平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

大河清盛・遮那王

2012年10月13日 | 平家物語

 遮那王 それは源義経が鞍馬寺で過ごしたときの名である。1159年12月に生まれた義経は幼名を牛若丸と言い、源氏の総領である源義朝の九男として生まれた。同腹の兄弟は3人。母は、義朝の愛妾で九条院の雑仕であった常盤御前である。平安時代を代表する絶世の美女である。父義朝が平治の乱(1159年12月)で平清盛に敗れた際、母常磐は、今若、乙若、牛若の三人の子を連れ吉野に逃れたが、清盛に母親を質に取られてしまい、母親と子供の命乞いのため清盛の妾の一人となる。義経の兄・乙若は天王寺に預けら、法名を義円とした乙若は、頼朝の蜂起に呼応して、墨俣の戦いに臨んだのですが、空しく25歳の若さで散る。牛若丸は京の鞍馬寺に預けら、継父の大蔵卿藤原長成が義経の鞍馬での扶持を負担します。母・常磐と継父・長成、鞍馬の阿闍梨も牛若に僧になることをすすめるが自分が源氏の嫡流と知り、兵法書「六韜三略」を読み剣術の修行に励む。このとき、壇ノ浦で戦った平知盛とともに励んだという。1174年、京の鞍馬寺で「遮那王」と名乗っていた牛若は、金売り商人・吉次と下総の深栖の三郎光重が子、陵助頼重を同伴して奥州の藤原秀衡の元へ出発する。なぜ奥州か、継父藤原・長成の従兄弟の藤原基成は後白河法皇の重臣で、奥州藤原秀衡の妻に自分の娘を嫁がせていた縁で義経は奥州藤原氏と関係を持ったのではないかと考えられている。「平治物語」(鎌倉初期の作)では、義経は吉次に「この身を、いかようにせんとも奥州のゆゆしき人(藤原秀衡)のもとに、連れ行かんことを望む」と頼み込んだとあります。一方「義経記」(室町初期の作)によると、吉次に、遮那王がひそかにわが身分を明かしたところ、吉次から「御曹司が今のままでは、まこと危うし。奥州に下向なさるべし」と熱心に薦められ、鞍馬寺から下ったとあります。その夜、近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳」の屋敷に泊まる。長者は駅長とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を「白木屋」と称した。

 ところで、遮那王が武蔵坊弁慶と出会ったのは1171年、 弁慶は熊野神社の別当・弁昌がさらってきた二位大納言のお姫様が生んだ子で比叡山、延暦寺に入れたものの、学問や仏道修行より武芸が好きで毎日、夜になると山を下って洛中で乱暴を働いていたという。後に京に出て千本の刀を襲う悲願をたて、一振りで千になるというときに五条大橋にて義経に出会って太刀を奪おうとしたが逆に負けてしまい、忠誠を誓う。牛若丸と弁慶が五条の橋の上で戦い、弁慶が長い薙刀を打ち落された話は有名であるが二人が五条の橋で戦ったという話は、実は『平治物語』にも『義経記』にも一言も触れてはいない。二人が清水寺の縁日に出会い、本堂の舞台の上ではげしく切り合いをしたということが『義経記』にみえる。従って清水寺が二人の戦いの舞台であったのかもしれない。

