりと「その方がいい。当たり前でしょ」とそーたは言われてしまった。
そーたはどうしてこんなことに頭を突っ込んでしまったのだろうと考えた。あの時、ただの不良少女だと割り切り、そのまま家に帰ってしまえばいいものを。でも見過ごせなかった。人が好いといえばそうだが、それだけじゃない。それはきっとそーたが真莉愛にいつまで経っても籍を入れようと言えない理由と、どこかで繋がっているような気がしてしかたがなかった。
そーたの母もシングルマザーだった。とても厳しい人だった。もとはとても優しい人であったのが、小学校に上がった頃から急変した。最初は出来ないことがあるときつく怒られた。それがいつしか理由もなくそーたの人格まで否定するようにたびたびそーたを罵倒するようになり、後には暴力まで振るうようになった。多分そーたが小学校に入学する直前に離婚して家を出て行った父親の所在について、そーたがしつこく母に迫ったのがきっかけだったのだろうと彼は回想する。彼は罵倒され、殴られ続けながらも必死でこれは夢なんだと思い続けた。これが虐待だと気づいたのはずいぶん後になってからだった。
転機になったのは中学二年生の時だ。
母が死んだ。心筋梗塞だった。ひとりになった。そこでそーたは父親の両親、つまり実の祖父母に引き取られることになり、以後彼らには衣食住の保障をしてもらうだけではなく、大学にまで行かせてもらえるという幸運な日々を送らせてもらったのである。そのおかげなのか実母から受けた虐待の記憶は次第に消えていったように思われたのだが、それはある時期から再び蒸し返すようにそーたの前に表出した。
真莉愛と出会って同居し、そろそろ籍を入れなければとなった頃だった。何故か突然異常なくらいその消えたはずの記憶を意識するようになり、そのためか過度に考えすぎ、自分も母のようになるのではないかと恐れるようになった。いつか子供が出来たなら自分も子供を虐待するのではないか、それだけではなく真莉愛をまでも残酷なまでに傷つけるようになるのではないかと恐れた。だから、なかなか籍を入れられなかった。
もし他人にそのことが潮音ちゃんのこれまでの経緯と繋がっているとは到底思えないと否定されてしまえば、そーたもそう思い直すことだろう。でも彼女とかかわることで、何かが見えてくるようなそんな確信が彼にはあった。もしかしたら彼女はそーたの天使になるのかもしれないと、まるで夢見がちな少女のようなことを彼は思ったのだった。
夜十時過ぎに会社から帰ってきて、真莉愛に「どうだった?」と聞くと一言、「心配しないで」と答えるだけだった。夕飯はちゃんと食べていってくれたようなので良かった。
木曜日になると「あの子可愛いわね」とか「うちの子にしちゃいたい」とか「思い切っていろいろと話しかけたら、嬉しそうに話しはじめてね、あの子の家まで話しながらついて行って、うちに帰ってくるのがとても寂しかった」とか楽しそうな真莉愛の顔が見られるようになった。
そして二十一日の金曜日、真莉愛は悲しそうに「もうあの子には会えないのよねぇ」と残念がり、この世の終わりのような顔をしていた。「あの子、多分うっかりだと思うけど、言ったのよ。私をママって。なんだか嬉しい」とも。
六月二十二日の土曜日の朝は晴れ渡り、普段は憂鬱な土曜出勤なのだが、爽快な気分で出かけることができ仕事も普段でもないようなスピードで仕上げることが出来た。
あまりに早く帰れることになったものだから、田舎の都会を何気なく歩き回って時間を潰しながら、ふとそうだよと気が付いて駅ビル内のケーキ屋で苺ショートケーキを買い、時間通り帰りの、というより潮音ちゃんが待っていてくれる駅へ向かう列車に乗った。
列車の中超大きなカットバンはもう必要なかったが、やはりこれがなくてはと、もう一度眉間のやや上辺りに貼った。
たった一駅なのに時間が経つのが限りなく遅く感じた。土曜日なので乗客もそれほどではなかった。はやく、はやく、潮音ちゃんの悔いのない笑顔がみたい。
十九時五十六分。
そーたはホームに降り立ち足早に改札を通り過ぎ、通路を急ぎ誰よりも先に下りの階段を駆け下りて、半分まで行ったところで止まった。
潮音ちゃんだ、隣には真莉愛。
真莉愛は潮音ちゃんの肩に手を乗せ、少し屈みながら潮音ちゃんの耳に向かって何か囁いていた。
そーたが、また下りて行き、あと一段となったとき、潮音ちゃんは彼のもとに駆け寄って来て強い力で抱きついてきた。
