菊王丸とは、平家の武将・能登守教経の兄・越前三位通盛に仕えていた童である。平家物語では僅かながらの登場ではあるが、憐れにも源氏の武将・佐藤継忠の手にかかって17歳で死んだだけに、ファンも多い。越前三位通盛に仕え、能登守教経に看取られた菊王丸は、実は平通盛、教経兄弟の仲をとりもった人物でもあった。今思えば、あの童のおかげで我等兄弟は救われたのであった。能登守教経は越前三位通盛が嫌いで、越前三位通盛も能登守教経のことをよくは思っていなかった。それがいつからだろうか。子供の頃に戻ったように、何でも打ち明けることができるようになった。 …考えても考えても、やはり答えは一つしかない。菊王丸が来てからだ。あいつが、兄弟の仲を取り持ったのだ。
「能登殿!」 あの日。 私・能登守教経はどうしても兄・越前三位通盛に会わねばならない用事があり、嫌々邸に行った日のことである。 見たことのない童が、私に向かって手を振っていた。 「能登殿ですよね? 殿とお顔がそっくりだったので分かりました」 まだ後ろで束ねているだけの長い髪が、愛らしく揺れていた。 「兄上は?」 「多分…北の方のところです」 「そうか。相変わらずだな」 兄は小宰相殿と呼ばれる宮中一の美女と大恋愛の末、結婚していたのである。 正直に言うと、私はそんな兄を苦々しく思っていた。 いくら栄華を誇ろうと、平家は武家。 笛を吹き、歌を詠んでいる暇があったら武芸に励め。 それが私の信念だったからである。 だから、貴族同様に女にうつつを抜かしている兄が気に食わなかった。 「あの…能登殿?」 そんな私の考えは、顔に出ていたのだろうか、「殿も…ちゃんと武芸に励まれておいでですよ」その童は、遠慮がちに言った。 私は正直面食らった。 そんなことをこの童から言われるとは思わなかったのだ。 全く童が余計なことを…とは、なぜか思わなかった。その真っ直ぐな瞳に、むしろうろたえてしまったぐらいだ。「それは、分かっておる」「殿は私にも武芸を教えてくれます」「まことか」それは少し意外だった。「はい。あっ、でも…」「何だ?」「弓は、能登殿の方が得意だって…今度教えてもらうとよいって…」兄がそんなことを言っているとは。ますます意外だった。「弓か…私に習いたいのか?」「はい! お願いします!」「そうかそうか」私はいつの間にか口元をほころばせていた。「細い外見に似合わず勇ましいな」「からかわないで下さい。強くなって、殿をお守りするんですから!」童は甲高い声でそう言った。甲高い声ではあるが、そこに強い意志が感じられた。武家に仕える者として理想的だ。私はもう一度童をよく見た。小柄で、愛嬌のある顔立ち。特に笑顔が愛らしかった。「名は何という」
「菊王です!」「そうか。いい名だ」私がそう言うと、菊王丸は心底嬉しそうに笑った。そこにようやく兄が現れた。「おお、来ていたか」「殿! 能登殿が弓を教えてくださることになりました!」「そうか。それはよかったのう」兄は菊王丸にそう言い、私には「手加減してやってくれよ。見ての通りの美童だ。傷つけたら許さんぞ」と釘を刺した。「手加減をしては上達しません」「お前な、相手は子供なのだぞ」「おれは小さい頃から本気で武芸に励んでおりました」「菊王とお前とでは体格が違う」「しかしこの者は鍛えがいがあるように見えますが」 「あのっ!」菊王丸が割って入った。「大丈夫ですから、殿…。私、力には自信があります! それにもう子供ではありませぬ」菊王丸は一生懸命に言った。自分のために兄弟が喧嘩してはと思ったのだろう。これしきのことで、目には涙すら浮かべていた。その様子を見て、私たちの気勢はすっかり削がれてしまった。 それが、はじまりだった。 それから、私は暇をみつけては兄の邸に行くようになった。最初はいつもの稽古のついでくらいの気分で指導を始めたのだが、この童は意外と筋がよかった。本気でやれば一騎当千の剛の者になるかも知れぬ。私は、菊王丸の弓の稽古に夢中になった。「どうだ菊王。こいつに苛められてないか」兄も時々顔を出すようになった。「苛めてなんていませんよ」「まことか、菊王」 「はい、まことですっ!」「兄上、こいつはなかなか筋がいいですよ。それに物凄い剛力だ」「何?」兄は思い切り顔をしかめた。「誰が剛力だって?」「菊王がですよ。なあ?」「はい!」「嘘をつけ。こんなに細い童が」 「信じられないなら…菊王、あれぐらい持てるよな」そういって、私は庭石を指差した。普通なら三人がかりで持とうかという大きさだ。「持てるわけがなかろう」兄が言うなか、菊王丸はぱたぱたと駆け寄り、それをいとも簡単に持ち上げたのだった。「ほらね」おれは勝ち誇る思いで言ってやった。その頃から、私と兄上は子供の頃のように話すことができるようになった。共に笑いあい、腹を割って話せるようになった。すべては、菊王丸がいたからだった。