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大河清盛・頼盛邸

2012年09月21日 | 平家物語

 1166年に平家を推してきた藤原基実が亡くなったが、残された莫大な財力は正室・平盛子に引き継がれて益々清盛は権勢を振るった。その年の11月には清盛は内大臣となり、翌年の2月11日には太政大臣となった。こののち100日後には太政大臣の座を辞して出家するのであるが、この間に嫡男・重盛を大納言にするなど、平家一門の官位をできるだけ上げていた。後白河上皇の第三皇子・以仁王は親王宣下も受けることなく後白河源氏として臣籍降下していたのであるが、平家の権勢はこのような皇室の宣下にも影響力を与えるまでになっていた。そしていよいよ海の守り神・厳島神社の建設にとりかかるのである。ところが1168年清盛は重病に陥ると、好機を得たりと摂政藤原基房、右大臣藤原兼実 八条院・子(鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院)、以仁王が暗躍する。このころ後白河上皇と滋子は熊野詣の途上にいたが、清盛が流行り病に倒れたことを聞いた一行は帰京する。また、この知らせは源氏一門にも聞き及んだ。清盛の病、後白河の留守に乗じて動き出したのは比叡山の山法師である。こうした状況の中で、1168年2月に清盛は叡山座主・明雲に得度を受けて出家するのである。一方重盛・宗盛による平家の嫡流争いや頼盛のいつまでも参議の職につけない低い官位によるねたみをまとめるべく、清盛は都を福原に置く計画を練っていた。京での平家を束ねるのは重盛に任された頃、後白河上皇の皇子・憲仁親王が即位して高倉天皇となったのは3月のことである。高倉天皇の母・滋子は皇太后となり、平宗盛が皇太后宮権大夫に就いた。それまで大夫の任についていた頼盛は辞職となった。しかし清盛は頼盛を福原に呼び寄せて港の復興に尽力させた。

 平清盛が現在の神戸に置いた「福原京」当時の二重壕などが発見されたのが神戸市中央区の楠・荒田町遺跡であり、福原京の内裏は遺跡がある高台の一角にあったという。 兵庫区雪御所町にあったとされる清盛邸・雪御所は清盛の別邸で、安徳天皇を迎えた御所はその北・現在の湊山町にあり、福原京期の瓦、櫓。二重の壕が発見された。 これは南面する天子に合わせて条里を引き直した証拠で、内裏を囲むように平家一門の邸宅も再整備したのではないかとの福原京像が浮かんだ。 清盛、頼盛の対立が反映され、福原には谷をはさんで北に清盛、南に頼盛という二つの核があったとされる。 福原京は「大輪田泊」を控えた摂津国福原荘にあった都であるが、その完成は源平の争乱で挫折し、「幻の都」と呼ばれている。

清盛もその体を癒したとされる湯屋・湊山温泉

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大河清盛・北条政子

2012年08月14日 | 平家物語

 京の警護を終えて伊豆に帰ってきた伊東祐親は、監視下に置かれた源頼朝と自分の娘・八重姫が恋仲となって子供までもうけていたことを知り、激怒して千鶴丸を八重からとりあげ、家来に命じて殺させ、八重は別の男のところへ嫁にだすと頼朝を殺そうとした。 あわてた頼朝は伊豆山大権現に逃げ込み僧兵にかくまわれ、覚淵という別当に世話になる。 伊東祐親は京での警護で平家一族の勢いを痛感して帰ってきたところである。平家からの疑惑により一族が討伐の対象になり滅亡することを怖れたからこのような行動にでたのである。

 難を逃れた頼朝が次に目をつけたのが近くを本拠地にしていた北条時政の娘・政子である。 時政の留守中に恋仲となった二人のことを知った時政は、地元で最も勢力のある山木兼隆という検非違使に政子を嫁にだす。 ところが政子はその日のうちに逃げ出して、頼朝がかくまわれている伊豆山大権現に逃げ込んだ。 山木兼隆は平家の一族であり、そこを逃げ出すということは北条一族が平家を敵にすることを意味し、結果的に政子が頼朝と結婚することを認めた北条氏は覚悟を決めた。 この頃父・義朝の末弟の源行家が潜んでいた紀伊新宮から平家追討の以仁王の令旨を持ってくる。 家来の少ない頼朝はしばらく静観していたが、中央の清盛が源頼政、以仁王を討った後、源氏皆殺令を出したのである。 これにより政子を奪われた山木兼隆は頼朝追討の大義名分を得、頼朝は戦うことを決意したのである。 そして北条時政も罪人である頼朝に一族の命運を託したのである。 頼朝は山木兼隆の屋敷を奇襲して首を取ると、平家は関東武士団に頼朝追討令をだした。 これにより頼朝にとって初めてといえる合戦、石橋山の戦いが始まるのである。  兼隆を討った頼朝は軍勢を増やして鎌倉を目指し諸国の源氏との連携を謀ろうとした。 ところが、清盛から頼朝追討を命じられていた有力武士 大庭景親、梶原景時が待ち伏せをし挟み撃ちにしたのである。 もともと少ない軍勢を率いていた頼朝は完敗しなんとか脱出する。 洞窟に身を潜めていた頼朝は梶原景時に発見されるが、何故か見逃してくれたという。  景時は後に頼朝の腹心となるから、この話ありえない話ではない。

