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新・平家物語 第13話 源氏旗揚げ初戦は北条政子の婚約者・山木兼隆

2012年11月02日 | 平家物語

伊豆に行家は頼朝を訪ねていた。3年前頼朝と政子は恋仲にあったが、北条時政は娘・政子と目代・山木判官兼隆との婚儀を進めていた。 その時源氏の若者は政子の合意の下に婚儀の席から花嫁の略奪を行ったのである。あれから3年、政子は妙音比丘尼のほど近い隠れ家にいた。頼朝はいつか訪れる源氏の旗揚げを思いつつも、政子との流浪地伊豆での生活を楽しんでいた。そこへ叔父である源行家が洛より以仁王から授かった令旨を携えてきたのである。頼朝の眼差しはきりりと厳しくなった。

政子の父・北条時政は窮地に追いやられていた。平家一門を敵に回して頼朝と組むか、それとも・・・。 しかし、この決断もこの3年間で決まっていたことはゆうまでもない。その昔、頼朝は伊豆で伊藤祐親の娘を愛した。そしてその娘との間に子をももうけた。しかし伊藤祐親は二人の仲を許さなかった。もちろん平家一門を恐れたためである。そして、娘を引き離し、子は殺したのである。

ところが、政子の場合は伊藤祐親の娘と違って、はっきりと自分を持った女性である。その身を隠してはいたものの、頼朝とともに源氏の旗揚げを願う気持ちに父・時政さえも甘んじるほかはなかったのである。

そして旗揚げの初戦は山木兼隆であった。北条政子を頼朝に略奪され、女を侍らせては酒に酔い堕落していた男である。源氏の郎党約100騎がそろった夜中に決行され、兼隆の首は頼朝のもとに運ばれたのである。いよいよ頼朝は次なる目的地へと軍を進めていく。相模の三浦、甲斐源氏、武蔵野党を糾合し徐々に東国の味方を結集しようという作戦である。

途中、石橋山での敗走もあったが東国で最大勢力を誇る千葉介常胤の一族の他、武蔵、下総の諸将や上総介広常軍を味方につけ、その勢力は2万騎にも達していた。頼朝は祖八幡殿が本拠地とした鎌倉に陣をひく一方で、伊豆南の伊藤祐親や相模の大庭一族に奇襲をかけた後、富士川にて平家方、維盛大将に矢あわせの使者をおくったが、上総守藤原忠清は使者の首をはね、追討の返礼を返してきた。

┏源頼朝 1147-1199 (急死 乳母比企の局)    
┣義賢   ┃           ┣比企能員
┃     ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局   
┣範頼   ┃┃          ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
 ┣高能  ┃┣九条兼実      藤九郎盛長
 ┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188        
 ┣全子  ┃  ┣九条良経1169-1206      
 ┣保子  ┃  ┃┣九条道家1193-1252     
 一条能保 ┃  ┃┃┣九条教実1211-1235     
      ┃  ┃┃┣二条良実1216-1271     
      ┃  ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍(幼名は三寅)     
      ┃  ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍      
      ┃  ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘)  ┣-    
      ┃  ┃┃┣一条実経1223-1284  桧皮姫1230-1247北条経時妹   
      ┃  ┃┃西園寺綸子     
      ┃  ┃┣九条教家1194-1255     
      ┃  ┃┣九条立子1192-1248     
      ┃  ┃一条能保娘     
      ┃  ┣中宮任子1173-1238      
      ┃ 兼子┃     
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子       ┣後嵯峨天皇1220-1272   
      ┃ ┃  ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
      ┃ ┃西園寺実氏1194-1269    平棟子  ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
      ┣大姫1178-1197       
      ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条時政により暗殺 手を下したのは義時)       
      ┃ ┃ ┣ 禅暁 ?-1220/5(母は辻殿)暗殺By義時 →頼朝直系滅亡      
      ┃ ┃ ┣ 公暁1200-1219/1(母は 乳母は三浦一族)     
      ┃ ┃ 辻殿:足立娘             
      ┃ ┃   (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画) 
      ┃ ┣ 一幡(嫡男:藤原氏に敗れる) 
      ┃若狭局:側室・比企能員(よしかず)娘         
      ┃
      ┃藤原棟子       
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子  藤原立子1192-1247   
      ┃守貞親王(後高倉院)┃    ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王) 
      ┃               ┣84順徳天皇1197-1242
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼(後鳥羽上皇の従妹)    
      ┃   ┣ ---   
      ┣実朝1192-1219(幼名は千幡 乳母は北条・阿波局 公暁により暗殺される)---清和源氏      
      ┃ ・師匠:藤原定家1162-1241   
      ┃ ・先生:源仲章?-1219                      ---宇多源氏:藤原摂関家と結びつく     
      ┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
  北条政子1157-1225尼御台 

