平家方は水軍では慣れてはいるが、陸での戦闘は弱い。 義経率いる東国武者は田代冠者信綱、後藤兵衛実基、金子十郎家忠、淀の江内忠俊の精鋭揃いである。武蔵坊弁慶、伊勢三郎、佐藤兄弟はいうまでもない。 しかし平家の中でも東国武者に負けず劣らぬものが幾人かいた。 清盛の側近・平盛国の孫、越中次郎兵衛盛嗣や平教盛の次男・能登守・平教経である。能登守・教経は義経を煽り、一騎討ちをよどんできた。 それに応えるべく義経も名乗りを上げたが、義経は総大将である。 弁慶その他が総大将・義経を取り囲み、制止したとき、教経の射た矢が、大将義経をかばった佐藤兄弟の兄・継信を射抜いたのである。 そしてその瞬間、平家の童武者・菊王丸は継信の首を捕らんととびかかってきたが、弟・佐藤忠信は菊王丸を射止めた。 そして憐れ菊王丸は主人教経に馬上へ拾い上げられると、沖なる陣へ引き上げていった。佐藤兄弟と義経とは単なる主従以上のものである。 義経が鞍馬山を出て流浪の果てに奥州に下る途中、佐藤壮司の後家尼で一夜を過ごしたときからの縁である。 そして頼朝旗揚げのときから兄弟として義経のそばから離れたことはなかった。 そしてしばらくして、継信は息を引き取った。またこの時に戦死した平家方の童武者・菊王丸はまだ17歳であった。 かつては能登守教経の兄で、鵯越で戦死した越前三位通盛の侍童であったが、その後 能登殿に可愛がられていたのである。 そして義経は継信とともに菊王丸を弔った。
四国の香川県・屋島には源平合戦にまつわる史跡が数多く残されています。ここ佐藤継信の墓もそのひとつです。JR古高松南駅と高松琴平電鉄・八栗駅にはさまれた辺りにあり、太夫黒とともに眠っています。太夫黒は義経が後白河法皇から譲り受け、一の谷の合戦では崖を駆け下ったことでも有名な名馬です。継信が平家方の能登守教経の弓に倒れたとき義経は太夫黒を施して継信の菩提を弔ったといいます。


「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれ、また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれた。義経はこの地で、15歳から21歳くらいまでの期間を過ごしている。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子・継信と忠信が家臣に加わっている。基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。