源頼朝の妻・政子の社 鶴岡八幡宮境内

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大河清盛・藤原氏の後ろ盾清盛

2012年08月11日 | 平家物語

 平清盛は、母・池禅尼が亡くなる直前に、武士として初めて大納言にのぼった。前代未聞の出世に貴族たちは反発するが、清盛の娘婿である摂政・藤原基実をうしろだてとした勢いはとまらない。藤原基実は1158年に16歳の若さで二条天皇の関白にまで栄進し、藤原長者となった。そして1160年には左大臣に叙され1165年には六条天皇の摂政となっている。このように藤原基実は、父・藤原忠通や後白河上皇のひきたてを受けて順調に出世していったのであるが、平清盛はその藤原基実の後ろ盾となったのであるから、清盛に反発する貴族たちの思いはすべてつぶされていった。 ところで、藤原基実は基房とともに近衛家の祖となった。またその下の兄弟兼実、兼房は九条家の祖となっている。忠通の六男・兼実といえば、「玉葉」という40年間を綴った日記が第一級の史料として知られ、娘・玉日姫が親鸞の妻となっている。十男の兼房は柿本人麻呂を敬愛し和歌に秀でたが、政治的手腕は乏しかった。忠通の十一男・慈円は兼実とは同母弟にあたり、天台宗の座主であり歴史書『愚管抄』を記したことでも知られている。また忠通の九男・信円は興福寺の別当として南都焼き討ちにあった興福寺の復興に尽力したが、基房の同母弟にあたる。因みに兼実、慈円、親鸞の深いつながりと、基房、信円、貞慶の深いつながりが見え、親鸞と貞慶は宗教上相反する立場にいたあたりを考えると、兼実と基房は対立していたのではないかとも思われるが、実際のところはそんなことはなかったようである。平清盛は娘・完子(六女)を藤原基実の長子・基通の正室とし、このような位置関係にある藤原家の後ろだてとなったのであるから、後白河上皇は清盛の動きをけん制することとなる。

玉日姫が眠る京都の西岸寺

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大河清盛・大輪田の港

2012年08月09日 | 平家物語

 1164年、この頃に宋との交易を効率のよいものにしようと播磨の大輪田に港を造ることを清盛は発案する。また千手観音を祀る蓮華王院・三十三間堂を造営して後白河上皇に献上する。喜んだ後白河上皇は清盛に褒美をさずけ、時の帝・二条天皇に渡りを要求するが、政を後白河にさせてはならないと主張する二条天皇はそれを断り、後白河との溝はますます広がる。しかし二条帝は自らの病に倒れ、1165年6月には前年に生まれた実子の順仁親王(後の六条天皇)の立太子を行うとその日のうちに譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。そして同じ頃、清盛は大納言の位に上り詰めたのであるが、清盛の妻・池禅尼は60歳で亡くなる。都において大番役として内裏の警固にあたっていた伊東祐親はあらためて清盛の偉大さを目の当たりにして、伊豆の頼朝の警護に身を引き締めるのであった。 

