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新・平家物語 第58話 義経都落ち

2013年01月05日 | 平家物語

 義経一向が淀のふちに到着したときには叔父行家は80騎を伴い待っていた。そこには金売吉次の姿もあり、一の谷、屋島、壇ノ浦での勇姿をなくした義経の姿を見て、いずれ奮起した際には奥州藤原家の助けを借りるべく、いつでもはせ参じる旨の言葉を残す。また、平大納言の娘・夕花とはここで別れた。能登に配流となった父・時忠のもとへ桜間の介能遠を伴わせて下らせた。もとより夕花へは充分に説得はしていたのである。こうして静と百合野と一部の小女房だけを伴い、250騎は西へ向けて大河の岸を下っていった。義経の250騎が江口の里(現在の吹田あたりの淀川が大きく湾曲したところ)に着いたのは日も暮れ宵の頃である。江口近辺では三河守範頼の配下数百騎が駐屯し、乱酔、遊女泣かせなどやりたい放題であった。義経以下が、ここを通るときには明かりは消え、静まっている。里人くまなく怯えているのである。弁慶が事態のありのままを告げ、夜の炊事にとりかかると次第に里人も安堵したのか、ひとりの里長が妙の御の家を宿にと、江口一番の妓家の女主のところへ案内してくれた。そして、静と百合野は妙の御の家で世話になるのである。そして二人はあわただしく都落ちをしてからというもの、ろくに話もできずにいただけに、心ゆくまで語り合い、慰めあうことができたのである。百合野にはもはや帰る家などはない。判官殿と生涯添い遂げよ と父に固く言われていただけに 去る日は生涯が終わる日と健気にも決めていた。そのようなことを語りながら仲のよい姉妹のように慰めあう。そして判官殿に比べれば・・・・と誓っていたのである。

 すこしして百合野は自分の部屋に戻ると、静は一人眠れずにいた。そこへはいってきたのが、妙の御である。妙の御は静の白拍子の舞を知っていた。御酒を勧めにきたのである。とはいっても、妙の御も静に出会い、昔を懐かしみ話をせずにはいられずに来たわけである。妙の御の幼名は瑠璃子といい、父は伊賀守藤原源為義といい、遠い任地で果てたため、瑠璃子は身寄りの中御門家で育てられた。そのときに祗園女御に可愛がられた。祗園女御といえば、もとは祗園の遊女で白川上皇に愛され、清盛の父・忠盛に 嫁いだ女性である。その後全てを捨てて、ここ江口で色禅尼ともいわれ妓家の主となっていた。そして瑠璃子はまたたく、可愛がられ江口の遊君となった。淀川が湾曲した神崎川との分岐点一帯は江口と呼ばれ、平安時代から水上交通の要所であったこの地が急速に発展し始めるのは、785年に淀川と三国川との間に水路が結ばれてからである。この工事で江口の地は、平安京から山陽・西海・南海の三道を必ず通る所の宿場町として繁栄し、とくに平安中期以降は、紀州熊野・高野山、四天王寺・住吉社への参詣が盛んになり、往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られるようになった。遊女たちは群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近づき、旅人の一夜の枕を共にしたと言う。彼女たちは多才で、歌舞・音曲にすぐれ、中には和歌をよくする者もいた。名妓として名を残したのは、小観音・中君・子馬・白女・主殿、その名でもとくに有名なのは、西行との歌問答で「新古今集」に収録されている遊女妙である。1167年旅の途中、雨宿りの宿を断わられた西行が、「世の中を厭う間でこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と詠んだに対して「世の中を厭う人としきけば仮の屋に 心とむなと思ふばかりぞ」と返した女性です。ここで登場する妙は平資盛の娘で、没落後に遊女となったが、発心して作った庵が江口の君堂(寂光寺)として現在も残っています。

 昔、清盛が熊野詣の際に、ここ江口で泊まったことがあり、そのときの清盛に対する乙女心が芽生えたという。いまこうして昔を懐かしみ、静を長々とおしゃべりをしていたのである。まわりは、俄かに騒々しくなっている。義経を追う数多の郎党がいよいよ迫っているらしい。早々に宿をでると、一向は大物の浦(現在の尼崎)へ急いだ。ところが義経の首を討ち取らんとする輩に阻まれ、大物の浦へ着いたときには天候も嵐のごとくくずれていた。そして、ここから船出したものの嵐に見舞われ、義経一向はことごとく難破し、西国への旅が阻まれたのは有名な話である。泉州住吉神社の宮司・津守国平が浜辺で、女房が死人のように倒れているのを見つけたのは、嵐も静まった翌朝である。国平は義経主従の遭難であることはすぐにわかった。そして摂津源氏の追っ手が、ここへくるであろうことも。かくして女房は国平に匿われた。そのころ百合野は息も絶え絶えで、伊勢三郎に助けられ亀井六郎の背につかまっていた。伊勢三郎が頼ったのは、御陵守の長の邸である。義経の旧御を忘れずにいた長は、伊勢、亀井、吾野、渡辺番と河越殿の百合野を匿い、手厚い養生を施した。しかし伊勢、亀井はいまだに行方のわからない判官、静を求めてあてはないが、風聞集まる洛へと向かうのである。そして百合野は東嵯峨の阿部麻鳥のもとへと、渡辺番、吾野余次郎により送られることになった。義経はというと、泉州の一角に上陸し、四天王寺界隈で身を潜めていた。伊豆有綱、弁慶、堀弥太郎、静の5人である。ここ四天王寺では追捕にさらされ、身を寄せる民家もない。そこで弁慶は、吉野山へ身を隠すのが一番かと・・・。そこは鎌倉の権力にも屈しない輩もおり、安全であると考えたのである。

