伊豆に行家は頼朝を訪ねていた。3年前頼朝と政子は恋仲にあったが、北条時政は娘・政子と目代・山木判官兼隆との婚儀を進めていた。 その時源氏の若者は政子の合意の下に婚儀の席から花嫁の略奪を行ったのである。あれから3年、政子は妙音比丘尼のほど近い隠れ家にいた。頼朝はいつか訪れる源氏の旗揚げを思いつつも、政子との流浪地伊豆での生活を楽しんでいた。そこへ叔父である源行家が洛より以仁王から授かった令旨を携えてきたのである。頼朝の眼差しはきりりと厳しくなった。
政子の父・北条時政は窮地に追いやられていた。平家一門を敵に回して頼朝と組むか、それとも・・・。 しかし、この決断もこの3年間で決まっていたことはゆうまでもない。その昔、頼朝は伊豆で伊藤祐親の娘を愛した。そしてその娘との間に子をももうけた。しかし伊藤祐親は二人の仲を許さなかった。もちろん平家一門を恐れたためである。そして、娘を引き離し、子は殺したのである。
ところが、政子の場合は伊藤祐親の娘と違って、はっきりと自分を持った女性である。その身を隠してはいたものの、頼朝とともに源氏の旗揚げを願う気持ちに父・時政さえも甘んじるほかはなかったのである。
そして旗揚げの初戦は山木兼隆であった。北条政子を頼朝に略奪され、女を侍らせては酒に酔い堕落していた男である。源氏の郎党約100騎がそろった夜中に決行され、兼隆の首は頼朝のもとに運ばれたのである。いよいよ頼朝は次なる目的地へと軍を進めていく。相模の三浦、甲斐源氏、武蔵野党を糾合し徐々に東国の味方を結集しようという作戦である。
途中、石橋山での敗走もあったが東国で最大勢力を誇る千葉介常胤の一族の他、武蔵、下総の諸将や上総介広常軍を味方につけ、その勢力は2万騎にも達していた。頼朝は祖八幡殿が本拠地とした鎌倉に陣をひく一方で、伊豆南の伊藤祐親や相模の大庭一族に奇襲をかけた後、富士川にて平家方、維盛大将に矢あわせの使者をおくったが、上総守藤原忠清は使者の首をはね、追討の返礼を返してきた。
┏源頼朝 1147-1199 (急死 乳母比企の局)
┣義賢 ┃ ┣比企能員
┃ ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局
┣範頼 ┃┃ ┗長女
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
┣高能 ┃┣九条兼実 藤九郎盛長
┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188
┣全子 ┃ ┣九条良経1169-1206
┣保子 ┃ ┃┣九条道家1193-1252
一条能保 ┃ ┃┃┣九条教実1211-1235
┃ ┃┃┣二条良実1216-1271
┃ ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍(幼名は三寅)
┃ ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍
┃ ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘) ┣-
┃ ┃┃┣一条実経1223-1284 桧皮姫1230-1247北条経時妹
┃ ┃┃西園寺綸子
┃ ┃┣九条教家1194-1255
┃ ┃┣九条立子1192-1248
┃ ┃一条能保娘
┃ ┣中宮任子1173-1238
┃ 兼子┃
┃ ┣昇子内親王1195-1211
┃82後鳥羽天皇1180-1239
┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231
┃ ┃源在子 ┣後嵯峨天皇1220-1272
┃ ┃ ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
┃ ┃西園寺実氏1194-1269 平棟子 ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
┣大姫1178-1197
┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条時政により暗殺 手を下したのは義時)
┃ ┃ ┣ 禅暁 ?-1220/5(母は辻殿)暗殺By義時 →頼朝直系滅亡
┃ ┃ ┣ 公暁1200-1219/1(母は 乳母は三浦一族)
┃ ┃ 辻殿:足立娘
┃ ┃ (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)
┃ ┣ 一幡(嫡男:藤原氏に敗れる)
┃若狭局:側室・比企能員(よしかず)娘
┃
┃藤原棟子
┃ ┣86後堀河 藤原重子 藤原立子1192-1247
┃守貞親王(後高倉院)┃ ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王)
┃ ┣84順徳天皇1197-1242
┃82後鳥羽天皇1180-1239
┃ ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室
┃ ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273
┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流
┃ ┣坊門局
┃ ┗西八条禅尼(後鳥羽上皇の従妹)
┃ ┣ ---
┣実朝1192-1219(幼名は千幡 乳母は北条・阿波局 公暁により暗殺される)---清和源氏
┃ ・師匠:藤原定家1162-1241
┃ ・先生:源仲章?-1219 ---宇多源氏:藤原摂関家と結びつく
┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑
北条政子1157-1225尼御台