「おかえり、パパ。ママもそこにいるよ」
「ただいま、潮音ちゃん」
潮音ちゃんを「そーたパパ」の方に送りだしてくれた「真莉愛ママ」はとても幸せそうな笑顔をしていた。
後から来た帰宅者どもがあからさまに迷惑そうにして通り過ぎていったが、そーたは壊さないでくれと心中で繰り返した。
……壊さないでくれ。本当に短い、ともするとすれ違うだけの関係だ。
でもどうか今だけはお願いです。壊さないでください。
そーたは願った。
少しだけベンチで話して、真莉愛とそーたは潮音ちゃんを家へ送って行った。
彼女の家の前で別れるときに、そーたは持っていた白く小さな箱を渡した。
「ママの誕生日。潮音ちゃんとおばあちゃんと、勿論本物のママとパパにもね」
潮音ちゃんは、それをありがとうと嬉しそうに受け取り、少し恥ずかしそうに顔をあげた。
「ねえ、真莉愛ちゃんとそーたさん、これからもママとパパって呼んでいい?」
「それは出来ないな。君とは離れちゃったけど本当のパパとママはいるんだよ。だからそう呼ぶのは駄目。それでも呼んでくれるなら、そうだね、お父さんとお母さんとでも呼んでもらえないかな」
真莉愛が「そうしてあげて」とお願いすると、潮音ちゃんは「うん」と笑顔で答えてくれた。
潮音ちゃんと別れてふたりは帰途についた。周りに何もないところで吹いた夜風が意外に冷たいのに驚いた。
「もうあと何日かで七月になるというのにね」
「そうね」
「あーあ。子供はやっぱり女の子だな」
「大丈夫よきっと。きっとそうなる。でも寒い時期だな、いや春か」
「春って、なにそれ」
「医者行った。できたんだろうねぇ、きっと」
さらりと真莉愛は言ってのけた。
そーたは慌てふためき、なにを言っていいのか分からなかった。
「うんうん、そうだね、そうだよね、そうに違いない」
そーたのまったく意味のわからない言葉に、
「まどろっこしいなあ、何を言いたいのよ」
真莉愛がキッとそーたを睨んだ。
困ったそーたは最低でも言わなきゃならない言葉を思い出し、
「ありがとう」と言った。
「そうだね、それでいいのよ」
真莉愛は夜空を見上げて、歌でもうたいたい気分、こういうときは何の歌だろうと呟いた。
そしてあたかも、あっと急に思い出したように空をみあげたまま、こう言った。
「いい日に籍を入れようね、子供のほうが先になっちゃったけどさ」
それはそーたのほうが先に言わなければならない言葉だった。彼がずっと言えないことに悩んでいた言葉だったが、逆に真莉愛に言われてしまったら、別にどうということもないことに気付いた。男としては失格なのかもしれないが、どちらがそれを言おうと未来は勝手にやってくるし、その未来はどうなるのかは誰にも予想出来ないのだ。いきなり文無しになって住む場所にも困るようになるかもしれないし、大金持ちになるかもしれない。要はそれを一旦は受け止めて、それから嵐が過ぎるまで耐え忍ぶのか、突き進むのか、どちらも出来ないのであれば逃げてもいいとさえ思う。そーたは一気に心が晴れたような想いに包まれた
「ねえ」
「何」
「この子潮音ちゃんみたいな子になる気がする」
「そうだね。俺もそう思うよ」
結婚すれば、そーたは真莉愛に頭があがらなくなり、きっと生まれてくる子供はパパ、ママとそうふたりを呼ぶことになるのだろう。
ガタン、ゴトンと夜風に流されて、列車が近くの線路を通過する、どこか懐かしさを感じさせる音がそーたの耳に届いた。
そーたの問題、真莉愛の問題はまだまったく解決はされていない。でもそーたは何かが変わったと思った。肯定感でいっぱいになった自分がいる。ともかくこれからの自分たちの人生を迎え入れればいいのだ。悩むのはそのあとだ。
暫く聞こえていた列車の通過音は次第に遠ざかって行き、やがて消えた。
そーたは次の年に生まれてくる我が子に想いを馳せながら、潮音ちゃんとは、きっともう、会うことはないだろうなと思った。
そーたは県内に三店舗ある書店を経営している。不況のおり、経営は大変だが奇跡的に何とかやっていられる。
彼は、元々は勤め人だったが、茜音が生まれる半年ほど前に祖父が古くから営んでいた小さな町の本屋を閉めると言い出したので、勤めていた会社をすっぱりと辞めその本屋を継いだのだった。