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新・平家物語 第57話 刺客・土佐坊昌俊 堀川夜討

2013年01月04日 | 平家物語

洛での義経の動きは、梶原景時の嫡男・梶原景季と僧成尋が 頼朝の命により洛へ参じている。義経の動きだけではない。  
 ・平家よりの公卿は誰なのかということも探っている。そしていよいよ梶原景季が義経との対面を果たす。  
 ・その頃、検非違使の庁は、平家人の配流で俄かにあわただしくしている。  
 ・讃岐中将時実、二位の僧都専親、内蔵頭信基、そのた多くの武将・僧侶の虜が土佐、出雲などへ流されている。  
 ・ところがなかなか決まらないのは平時忠の配流である。功こそあれ罪科はない、との後白河法皇の御気色があったからである。  
 ・しかし、いよいよ時忠も能登の配所へ流されることとなった。  
 ・洛での隠密を終え、鎌倉へ戻った梶原景季は、その仔細を 頼朝に報告していた。  
 ・そして、ついに頼朝の口から、「都へ駆け上って九郎冠者を討ってまいれ」 との宣言がなされたのである。  
 ・居並ぶ東国武者の面々は肌をそそけだたせ、口を閉じ、寂としたままである。  
 ・和田、畠山、佐々木、三浦、熊谷、千葉、土肥などの武者の全てが追討の人選には選ばれたくないものよ、との顔でいる。  
 ・頼朝は追討の命を梶原景時に命じたが、梶原景時は追討役としては不向きであると言葉巧みに辞退したとき、ひとりの僧形武者が名乗りを上げた。  
 ・義朝の最期まで仕えた渋谷・金王丸の叔父にあたるという土佐坊昌俊である。(金王丸本人が土佐坊昌俊とする説もある)  
 ・頼朝は人選に大事をとったが、その頼もしそうな坊主に決めると、同日夕方には同勢80騎を連なって都へ潜行したのである。

物々しく義経一向と院へ馳け向かったのは、いままで身を潜めていた行家である。  
 ・土佐坊昌俊以下の追討の手が足柄山を越え、急いでいるとの知らせを手にしたからである。  
 ・行家は公卿のうちにはいって、頼朝追討の院宣を切に願った。  
 ・いままで悩み抜いた義経であったが、事今に及んでは行家に同意したのである。  
 ・ただ、真意は鎌倉からの汚名を実なきものとする証とし、自らは西国へ潜み、兄・頼朝の悔悟の日を待たんとするものであった。  
 ・そして、いよいよ土佐坊昌俊らの討手はちりじりに別れて洛に潜入していた。  
 ・しかし行家の知らせによりかろうじて刺客を迎え撃つことはできた。  
 ・土佐坊昌俊勢が約80騎に対して義経側は恐らく精鋭20人程度ではあるが、見事に蹴散らしたようである。  
 ・これを堀川夜討といい、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが、義経の郎党に捕らえられ、家人と共に六条河原で梟首された。  
 ・義経は襲撃翌日に後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受け取ると直ちに挙兵の準備を開始している。  
 ・まもなく義経は紀の権守兼資に淀より西国へ向けての船を整えさせた。  
 ・従うものは弁慶、伊勢三郎、佐藤忠信、伊豆有盛、堀弥太郎、鈴木重家、亀井六郎、片岡為春など200騎と正室河越百合野、平大納言の娘・夕花、そして静は云うまでもない。  
 ・その他白拍子や唐橋大納言の娘、鳥飼中納言の娘など24人との話もあるが定かではない。

静神社                静御前 生誕の地 京丹後市網野町磯

 

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新・平家物語 第56話 義経の苦悩

2013年01月03日 | 平家物語

 源氏の大将軍義経は、西国から洛にはいり、またたくまに東国へ遠征し、また帰路についた。 彼は身も心も疲れきっている。もともと、平家追討を思いのほか早くに成し遂げ、犠牲者も少なく、三種の神器のうちの二つを持ち帰ることができたのは、平家との和睦という裏工作を、平時忠親子と交わしていたからである。洛の院、公卿は時忠本人からも漏れなく聞いており、そのかわりあまたなる平家の公達、女房達への寛大な処置についても寛容な姿勢を見せていた。しかし、先の平宗盛親子の斬首という頼朝の命には義経も胸を痛めていた。それだけではない、義経の洛での所業についての捏造がことごとく頼朝に告げられていた。堀川邸に戻っても、義経は正室の百合野のもとに向かうことはなかった。静のもとで衣を着替え、湯殿にはいるのである。静は、いままで正室の百合野とともに主・義経の無事を祈って待っていただけに、百合野という頼朝が使わした生贄が憐れで仕方が無いのである。静の申し出も疎い、百合野に会おうとはしない。百合野には、鎌倉からの使いが大勢いる。乳母をはじめ身の回りの何十人が全員、義経の動きを見張り、鎌倉へその仔細を報告している。この監視の中では百合野のもとで休める気にはとてもならなかったのである。一方、平時忠と讃岐殿 時実は師の局とともに幽閉され、鎌倉の手前厳戒の中に監視されていたが、義経の部下が番の武者であったため、その出入りは自由であった。時実の弟右大弁時宗や、叔父の宰相時光などの近親者が常に訪ねてきている。時忠の娘・夕花の姫は弟・親宗にあずけられていたが、親子が揃った今は、もはやこの舘を離れようとはしなかった。この大きな舘はかつて時忠の妹・建春門院が後白河に寵愛を受けたころに住んでいた館である。そして夕花の姫は義経の側室になることに決まっていた。恐らく時忠は娘の今後を案じて、義経に託そうとしたのであろう。また夕花は、義経が捕虜となり時忠の舘を一人参じたときに密かに裏口から逃がしたこともあった。およそ7年ほど前のことである。まだ平家が全盛であった頃、熊野や堅田の海族が平家に捕われたことがあった。そのときに義経は郎党を解放する条件で、ひとり捕虜の身となり時忠の舘を訪れたのである。もちろん平家の荒公達であった能登盛・教経などは義経を許すはずもなく、討ち取ろうとしたが、時忠の娘・夕花の姫は義経に被を持たせ、闇夜に紛れて裏口から五条の橋方面へ逃がしたのである。義経をすいていたことは事実だろう。いまや頼朝からは平家の諸領24箇所も取り上げられ、勘当同然の身になり、義経を想い慕う夕花の悲しみは大きかった。

