先日、ネットを見ていたら、お経に関する興味深い話を見ました。
要約すると、「お経に死者を救う力はない」というお話です。
そのお話しにはこうありました。
釈迦様の弟子が、
「死人のまわりでありがたい経文を唱えると、善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか?」
と尋ねたところ、釈迦さまは黙って小石を拾って近くの池に投げられました。
その沈んでいった石を指さして、
「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか?
石は自身の重さで沈んでいった。そんなことで石が浮かぶはずがない。
人は自身の行為によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうとも、死人の果報が変わるわけがない」
と説かれたそうです。
つまり、釈迦様ご自身が、お経では救われないことをおっしゃっておられるのです。
当然と言えば当然です。
星椎水精先生もよくおっしゃるように、お経は、生きている人間のための訓示が書かれているわけですからね。
それなのに、「お経=霊を成仏させたりする、すごい力のある呪文」のように誤解している人がほとんどです。
調べたところ、読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはなかったそうです。
(ここに関しても星椎水精先生がコラム等に述べられていますよね。)
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、絶対の幸福に導くのが仏教の本来の目的なのだそうです。
しかし現実は、葬式や法事には絶対に読経が必要不可欠で、さらに「お経=供養」という〝迷信”が浸透過ぎているように思います。
しかし私からすれば、生きている人間の葬式等に対して、疑問を持たないところが一番の問題だと思います。
星椎水精先生のホームページ:先祖供養
携帯版はこちら
見届け役:姫路さんのブログ:こちら
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要約すると、「お経に死者を救う力はない」というお話です。
そのお話しにはこうありました。
釈迦様の弟子が、
「死人のまわりでありがたい経文を唱えると、善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか?」
と尋ねたところ、釈迦さまは黙って小石を拾って近くの池に投げられました。
その沈んでいった石を指さして、
「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか?
石は自身の重さで沈んでいった。そんなことで石が浮かぶはずがない。
人は自身の行為によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうとも、死人の果報が変わるわけがない」
と説かれたそうです。
つまり、釈迦様ご自身が、お経では救われないことをおっしゃっておられるのです。
当然と言えば当然です。
星椎水精先生もよくおっしゃるように、お経は、生きている人間のための訓示が書かれているわけですからね。
それなのに、「お経=霊を成仏させたりする、すごい力のある呪文」のように誤解している人がほとんどです。
調べたところ、読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはなかったそうです。
(ここに関しても星椎水精先生がコラム等に述べられていますよね。)
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、絶対の幸福に導くのが仏教の本来の目的なのだそうです。
しかし現実は、葬式や法事には絶対に読経が必要不可欠で、さらに「お経=供養」という〝迷信”が浸透過ぎているように思います。
しかし私からすれば、生きている人間の葬式等に対して、疑問を持たないところが一番の問題だと思います。
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