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新・平家物語 第43話 菊王丸と教経

2012年12月15日 | 平家物語

 能登守教経と云えば、平家の中でも弓の達人で知られた若武者である。越前三位通盛卿を兄に持ち、門脇の宰相教盛卿を父とする平家一番の荒武者として名を馳せていた。兄・通盛は弟の教経と較べて随分大人しく、武者としては目立たない存在であったが、宮中で一番の美人と唱われた小宰相との3年にも及ぶ恋愛を成就させた話は、京中では、知らない者が無い程の優男でした。ところが間もなく他の女に心を移してしまい、小宰相に”呉竹の本は逢ふ夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ” という歌を詠まれてからは、浮気をしなくなったという。身重になった妻・小宰相の身を案じて、陣中に連れ込み、弟教経に、その軟弱さを、こっぴどく叱責された程の愛妻家であった。 通盛・教経兄弟は、その性格の違いから仲が悪かったのであるが、その間を取り持ったのが通盛に仕えていた童・菊王丸である。屋島の合戦では、義経の身代わりとなって教経の弓に倒れた佐藤継信の首を捕ろうと襲い掛かったのが菊王丸である。このとき継信の弟・忠信の弓によって射殺されることになるのであるが、僅かに17歳で亡くなった菊王丸を憐れみ、屋島の地に弔ったのが教経だという。

屋島の東海岸沿いの屋島東小学校の隣にある菊王丸の墓

 

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新・平家物語 第42話 扇の的

2012年12月14日 | 平家物語

 平家物語のなかでも最も知られた場面といえば、那須与一の扇の的当てである。このとき平家軍の田口左衛門教能約3000騎が伊予での河野通信との戦いから帰讃の途中であった。ここ屋島への到着は二日後である。平家方はなんとしても大軍を迎え入れる二日間をこう着状態のまま、耐える必要があった。そうすれば、平家方にも勝算がある。義経は精鋭といえども僅か150騎である。そして血を流さずに時間稼ぎとして考えた妙案が、扇の的当てである。平家は一艘の小船に扇の的をしつらえ、その下には玉虫という天性の美女が立った。玉虫は二位の尼に仕え、愛された雑仕女である。そして愛する恋人がいたが、先の戦いでその恋人は屍となり果てていたのである。玉虫は同じ日に死を覚悟して自ら希望して扇の下に立ったのである。こうして玉虫は、この扇を矢で見事射てみよといわんばかりに、東国武者の誉れを掻き立てた。しかし仕損じれば恥、命もないものと思わなければならない。そのとき弓武者、那須大八郎が名乗りを上げた。しかし、大八郎の兄・那須与一は弟を制して自らが扇の的を打ち抜かんと申し出る。なにも己の誉れの為ではない。与一はもともと義経に仕えていた訳ではない。梶原景時に不服ながら仕えていたこともあり、若き弟をかばってのことである。そして見事に打ち抜いた与一が敵味方関係なく喝采を受けたのは有名である。そして彼・与一の名は轟いたのであるが、その誉れの報いとして待っていたものは、梶原景時の激怒と軍罰の適用であった。梶原景時にとっては、与一は自分の家臣であり、義経になびこうとする与一を許せなかったのは云うまでもない。 ところで、那須与一の与一というのは11人目という意味。11人兄弟の末子で、太郎光隆、次郎泰隆、三郎幹隆、四郎久隆、五郎之隆、六郎実隆、七郎満隆、八郎義隆、九郎朝隆、十郎為隆、与一宗隆となります。

与一の墓は須磨の北側の那須神社にあります

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新・平家物語 第41話 佐藤継信の墓

2012年12月12日 | 平家物語

 平家方は水軍では慣れてはいるが、陸での戦闘は弱い。 義経率いる東国武者は田代冠者信綱、後藤兵衛実基、金子十郎家忠、淀の江内忠俊の精鋭揃いである。武蔵坊弁慶、伊勢三郎、佐藤兄弟はいうまでもない。 しかし平家の中でも東国武者に負けず劣らぬものが幾人かいた。 清盛の側近・平盛国の孫、越中次郎兵衛盛嗣や平教盛の次男・能登守・平教経である。能登守・教経は義経を煽り、一騎討ちをよどんできた。 それに応えるべく義経も名乗りを上げたが、義経は総大将である。 弁慶その他が総大将・義経を取り囲み、制止したとき、教経の射た矢が、大将義経をかばった佐藤兄弟の兄・継信を射抜いたのである。 そしてその瞬間、平家の童武者・菊王丸は継信の首を捕らんととびかかってきたが、弟・佐藤忠信は菊王丸を射止めた。 そして憐れ菊王丸は主人教経に馬上へ拾い上げられると、沖なる陣へ引き上げていった。佐藤兄弟と義経とは単なる主従以上のものである。 義経が鞍馬山を出て流浪の果てに奥州に下る途中、佐藤壮司の後家尼で一夜を過ごしたときからの縁である。 そして頼朝旗揚げのときから兄弟として義経のそばから離れたことはなかった。 そしてしばらくして、継信は息を引き取った。またこの時に戦死した平家方の童武者・菊王丸はまだ17歳であった。 かつては能登守教経の兄で、鵯越で戦死した越前三位通盛の侍童であったが、その後 能登殿に可愛がられていたのである。 そして義経は継信とともに菊王丸を弔った。

