うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

寸止めの極意

2005年11月16日 | ことばを巡る色色
ひょっとすると私の目指すところは「寸止め」かもしれないと思うことしばしば。
「寸」というくらいだから、3.3cm前でぴったり止めるということです。遠すぎず近すぎず、10cmでも0cmでもなく、「一寸」というところが大事です。
最近の世の中って、その辺がどうも、ズルズルになってる気がします。ズブズブどろどろ入り込んで行ったり、はぁるか彼方で遠巻きしていたり。
「寸」の単位でとめておくには、ずいぶんな気合が必要です。ヘリコプターが遭難者を救助するために上空で羽を回し続けているような、息を止めた「気合」です。遠くにいたり、近づいたりするよりも、ずっとエネルギーのいることかもしれません。追い詰めても、一寸手前でぴたりと止める。追いかけられても、一寸手前でひらりと身をかわす。
追い詰めることや追いかけることの楽しさを知らないツマンナイ人は論外だが、追い詰めたり、追いかけられたりは、ゲーム的生物である人間にとって、とても楽しいものだ。ついつい、身のうちまで追い詰められたり、相手の中まで追いかけたりしてしまいがちだ。そうしたい気持ちを、一息分止めておく。その快楽を知ってしまうと、近すぎたり遠すぎたりよりもずっと「いい」ものなのですよ。
たとえば家族
家族の所業は何でも知りたいと思うのが人情だが、知っておくのも一寸前までにする。親・伴侶・子ども・兄弟、どの人が何をしているのか、自分を裏切っていないのか、抜け駆けして楽しいことをしていないのか。私が留守の間に、みんなで贅沢ランチに行っているとか。私が働いている間に、一日寝てすごしているとか。残業だといってオネエちゃんのいる店に行っているとか。お弁当持って途中の駅で降りて、学校をずる休みしているとか。洗濯物を取り入れるように頼んでおいたのに、夜中に思い出して洗濯物が冷たくなっていても、宿題をお風呂はいる前にやりなさいといっていたのに、布団の中でやっていても、自分が見えないところなら、0cmのところまで行って見なくてもいいんじゃないだろうか。要求も寸止めがいい。給料が安いとか、成績が悪いとか、子育ては全部任せたとか、あなたのためにやっているんだからわかって!とか、私の愛情を受け止めてとか、そういうことを追求しても、その人が自分の思い通りになるわけではなく、かえって疑心暗鬼に陥るばかりだ。少なくとも家族が今日も幸せそうに「行ってきます」と家を出てくのなら、それ以上近づく必要はない気がする。
たとえば、色恋(特に道ならぬもの)
おなかいっぱいの恋が素敵なんだろうか。好きなような、ちょっと違うような、ずっと一緒に居たいような、でも一人の時間も大事なような。そんな、「際」にいるほうが楽しいように私は思う。シチャウことって、人にとってそんなに重要なんだろうか。その人のすべてが自分のものにならなくっては駄目なんだろうか。好きな人を自分のものにしたいと思うのは、素直な心だけど、好きな人も他人だから、自分のものになるわけはない。好きなのか、恋しているのか、愛しているのか、そうして、好かれているのか、惚れられているのか、愛されているのか、はっきりとはわからない狭間の時がおもしろい。全てを言ってしまったら、関係ははっきりするかもしれないけど、流刑地なんかに手を取り合って沈んでいくのがいいと、教養あるお医者様はおっしゃるけど。思わせぶりで、宙ぶらりんでいるほうが、わくわくする。次はどの手でいこうかと、ファイトも(何と闘っているのかわかんないけど)沸いてくる。
相手の気持ちがわからないけど、自分の気持ちもわからないけど、時々は一緒にいて、きれいなものの話をしたり、面白いものに笑ったり、それでいいんじゃない?本当はそのほうが楽しかったりするんじゃない?
コメント (14)
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