最初、祖父は無理するなと言ってくれた。が、会社員でいることにあまり意味を感じられなくなっていたし、丁度その頃妻の真莉愛のお腹の中に小さな命が宿ったことが判明したこともあって、どうせなら何もかも変えてしまおうと思ったのだ。彼は自分が本屋を継ぐのだと決心し、当時住んでいた家も引っ越して今のこの土地へやってきたのだった。
店を継いでから十五年余り、たった一軒の小さな町の本屋だったのが、県内三地域に店舗があるそれなりの中小書籍小売企業にまでなった。地方の本屋が次々と消えていく中で、それは信じられないことだった。その間、茜音は活発でやや口が過ぎるところはあるが、親想いの優しい子に育ってくれた。真莉愛も茜音が自分から手が離れる頃に、会社の経営に参加してくれるようになった。幸せだなとそーたは思う。
ただ、そのようなことを思い浮かべるとき、どうしてもあの頃のあの少女との出会いを彼は思い出す。
―潮音ちゃん、君は今も元気でやっているのだろうか。
当時そーたが会社員としてぺーぺーだった頃、駅で二人の母子をしばしば見たことがあった。季節は冬になっていたと思う。
彼は服装を憶えていなかったが、お母さんと思われる方はまんまる顔の大きな目、子供の方はぺこちゃん風のお茶目そうな女の子、という感じだった。お母さんの歳は想像がつかなかったが、女の子は小学生になったばかりだったろうか。
ふたりはいつもそーたが下車する駅の改札を抜けて、すぐの階段を下りた先に立っていた。見るからに誰かを待っている風だった。
そーたは大抵十九時五十六分に駅に着く電車に乗って帰って来ていたので、彼女たちが当然その時間に帰ってくるお父さんあたりを待っていることは想像出来たが、それにしてもふたりの行動は妙だと思っていた。
彼はともかく後ろに人が付いてきて急がされるのが嫌で、いつも階段を下りる人の列の最後尾にいることを常としていたが、何気なく見ていると、ふたりの母子は先頭から最後尾の彼までの顔を確認しているようで、それが終わるとお母さんがやや腰を落とし気味にして、何やら女の子の小さな耳に囁いていた。すると明らかに女の子は残念そうな仕草をしたのだった。
待ち人来たらず、か?
どこか不思議に思いながらも気になったのは最初の頃だけで、いつしかその時間にふたりをみることは、風景のひとつのようになり気にならなくなっていった。
彼は恐らく春を過ぎたあたりでふたりの姿が見えなくなったことに気付いたが、普通に少しだけ残念に思い、普通に忘れていったのだった。
ふたりのうち女の子の方に再度出会ったのはそれから三年くらい経ってからだった。
その日そーたは最悪な気分だった。
当時彼はある会社の営業担当で日中外まわりをしていたのだが、最後の訪問先のある商店で入口に入る際、シャッターが少し下がっているのに気づきながらも頭を下げるタイミングを間違え、しかも急いでいたこともあり大きな音とともに額をシャッターに打ち付け、なんと流血してしまったのだ。ありえないこともあるものだ、と今にしてそーたは思う。
大きな音に驚き、その顔を見た商店主は一瞬口を半開きにして、その後あきらかに笑いを隠しながら奥の部屋から救急箱を下げてきて、そこから手早く脱脂綿に消毒液を含ませ近くの椅子に座れとそーたにいいつつ、彼の鼻脇から額までこれでもかというくらいに押し付け拭い、最後に流血場所である眉間のやや上に超特大のカットバンをパンと貼ってくれた。
「悪いがこんなドジな奴とは、ちょっとなあ、危なくて契約できないやな」と商店主はまだまだ抑えきれないといった風に口に手を遣り、目は明らかに笑いを含んでいた。そーたは商店主が彼の不幸をこれ幸いと契約を断る口実にしたことは分かっていたが、信用を失ったという点は確かなので、怪我の手当てをしてくれたことに感謝の言葉を述べつつ、その場はすごすごと引き下がるしかなかった。
会社に帰ってから事の経緯を上司に報告すると「バカ」と怒鳴られ、十違うそーたが秘かに社内一可愛いと思っていた新人女子社員には軽蔑の目を向けられるという散々な日であった。
そんなこんなで悲惨な一日の仕事を終え帰路に就き、列車に乗ってルーティーンどおり十九時五十六分に地元の駅のホームにそーたは降り立った。改札を通って人の列の最後尾で顔を伏せながらゆっくりとその日一日の悪夢を振り返り、「バカだなぁ」と独り言ち階段を下り切ったときだった。
足を大地につけ一旦伸びをして、駅から十五分くらいかかる我が家へと向かおうとしたところ、なにやら刺すような痒いような視線を感じたのだ。
ん、レーザービームか?