 四国の香川県・屋島には源平合戦にまつわる史跡が数多く残されています。ここ佐藤継信の墓もそのひとつです。JR古高松南駅と高松琴平電鉄・八栗駅にはさまれた辺りにあり、太夫黒とともに眠っています。太夫黒は義経が後白河法皇から譲り受け、一の谷の合戦では崖を駆け下ったことでも有名な名馬です。継信が平家方の能登守教経の弓に倒れたとき義経は太夫黒を施して継信の菩提を弔ったといいます。

 「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれ、また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれた。義経はこの地で、15歳から21歳くらいまでの期間を過ごしている。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子・継信と忠信が家臣に加わっている。基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。

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新・平家物語 第40話 屋島への進撃

2012年12月11日 | 平家物語

 義経は近藤六親家を呼んだ。「屋島には平家の軍勢がどれくらいいるのか」「千騎には及ばないと思われます」「どうして少ないのか」「四国の浦々、島々に五十騎、百騎づつ置かれております。その上、阿波民部重能の息子である田内左衛門教能は、伊予国の河野四郎が呼び出しに応じないので、これを討とうと、三千騎ほどで伊予国へ向かっているのでございます」「さては、いい機会だな。ここから屋島へはどれくらいの道のりだ」「二日でございます」「それならば、敵の耳に入る前に攻め寄せよう」と、馬を走らせたり歩かせたり、急がせたり立ち止まらせたりして進んだ。阿波と讃岐の境にある大坂越えという山も、夜を徹して越えた。夜中過ぎ、義経は書状を持った男と道づれになった。男は、夜の事ではあり、敵とは夢にも思わず、味方の兵士たちが屋島へ向かっているのだと思ったのだろう、打ち解けていろいろと話しをした。「その手紙はどこへのものだ」「屋島の大臣・宗盛殿へのものでございます」「誰からのものか」「都の女房からのものでございます」「何事だろうか」と言うと、「特別の事ではないでしょう。源氏が既に淀川の河口に進出して、船を浮かべていますので、その事を伝えようとしているのではないでしょうか」と言う。「本当にそうであろうな。自分も屋島へ向かっているのだが、いまだに道を知らないので、道案内を頼みたい」「この私は屋島に何度も行っていますので、道はよく存じています。お供致しましょう」すると義経は「その手紙を取れ」と、男から文書を奪い取らせ、「そいつを縛り上げよ。むやみに首を切るな」と、山中の木に男を縛り付けて置き去りにしてしまった。さて、文書を開いて見ると、確かに女房からの手紙のようで、「九郎は機敏な男でございますから、大風・大波をも嫌わず、攻め寄せるであろうと思われます。軍勢を散らさないようにして、ご用心ください」と書かれていた。義経は「これは義経の武勇を証するために、天が与えてくださった文書である。鎌倉殿にお見せしよう」と、大事にしまっておいたという。

 翌二月十八日の午前四時頃には、讃岐国の引田という所で足を止め、人と馬を休ませた。その後は丹生屋・白鳥を通り過ぎ、屋島の砦に近付いた。再び近藤六親家を呼んで、「屋島の水の深さはどのくらいだ」と尋ねた。「ご存知ないからこそお尋ねになったのでしょうが、たいそう浅いです。潮が引いている時は、陸と島の間は、馬の腹も水につかないほどでしょう」と言うので、「それならばすぐに攻めよう」と、高松の民家に火をかけて、屋島の砦へ攻め寄せたのである。屋島では、伊予国で河野四郎を討ち損なった田内左衛門教能が、家来・従者百五十人ほどの首を切って、屋島の仮の内裏へ持ち込んでいた。が、「内裏で、賊首の検査を行うべきではない」と、宗盛公の宿所に場所が移された。首は百五十六人分だった。首の検査をおこなっていると、「高松の方で火の手が上がっている」と、兵士たちが騒ぎ始めた。「昼であるから、まさか失火ではないであろう。敵が寄せてきて火をかけたに違いない。きっと大勢であるだろう。取り囲まれてはどうしようもない。すぐに船にお乗りください」と、大門の前の渚に船を並べられ、皆が我先にと乗り込んだ。安徳天皇の御座舟には、建礼門院・北の政所・二位殿以下の女房たちが乗った。宗盛公と息子の右衛門督・清宗は同じ船に乗った。その他の人々も、思い思いに船に乗り込み、一町、七八段、五六段などと漕ぎ出したところに、甲冑に身を固めた源氏の兵士たちが八十騎ほど、大門の前の渚にすっと現れた。大潮のそれも干潮の盛りであったので、馬の烏頭、下腹が見えるほどの深さの所もある。それより浅い所もあった。馬が水を蹴り上げるたびに水しぶきが上がり、軍勢が密集しているように見える。その中から白旗がざっと差し上げられたので、運に見放された平家はこれを大軍勢と見誤ってしまった。義経は、敵に少数だとわからないように、五六騎、七八騎、十騎と、兵士を群れさせながら進んでいたのである。

