うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

私的な詩的論

2005年11月08日 | ことばを巡る色色
今朝、ふとかけていたテレビの中で、キヨシローが、「詩的」ということをライブで話していた。「平和憲法はイマジンみたいに詩的だよね、それがなくなるって、つまらない」
そうさ、「詩的」なんだ。信じ、想像する「詩的」なことさ、baby。
私たちは信じることが要る生き物だ。きっと、人間以外の生き物は「信じる」ことをしなくても生きていける。目の前に食べ物があり、今、特別な危機にさらされていなければ生きていける。でも、人間は、何かを信じていないと生きていけない。たとえば、明日が同じようにやってくること。明日も何らかの食料があること。自分が伝えたいと思うことを聞いてくれる誰かがいること。自分が心を込めてやったことを認めてくれる誰かがいること。信じて祈れば、いつか本当の安らぎがやってくること。それらが、たとえ、近い明日でなくとも、いつかはやってくると思えなければ、真の意味で生きることができないのが、人間というものではないのかな。
戦争を放棄して、戦うことをよしとすることは、現実的なのかもしれない。言い換えれば、戦争放棄というのは、非現実的なことなのかもしれない。でも、それってそんなに子どもっぽい、夢みたいなことなのだろうか。
前に書いた記事のコメントで、政府性悪説というものをいただいた。でも翻って考えれば、戦争放棄というのは、性善説な詩的なものだと思うよ。
詩的なことは、甘ちょろい夢見がちなことかもしれない。でも、詩的なことがなければ、詩的なものを信ずることができなければ、世界はつまらないし、モノクロになってしまう。
自分が戦いに出なければ、他者も戦う気をなくしていく日がやってくると信じることは、そんなにダメなことなんだろうか。
「戦争がない世界がやってくると想像してみる」という、詩的な行為は、郵政民営化という政治ツールにされたように、刺客が送られ、パラシュート部隊が降下し、歯向かうものとして除外され、国を裏切るもののように指弾されるのだろうか。
私のイメージの中には、いつも「不幸な連鎖を、もう一度結いなおす」ものとしての人の存在理由がある。戦いは、どこかで、とめなければ、限りなく報復が繰り返される。
親を殺された子は、殺したものの子を殺し、殺されたものの子は大人になり、また相手の子を殺す。
それを止めるために、楔を埋めなければならない。
詩的な楔がなければ、世の中は、本当に、ツマラナイ。詩的な楔になれない日本は、本当にツマンナイ。
コメント (8)
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