 そしてあるとき、元々平家方であったあの四国の桜間の介能遠が平時忠に迫った。武者として義経と交わした時忠との密約のことである。桜間の介としては、密約があったからこそ、兄をも源氏方へ寝返らせ勝利に導いたわけである。密約を守るべく行動を起こそうとしない義経に苛立ちを覚えていた。兄への面目もたたないからである。そして、時忠幽閉のこの舘に集まり、義経の真意を問うこととなった。そうしたとき、何故か鎌倉の頼朝から義経を伊予守に任命するという破格な沙汰が下される。いままでの冷たい待遇からは考えられないことである。勘当同然に「義経の命を聞くに及ばず」 と沙汰しておきながら腑に落ちない除目である。とはいえ、伊予には鎌倉直参の地頭職がおり、義経に租税が上がらない仕組みとなっており、謹慎を理由に義経が辞するであろうと考えていた頼朝にとっては、義経があっさり受け入れたことで鎌倉への反抗的な態度とみたのかもしれない。この頃、義経は時忠の娘・夕花を側室に迎え入れている。時忠一族や桜間の介能遠、源行家などの内輪のみの祝言は、実質上は顔ぞろいが目的であったようである。もちろん頼朝の逆鱗に触れたことは云うまでもない。義経の正妻 河越百合野の輿入れに世話をやいた政子の心証も悪くした。こうして将来の災いを摘んでおこうという頼朝の決意は固まるのである。

 京都・今出川に首途八幡宮がある。この地は奥州平泉まで牛若丸に付き添った金売吉次の屋敷跡と伝えられている。1174年、鞍馬寺に預けられていた牛若丸は平氏からの難を避けるため、鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡を頼ることになる。この首途の手配をしたのが奥州の商人・金売吉次である。首途とは「出発」の意味であることから「首途八幡宮」と呼ばれるようになったという。あれから7年、窮地にある義経は再びここを訪れたに違いない。

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新・平家物語 第55話 腰越と宗盛の最後

2013年01月02日 | 平家物語

 源義経一行が相模の国に到着すると翌には、金洗坂にて平家の虜将を引き渡すことになった。北条時政と工藤行光が迎えにくると、平家の虜将を引き渡され、次には腰越の宿にて控えるようにと、申し渡される。義経は次の言葉を待つが、それ以外には何もない様子であったので、北条時政に、兄 頼朝の御内意を確かめるがやはり御意はなかった。それ以上時政に聞くこともなく、義経一向は由比ヶ浜から腰越を目指し、兄からの次の沙汰をただ幾日か待つのであった。腰越で過ごした幾日かの間に義経は、頼朝とのお目通りを望み、腰越状という有名な懇願の状を大江広元に送っている。もちろん頼朝はその状の中身を読んだに違いないが、義経が望む返事は一切無く、やっと告げられた沙汰は 平家の虜将を洛へ連れ戻すということであった。義経には兄の心中が理解できなず、弁慶・伊勢三郎などの郎党も、賞賛あってしかるべき、このような非情の沙汰は何故に・・・と囃し立てるが、裏目にでることも恐れ、ただ兄 頼朝をひたすら信じたいと願い、郎党をなだめている。ともかく 義経は平家の虜将を伴って頼朝の命に従った。いよいよ近江であるが、ここで虜の打ち首を義経は命じられていた。太刀取りは、鎌倉から付いてきていた橘ノ右馬冗公長である。公長は元々平家の者で、かつては権中納言知盛の侍であったが、平家に限りをつけて東国に走り、鎌倉に仕えていたのである。宗盛の斬首に続いて、息子・清宗も同夜討たれた。父39歳、息子17歳であった。

鎌倉にある 源頼朝 と 大江広元 の墓

 

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新・平家物語 第54話 義経凱旋

2012年12月31日 | 平家物語

 源氏の大将軍義経は、まぎれもなく大役を果たした。強いて言えば帝が壇ノ浦の海中に沈まれたことと、三種の神器のひとつ、剣だけが見つからなかったことだけが、影を落としたかもしれない。義経は待ち焦がれた洛への凱旋の命を鎌倉殿より受け、翌日には多くの囚人とともに、洛を目指していた。それまでの平家の囚人への厚いもてなしは、情を重きとする義経らしい扱いではあるが、それを良しと思わない者もいた。それは梶原景時である。梶原景時は密かに、今までの状況を鎌倉殿へ報告していた。それを知らない義経は、ただただ兄 頼朝からのねぎらいの言葉のみを楽しみにしていたのであるが、何故かその言葉は一言もなく、洛に入ってからは勘当ともいえる便りを受け取るのである。そして、平宗盛・清宗親子を連れて東国への旅路となる。相模の国に到着すると、次の命を乞うべく宿をとったが、このときには熊谷直実、金子十郎、畠山重忠、安田義定などの鎌倉御家人の諸将は陣をとかれて帰国してしまい、残ったのは義経のもとからの郎党のみとなり、 ひところのような綺羅星のごとき数は、そこにはなかった。