ゆっくり視線の先を手繰ると、少し離れたところに女の子が立っていることに気が付いた。
どのくらいの歳なのか、まだ思春期に入る前なのかな、とそーたは思った。
彼女は彼と目が合うと、にこっと笑った。……お茶目そうだ、と彼はその笑い顔に好感を持った。
女の子に笑いかけられるのは結構いい気分になるものだ、とも思ったが、なんだか面倒に巻き込まれそうな予感がしたので無視を決め込み、そーたは再び前を向いて歩き出した。しかし百メートルほど歩いて軽い下り坂にさしかかると、女の子のことがどうにも気になりだして仕方がなくなった。いつになく大きなカーブを描く駅前道路を走る車の風切り音が背中に感じられた。
そーたの記憶の底に住む形のない何物かが「思い出しなさい」と囁いていた。
俄かに立ち止まり考えてみた。
お茶目そうな女の子だ。何故こんな時間に駅のあんな場所に……誰かを待っているのか。
キーワードを繋ぎ合わせてみた。
ふと「もしかして」と思い至り、そうなると答え合わせをしたくなって居ても立ってもいられなくなる癖のあるそーたは、早速走るように歩幅を広げ駅へ舞い戻った。
彼女と目を合わせてから十分もないと思われたが、もといた場所には誰もいなかった。そーたは焦ったが、幸運なことに女の子はすぐに見つかった。駅前広場の少し離れたところにベンチがあり、そこに座っていた彼女が吃驚した顔でこちらを見ていた。
そーたはゆっくりと女の子のもとへ歩み寄った。すると彼女もベンチから腰を上げ、なんと今にも泣きそうな表情をしてそーたのもとに駆け寄って来たではないか。そーたと女の子との間の距離がそーたの歩幅くらいになったとき、女の子は立ち止まり、ハアハアさせながら彼を少し見上げながらこう言った。
「やっぱり潮音のパパ?パパだよね」
女の子の名前は遠藤潮音。
小学校四年生だといった。
三年前の母子の子はやはり潮音ちゃんで、母はママで「会ったことのないパパ」に潮音ちゃんが会いたくてママと二人で駅の階段下で待っていたのだということだった。
「で、結局会えなかったわけだ」
「うん」
ふたりはベンチに並んで座り、事の経緯をそーたはできるだけ優しく潮音ちゃんから聞き出そうとしていた。
夜だったが駅前の広場には街灯が何本かたっていて、それほどの暗さは感じなかった。
「潮音ね、なんとなくわかっていたんだ。……パパがはじめからいないこと」
「だから諦めたんだね」
「うん」
どうやら三年前の潮音ちゃんは自分だけなぜ父親がいないのか母親に迫ったようだ。彼女の話は今ひとつ判然としないところがあったが、推測するに父親は潮音ちゃんが生まれる前に亡くなったのだろう。もしかしたら事情があって、籍を入れる前だったかもしれない。それで仕方なく、母親は「遠くに行ってるのよ。列車に乗っていつか帰ってくるよ」と……。十九時五十六分に駅に着く列車に乗って。そーたは考えを巡らせたがそこでひとつ疑問が沸いた。
「じゃあ、なんでまた今日、駅で待っていたの。お母さんは一緒じゃないの?」
「夢を見たの」
「夢?」
「うん、ママがでてきたの……、パパらしい人も一緒に」
そーたは潮音ちゃんの顔を見ながら少しおかしいぞ、と思った。父親はともかく母親までも一緒に夢に出てくるって、そのシチュエーションは……。
すると潮音ちゃんはそーたの様子を見て気づいたのだろう、軽く笑顔をみせながら「ママは今お墓のなかだよ」と言った。
そーたは少なからず心が揺れた。
亡くなった母親が夢に出てきた。しかも父親らしい人と。だからもしかしてと、またここへきたのか。それも根拠はない。それだけ母親、いや、だけじゃない……ふたりに会いたかったのだ。列車に乗って帰って来たふたりが、手をつないで駅の階段を下りてくる姿を想像し、それを期待しながら。
そーたはしばらくの間沈黙した。潮音ちゃんにどのように言葉をかければ良いのかわからなくなった。父親も母親もいない潮音ちゃん。今日初めて会話を交わした彼女に同情するのは卑怯だと思いながらも突然悲しくなった。
「……泣いてるの」
「いや違うよ」
「でも泣いてるよ」
「違う違う」
「六月二十二日ね」
「うん」
「ママのね、誕生日なの」
「もうすぐじゃないか」
「うん。だからね、それまではここにくるんだ」