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新・平家物語 第39話 旗山

2012年12月10日 | 平家物語

 夜は既に明けていたので、渚には赤い旗がいくつかはためいていた。義経はこれを見て、平家方の我々に対する準備を察知した。船を岸に横付けし、傾けて馬を下ろそうとすれば、敵の的となって射られてしまうだろう。渚に着く前に、馬を海に下ろし、船から離さないようにして泳がせ、馬の足が立ち、鞍の下端が水につかるほどの深さになったら、さっと馬に乗って駆けるようにと命じた。五艘の船には武具や兵糧米も積んであったので、馬は五十頭だけを海に下ろした。渚が近付いたので、馬にさっと飛び乗り、叫びながら駆けた。義経は波打ち際に立ち、馬の息を休めていたが、伊勢三郎義盛を呼ぶと、平家勢の中の役に立ちそうな者を一人連れて参るように命じた。義盛はかしこまって命を受けると、ただ一騎で敵の中へ駆け寄り、黒皮で綴った鎧を着た四十歳ほどの男を、甲を脱がせ弓の弦をはずさせて、連れ帰ってきた。阿波国の住人、坂西の近藤六親家である。次の屋島への案内者として連れて行くように命じた。「ここは何という所だ」を義経が問うと、『勝つ浦』だという。義経は、戦をしに向かう一向が、『勝つ浦』に着くとは目出たいものよ、と喜んだ。そして、平家に内通している阿波民部重能の弟である桜間介能遠という者を蹴散らして行こうと、近藤六親家の百騎ほどの軍勢の中から、三十騎ほどを選りすぐると、自身の軍勢に加えた。桜間介能遠の城に押し寄せてみると、三方は沼、一方は堀である。堀の方に押し寄せて、戦の開始を知らせる喚声をどっと上げた。城の中の兵士たちは矢先をそろえて、次々に矢を射てくる。源氏の兵士はこれをものともせず、頭を前に傾け、うめき叫びながら攻め入った。桜間介は敵わないと思ったのだろう、家来・従者に防ぎ矢を射させ、自身は持っている極めて優れた馬に飛び乗って、やっとの事で逃げ延びた。義経は防ぎ矢を射ていた兵士たち二十人ほどの首を切って掛け、戦神に祭ると、勝利の喚声を上た。

 義経ドリームロードの終点である勝浦川を渡ると熊山があり、さらに北西へ20kmくらい行ったところに石井市があります。JR徳島線の石井駅のすぐ北あたりに、当時、桜間介能遠の城があったと思われます。義経一行は近藤六親家の軍勢を見方に引きいれ、桜間介能遠を一気に蹴散らします。このときには逃げられますが、後に彼は、義経の見方となり、壇ノ浦の戦い以降においても大きな力となり家臣として働くことになるのです。

勢合から高松方面に進み、源氏橋を渡ると旗山が見えてきます

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新・平家物語 第38話 阿波勝浦

2012年12月09日 | 平家物語

 義経は摂津を拠点に源氏を集めると、四国・阿波勝浦に上陸した。義経は淡路、阿波の状況を仔細に探らせ、強風を利用し、この風雨の中、よもや・・・との平家奇襲出陣を決めるのである。主将・義経を筆頭に、田代冠者信綱、後藤兵衛実基、金子十郎家忠、淀の江内忠俊の船に続いて鵜殿党、安宅党、九鬼党などの輸送船団が夜中の2時に船立ちをし、4時間後には阿波国勝浦(小松島市)に到着している。現在、義経が辿り着いたという阿波勝浦には”勢合”という源氏勢が集結したとされる意味を持つ石碑がたてられています。小松島湾を望む阿波赤石駅が丁度その地点になります。この勢合の地から平家方の城があったといわれる熊山の対岸・勝浦川までのおよそ10kmの道のりは義経ドリームロードと称してハイキングコースとなっています。丁度中央付近には”旗山”といわれる小高い丘が国道55号線沿いにあり、そこには源義経の勇姿をかたちどった銅像があります。

義経一向が辿りついた阿波国勝浦(小松島市)

 