金戒光明寺にある鎧掛けの松

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新・平家物語 第53話 知盛の最後

2012年12月30日 | 平家物語

 平家の総領宗盛の船は舵の自由を失い漂っていた。伊勢三郎をはじめとする源軍はこの船に襲い掛かると、左馬頭行盛は斬死にした。同じ船にいた教経の父・門脇中納言教盛は、もはや最期と自ら海中へ身を消した。そしてこの船の大将・宗盛はというと身を海に投げようとはするが、ためらっているのを見た武将が 未練なお主かなと海へ突き落とし、自らも入水した。そして宗盛の息子・右衛門督(平清宗)も後から入水する。しかし、この親子は源氏の小船によって引き上げられ、生け捕られたのである。黄旗の小船のまわりには源軍の小船が群がっている。梶原景時、伊勢三郎、田代冠者等々詰め掛けたときには、すでに義経は黄旗の船に駆け上がり愕然としていた。帝(安徳天皇)は二位の尼(清盛の妻・時子)に抱かれて既に入水し、そのあとを追いかけて帝の母・建礼門院も入水していたからである。そしてそれを見届けた師の局(平時忠の妻)は動揺してなきくれている。平家随一の武将・知盛は平家一門の最期を見届けると、誰かを待っていたかのごとくその身は鬼のごとく、しかし心は穏やかである。源氏の総大将・九郎判官義経を待っていたのである。そして、今となっては平家の終焉を迎え、たとえ帝が生きていようとも洛での生活を思えばまともな成人を迎えられるはずもなく・・・・と語り、落ち延びた平家を気遣いつつ、我が身は何ら思い残すことはない、と義経に語ると、海中へ飛び込んだのである。源氏方は総勢を挙げて、帝や三種の神器を探したが、建礼門院のみを探し当てたに過ぎなかった。鎌倉の頼朝の命を受けて翌日には、義経は洛へ向かっていた。この血なまぐさい壇ノ浦にはいたたまれなかったし、早く静にも会いたかったのは言うまでもない。洛へ帰ると、民衆の囚人への哀れみやら、平家に仕えてきた女房や乳母が人目でも・・・・と懇願する声ばかりである。義経は後白河法皇からはたいそう労いの言葉を受け、その多忙から堀川邸の静に逢える日はなかなか来なかった。

高知県にある安徳天皇御陵墓

 ここ高知の横倉山は、1187年壇ノ浦の決戦に敗北した平家の残党が密かに幼帝・安徳天皇を擁して潜幸され従臣らとともに蹴鞠をされた処と伝えられています。よって鞠ヶ麻呂陵墓ともいい1200年に23歳で崩じこの地に奏葬される。様式は歴代皇陵墓と同一で、県下唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。明治16年御陵伝説地に指定された。

 

 

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新・平家物語 第52話 壇ノ浦中盤戦

2012年12月28日 | 平家物語

 壇ノ浦での源平戦況は潮の流れが勝敗を決める状況になっていた。序盤は平家方の優勢ではあったが、平家の船軍のなかでも四国の阿波民部が、源氏方へ寝返ったのは大きかった。阿波民部は桜間の介の兄軍である。平宗盛の器量のなさに愛想をつかした桜間の介は既に義経側についていたが、兄を説得して源氏方へなびかせたと同時に、源氏との和義を図ろうとする平時忠やその息子・讃岐殿と義経との仲をとりもつ役とかってでていた。義経の眼中には三種の神器と安徳天皇しかない。平家を打ち破ったとしても、三種の神器を取り戻すことができなければ、この戦の意味はないからである。時忠と安徳天皇、建礼門院、二位の尼などの命を保障する密約をかわしていた義経は、赤間の関の陸路に身を隠す平時忠、讃岐中将時実から安徳天皇を乗せた船の御印情報を得、それへ急いだ。黄印の旗を掲げた小船へである。

 そしてこの時に、義経は平家随一の武将、能登守・教経に決戦を挑まれることになる。このとき既に源平の小船は随所で衝突しており、小松新三位資盛、弟有盛は海の藻屑と消えていた。また、左中将清経や、教経の郎党権藤内貞綱も討ち死にしていた。一人気をはいていたのが能登守・教経である。義経の眼中にあるのは黄旗の小船のみであり、小船を伝って黄旗へと急いでいた。能登守教経は 義経との一騎打ちを望んだが、空しく義経の郎党・安芸大領実康の子・太郎実光、次郎兄弟に捕まり、お互いを道連れに海中へ沈んだ。

高知の安徳天皇御陵墓近くにある能登守教経の墓

 

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新・平家物語 第51話 平家の城塞彦島

2012年12月27日 | 平家物語

 平家軍は屋島を落ち延び、赤間ヶ関を右に、文字ヶ関を左にみながら長門を通り、彦島へ続々と船を寄せてきた。ここは昨年より平知盛が九州の松浦党、山賀党とともに城砦を構えていたところである。知盛は一の谷では平家の大将として立ったが息子・知章を失い敗北したが、ここ彦島では平家の威勢を取り戻している。そして周防、長門、豊前、豊後の武将を平家になびかせ、三河守、範頼を窮地に立たせる戦ぶりを見せていた。しかし知盛はうすうす平家の最期を予感している。なにしろ屋島は鉄壁の砦であった。屋島あってこそ彦島が映えるのである。 しかしその屋島が一日にして義経に崩されてしまったことは知盛にとっては予想外のことである。清盛が好んだ厳島の神職にあった安芸の佐伯景広さえも一族を従えて平家のこれまでの恩に報いようと参戦している。武将でもなんでもない神職にある佐伯景広さえも戦に参加させなくてはならない状況が平家の行く末を物語っている。

 いよいよ義経軍は陸路と海路に分かれて平家の砦である彦島に近づいている。彦島は長門と豊前にはさまれた壇ノ浦の水路の奥に位置し、その壇ノ浦の正面には干珠・満珠という二つの小島が浮かんでいる。源氏の水軍はこの二つの小島が浮かぶ串崎まで接近しているのである。また金子十郎家忠、和田義盛、鎌田正近、畠山重忠そして熊谷直実が率いる東国武者の陸路の精鋭は周防から長門の陸路を経て赤間関を突破し、平家方へ訃報を遣わしていた。平家方は平宗盛を総大将として、お座船、大将船、その他の全水軍は知盛を中心に壇ノ浦の正面にある干珠・満珠という二つの小島を目指してゆっくりと動き、明日には平家か源氏か決着が付くことを全員が感じている。最後の夜は、平経盛、教盛、資盛、行盛が一首づつ和歌を書きのこす。そしてそのあとは、管弦の座となるのである。教経は琵琶、資盛は笛、経盛は笙、門脇殿は鼓、そして琴は知盛の妻の妹・治部卿の局となった。翌、いよいよ義経軍の出陣が始まった。先陣は梶原景時親子率いる百余船。二陣は田代冠者信綱。次に中軍の大将軍船、これには義経が乗っている。そのあとには田辺の水軍、鵜殿隼人助の熊野水軍が続いている。平家の強みは壇ノ浦の急変する潮にある。義経もこのことは熟知し、知盛の采配には一目を置いている。ところが、義経の綿密な戦法を無視して、しびれを切らした一軍が潮の流れに背いて平家方へ攻撃を開始したのである。梶原景時の船軍である。危険極まりない脊潮にはまって苦戦したのは云うまでもない。かくして海路の初戦は平家の勝利するところとなった。