それはいけない、小学四年生の女の子が夜出歩くのは危険だぞとそーたは言おうとした。が、この子はきっとそれでも来るだろうなと変に言うのを躊躇っていたら、潮音ちゃんはすっくと立ちあがり、「そろそろおばあちゃんが起きてくるんだ。帰らなきゃ。おばあちゃん、晩御飯のあと必ず横になるんだよ」とそーたを見下ろしくるりと帰ろうとした。それを「最後に―」と呼び止め、再びこちらを見た潮音ちゃんに向けたのは、先ほどまで躊躇っていた言葉ではなかった。
「なぜ俺をパパと思ったの?」
「決まってるじゃん。超大きなカットバン!夢のパパもそこに貼ってたんだよね」
そう言い残すと彼女は一目散に駆けだしやがて闇に消えた。
しばらくの間それを見ていたそーたは、額のカットバンに指で触れながら、こう呟いたのだった。
―あんまりな理由だぜ。
平屋の一戸建ての賃貸住宅のドアを「ただいま」と開いて入ると、奥から真莉愛の「おかえり」という覇気のない声が小さく返ってきた。
夕べのことが未だ尾を引いているのか…。
そーたは困ったな、と思いながらも靴を揃えて上がり、短い廊下の右奥にあるキッチン&リビングを覗いた。
背中を見せている真莉愛は遅い夕飯の支度をしていた。
もう一度、「ただいま」と声をかけたが、彼女は振り向かず事務的に「お風呂沸いてるから」と返した。
そこにいても仕方がないので、そーたはその隣のクローゼットがある寝室に入り、素早くスーツを脱ぎハンガーに皺にならないように掛けて、下着を用意しそそくさと風呂に向かった。
風呂は熱かった。
軽く湯を浴び、左足から湯船に入った。ジン、として少し足を戻しそうになったが、我慢し勢いで右足、そして体全体をザブッと湯船に沈めた。
五分くらい経つと体も熱さになれ、額のカットバンのことが気になり、「ああ今日は頭を洗おうかどうしようか」などと思う余裕もできた。
それにしても……。
あの子はまた来ると言った。
いくらしっかりとしているとはいえ小学校四年生の女の子が夜の八時にあそこにいるのはやはり危険だ。駅前には高校生らしい不良が集まってくることもある。不審な男が声をかけてくるとも限らない。心配だ。
普通に考えれば警察に事情を話して保護してもらえばいいだけの話だが、そーたは、そうはしたくなかった。自分勝手だが、そーたが関わりそーたが心配し、心配ないように確認したいからだった。
六月二十二日まであと五日か。
今日が十七日の月曜日で明日の火曜日も大丈夫だ。土曜は休日出勤だが調整はつく。ただ、水曜日から金曜日までは確実に残業になる。恐らくルーティーン通りに帰ってくることは不可能だろう。誰かその三日だけでも。最も信頼出来る誰か……。
そーたは湯船により深く、顎まで沈めながら「そうするしかないのか」と短い溜息をついた。
風呂からあがり、スウェットに着替え、キッチンのテーブルに着くと向かいに座っていた真莉愛がそーたを見て急に大声で笑いだした。溜まっていたものを吐き出すような笑い方である。
「なあに、それ」
そーたの額の大きなカットバンを指差して、今度はケタケタケタに変わった。
「名誉の負傷だ!」
「名誉の負傷?どこにぶつけたの?」
「なぜ、暴漢に襲われたのとか言えない。…大丈夫なの、とかもさ」
「だってそーたドジだもの。それを考えたらねぇ」
くくく、とまだ笑うのをやめない真莉愛。でも、怒る気にはなれなかった。それどころか良かったと思った。前日言い争いをしていたからだった。
真莉愛とそーたとはそのとき出会って二年が経っていた。同じ業界の別会社で、彼女は受付嬢(勿論仕事はそれだけじゃないが)、そーたは営業で忙しい毎日を送っていたものだった。
そんなとき、詳しくは言わないが、会うべくして会った。そして、付き合うようになって何か月かで、いつのまにか彼女はそーたの家の同居人となり、次の年の十二月に「そろそろ花嫁修業しなくちゃ」とそれなりに勤めた会社を彼女はあっさりと辞めてしまったのだった。それからそーたはずっといつ彼女と籍を入れようかと深く悩み続け、恐らく真莉愛の方は日が経つにつれ、会社を無暗に辞めてしまったことを後悔するようになったのだった。それなりでもやりがいのある仕事だったことに気が付いたのだろうとそーたは考えた。