  ところで、平安時代末、平清盛が現在の神戸に置いた「福原京」当時の二重壕などが発見されたのが神戸市中央区の楠・荒田町遺跡であり、福原京の内裏は遺跡がある高台の一角にあったという。 兵庫区雪御所町にあったとされる清盛邸・雪御所は清盛の別邸で、安徳天皇を迎えた御所はその北・現在の湊山町にあり、福原京期の瓦、櫓。二重の壕が発見された。 これは南面する天子に合わせて条里を引き直した証拠で、内裏を囲むように平家一門の邸宅も再整備したのではないかとの福原京像が浮かんだ。 清盛、頼盛の対立が反映され、福原には谷をはさんで北に清盛、南に頼盛という二つの核があったとされる。 福原京は「大輪田泊」を控えた摂津国福原荘にあった都であるが、その完成は源平の争乱で挫折し、「幻の都」と呼ばれている。

大輪田にある清盛塚

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大河清盛・伊豆の頼朝

2012年08月07日 | 平家物語

 1164年、伊豆・蛭ケ小島に18歳の源義朝の子・頼朝がいた。5年前に、清盛によって流罪となった頼朝はここに流され、家人の藤九郎(後の安達盛長 頼朝の乳母・比企局の娘が妻)とともにひっそり暮らし、地元の豪族・伊東祐親は頼朝を厳しく監視していた。ところが、頼朝は自分の監視役である伊東祐親の娘と恋仲になる。 元服を済ませてた頼朝が池の禅尼の懇願もあって助命され伊豆へいく。流罪先の伊豆は温暖で海山の幸に恵まれ、行動は至って自由、豪族の伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になって千鶴丸という子を設けた。 経済的には頼朝の乳母である比企尼の女性が約20年間生活を支え続けた。 比企尼の娘婿である安達盛長はわざわざ伊豆にやってきて家来として頼朝に仕えた。 頼朝はあくまで流罪人であるから、ほかには家来はほとんどいなかった。 一方、清盛は太政大臣となり、一門の多くは公卿となり、平家の知行国は全国の50%にも及んだ。 大変な違いである。 この頃荒法師の文覚が伊豆にやってきて、平家打倒の話をしたという。 頼朝には全くその気はなく現在の生活を維持する考えがあったことを平家物語は伝えている。 京の警護を終えて伊豆に帰ってきた伊東祐親は娘・八重とともいいる子が頼朝の子であることを知る。 祐親は激怒して千鶴丸を八重からとりあげ、家来に命じて殺させ、八重は別の男のところへ嫁にだすと頼朝を殺そうとした。 あわてた頼朝は伊豆山大権現に逃げ込み僧兵にかくまわれ、覚淵という別当に世話になる。 祐親は平家からの疑惑により一族が討伐の対象になり滅亡することを怖れたからこのような行動にでたのである。

鎌倉にある源頼朝の墓

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大河清盛・讃岐院

2012年08月06日 | 平家物語

 平治の乱デ敗北した崇徳上皇は少ない付き人とともに讃岐に流された時には、無益な戦の愚かさを思い讃岐の生活に少なからず満足をしていた。その頃都では後白河天皇と源懿子の第一子・守仁親王が立太子し(1158年16歳のとき)ようとしていた。また平家は紫宸殿の落成を祈願しようとして平基盛にその任につかせていたが、1162年途上、宇治川でおぼれてなくなる。これは藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したものと『源平盛衰記』には記されている。しかし大河では、讃岐院の怨念によるものではないかと描かれている。 讃岐院は保元の乱で命を落とした多くの人々のための供養をして自分の所業を悔い改めようと多くの写経を後白河院に送ってきたのであるが、後白河院は何かの呪詛ではないかと信じず、気味が悪いと送り返すように命じた。また折り悪く、仁和寺に入り出家していた崇徳上皇の第一皇子・重仁親王が亡くなった。 これに怒った讃岐院は日本国の大魔王となって怨念を放ったことは有名である。 この頃藤原忠通は摂関家を守るために、息子の基実の正室に平清盛の娘・平盛子(母は不明)を迎え入れるように計らって1164年に亡くなった。このとき厳島神社に平家ならではの煌びやかな33巻の経典が奉納された(平家納経)のであるが、これは讃岐院の怨霊から世を守るためのものである。経典を納めるにあたって厳島に出立した一同が嵐に襲われたのは、もちろん讃岐院の怨霊によるものであるとの大河の描写があるが、どうやら史実にはないようである。しかし怨霊にとりつかれた讃岐院の描写には迫るものがある。讃岐院が崩御したのは1164年9月、讃岐の御所は荒れ、爪は伸び放題の状態で苦しみぬいて死んだように描かれているが、実は配流先で崇徳院が実際に詠んだ 「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」の歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。 「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」と怒りに満ちた歌を残した後鳥羽上皇とは対照的なのである。 