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新・平家物語 第37話 嵐の中の強行

2012年12月07日 | 平家物語

 ここ摂津の「ながらの別所」には義経率いる強豪が集結した。折りしも強風である。そのせいか、梶原景時の到着のみが未だであった。義経は淡路、阿波の状況を仔細に探らせ、強風を利用し、この風雨の中、よもや・・・との平家奇襲出陣を決めるのである。一番は云うまでもなく主将義経、二番は田代冠者信綱、三番は後藤兵衛実基、四番は金子十郎家忠、五番は淀の江内忠俊の船である。そして、そのあとには鵜殿党、安宅党、九鬼党などの輸送船団である。夜中の2時に船立ちをし、4時間後には阿波国勝浦(小松島市)に到着したという。勝浦の近藤六郎親家、桜間の介能遠を破ると、義経一向は、深栖陵助が先の偵察の時に残していた仲間と讃岐路で合流した。ここまでくればすぐそこは讃岐の平野、屋島も間近である。一方、屋島では義経軍がここまで迫っていようとは夢にも考えていなかった。大将・平知盛は長門まで遠征し、また、伊予の河野通信を迎え撃つために、阿波・淡路にいた平家軍勢も集結していた。かくして屋島の武者は少なく、さびしい限りである。まして、義経の命で伊勢三郎・深栖が雑兵を連れて各地に松明をかざし、平家の眼を欺いたこともあり、義経本陣はいとも簡単に、牟礼の総門を破ったのである。平家の武者は少ないといっても、源氏軍200騎足らずに比べるとはるかに多い。 しかし、平家方には馬がなく、多くの歩兵も、鵯越に続く急襲と源氏の精鋭の前には、餌食となるのである。そして平家軍は牟礼を北になだれていった。そして義経軍は反平家の郷武者が加わり、300騎近くに増えていたのである。

摂津の「ながらの別所」は現在の太融寺付近で、左大臣・源融が閑居していたところである

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新・平家物語 第36話 船軍の調達

2012年12月06日 | 平家物語

 三河守・範頼が西国で苦戦をしている理由は明らかである。早速義経は、弁慶と鎌田正近を呼びつけると、紀州熊野海峡の一家、鵜殿党の鵜殿隼人介との同盟を説明した。また伊豆有綱と伊勢三郎には堅田へ使わしたのである。紀州熊野は海族、近江堅田は湖族が名を馳せている。 義経は奥州平泉から一人抜け出し、この熊野の三山で修行を積み、伊勢街道から近江堅田を経由して上洛するまでに、彼らとの知己を深めていたのである。武蔵坊弁慶と鎌田正近はほどなく、紀州熊野は海族・鵜殿党の鵜殿隼人介に会い、義経から預かった書状をわたすと、状況を説明した。ところが驚いたことに平家方は奥州の金売吉次を通じて船軍を買い占めていたのである。残る船も半数ほどはあるが、て熊野全土を取り仕切る別当・湛増の許可がなくては通ることができないとの話である。田辺別当・湛増は昔から平家の息がかかった有力者である。まして湛増の側室といえば、桜町中納言の娘である。桜町中納言というのは後白河の側近・藤原通兼、後の信西入道の三男で藤原成範のことである。つまり桜町の局は高倉天皇が愛した小督とは姉妹にあたるのである。ところが別当湛増は源氏方の意向を汲み入れてくれた。かくして、紀州熊野の海族・鵜殿党の船軍は、先に出立していた義経軍と、摂津で合流することとなった。合流場所は摂津の「ながらの別所」というところで、その昔、左大臣源融が閑居していた場所である。その融の子孫・渡辺党も結集して摂津に集まった。また、しばらくして梶原景時も船軍を率いて集まった。このなかに、那須与一がいたという。那須与一は那須太郎資高の子で、12人兄弟の11番目である。 そして12番目の末子が、義経と鎌倉から共に友軍し、静から義経へ宛てた恋文を受け取った那須大八郎である。そして義経が極秘に淡路を探らせていた深栖陵助一向が合流する。淡路は昔から平家と極めて関係が古い。由良港から洲本は池の大納言頼盛の所領であり、福良には参議経盛の家人がいる。熊谷直実が討ち取った敦盛の首は、その後経盛に返され福良港に浮かぶ小島・煙島で弔われている。ところが、平家の武者は淡路にはいない、というのである。そこで深栖陵助の一向は淡路から四国へ渡り、阿波から四国の西・伊予まで行っていた。伊予はたえず平家に反抗してきた強力な豪族・河野一族がおり、道前、道後にまたがる高縄城主の河野通信は範頼に味方し、平家の糧道の遮断に貢献していたのである。こうして四国の様子を探った義経は、次の作戦を練るのである。

河野氏率いる船団の前身は海族 しまなみ海道の大三島は河野水軍の里である

 