今思うと馬鹿らしいが、「前日の言い争い」は子供が出来たらどう自分たちを呼ばせるかの意見の相違による争いだった。つまり、子供が出来る前から、そーたは「お父さん・お母さん」、真莉愛は「パパ・ママ」と呼ばせるということで一歩も譲らず、その末に喧嘩になったということである。でも、これも心の裏ではそーたの「悩み」と彼女の「後悔」が微妙に絡まって火花が散った結果と言えなくもなかった。
ようやく笑いがおさまった真莉愛は、「ごめん、ごめん」と言いながら立ち上がり、食卓にごはんを並べ始めた。そして、並び終えた彼女が席に着いて「いただきます」を言う前、一瞬の間を狙ってそーたは「話したいことがあるんだけど」と話をもちかけた。
「なに?」
「明後日から三日間、水曜日から金曜日まである女の子を見守って欲しいんだ」
「女の子?」
「うん、小学四年生の女の子。夜の七時五十六分着の列車を待ってるから、駅の階段の下にいるから、君についていて欲しいんだ。出来たら彼女が家に帰るまで何もないことを確認してもらえたら嬉しいんだけど」
真莉愛はそーたを見た。ロングの艶のある髪、程よい大きさの顔、大きく瞳に輝きを持った彼女に見つめられ、そーたは少し心臓の鼓動が高鳴った気がした。
一分くらい彼女はそーたを見つめていただろうか。
真莉愛は、はあ、と笑みを見せ、軽く頷きながら「いいわよ」と言った。
いただきますを言って箸を持つ彼女に「なにも聞かないの?」と不思議に思って訊ねると、「だってそーたって不器用なんだもん、嘘もいえないし、悪いことも出来ないし、だから信用してるのよ。まあ大好きだし」と頬を赤らめた。
そんな真莉愛にそーたは大いに感謝し、同時に信用しているという彼女の有難い言葉に助けられた思いもあって、今日の営業での失敗もこれで帳消しだねと大きく手をあわせて彼も「いただきます」を言った。
「あっ、でもその子の名前は教えて」
「潮音ちゃんっていうんだ」
そーたは熱い味噌汁に口を付け、あちちっ、と片方の目尻に微かな汗を出した。
翌日の帰宅途中、そーたは駅の階段下に佇んでいた潮音ちゃんに声をかけ、昨日真莉愛と相談したことを潮音ちゃんに伝えた。
「いいの、ホントに」
「ああ、君が夜ここにいるのは心配だからね」
「そーたさんのお嫁さん迷惑じゃない?」
そーたのお嫁さんと言われて、何だか気恥ずかしいような気がしたが、そーたは優しい笑い顔をつくって「本人も乗り気だから大丈夫だよ」と答えた。
それから潮音ちゃんを家の前まで送り届けたが、その家は、築四十年は経っていそうな古い平屋の一戸建てだった。そーたは自分が幼少期に住んでいたアパートに似ているなあと眺めながら、潮音ちゃんを送って来たひとつの理由を忘れてはいけないと思いそれから腰を落として潮音ちゃんに「おばあちゃんは?」と訊ねた。
「まだ眠ってると思うよ。何?」
「今回のことをおばあちゃんにことわっておかなきゃね」
「それはダメ」
「でも心配させちゃかわいそうでしょ」
「いつも眠っているから大丈夫だよ。それに潮音がやっていることおばあちゃんが知ったら、そっちの方がかわいそう」
「そっちのほうが……かわいそう」
ちょっと考えてから「そうだろうな」と思った。孫が亡くなった父母に会いたいあまりに夜な夜な駅に向かう。そんなことを聞かされたら、しかも潮音ちゃんの母親はおばあちゃんの娘でもあるのだから、きっとおばあちゃんは悲しむことになるだろう。それでも知らせずにいて、もし途中でわかってしまったとしたら、潮音ちゃんが隠し事をしていた、そのことの方が残酷ではないか。そーたは迷ったが、潮音ちゃんに「できるだけ大丈夫なように説明するから」と約束して彼女を促し玄関のドアに手を遣った。
水曜日からのそーたはやはり多忙だった。
潮音ちゃんのおばあちゃんは、そーたが説明し終えると信じられない程あっさりと「お願いいたします」と頭を下げた。予想外の事だったので、そーたが慌てて「何故‥…」と問いかけると彼女はそーたの目の前に手をかざし、彼を制した。まるで「全部分かっている」という風に。そーたはその圧力に負けて、結局それ以降はただ一言「お預かりします」と言って帰ったのだった。
当初の計画では真莉愛にただ一緒に付いていてもらうだけのつもりだったが、おばあちゃんとの話の中で、そーたは勝手に「学校の帰りにうちに寄ってもらって、時間になったら駅に行き、終わったらお宅に送り届けます」という風に変更してしまった。真莉愛に怒られると思って恐る恐る話したら、こちらもあっさりと「その方がいい。当たり前でしょ」とそーたは言われてしまった。
