君子の交わりは 淡きこと水の如く、小人の交わりは 甘きこと醴の如し。
ブログを読んでいて、時々この言葉を思い出す。私たちは、長い長い歴史の間、会ったことのある人、話したことのある人、出自を知っている人とコミュニケーションをとってきた。それはそれは気の遠くなるほどの長い年月そうだったわけだ。顔を見ず、声を聞かず、どこに住む、いくつの誰かもわからぬ人と話しをするなどというのは、ホンの数年のことなのである。昨日まで、何のつながりもなかった人と、今日は、人生の大きな問題、世の中の大きな変化について語り合っている。それは、考えてみれば不思議なことだ。
ブログをはじめるようになって、少なからぬ「見知らぬ人」と会話をするようになった。
しかし、それはしがらみのない関係だ。明日私がここから降りてしまえば、その人がやめてしまえば、それで終わってしまう「水のように」後を引かぬ関係だ。だから、みんな少し礼儀正しい言葉を使ったり、逆に乱暴な言葉になったりしながら、明日それが終わってしまってもよいように、準備をする。「醴」のようなどろりとした関係は結ばないのがお約束なのかもしれない。だから、その人が「降りてしまうこと」も私には何もいえないし、その人は何も語らずに私の前から、ふっつりと消える。放送終了のテレビみたいに白い線がつうっと横に入ったかと思うと、もう繋がらない。私はあなたが「降りてしまったこと」をこう思っているよと言う言葉も、届かない。
こんな記事を読んだ。
真性引き篭もり 伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシだ
(ニュースサイト まなめはうすさん 2005.10.31 を参考にしました。)
「水の如く」考えているつもりでも、「水の如く」記事を読みにいっているわけではない。声が聞こえぬという絶望。声が届かぬという絶望。「死ぬこと」にちょっと似ている。
こう思う私は、「引取お断りレトロタイプ」な人間かもしれないけど。
私はこの冬に向かいブログを書いていますよ。
関連 自記事 マンモスの眠るところ
心の中だけで、駅の人 にトラックバック。
ブログを読んでいて、時々この言葉を思い出す。私たちは、長い長い歴史の間、会ったことのある人、話したことのある人、出自を知っている人とコミュニケーションをとってきた。それはそれは気の遠くなるほどの長い年月そうだったわけだ。顔を見ず、声を聞かず、どこに住む、いくつの誰かもわからぬ人と話しをするなどというのは、ホンの数年のことなのである。昨日まで、何のつながりもなかった人と、今日は、人生の大きな問題、世の中の大きな変化について語り合っている。それは、考えてみれば不思議なことだ。
ブログをはじめるようになって、少なからぬ「見知らぬ人」と会話をするようになった。
しかし、それはしがらみのない関係だ。明日私がここから降りてしまえば、その人がやめてしまえば、それで終わってしまう「水のように」後を引かぬ関係だ。だから、みんな少し礼儀正しい言葉を使ったり、逆に乱暴な言葉になったりしながら、明日それが終わってしまってもよいように、準備をする。「醴」のようなどろりとした関係は結ばないのがお約束なのかもしれない。だから、その人が「降りてしまうこと」も私には何もいえないし、その人は何も語らずに私の前から、ふっつりと消える。放送終了のテレビみたいに白い線がつうっと横に入ったかと思うと、もう繋がらない。私はあなたが「降りてしまったこと」をこう思っているよと言う言葉も、届かない。
こんな記事を読んだ。
真性引き篭もり 伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシだ
(ニュースサイト まなめはうすさん 2005.10.31 を参考にしました。)
「水の如く」考えているつもりでも、「水の如く」記事を読みにいっているわけではない。声が聞こえぬという絶望。声が届かぬという絶望。「死ぬこと」にちょっと似ている。
こう思う私は、「引取お断りレトロタイプ」な人間かもしれないけど。
私はこの冬に向かいブログを書いていますよ。
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