白峯寺にある讃岐院供養のために建立された頓証寺殿と崇徳天皇白峯陵

 

 

 

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大河清盛・二条天皇

2012年07月27日 | 平家物語

 二条天皇は後白河と源懿子の間に守仁親王として生まれ、藤原惟方母俊子、時子を乳母とした。守仁親王は祖父である鳥羽上皇から寵愛を受けるが、皇位には叔父の近衛天皇が即位しており、更に同じく美福門院の養子として先に入っていた重仁親王(崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは低く、伯父である覚性法親王のいる仁和寺に預けられたが1155年に近衛天皇が崩御し、重仁親王も鳥羽法皇と崇徳上皇の不仲が原因で即位が絶望的になると、鳥羽法皇はまだ正式に出家を済ませていなかった守仁親王を呼び戻して皇位を継がせるために、まず父である後白河天皇を即位させたと言われている。 1158年、父から譲位されて即位、後白河上皇による院政が行われたが、太政大臣・藤原伊通ら二条近臣は、鳥羽法皇の意向は天皇による親政であったとして、後白河院政に対抗するようになる。 1159年、平清盛が熊野詣のために京都を離れると、親政派と結んだ源氏の源義朝らが挙兵して平治の乱が起こる。 天皇らは信頼に確保されるが、清盛が帰還すると、六波羅邸へ避難、清盛ら平家により乱は鎮圧される。清盛の支持を得て、後白河との二頭政治から、1161年には後白河院政を停止して親政を開始する。この過程で後白河が親政派の藤原経宗、惟方を流刑にし、天皇も対抗して院近臣である平時忠を流刑にしたために、急速に台頭してきた平家を敵に回す事になり政治は混乱した。 二条天皇は病弱だったため、1165年には前年に生まれた実子の順仁・六条天皇に譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。 優れた人物であったが、父・後白河上皇との確執や叔父である近衛天皇の妃であった藤原多子を妃に迎えた(二代后)事から、「不孝」であるという悪評も囁かれた。

 永暦元年1160年平清盛はいよいよ正三位に叙せられ公卿となると、平重盛は伊予守左馬頭、基盛は遠江守、宗盛は淡路守、知盛は武蔵守、頼盛は尾張守、教盛は常陸介、経盛は伊賀守となり、改めて平家は朝廷を支える一門となる。この頃の関白は藤原忠通の子・基実、内大臣は基房、清盛は宋との交易を推し進めていくこととなる。また、この年美福門院・得子がご逝去された。時は流れて後白河上皇が政務から退くと、家貞は病に伏せやがてこの世を去り、1167年清盛の義妹滋子が入内する。身分が低かった(上西門院の女房)ため女御にはなれなかったが、その美貌により後白河の寵愛をうけることとなる。こうして後白河院と姻戚関係となったことが清盛および平家一門のさいの目をめまぐるしく変えることとなる。

二条天皇陵は北野天満宮のすぐ西側の住宅地内に位置する

 

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大河清盛・義朝の死と頼朝の流罪

2012年07月17日 | 平家物語

 1159年冬 京での戦いに敗れた源義朝は東国に落ち延びたが、長男・朝長はその途中の青墓で亡くなり、悪源太義平も 平家に捕らわれて斬首となった。翌年東国への途上、源義朝は家臣・鎌田正清の義父・長田忠致を頼って尾張にいたが、もはやそこには味方などはいないと悟った義朝と正清はその場で自害した。歴史的には、風呂に入っているところを長田忠致の家臣に討たれて果てたことは有名な話ではあるが、源義朝の名誉を思ってか、大河での脚本は相打ちによる自害であった。そして捕らわれの身となった頼朝であるが、ここで池禅尼と運命の出会いをする。同じ頃、義朝の妻・常盤は三人目の子・牛若を産んだが、みずから六波羅に投降して三人の息子の命乞いをする。さて清盛が下した沙汰は、頼朝の流罪という前代未聞のものであった。これが後に平家滅亡へとつながるのは、このとき平家の誰もが知る由もなかったのである。