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新・平家物語 第35話 義経西国へ出陣

2012年12月05日 | 平家物語

 河越重頼の娘・百合野を正室に向かえ、静を妾として同じ邸に住まわせた義経は仕事にも励んだ。木曾義仲の時代とはうってかわって、洛の治安は良くなり、義経の評判は上がっていく。後白河法皇の深厚もあり、再び叙位の沙汰をくだされたのである。先に左衛門少将兼、検非違使の官位を賜ってわずか二ヵ月後のことである。義経は太夫尉・従五位下をうけると、破格な待遇である昇殿の御ゆるしも賜ったのである。そして以前の木曾冠者とままるで違う、容貌も優美、進退も優しく頼もしげ、との公卿からの評判にあずかった。そして26歳の義経は洛中において人気者になっていくのである。一方、三河守範頼の西国での戦況は思わしくなかった。鎌倉を出立し洛中で疲れを癒した後、西国へ経ってから半年になるが、ここのところ特に戦況の悪さが伝わってきていた。屋島を本拠地とする、平家の船軍を目の前にして三河守・範頼はなすすべもなく、また兵糧にも乏しい戦地では、見方の粋もあがらず散々という。いよいよ鎌倉・頼朝も戦況を案じて決断せざるを得ない状況に追いやられていた。義経を大将とする援軍の出立の日がせまってきたのである。もちろん、義経の家臣達は喜び勇んだ。待ちに待った出陣である。しかしやっと義経と夢のような短い日々をおくったのも束の間、静の目には覚悟はしていたものの、涙が浮かんだ。この頃義経は妻の百合野よりも静のほうへ、あししげく通っていた。職務を終えて毎夜遅くにかえり、湯につかって疲れを癒した義経を百合野は見送るのである。静のほうへ行く良人をである。静は嬉しかった、しかし文句も言わずに良人を静のほうへ見送る健気な百合野を、静は知っていた。そして静は、たまには、百合野の君のほうへもとまるようにと義経を促すのである。最初は東国の秘命を受けた女と思っていた静かも、いつからとなく百合野の誠実な人柄に心を寄せ、お互いに行き来をするようになっていた。実は、河越重頼も主君 頼朝の命で自分の愛娘を花嫁にやるのは忍びなかった。まして、まだ15歳のうぶな娘に、義経を探るというような命を与えるのはとてもできなかったのである。そして、頼朝、乳母のいいつけなどは、聞かなくてもよいと、嫁入りの時に百合野には、そっと言い含めていたのである。ただ、我が良人を誠心誠意愛することのみを河越重頼は娘に伝えていた。おそらく、静はそういう百合野を理解して、近づいたのではないかと思う。そして堀川の舘は百合野と静に任せると、西国への出陣の用意にとりかかった。

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新・平家物語 第34話 河越重頼の娘・百合野は郷御前1168-1189

2012年12月04日 | 平家物語

義経が静との昔に浸っていた頃、伊勢三郎から伝言があった。 
 ・三河守となった蒲冠者範頼が西国へ落ちるべく鎌倉を出立し、今西上の途にあるという。 
 ・洛での宿所の用意を済ますと、しばらくして範頼は洛に到着した。 
 ・そして久しぶりの一献を酌み交わすと、義経の結婚話を持ちかけた。 
 ・頼朝・政子夫婦は義経の身を固める必要ありと、河越重頼の娘が花嫁に選ばれたというのである。 
 ・そして嫁御寮の上洛が近いことを伝えると、範頼は西国へ平家追討の陣を率いて出立していった。 
 ・義経は嫁に関して頼朝と話をしたことはあるが、それ以上のことはない。 
 ・しばらくすれば洛へ輿入れしてくるというが、頼朝に反旗を翻すわけにもいかない義経であることはいうまでもない。 
 ・かくして義経のいる堀川の郎党はあわてた。河越重頼の娘は百合野の君という16歳の、まるで人形のような娘である。 
 ・東国を経つときには、ぽっちゃりしたえくぼの顔に化粧が施され、幾重にも衣装が重ねられ、輿に乗せられた人形は政略結婚にみえた。 
 ・実は頼朝から秘命を受けて嫁いできたのである。 
 ・また、百合野の君には乳母や良人はもちろんのこと付き人として東国からやってきたのは40人を超えた。 
 ・気の置けない武者も3,4人付いている。まさに頼朝の命の重さがうかがい知れるのである。 
 ・ところが花嫁本人は、旅に宴に疲れ、新妻の義務もしらない顔をして、いじらしく、すやすや眠っている。 
 ・ところがある日百合野は夜中に一人隠れるように泣いているのである。 
 ・事の次第を問うてみると、昼になると乳母からきついお叱りを受けるというのだ。 
 ・夫婦らしさがない、仲むづまじさがない、というのである。 
 ・これでは東国から義経の見張り役として嫁いだ花嫁の目的が達せられないと、乳母は訝ったのであろう。 
 ・しかし義経には悪意などな全くなかった。いたいけな百合野を見ていると秘命に押しつぶされそうな憐れさえ感じていたのである。 
 ・そして百合野は心の内を良人に打ち明けた。この世に母はおりません。 
 ・父とて頼朝様に仕える武者、嫁ぐ日には、身に余る縁談ゆえ、後の世までも良人に仕えよ、とのことでした。 
 ・わたしにはもはや帰る場所などありません。せめて付き人の前だけでも繕ってほしい・・・・というのである。 
 ・まだ、15歳の娘とかいかぶっていた自分を義経は悔いた。しかし義経は本心から百合野を愛する気には、まだなれなかった。