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新・平家物語 第50話 村上水軍

2012年12月26日 | 平家物語

 源氏の水軍は干珠・満珠の二つの小島が浮かぶ串崎のあたりで苦戦をしていた。平家方の潮を読んだ攻撃に三方から挟み撃ちにされる格好である。これを串崎の陸路から見ていた金子十郎家忠、和田義盛、鎌田正近、畠山重忠そして熊谷直実が率いる東国武者の陸路の精鋭は気を揉んだことであろう。ところが沖の敵船に手出しができない。そこで弓の剛者・和田義盛は平家の大船めがけて矢を放った。当時強弓の士は幾筋かの記名の矢を背の箙に持っていた。そして序戦の矢あわせに、「我が腕のほどを見よ」 とばかりに誇って射たのである。 知盛は、船柱に刺さった和田小太郎義盛と署名のある矢を引き抜くと、平家の弓武者、伊予国の仁井紀四郎親清に、返り矢を命じた。 仁井紀四郎親清が放った義盛の矢は、見事和田義盛の後ろにいた石田左近太郎の肘を射抜いたという。こういう場合には和田義盛の面目は丸つぶれである。また、仁井紀四郎親清の矢が義経の身辺に飛んできたとき、義経は返り矢を甲斐源氏の浅利与市に命じたとき、浅利与市は仁井紀四郎親清を見事に射止めたという。お互いに距離があったときには、このように武者気質を興じたのである。

能島(左)と鵜島(中央)

 村上水軍は、瀬戸内三島村上水軍の中でも、小早川氏など大名との接触が早く、いち早く大名権力配下で活躍していく水軍であるのに対して、能島村上水軍は、水軍または海賊の棟梁らしく最後まで大名権力に抵抗しながら没落していった水軍(海賊)である。 後期水軍の成立は、紀州熊野の雑賀水軍の援護のもとに、塩飽水軍も 笠岡沖の神島も平定し味方につけ、 大島 大三島 因島へと進入してきます。 天授三年(1377 ) 箱崎浦の合戦です。瀬戸内の要所を掌握した,北畑師清は 義顕 の子で長男の 雅房を能島に,次男 吉豊を因島に三男 吉房を来島に分立させ三島村上水軍が誕生するわけです。 因島は土生の長崎に出張りの小高い山に長崎城を造った島前に菩提寺の長源寺を建てた,田熊の村上はこの系統の村上です。

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新・平家物語 第49話 景清の錣引き

2012年12月25日 | 平家物語

 1185年2月20日の出来事、那須与一の見事な弓に感極まり黒革の鎧を着た男が白柄の長刀をかざし、舞を披露し始めた。これを見た伊勢の三郎は、「御下命ぞ、あれも射よ」と、与一に命じる。大役を無事果たして、ほっとしていた与一であったが、御下命ならばとて、再び、弓をキリリと絞り、ひょっと射ますと、狙い違わずその男に当たった。それまで与一にやんやの喝采を送っていた平家の武者は、これを見て忽ち水を打った様に静まり返り、源氏ではどよめくばかりであった。

 平家の者達は、源氏の大人げない仕打ちに我慢出来なかったのか、三人の武者が手に手に太刀などを持って陸に揚り、「源氏の殿ばら、寄せ給えや」と、手招きした。これを見た判官、 「これは捨て置けぬ、馳せ寄って蹴散らせや」と命じると、武蔵の美尾屋十郎・四郎・藤七、上野の丹生四郎・信濃の木曽中次の五騎が、おめきながら駆け出した。真っ先駆けた美尾屋十郎の馬の胸を、楯の蔭から飛び出した平家の武者の、ぴょっと射た黒塗りの大きな矢が、根本までずぶりと射抜いて、馬は堪らず屏風を倒したる如くに、どどっと倒れた。美尾屋は倒れんとした馬から飛び降りたが、楯の蔭から、今度は大長刀を振りかざした武者が飛び出してきて、矢庭に美尾屋に打ち掛かる。美尾屋は太刀を抜いて、必死に応戦するが、相手の勢いに堪らず、「大長刀には叶わぬ」とばかり、身を屈めて逃げ出した。これを逃さじと、大長刀を小脇に抱え、後を追い駆けてきた平家の武者が、美尾屋の甲の錣を掴みかると、美尾屋もこれを掴まれては堪りません。必死に逃げ回るがとうとう錣を掴まれてしまった。暫くは互いに、美尾屋の甲の錣を引き合っていたが、その内錣が途中から引き千切れて、美尾屋は錣の無い甲を被って、味方の騎馬の中へ逃げ込んだ。残りの四人は、馬を休めて、二人の成り行きを、ただ呆然と眺めているばかりであった。平家の武者は、美尾屋の残した錣を、大長刀の先に突き刺し高々と差し挙げて、「遠からん者は音にも聞け、近くは寄って目にも見よ。我こそは、京で噂の上総悪七兵衛景清よ」と、勝ち名乗りを挙げて、味方の楯に身を隠した。

 悪七兵衛景清は、平將門を退治した藤原秀郷の子孫・富士川の合戦で、副将軍を勤めた上総守忠清の七男である。流布本では、今回の話の様に、平家の荒武者として華々しく登場するが、その後、壇ノ浦の戦いで奮戦空しく平家は破れ捕らえられて、鎌倉で首を斬られた。一方、長門本では、壇ノ浦から落ち延びた後、1195年源頼朝が東大寺の落慶法要に参列した時、頼朝を討ち果たさんと、群衆の中に紛れ込んでいた所を掴まって、六条河原で斬られた事になっている。京都・清水寺の近くには、当時、彼が隠れ住んでいたと言われる、洞窟が存在するという。また、謡曲の世界では、落ち延びた景清が、西国の日向に潜入し、盲目となって落ちぶれ果て隠棲している所へ、娘が尋ねて来て、問われるままに、在りし日の勇猛な武者振りを、語って聞かせてたと言う。