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清盛の血曼荼羅

2012年07月14日 | 平家物語

 平忠盛が武士として 破格の出世をしたのには高野山根本の堂塔再建工事を担当したことも要因である。これは1150年頃のことで、1153年には清盛に受け継がれた事業が完成したのは保元の乱直前の1156年、清盛は金堂の東西の壁に金剛界、胎蔵界の曼荼羅図をかけた。これの製作には清盛が自らの血を混ぜたことから清盛の血曼荼羅と称されるようになったが、事実かどうかはわからない。しかし、平家二代の高野山に対する惜しみない貢献が、この伝承を生んだことは間違いない。この曼荼羅は京都 八条の忠盛邸で製作された。現在の梅小路公園あたりである。

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大河清盛・平治の乱の舞台・六波羅

2012年07月10日 | 平家物語

 平治元年、1159年源義朝は二条天皇と後白河上皇を幽閉し、藤原信頼が信西にとってかわって朝廷を支配したのであるが、それは平穏なものではなかった。 熊野から戻った平清盛は六波羅に入り信頼、義朝に恭順の意を示したかにみえた。1159年12月平清盛は後白河と帝を幽閉の地から六波羅に救い出すと、源義朝、藤原信頼に対する追討の宣旨が二条天皇より下り、たちまち清盛は官軍、義朝は賊軍となった。そしてこの戦いが清盛の三男・宗盛にとっては初陣となった。内裏を戦場とさせないための清盛の策である。まず待賢門にて戦ったのは平重盛と源義平、。『平治物語』では重盛と義平が待賢門で一騎打ちを繰り広げ、御所の右近の橘・左近の桜の間を7度も義平が重盛を追い回した、頼盛が退却中に敵に追いつかれそうになり重代の名刀「抜丸」で辛くも撃退した、というエピソードがある。重盛と清盛によって賀茂川におびき寄せられた源氏勢は、3000の兵を有する平氏を相手に敗走。義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。一方、義朝の妻・常盤は子を身篭っていたのであるが、この子こそ後の義経である。

 

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大河清盛・信西死す 

2012年07月01日 | 平家物語

 平治元年1159年12月、平清盛が熊野詣に出かけた隙をついて、藤原信頼、源義朝ら反信西派は院御所の三条殿を襲撃した。(平治の乱) 信西はこの危機を察知して山城国の田原に避難していたが、三条殿襲撃の知らせを聞くと追手からの逃亡を諦め、藤原師光(信西が死ぬと出家して西光と名乗り、のちに後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた) らの郎党に命じて自らを地中に埋めさせて自害した。行方を捜索していた光保は死体を地中から掘り起こし、首を切って京に戻った。なお、この信西の死については、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、追手に発見され掘り返された際に自ら首を突いて自害したという説もあり、大河では後者を描いていた。知らせを聞いた清盛は京に戻る途中、足止めを食ったという。源義平が3000の兵を率いて待ち伏せをしているとの噂のためである。いよいよ清盛が京に入ると、清盛は義朝打倒に動く。

 新熊野神社は熊野信仰の盛んな平安時代末期1160年、後白河上皇によって創建されました。 後白河天皇は1158年の退位後も院政を敷き、そのときの住まいとなったのが現在三十三間堂の東側にある「法住寺」で、「法住寺殿」といわれ、その鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。その造営には法皇の命を受けて平清盛が当たりました。 法皇は一生のうちに34回熊野詣をしていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことであったために、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野から来ています。 新熊野神社はその後、350年に渡って繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、廃絶状態となります。 それを再建したのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院・和子で、現在の本殿は1663年聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)により造営されました。