そーたはどうしてこんなことに頭を突っ込んでしまったのだろうと考えた。あの時、ただの不良少女だと割り切り、そのまま家に帰ってしまえばいいものを。でも見過ごせなかった。人が好いといえばそうだが、それだけじゃない。それはきっとそーたが真莉愛にいつまで経っても籍を入れようと言えない理由と、どこかで繋がっているような気がしてしかたがなかった。
そーたの母もシングルマザーだった。とても厳しい人だった。もとはとても優しい人であったのが、小学校に上がった頃から急変した。最初は出来ないことがあるときつく怒られた。それがいつしか理由もなくそーたの人格まで否定するようにたびたびそーたを罵倒するようになり、後には暴力まで振るうようになった。多分そーたが小学校に入学する直前に離婚して家を出て行った父親の所在について、そーたがしつこく母に迫ったのがきっかけだったのだろうと彼は回想する。彼は罵倒され、殴られ続けながらも必死でこれは夢なんだと思い続けた。これが虐待だと気づいたのはずいぶん後になってからだった。
転機になったのは中学二年生の時だ。
母が死んだ。心筋梗塞だった。ひとりになった。そこでそーたは父親の両親、つまり実の祖父母に引き取られることになり、以後彼らには衣食住の保障をしてもらうだけではなく、大学にまで行かせてもらえるという幸運な日々を送らせてもらったのである。そのおかげなのか実母から受けた虐待の記憶は次第に消えていったように思われたのだが、それはある時期から再び蒸し返すようにそーたの前に表出した。
真莉愛と出会って同居し、そろそろ籍を入れなければとなった頃だった。何故か突然異常なくらいその消えたはずの記憶を意識するようになり、そのためか過度に考えすぎ、自分も母のようになるのではないかと恐れるようになった。いつか子供が出来たなら自分も子供を虐待するのではないか、それだけではなく真莉愛をまでも残酷なまでに傷つけるようになるのではないかと恐れた。だから、なかなか籍を入れられなかった。
もし他人にそのことが潮音ちゃんのこれまでの経緯と繋がっているとは到底思えないと否定されてしまえば、そーたもそう思い直すことだろう。でも彼女とかかわることで、何かが見えてくるようなそんな確信が彼にはあった。もしかしたら彼女はそーたの天使になるのかもしれないと、まるで夢見がちな少女のようなことを彼は思ったのだった。
夜十時過ぎに会社から帰ってきて、真莉愛に「どうだった?」と聞くと一言、「心配しないで」と答えるだけだった。夕飯はちゃんと食べていってくれたようなので良かった。
木曜日になると「あの子可愛いわね」とか「うちの子にしちゃいたい」とか「思い切っていろいろと話しかけたら、嬉しそうに話しはじめてね、あの子の家まで話しながらついて行って、うちに帰ってくるのがとても寂しかった」とか楽しそうな真莉愛の顔が見られるようになった。
そして二十一日の金曜日、真莉愛は悲しそうに「もうあの子には会えないのよねぇ」と残念がり、この世の終わりのような顔をしていた。「あの子、多分うっかりだと思うけど、言ったのよ。私をママって。なんだか嬉しい」とも。
六月二十二日の土曜日の朝は晴れ渡り、普段は憂鬱な土曜出勤なのだが、爽快な気分で出かけることができ仕事も普段でもないようなスピードで仕上げることが出来た。
あまりに早く帰れることになったものだから、田舎の都会を何気なく歩き回って時間を潰しながら、ふとそうだよと気が付いて駅ビル内のケーキ屋で苺ショートケーキを買い、時間通り帰りの、というより潮音ちゃんが待っていてくれる駅へ向かう列車に乗った。
列車の中超大きなカットバンはもう必要なかったが、やはりこれがなくてはと、もう一度眉間のやや上辺りに貼った。
たった一駅なのに時間が経つのが限りなく遅く感じた。土曜日なので乗客もそれほどではなかった。はやく、はやく、潮音ちゃんの悔いのない笑顔がみたい。
十九時五十六分。
そーたはホームに降り立ち足早に改札を通り過ぎ、通路を急ぎ誰よりも先に下りの階段を駆け下りて、半分まで行ったところで止まった。