 

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新・平家物語 第48話 弓流し

2012年12月22日 | 平家物語

 四国の香川県・屋島には源平屋島の合戦での記念碑がいくつも建てられています。 観光事業の一環で最近建てられたようで、どれも真新しく、少し趣に欠ける感がありますが、ここでは義経の弓流しの石碑をはじめ、いくつかを紹介します。 「弓流し」 は平家物語でも記載されているように、義経が不覚にも自分の弓を落としてしまい、部下の制止も聞かずにそれを必死ですくい上げようとする場面である。叔父・為朝のような強弓であればいざしらず、義経の弓はさほど強いものではなかった。敵方に拾われてその弱さを汚されてはなるまいと、拾い上げたものである。

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新・平家物語 第47話 平時忠の和睦交渉

2012年12月20日 | 平家物語

  いまや平家は陸路においても、海路においても源氏に劣ってる。しかし義経の心のうちは平穏ではない。たとえ戦に勝利したとしても、三種の神器と安徳天皇の無事を欠いては戦に勝ったとはいえないことはわかっていたからである。そして平家方にも義経と同じことを考えていたものがただ一人いた。それは平時忠である。いくつかの条件付きで、三種の神器を源氏方に渡すことによって無駄な血を流すことが避けられるものならば・・と願っていた。しかし彼は、いまや平家からは二心の持ち主と非難され牢船のそこに息子・讃岐中将時実とともにつながれる身となっていた。洛に残してきた娘・夕花や右大弁時宗を想い、義経からの遣いが来るのを密かに待ち侘びていたのである。あるとき、桜間の介能遠は師の局から受け取った文を携えて牢船の底に近づいた。桜間の介は義経が屋島攻略の際に邸をぬけ、屋島の本陣へその旨を伝えるため参じたが平宗盛からは義経の差し金呼ばわりされ、義経方に寝返った男である。平家大将・宗盛の器量の狭さを見限り、義経方についただけではない。平家の窮地を援護すべく、3000騎の大軍率いて屋島へ向かう田口左衛門教能を義経と引き合わせ、その援護を退かせた男でもある。その桜間の介が義経の密者となって平時忠の妻・師の局に和義の文を描かせて、今時忠の前に現れた。

  

 ここは源平合戦の地、屋島の牟礼 「松明で源氏が勝利した牟礼総門の場所」である。平家物語で有名な屋島の戦いというのは讃岐・屋島での海上戦のことを一般的には言うのであるが、じつはこの戦いの口火は陸上戦に始まり、その勝利が屋島の戦いでの源氏勝利につながったのである。 義経率いる源氏が一の谷の戦いで勝利すると、平家は福原を撤退して屋島を本拠地とした。讃岐地方の屋島はもともと 平家が統治しており、地の武士はほとんどが平家側に見方するという環境にあった。しかし義経はわずかな軍馬とともに奇襲作戦をとる。 強風の中、九鬼党などの船団を率いて、摂津から阿波に渡り、屋島方面に北上していった。そして平家武士を次々と破ると、牟礼の総門を崩し、源氏が得意とする山中の騎馬戦へと持ち込んだ。その舞台となったのが、ここ源氏ヶ峰なのである。わずか200騎の源氏軍を大群であるかのように欺くために、多量の松明をかざす様子が平家物語に登場するのである。

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新・平家物語 第46話 讃岐・白峰

2012年12月18日 | 平家物語

 平家の軍勢3000騎を率いる田口教能を説き伏せた義経軍は、からくも自身の人徳により勝利することになるが、先の屋島の戦いでの負傷者は数多い。 医者として義経に従軍していた、阿部麻鳥は敵味方の隔てなく看護を行っていた。 ここ屋島の先には讃岐・白峰がある。 讃岐といえば、20年も前の保元の乱で讃岐へ流され、8年もの間洛との情報に閉ざされたまま狂気してこの世を後にした崇徳上皇の果てた地である。 崇徳上皇の御謀反をたすけたのは義経の祖父 源為義である。 また上皇と源為義を敵に回して矢を放ったのは、義経の父・義朝である。 義経にとっては、肉親同士が院方と朝廷方にわかれて、血みどろの戦いを行ったのち流された讃岐院と聞けば、思い起こされることも少なからずあった。 阿部麻鳥は讃岐院がここ白峰に流されたときに一度訪れている。 麻鳥は崇徳上皇が新院としてうやまわれていた頃に、柳の水の水守として宮苑に仕えていた。 また義経はそのことを知っていた。 そして今、ここに来て、再度の訪問を義経の乞うたのである。 そして義経とともに、白峰の鼓が丘の木の丸御所跡がどのようになっているのかを見届けにいった。  奥深い地に小さな 崇徳上皇の墓と思われる小石を見つけると、麻鳥は昔の懐かしみ、また後の世で呪われた天狗のように呼ばれた上皇を哀れみ、語った。

 

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新・平家物語 第45話 小宰相殿入水

2012年12月17日 | 平家物語

 平通盛は、鵯越の戦いで源氏の佐々木党(佐々木俊綱)、木村党(木村源吾重章)らと戦い討死した。 戦から七日後、小宰相殿が入水した。兄の後を追い、腹の中に子を宿したまま。あのとき、兄は討死することが分かっていたのだろうか。だから、仮屋に小宰相殿を呼んで、名残を惜しんだのだろうか。そう思うと、堪えられなかった。 小宰相は平通盛の妻にあたり、参議藤原憲方の娘で上西門院統子内親王(後白河院の同母姉)に仕えていて、宮中一の美女といわれていました。この小宰相に一目惚れしたのが平通盛で、三年間文を送り続けますが、十六歳のうぶな小宰相は恥ずかしくて返歌もできず、二人を見かねた女院の統子の仲立ちによりやっと二人は結ばれたのでした。 一ノ谷戦が終わり屋島へ向かう船中で通盛の安否を案じていた小宰相のもとに通盛が生田川のほとりで討ち死にしたという知らせが届きます。 とても現実とは思えない小宰相はその知らせを信じることができずに通盛の帰りを待っていたのですが、次々に敗戦の様子が伝えられるにつけて、ついに通盛の死を受け入れますが、乳母は心配でいっときも小宰相から目を離すことが出来ないほどの落ち込みようです。そして数日後、小宰相は人々が寝静まった頃に海に飛び込み、番をしていた舵取りが見つけ、男達が助け上げたときには小宰相はもう虫の息でした。 乳母の悲しみの深さはいかほどだったでしょう。申し訳ないと後を追おうとしたのですが止められて果たせず、その場で髪を切りました。そして、死装束の上に通盛の鎧を着せられ海に水葬された小宰相の菩提を祈って残りの生涯を送ったということです。 愛一筋に一八歳の命を燃焼させた人、それが小宰相です。