 河越重頼?-1185について少し解説を加えますと、 
 ・父は河越能隆。 
 ・妻は比企の局(頼朝の乳母)の次女で、源頼朝の乳母です。 
 ・1180年、源頼朝が挙兵すると平家方につきますが、 
 ・後に頼朝が安房国で再挙して、武蔵国に入ると参陣し、御家人として重く用いられています。 
 ・1184年1月の源義仲追討では、源範頼・源義経の軍に属して入洛しています。 
 ・1185年、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けると、 
 ・頼朝から敵対視されるようになり、11月、重頼は所領を没収され、間もなく嫡男の重房と共に誅殺されています。

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新・平家物語 第33話 静御前との再会

2012年12月03日 | 平家物語

 その夜、ある白拍子が義経を訪ね、小さな紙片を託して帰ったと那須大八郎がゆうのであった。「松殿の邸に白拍子として馳せ参じた際、松殿以上にがっかりしたのは私でございました」 との言葉でしたと。義経は紙片にかかれた文字にうっとりして、10年前の龍胆の頃を思い出していた。鞍馬山から脱走して、一時龍胆と名を変え、磯の禅師の家に匿われていた。その愛娘が静である。義経16歳のとき静は9歳であった。いつかお互い遊び暮れて遠くの町外れから車で帰る途中、ひとつに抱き合って寝てしまったことがあった。そして5年前、平時忠の邸での再会をした。堅田の仲間と引き換えに義経ひとりで時忠に赴き、囚われの身となったときである。宴の席で舞った白拍子のなかに15歳の静がいたのである。そのときに静が舞いつつ歌ったものと同じ歌が、紙片に書かれていた。やはり那須大八郎へ言伝たのは静であった。 「白糸や しずのおだまき いとし白糸 色もやと 云うなれ人は・・・・ 染めもせば 染む身ならねど 龍胆の濃いむらさき・・・」 さまざまな浮かれ男たちのうるささを厭って、身を染めるならば龍胆の紫に染まりたい・・・。しかし、しずのおだまきに等しい身の上、せめて龍胆のそばで露となりたい・・・。静が神泉苑で雨乞いの舞を披露して喝采を得たのが15歳のとき、そして翌年、平時忠の舘に招かれて偶然義経に再会したが、それ以降、木曾義仲の暴挙に怯えた静親子は淡路の里へ帰っていた。そして先ごろ木曾が東国源氏に破られたと聞いて、上洛した静は密かに義経にめぐり合えるかもしれないと胸をときめかせていたのである。しかし初めてであったといの龍胆とは、違う。源氏の大将として名を馳せた義経である。身分の卑しい静が思い悩むのはそれであった。そしてしばらくして、磯禅師の家に義経の家来・伊豆有綱と佐藤忠信が訪れたのである。挨拶の後、中へ通されると、ふたりは云った。「娘御の静殿を我が主の下へくださるまいか。それがおいやなら黙って目をつぶってもらいたい。われら両名が静殿をさらって行こう。大江山の鬼にでもさらわれたと思ってもらいたい。」 と、東国武者らしく、切り出したのである。五日後には静親子は白川の鼓小屋にはいなかった。義経のいる堀川の邸の庭伝いにある六条で義経とひとつ屋根の下にいる・・・と思うと夢心地なのである。

 静御前が義経との再会を果たした六条堀川邸は、「蜻蛉日記」の著者・藤原道綱の母が住み、後に藤原道長に仕えた武将・源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。

 

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新・平家物語 第32話 平家追討の恩賞

2012年12月02日 | 平家物語

 一の谷の戦いの洛へ凱旋した後、あわただしく警護などをこなしていた義経である。しばらくして鎌倉頼朝から褒美の沙汰が伝えられた。蒲冠者範頼の官位も上がり、そのた頼朝の郎党なども漏れなく褒美に預かった。しかし何故か義経には何の沙汰もなかった。弁慶、伊勢三郎などの恨みは静まる気配がないのである。しかし義経は兄・頼朝の意であるからと、家臣をなだめる始末である。とりわけ義経は後白河法皇の信任は厚かったため、院の臣・高階泰経なども義経を気遣うのである。なにしろ無位無官では警護の指揮ひとつやりにくい。後白河法皇の思し召しにより、義経は左衛門少将に任じ、検非違使を兼任させるべく宣旨があった。ところが義経は頼朝の御意にそむくものと固く辞退するのである。ところが再三当日だけでもと官位の受諾を進めた。高階泰経や、源行家もである。そして後鳥羽天皇の即位の儀が盛大に執り行われた。この時沿道の群集のなかの多くの白拍子のなかに、義経がとらえた白い顔があった。義経は官位というものよりも平家打倒のみが頭の中にある。すべては兄・頼朝のためである。官位は仕方なく受けたが、その仔細を鎌倉・頼朝へ送った。しばらくして、頼朝から、西国への下向の宣旨の取りやめの文書が届く。摂政・松殿こと藤原基房の邸への招きなども取りやめになった。兄・頼朝は知らないところで 左衛門少将、検非違使を兼任という宣旨に怒っているに違いないと察せられた。