潮音ちゃんだ、隣には真莉愛。
真莉愛は潮音ちゃんの肩に手を乗せ、少し屈みながら潮音ちゃんの耳に向かって何か囁いていた。
そーたが、また下りて行き、あと一段となったとき、潮音ちゃんは彼のもとに駆け寄って来て強い力で抱きついてきた。
「おかえり、パパ。ママもそこにいるよ」
「ただいま、潮音ちゃん」
潮音ちゃんを「そーたパパ」の方に送りだしてくれた「真莉愛ママ」はとても幸せそうな笑顔をしていた。
後から来た帰宅者どもがあからさまに迷惑そうにして通り過ぎていったが、そーたは壊さないでくれと心中で繰り返した。
……壊さないでくれ。本当に短い、ともするとすれ違うだけの関係だ。
でもどうか今だけはお願いです。壊さないでください。
そーたは願った。
少しだけベンチで話して、真莉愛とそーたは潮音ちゃんを家へ送って行った。
彼女の家の前で別れるときに、そーたは持っていた白く小さな箱を渡した。
「ママの誕生日。潮音ちゃんとおばあちゃんと、勿論本物のママとパパにもね」
潮音ちゃんは、それをありがとうと嬉しそうに受け取り、少し恥ずかしそうに顔をあげた。
「ねえ、真莉愛ちゃんとそーたさん、これからもママとパパって呼んでいい?」
「それは出来ないな。君とは離れちゃったけど本当のパパとママはいるんだよ。だからそう呼ぶのは駄目。それでも呼んでくれるなら、そうだね、お父さんとお母さんとでも呼んでもらえないかな」
真莉愛が「そうしてあげて」とお願いすると、潮音ちゃんは「うん」と笑顔で答えてくれた。
潮音ちゃんと別れてふたりは帰途についた。周りに何もないところで吹いた夜風が意外に冷たいのに驚いた。
「もうあと何日かで七月になるというのにね」
「そうね」
「あーあ。子供はやっぱり女の子だな」
「大丈夫よきっと。きっとそうなる。でも寒い時期だな、いや春か」
「春って、なにそれ」
「医者行った。できたんだろうねぇ、きっと」
さらりと真莉愛は言ってのけた。
そーたは慌てふためき、なにを言っていいのか分からなかった。
「うんうん、そうだね、そうだよね、そうに違いない」
そーたのまったく意味のわからない言葉に、
「まどろっこしいなあ、何を言いたいのよ」
真莉愛がキッとそーたを睨んだ。
困ったそーたは最低でも言わなきゃならない言葉を思い出し、
「ありがとう」と言った。
「そうだね、それでいいのよ」
真莉愛は夜空を見上げて、歌でもうたいたい気分、こういうときは何の歌だろうと呟いた。
そしてあたかも、あっと急に思い出したように空をみあげたまま、こう言った。
「いい日に籍を入れようね、子供のほうが先になっちゃったけどさ」
それはそーたのほうが先に言わなければならない言葉だった。彼がずっと言えないことに悩んでいた言葉だったが、逆に真莉愛に言われてしまったら、別にどうということもないことに気付いた。男としては失格なのかもしれないが、どちらがそれを言おうと未来は勝手にやってくるし、その未来はどうなるのかは誰にも予想出来ないのだ。いきなり文無しになって住む場所にも困るようになるかもしれないし、大金持ちになるかもしれない。要はそれを一旦は受け止めて、それから嵐が過ぎるまで耐え忍ぶのか、突き進むのか、どちらも出来ないのであれば逃げてもいいとさえ思う。そーたは一気に心が晴れたような想いに包まれた
「ねえ」
「何」
「この子潮音ちゃんみたいな子になる気がする」
「そうだね。俺もそう思うよ」
結婚すれば、そーたは真莉愛に頭があがらなくなり、きっと生まれてくる子供はパパ、ママとそうふたりを呼ぶことになるのだろう。
ガタン、ゴトンと夜風に流されて、列車が近くの線路を通過する、どこか懐かしさを感じさせる音がそーたの耳に届いた。
そーたの問題、真莉愛の問題はまだまったく解決はされていない。でもそーたは何かが変わったと思った。肯定感でいっぱいになった自分がいる。ともかくこれからの自分たちの人生を迎え入れればいいのだ。悩むのはそのあとだ。
暫く聞こえていた列車の通過音は次第に遠ざかって行き、やがて消えた。
そーたは次の年に生まれてくる我が子に想いを馳せながら、潮音ちゃんとは、きっともう、会うことはないだろうなと思った。
了
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