小宰相が出仕していた後白河院の同母姉・上西門院統子の陵

 

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新・平家物語 第44話 菊王丸と通盛

2012年12月16日 | 平家物語

 菊王丸とは、平家の武将・能登守教経の兄・越前三位通盛に仕えていた童である。平家物語では僅かながらの登場ではあるが、憐れにも源氏の武将・佐藤継忠の手にかかって17歳で死んだだけに、ファンも多い。越前三位通盛に仕え、能登守教経に看取られた菊王丸は、実は平通盛、教経兄弟の仲をとりもった人物でもあった。今思えば、あの童のおかげで我等兄弟は救われたのであった。能登守教経は越前三位通盛が嫌いで、越前三位通盛も能登守教経のことをよくは思っていなかった。それがいつからだろうか。子供の頃に戻ったように、何でも打ち明けることができるようになった。 …考えても考えても、やはり答えは一つしかない。菊王丸が来てからだ。あいつが、兄弟の仲を取り持ったのだ。

 「能登殿!」 あの日。 私・能登守教経はどうしても兄・越前三位通盛に会わねばならない用事があり、嫌々邸に行った日のことである。 見たことのない童が、私に向かって手を振っていた。 「能登殿ですよね? 殿とお顔がそっくりだったので分かりました」 まだ後ろで束ねているだけの長い髪が、愛らしく揺れていた。 「兄上は?」 「多分…北の方のところです」 「そうか。相変わらずだな」 兄は小宰相殿と呼ばれる宮中一の美女と大恋愛の末、結婚していたのである。  正直に言うと、私はそんな兄を苦々しく思っていた。 いくら栄華を誇ろうと、平家は武家。 笛を吹き、歌を詠んでいる暇があったら武芸に励め。 それが私の信念だったからである。 だから、貴族同様に女にうつつを抜かしている兄が気に食わなかった。 「あの…能登殿?」 そんな私の考えは、顔に出ていたのだろうか、「殿も…ちゃんと武芸に励まれておいでですよ」その童は、遠慮がちに言った。 私は正直面食らった。 そんなことをこの童から言われるとは思わなかったのだ。 全く童が余計なことを…とは、なぜか思わなかった。その真っ直ぐな瞳に、むしろうろたえてしまったぐらいだ。「それは、分かっておる」「殿は私にも武芸を教えてくれます」「まことか」それは少し意外だった。「はい。あっ、でも…」「何だ?」「弓は、能登殿の方が得意だって…今度教えてもらうとよいって…」兄がそんなことを言っているとは。ますます意外だった。「弓か…私に習いたいのか?」「はい! お願いします!」「そうかそうか」私はいつの間にか口元をほころばせていた。「細い外見に似合わず勇ましいな」「からかわないで下さい。強くなって、殿をお守りするんですから!」童は甲高い声でそう言った。甲高い声ではあるが、そこに強い意志が感じられた。武家に仕える者として理想的だ。私はもう一度童をよく見た。小柄で、愛嬌のある顔立ち。特に笑顔が愛らしかった。「名は何という」

 「菊王です!」「そうか。いい名だ」私がそう言うと、菊王丸は心底嬉しそうに笑った。そこにようやく兄が現れた。「おお、来ていたか」「殿! 能登殿が弓を教えてくださることになりました!」「そうか。それはよかったのう」兄は菊王丸にそう言い、私には「手加減してやってくれよ。見ての通りの美童だ。傷つけたら許さんぞ」と釘を刺した。「手加減をしては上達しません」「お前な、相手は子供なのだぞ」「おれは小さい頃から本気で武芸に励んでおりました」「菊王とお前とでは体格が違う」「しかしこの者は鍛えがいがあるように見えますが」 「あのっ!」菊王丸が割って入った。「大丈夫ですから、殿…。私、力には自信があります! それにもう子供ではありませぬ」菊王丸は一生懸命に言った。自分のために兄弟が喧嘩してはと思ったのだろう。これしきのことで、目には涙すら浮かべていた。その様子を見て、私たちの気勢はすっかり削がれてしまった。 それが、はじまりだった。 それから、私は暇をみつけては兄の邸に行くようになった。最初はいつもの稽古のついでくらいの気分で指導を始めたのだが、この童は意外と筋がよかった。本気でやれば一騎当千の剛の者になるかも知れぬ。私は、菊王丸の弓の稽古に夢中になった。「どうだ菊王。こいつに苛められてないか」兄も時々顔を出すようになった。「苛めてなんていませんよ」「まことか、菊王」 「はい、まことですっ!」「兄上、こいつはなかなか筋がいいですよ。それに物凄い剛力だ」「何?」兄は思い切り顔をしかめた。「誰が剛力だって?」「菊王がですよ。なあ?」「はい!」「嘘をつけ。こんなに細い童が」 「信じられないなら…菊王、あれぐらい持てるよな」そういって、私は庭石を指差した。普通なら三人がかりで持とうかという大きさだ。「持てるわけがなかろう」兄が言うなか、菊王丸はぱたぱたと駆け寄り、それをいとも簡単に持ち上げたのだった。「ほらね」おれは勝ち誇る思いで言ってやった。その頃から、私と兄上は子供の頃のように話すことができるようになった。共に笑いあい、腹を割って話せるようになった。すべては、菊王丸がいたからだった。