白拍子の舞 摂政・松殿の邸が似合う場所といえば城南宮

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新・平家物語 第31話 中将重衡と千手前

2012年11月30日 | 平家物語

 法然上人との束の間の会話で本三位中将重衡の心は救われたのである。そして鎌倉までの長い道のりを先導する土肥実平等は洛での引き回しの情景を考慮に入れ、沿道の人々、特に僧侶に対する警護を万全なものにしていた。なにしろ囚人とはいえ平家・清盛の五男、絶世の美男であり都人である。鎌倉に到着すると警護は土肥実平から梶原景時にかわり、頼朝は本三位中将重衡を手厚く迎えいれた。本人も驚くほどの、頼朝のそういった手厚い待遇には目的があった。本三位中将重衡の本意を探るためである。そして都人本三位中将重衡は囚人ではあるが、束の間の命のともし火を燃やすのである。気長に性根を試すとあって、北条時政は本三位中将重衡に女房ともいえる伽の女をあてがうことを考えていた。そして選ばれたのが千手である。鎌倉では何かの御祝いには小磯大磯の歌姫やら白拍子などを何十人と招き、端々の侍まで賜っていたという。なかでも頼朝のお気に入りの伊王、木綿四手、そして千手である。頼朝には十人近くの妾がいたというが、この3人も含まれていたのではないかと思われる。千手前は本三位中将重衡の身の回りの世話をすることになるが週に一度は席をはずした。というのも重衡の様子・本意の程を梶原景時に報告する義務があったからである。こうして約2ヶ月にわたり千手は本三位中将重衡の世話をし、ともにあさげをするとともに彼のとりこになっていった。千手の役割は本三位中将重衡を彼女のとりこにして本意を探ることであったが・・・。そしてついにお互い覚悟していた時がやってきた。奈良の僧侶達が囚人・重衡をこのように待遇するとは何事か!と、身柄の引渡しを求めてやまないのである。この時千手は本三位中将重衡のことを、「殿」と呼んで慕っていたのは言うまでもない。最後の日、千手は自分が殿を欺いてきた一部始終を語ったが重衡は千手に感謝した。僅かに2ヶ月ではあったが、誠心誠意一時を大事に共に過ごせた重衡も幸せだったのである。いよいよ奈良の南都に護送されるときがやってきたが本三位中将重衡の心はもはや平穏である。このときに、洛での最後の日に法然上人を呼びに遣いにいった友時が鎌倉へ参じ、千手を通じて色々な思いを文にしたため、渡している。実は、本三位中将重衡が千手と引き離され鎌倉を下り、奈良の僧侶の手に討たれるまでに1年ちかくの月日が経っているらしい。その間どうしていたかの詳細は不明であるが、奈良での打ち首の時には伊豆守・頼兼、工藤祐経、狩野介宗茂などが護送役をしている。そしてその後に友時と千手の姿もあったのである。本三位中将重衡は白装束に着替えた後、「南無阿弥陀仏・・・」と唱えると僧武者の太刀は重衡の体を通り抜け、血潮とともに重衡は倒れた。祐経は亡骸に駆け寄ると手を合わせ、血に染まった直垂の両袖を引きちぎると、ひとつは千手のほうへ投げ与え、もうひとつは鎌倉へもちかえる証とした。声を潤ませ、むこうの草むらを見ると、そこにはもうひとつの亡骸が友時の傍にうつ伏していたという。本三位中将重衡の死を確認したそのあと自害した千手である。

 園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、いにしえより日本四箇大寺の一山に数えられています。その昔、天智・弘文・天武三帝の勅願により、弘文帝の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武帝より『園城』の勅額を賜り、長等山園城寺と称したのにはじまります。 俗に三井寺と呼ばれているのは、当時天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられた霊泉があり、『御井の寺』と呼ばれていたものを、後に開祖智証大師が当時の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来しています。長い歴史の上で当寺は再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の手によって復興し、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

 