新熊野神社境内には後白河天皇が植えたというご神木がある

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大河清盛・上西門院

2012年06月29日 | 平家物語

 1159年2月いよいよ蔵人・源頼朝が上西門院の殿上始の儀において平清盛と合間見えた。この儀では平氏の勢いを象徴するように清盛は武士でありながら上座にいた。左馬頭・源義朝の妻・由良姫は上西門院に仕えていたこともあって、嫡男・頼朝は蔵人に任じられていたのである。頼朝は清盛の大きさに圧倒されたようである。この頃由良姫の容態は悪化して臥せっていたが、翌つき3月1日に誇り高き源氏の妻として亡くなった。これは平治の乱の9ヶ月前のことである。辛いときに限って常盤御前の前に現れる義朝が表現されていたが、なかなかうまい脚本と思った。一方、意のままに朝廷を操る信西に対して藤原信頼の怒りはつのっていた。そこで源義朝にもちかけたのが信西殺害である。そして信西はというと宋国にわたって政を学ぶ画策を練っていた。そして大願成就のために平清盛は12月熊野に詣でることとなった。実はこの熊野詣の隙をねらった武蔵守・藤原信頼が信西打倒にでたのである。 

統子内親王が眠る花園東陵

 鳥羽法皇の皇女統子内親王(上西門院)の陵墓があるのはJR 花園駅からすぐ北隣です。 統子内親王の父は鳥羽天皇 母は中宮の藤原璋子(大納言公実の娘・待賢門院)で、同母兄には崇徳天皇、同母弟には後白河天皇がいます。  1127年2才の時に賀茂斎院に卜定されるが7才の時に病により斎院退下する。 9才の時に式部大輔藤原敦光の勘申により、名を恂子から統子に改める。 31才の時に保元の乱を経験し33才で 後白河天皇准母として皇后宮となる。34才で女院・上西門院となり、その後仁和寺金剛院において出家、64才にて 六条院において崩御、花園東陵に葬られます。 宮廷では女官として歌人の上西門院兵衛等とともに歌壇サロンを築き、歌を能くした絶世の美女であったと伝えられています。

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大河清盛・藤原信頼

2012年06月20日 | 平家物語

 保元の乱に勝利した平清盛は1158年に大宰大弐に任命された。41歳のときである。崇徳上皇は讃岐に流され政務から遠ざかると、平家の財を利用して信西入道が政務を取り仕切り、清盛は大宰府の長官となったのである。これにより福岡を傘下として日宋貿易を益々盛んにして財を築いていくとともに平家一門はことごとく官位を叙された。 鎮西にわたった清盛は大宰府役人の長・原田種直より接待を受け珍しい宋の茶をふるまわれた後、豊かな土地にしては京に届く租税が少なすぎることを問い詰め、種直を制圧したのである。相撲節会で、宋の器や茶を振る舞う清盛の実行力をかい、後白河天皇は清盛を大宰大弐という大宰府の長官にすると決めたのである。一方、源義朝は左馬頭という低い官職にとどまったまま軽んじられ、恩賞を要求するがその甲斐はなかった。後白河上皇の近臣で中納言・藤原信頼もまた信西に冷遇されたことで敵意をつのらせ、恩賞のない源義朝と手を組んで信西に挑もうとしていた。これがやがて起こる平治の乱へと結びついていく。 つまり平治の乱は北家系統の藤原信頼と藤原南家系統の信西との戦いともいえる。かつて栄華を誇った藤原北家が、系統的には低い位にあった南家の末裔に反旗を翻したのである。