 しかし、それは私たちが安穏に暮らせた最後の時間だった。天旋り日転じて―平家は、都を追われる身となった。都を落ち、福原を焼き払い、太宰府を目指し…そこをも落ちて屋島にたどりつく。そして、寿永三年。一の谷に城郭を構え、源氏と対峙することとなった。一の谷。そこは完璧な要塞であるように見えた。 源氏がどこから来ようと、防ぐ自信はあった。しかし、それでも辛い戦いになると思われる山の手を守ろうという者はいなかったらしい。当然のように、私と兄が山の手を守ることになった。「戦を一体何だと思っているのだ」 私は菊王丸に愚痴をもらした。「狩や漁ではないのだぞ。皆、楽なところがいいと思って…それでは勝てるわけがなかろう」「皆が能登殿のようであったら、都落ちをすることはなかったでしょう」菊王丸はぽつりともらした。「…それはそうだ」「でも! 私は殿―越前三位と能登殿がここを守れば、必ず勝てると信じています!」「当たり前だ。必ず勝つ」 私と菊王丸は軍議を開くため、仮屋に向かった。そこには既に兄がいた。妻の小宰相殿と共に。それを見た瞬間、おれは全身に不快感が駆け巡るのを感じた。「何をなさっているのですか兄上!」おれは叫んでいた。分からなかったのだ。これから戦が始まるというのに、仮屋に女を連れてくる者の神経が。そして堪えられなかったのだ。そのような行動を取るのが、このおれの兄だということに。裏切られたと思った。ただの貴族ぶっただけの男ではないと見直していたのに。やはりおれと同じ武人であると思い直していたのに。「兄上、ここがどのような場所か分からぬのですか。ここは最も強い敵が来るから、この教経が守ることとなったのです。もし、今ここに源氏が襲ってきたら、あなたはどうする気なのですか」「能登殿お止めください!」菊王丸が叫んだ気がしたが、おれは構わず兄の胸倉を掴んだ。許せなかった。 2、3発殴らなければ気が済まない。「たとえ弓が取れても、矢がつがえられぬでしょう。それができても、引かなければ意味がない。ましてそのように女とくつろいでいるあなたが、一体何の役に立つというのでしょうか!」おれが兄に向かって拳を挙げたとき、それを掴むものがあった。「お止めください、能登殿!」菊王丸が、おれの腕にしがみついていた。「北の方は孕まれておいでです。最後の名残を惜しみたかったのでしょう」「お前まで兄の肩を持つか!」「違います。能登殿、今は戦の前でございます。こんなときに、大切な山の手の大将と副将が仲違いをしてどうするのです!」反論できなかった。私は、振り上げた拳を仮屋の壁に叩きつけた。「…済まぬ」「いや、私が悪かった」兄はそれだけを言って、小宰相殿を帰した。そして、おれと兄の間にはわだかまりが残ったまま、戦は始まった。兄は、その戦で討死した。

 疲れていた。ただもう疲れていて、泣くこともできなかった。戦から七日後、小宰相殿が入水した。兄の後を追い、腹の中に子を宿したまま。あのとき、兄は討死することが分かっていたのだろうか。だから、仮屋に小宰相殿を呼んで、名残を惜しんだのだろうか。そう思うと、堪えられなかった。しかし、それでも戦わなくてはならない。私は初めて、武門に生まれたことを呪った。眠ることができず、外に出た。見上げても、曇っていてひとつも星を見ることができない。それでもおれは、ただ夜空を見上げた。如月の風が頬を冷やしていく。その風に交じって、かすかな声が聞こえた。少し離れたところで、小さな人影が見えた。「菊王…」傍に寄れば、菊王丸は泣いていた。澄んだ目を真っ赤にし、愛らしい顔をくしゃくしゃにして。「寒いだろう。風邪をひくぞ」ぽん、と菊王丸の頭に手を置いた。「…ひいたって、いいです」「何を言ってるんだ」「だって…北の方のほうがもっと寒い。海の中なんだからっ…」菊王丸はおれの胸に顔をおしつけると、声をあげて泣いた。「殿をお守りできなかった…殿を守りたくて、弓も、剣も、馬も、あんなに稽古したのに…」私は何も言えなかった。どうすることもできなくて、ただ泣きじゃくる童を抱きしめていた。「私に仕えろ」菊王丸が泣き止むのを待って、私は言った。「次の戦で、ともに兄上の仇を討とう」菊王丸は私を見上げると、涙をぽろぽろこぼしながら頷いた。私はその束ねられた長い髪を見ながら、次の戦に勝ったら、すぐに元服させてやろうと心に決めた。

 平家は屋島で源氏を迎えうった。私の弓は一本の矢も無駄にせずに敵を射抜いていったが、目指すのは源氏の大将九郎義経ひとりだった。兄を討った敵の名は聞いていたが、菊王丸は大将を討つのが何よりの敵討ちだと言った。それに、大将を討てば長い戦を終えることができる。私は夢中で戦場を駆けまわった。「能登殿!」菊王丸が叫んだ。その視線の先に見えるのは、ひときわ目を引く武者。赤地の錦の直垂に、紫裾濃の大鎧。間違いないと思ったときには、弓を引いていた。矢が唸りをあげて敵将の喉元を狙う。 まさに刺さらんとしたとき。九郎義経をかばうように、一人の兵がその矢を受けたのだった。「嗣信!」敵将が叫んだ。「あれが佐藤嗣信か…?」菊王丸が呟いた。奥州平泉から使わされた者だと聞いたことがある。 九郎義経の従者だ。討ち取って手柄にしたい。そのためには射ただけでは意味がない、首を取らなくては。 しかし、敵の懐に飛び込んで取るのは危険すぎる。私が悩んでいると「能登殿! 私が!」菊王丸が嗣信に向かってとびかかった。「よせ、菊王!」そして、おれの声より先に菊王丸に届いたのは、敵の切斑の矢だった。 それから先は、おれ自身もよく覚えていない。ただ、その愛らしい首が敵にとられることばかりを恐れ、倒れた童を抱えて舟へ戻ったのだ。おれは、生涯でたった一度、このときだけ、戦を放棄した。失うものは、もう何も残っていなかった。

平教経の兄・通盛碑

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