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新・平家物語 第30話 本三位中将重衡と法然

2012年11月29日 | 平家物語

 源氏の大将・義経、蒲冠者範頼の凱旋のあとは平家方の首渡しの儀である。この20年余り平家の時代に洛で暮らした庶民にとっては平家の首渡しは辛いものであった。翌日、生け捕られた本三位中将重衡は都大路をひきまわされた。前日の首渡しとはうってかわって、厳しいものである。特に沿道の僧侶からの罵倒はすざまじい。かつて清盛の命により奈良の東大寺・興福寺を焼き払ったときの大将が重衡であったからである。先導していた土肥実平も武者として、その惨めな様に憐れみを感じるのである。しかし本人は極めて平静にそれを受け止めている。罵倒を受け止めることによって、平家が奈良を焼き討ち、多くの修行僧を死に至らしめた行為に懺悔をし、その罪の重さをすこしでも軽くできるものであれば・・・と願ってやまない風である。その様子に土肥実平はもちろんのこと、義経も心を打たれ、本三位中将重衡に対して手厚い施しをする。しばらくして重衡は鎌倉へ送られることとなった。その目的は、沿道の人々へ源氏の勢力を見せ付けるためである。また、頼朝はこの男の使い道について思案していた。鎌倉へ旅立つ前の日、重衡は法然上人との面会を申し出ている。義仲の洛での横暴ぶりに庶民は成すすべもなく、義経が義仲を追討したあとは幾ばかりか洛の治安は平静を取り戻してはいたものの、貧窮に変わりはなかった。そんな折、法然上人はわかりやすい言葉で庶民に法話を聞かせていたのである。かつて重衡に使えていた友時という男が捕われの身の主を慕って訪ねてきていた。土肥実平は、この友時を法然上人のもとに遣わすことを許したのである。とはいえ、法然上人が囚われの身の重衡のもとへ来てくれようとは期待するはずもなく、懇願しにいった。ところが法然上人は快く引き受けてくれたという。そして重衡の願いは叶った。かつて、奈良の東大寺・興福寺を心ならずも焼き打った惜念を打ち明けた重衡は、法然上人と出会うことにより心救われることになる。 

知恩院にある法然上人御廟 

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新・平家物語 第29話 一の谷の戦い

2012年11月26日 | 平家物語

 一の谷の戦いでとりわけ有名なのは熊谷丹治次郎直実と息子・小次郎直家である。この直家は宇治川で負傷していたが、傷も癒えないまま父に従っていた。17歳である。いままで功妙をたてる機会に恵まれなかった直実は、必死であった。一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせていたが、源氏の奇襲に鵯越同様に、「卑怯なる院」とばかりに抵抗をみせる。ここで直家は再び敵矢により負傷すると、直実は息子の愛馬「白浪」に乗って敵の中へ飛び込んでいった。勝利はするものの源氏勢の犠牲はかなり多かった。一方、生田川は平家軍の本陣である。知盛を大将、重衡を副将に6千の兵で固めていた。そこへ蒲冠者範頼が2千騎を従えて西宮から魚崎、御影へと迫っていた。このときに生田に一番乗りしたのが私市党の河原太郎高直と次郎盛直の兄弟である。無数の平家のなかに僅かふたりだけで、飛び込んでいったというから、敵の平家方からもその勇猛さを賞賛したという。範頼軍の戦奉行は梶原景時である。息子の景季、景高、景家を引きつれていたが、乱軍にまぎれて景季の姿がみえない。嫡男・景季は名馬・磨墨にものをいわせ、宇治川で功を挙げた自慢の息子である。景時は次男・景高、三男・景家をつれて乱軍の中に駆け入った。息子を救い出した景時はこれで有名になるが、源太景季の箙に梅の花をさして奮戦した彼を、平家は「花箙の源太」とよんで、いいはやしたという。この時、武蔵の藤田行康と甥の江戸四郎信賢の戦死なども見逃せない。平家大将・知盛は平家のふがいなさに嘆いたという。後に知盛・知章親子は重臣の監物頼賢とともに源氏のまっただなかに取り残された。このとき知章と頼賢は殿軍を勤めて知盛を逃がし、自らは17歳で果てたのである。そのころ副将重衡も乳母の子・後藤兵衛守長とともに逃げ走っていた。この時、重衡が乗る名馬「童子鹿毛」は矢を受け、重衡は放り出されたが守長はしらぬふりして、主君の前を走り去ったという。そして庄の三郎忠家に生け捕られた。また、経盛の次男若狭守経俊は越中前司が討たれたと聞き、敵軍に斬ってはいり討たれた。

 一の谷の合戦場須磨の北東4kmくらいのところに明泉寺があり、境内には平知章の墓があります。 父は平知盛、母は八条院女房治部卿局で、左馬頭兼武蔵守でした。 1183年の平家都落ちに伴って西海へ行き平家建て直しのあとの1184年2月の一ノ谷の戦いで、父・知盛に従い、源氏方の源義経軍と戦闘しますが、平家全軍総崩れの中で知盛と、郎党の監物太郎頼賢主従三騎で敗走となります。 海岸に出たところを、源氏の児玉党に追い付かれ、児玉党の大将を討ち取ったものの、父知盛をかばって周囲の武士に討ち取られます。 このとき僅か16歳でありました。 母・治部卿局、平知盛の妻は後高倉院(守貞親王)の乳母でもあり、はじめは平時子に仕えて南御方と呼ばれ、1179年に守貞親王の乳母となったときに治部卿と 呼ばれて 知盛と共に自邸で親王を養育します。 その後治承・寿永の乱が起こり、戦乱の中で長男知章は一ノ谷の戦いで討ち死にした。

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