 話を藤原信頼にもどす。藤原信頼は後白河帝から絶大な寵愛を受けて出世をかさねた。『平治物語』では後白河帝との男色関係によって出世する無能な男と評されているが、実務官僚として有能且つ藤原北家という家系にも恵まれている。また、義朝をほぼ配下に治め、奥州武士や関東武士を抑えたことで軍事貴族に影響力を持っていたと考えられる。従って決して無能な男ではない。藤原忠通は嫡子・基実の妻に信頼の姉妹を迎え、基実嫡子・基通が生まれている。つまり藤原信頼の権勢を見た忠通の判断が伺えるのである。かくして平治の乱での信頼は大仕事を成し遂げる。この詳細は次回。

 藤原盛子?-943
   ┣藤原伊尹924-972
   ┣藤原兼通925-977
   ┣藤原兼家929-990
   ┃ ┣藤原道長966-1028
   ┃ ┣藤原道兼961-995
   ┃ ┣藤原超子954-982冷泉天皇女御、三条天皇生母
   ┃ ┣藤原詮子962-1001円融天皇女御、一条天皇生母
   ┃ ┣藤原道綱955-1020
   ┃ ┣藤原綏子974-1004-三条天皇尚侍
   ┃ ┣藤原通隆953-995   
      ┃藤原時姫?-981  ┣藤原隆家979-1044
   ┃      高階貴子  ┣藤原経輔1006-1081
   ┃          源兼資娘  ┣藤原師家1027-1058
   ┃             藤原資業の娘 ┣藤原家範1048-1123   
   ┃                藤原泰憲娘┣藤原基隆1075-1132
     ┃                    藤原家子 ┣藤原忠隆1102-1150
     ┃                        長忠娘┣藤原信頼1133-1160
   ┃                           ┣基成
   ┗━━━━━━━━━━━━━━━┓           ┣近衛基実室 
                      ┃           公子
                      ┣藤原安子927-964 村上天皇中宮
                   ┣源高明室
                     ┣藤原怤子 - 冷泉天皇女御
                 ┏藤原師輔909-960
                 ┃ ┣藤原公季(閑院流祖)
                 ┃康子内親王
藤原不比等659-720         ┃ 
 ┣藤原房前681-737(北家祖)   ┃
 ┃ ┗藤原真楯715-766     ┃
 ┃  ┗藤原内麻呂756-812   ┃
 ┃   ┗藤原冬嗣775-826   ┃
 ┃    ┗藤原長良802-856  ┃
 ┃     ┗藤原基経836-891 ┃
 ┃      ┗藤原忠平880-949┛
 ┗藤原武智麻呂680-737(南家祖) 
  ┗藤原巨勢麻呂?-764
   ┣藤原貞嗣759-824
  永手娘┗藤原高仁-835
       ┗藤原保蔭
         ┗藤原道明856-920
               ┗藤原尹文
              ┗藤原永頼
                ┗藤原能通
                  ┣藤原実範   
              藤原元尹娘┣藤原季綱
                    高階業敏娘┣藤原実兼1085-1112
                      通宗娘┣藤原通憲1106-1160(信西)
                         源有家女 ┗貞憲
                             ┗貞慶1155

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大河清盛・保元の乱戦後処理

2012年06月03日 | 平家物語

 保元の乱の結果は源義朝の奇襲により後白河側が勝利したというが、その詳細はよくわからない。源氏の攻撃の特徴は奇襲であり、それは源為義、為朝も十分に承知している。そもそも奇襲攻撃は為朝によって計画・提案されたようであるが、藤原頼長により退けられたという。「夜討は卑怯、興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし」との記載が保元物語にあるらしいが、納得できる筋ではない。逆に後白河側の源義朝が白河北殿に夜討をかけ、平清盛の軍勢も為朝の守る西門を攻めた。これにより上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出、天皇方は残敵捜索をするとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都に逃亡したのである。 頼長は重症を負って興福寺へ闘争中に舌を噛み切って死亡、崇徳は末弟の覚性法親王が門跡を務めていた仁和寺に助けを求めたが、密告されて捕まった。そしてその沙汰は流罪という厳しいものであった。 また勝利した平清盛・源義朝に待っていた沙汰は、賊軍となった身内 平忠正およびその子、源為義およびその子の斬首であった。

藤原頼長が重症を負った宇治

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