しかし、それは私たちが安穏に暮らせた最後の時間だった。天旋り日転じて―平家は、都を追われる身となった。都を落ち、福原を焼き払い、太宰府を目指し…そこをも落ちて屋島にたどりつく。そして、寿永三年。一の谷に城郭を構え、源氏と対峙することとなった。一の谷。そこは完璧な要塞であるように見えた。 源氏がどこから来ようと、防ぐ自信はあった。しかし、それでも辛い戦いになると思われる山の手を守ろうという者はいなかったらしい。当然のように、私と兄が山の手を守ることになった。「戦を一体何だと思っているのだ」 私は菊王丸に愚痴をもらした。「狩や漁ではないのだぞ。皆、楽なところがいいと思って…それでは勝てるわけがなかろう」「皆が能登殿のようであったら、都落ちをすることはなかったでしょう」菊王丸はぽつりともらした。「…それはそうだ」「でも! 私は殿―越前三位と能登殿がここを守れば、必ず勝てると信じています!」「当たり前だ。必ず勝つ」 私と菊王丸は軍議を開くため、仮屋に向かった。そこには既に兄がいた。妻の小宰相殿と共に。それを見た瞬間、おれは全身に不快感が駆け巡るのを感じた。「何をなさっているのですか兄上!」おれは叫んでいた。分からなかったのだ。これから戦が始まるというのに、仮屋に女を連れてくる者の神経が。そして堪えられなかったのだ。そのような行動を取るのが、このおれの兄だということに。裏切られたと思った。ただの貴族ぶっただけの男ではないと見直していたのに。やはりおれと同じ武人であると思い直していたのに。「兄上、ここがどのような場所か分からぬのですか。ここは最も強い敵が来るから、この教経が守ることとなったのです。もし、今ここに源氏が襲ってきたら、あなたはどうする気なのですか」「能登殿お止めください!」菊王丸が叫んだ気がしたが、おれは構わず兄の胸倉を掴んだ。許せなかった。 2、3発殴らなければ気が済まない。「たとえ弓が取れても、矢がつがえられぬでしょう。それができても、引かなければ意味がない。ましてそのように女とくつろいでいるあなたが、一体何の役に立つというのでしょうか!」おれが兄に向かって拳を挙げたとき、それを掴むものがあった。「お止めください、能登殿!」菊王丸が、おれの腕にしがみついていた。「北の方は孕まれておいでです。最後の名残を惜しみたかったのでしょう」「お前まで兄の肩を持つか!」「違います。能登殿、今は戦の前でございます。こんなときに、大切な山の手の大将と副将が仲違いをしてどうするのです!」反論できなかった。私は、振り上げた拳を仮屋の壁に叩きつけた。「…済まぬ」「いや、私が悪かった」兄はそれだけを言って、小宰相殿を帰した。そして、おれと兄の間にはわだかまりが残ったまま、戦は始まった。兄は、その戦で討死した。
疲れていた。ただもう疲れていて、泣くこともできなかった。戦から七日後、小宰相殿が入水した。兄の後を追い、腹の中に子を宿したまま。あのとき、兄は討死することが分かっていたのだろうか。だから、仮屋に小宰相殿を呼んで、名残を惜しんだのだろうか。そう思うと、堪えられなかった。しかし、それでも戦わなくてはならない。私は初めて、武門に生まれたことを呪った。眠ることができず、外に出た。見上げても、曇っていてひとつも星を見ることができない。それでもおれは、ただ夜空を見上げた。如月の風が頬を冷やしていく。その風に交じって、かすかな声が聞こえた。少し離れたところで、小さな人影が見えた。「菊王…」傍に寄れば、菊王丸は泣いていた。澄んだ目を真っ赤にし、愛らしい顔をくしゃくしゃにして。「寒いだろう。風邪をひくぞ」ぽん、と菊王丸の頭に手を置いた。「…ひいたって、いいです」「何を言ってるんだ」「だって…北の方のほうがもっと寒い。海の中なんだからっ…」菊王丸はおれの胸に顔をおしつけると、声をあげて泣いた。「殿をお守りできなかった…殿を守りたくて、弓も、剣も、馬も、あんなに稽古したのに…」私は何も言えなかった。どうすることもできなくて、ただ泣きじゃくる童を抱きしめていた。「私に仕えろ」菊王丸が泣き止むのを待って、私は言った。「次の戦で、ともに兄上の仇を討とう」菊王丸は私を見上げると、涙をぽろぽろこぼしながら頷いた。私はその束ねられた長い髪を見ながら、次の戦に勝ったら、すぐに元服させてやろうと心に決めた。
平家は屋島で源氏を迎えうった。私の弓は一本の矢も無駄にせずに敵を射抜いていったが、目指すのは源氏の大将九郎義経ひとりだった。兄を討った敵の名は聞いていたが、菊王丸は大将を討つのが何よりの敵討ちだと言った。それに、大将を討てば長い戦を終えることができる。私は夢中で戦場を駆けまわった。「能登殿!」菊王丸が叫んだ。その視線の先に見えるのは、ひときわ目を引く武者。赤地の錦の直垂に、紫裾濃の大鎧。間違いないと思ったときには、弓を引いていた。矢が唸りをあげて敵将の喉元を狙う。 まさに刺さらんとしたとき。九郎義経をかばうように、一人の兵がその矢を受けたのだった。「嗣信!」敵将が叫んだ。「あれが佐藤嗣信か…?」菊王丸が呟いた。奥州平泉から使わされた者だと聞いたことがある。 九郎義経の従者だ。討ち取って手柄にしたい。そのためには射ただけでは意味がない、首を取らなくては。 しかし、敵の懐に飛び込んで取るのは危険すぎる。私が悩んでいると「能登殿! 私が!」菊王丸が嗣信に向かってとびかかった。「よせ、菊王!」そして、おれの声より先に菊王丸に届いたのは、敵の切斑の矢だった。 それから先は、おれ自身もよく覚えていない。ただ、その愛らしい首が敵にとられることばかりを恐れ、倒れた童を抱えて舟へ戻ったのだ。おれは、生涯でたった一度、このときだけ、戦を放棄した。失うものは、もう何も残っていなかった。
平教経の兄・通盛碑