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新・平家物語 第12話 源頼政自刃@宇治橋 

2012年11月01日 | 平家物語

この頃、源頼政親子は何食わぬ顔で平家一族の顔になりすまし、悠々とかまえながら多くの源氏郎党を従え着々と隠密を進め、三井寺へはいっていった。ところが、以仁王の異母弟・円恵法親王は一向に姿をみせず、いつのまにか六波羅へ落ちていた。平家の息のかかった僧に囲まれ意にあらず、結果、兄・以仁王を裏切った形となった。この間、平家一門は千騎以上の兵を従え、以仁王や頼政が脱した三井寺から宇治川の平等院付近までたどり着いていた。 奈良の春日山まではすぐ近くである。 以仁王は平家一門からもはや逃れることは不可能と、頼政とともに自刃の覚悟はできていた。宇治橋での戦はあっけなく平家側に軍配があがり、頼政の子仲綱・兼綱をはじめ三井寺の僧兵など多くが自刃していった。ただ以仁王と頼政は平家一門からの辱めを受けるのを恐れ、人知れず息絶えていたのである。 その直後三井寺一帯から火の手が上がり悲惨を極めたのはいうまでもない。以仁王を匿った三井寺は平重衡により焼き討ちにされたのである。以仁王は奈良の延暦寺、興福寺に援助を求めた際延暦寺は拒否しており、後に興福寺は平重衡により火をつけられ甚大な被害を被った。

  源仲政
   ┣ 頼政1104-1180(二条 六条 高倉三代に仕え、宇治で戦死)
   ┣ 頼行   ┃   ┣仲綱(二条天皇東宮時代に仕える)     
   ┃ ┣宗頼  ┃   ┣頼兼         ┗宗綱(宇治で戦死)
   ┃ ┣正綱  ┣宗頼 ┣二条院讃岐1141-1217中宮任子(宜秋門院)に再出仕
   ┃ ┗兼綱  ┣正綱 源斉頼娘      ┣重光
   ┃      ┗兼綱-1180宇治で戦死  ┣有頼
   ┣ 光重                藤原重頼
   ┣ 泰政
  藤原友実娘

長明寺にある摂津源氏の棟梁・源頼政像

 

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新・平家物語 第11話 後白河の子・以仁王、源頼政と挙兵

2012年10月31日 | 平家物語

以仁王は後白河の子として生まれた 
 ・異母弟・憲仁親王が80代高倉天皇として即位するなか、自分は親王にもなれずに埋もれていたのである。 
 ・というのも時子の妹・滋子を母にもつ高倉天皇とは違って、以仁王の母は藤原成子という清華のでない身分であった。 
 ・まして、源頼政から平家追討のご意思あらば法皇の意にも叶うもの・・と聞かされ一層の決意を固めるのであった。 
 ・源頼政は平治の乱では裏切り者とされ、六波羅・清盛に随身後は犬四位とあだ名され、いままで耐えてきた御方である。 
 ・このときの為に、全国に散らばる名もなき源氏の為に、わが孫・有綱をもだまして平家にかしずいてきた。 
彼の息子仲綱は伊豆守として平家一門に代わって流浪の身の頼朝を見張ったりもしている。 
 ・頼朝の成人を見届け、義経の素質も見極め、ここにいよいよ源行家らとともに、迫ったのである。 
 ・以仁王の令旨により伊豆の頼朝、木曾の義仲、常陸源氏の義教などに声がかかった。 
 ・以仁王の弟・円恵法親王にも示され三山連合の発起が促された。ところが以仁王の令旨の秘儀が意外な方から福原へ報じられた。 
 ・行家が秘密を暗に郷党に漏らしたことから紀州田辺平家に聞こえ、別当湛増から伝わった。 
 ・たちまち以仁王は源以光と改め、土佐への遠流が公表された。 
 ・頼政の知らせを受け、以仁王は従者・宗信(乳母の子)と鶴丸とともに、三井寺へ落ち延びた。

   藤原成子-1177   
    ┣ 式子内親王1149-1201斎院                 
    ┣ 守覚法親王1150-1202                 
    ┃        藤原友実娘                     
    ┣ 以仁王1151-1180(┣源頼政1104-1180と挙兵)              
    ┣ 円恵法親王  源仲政?-?
    ┃(1152-1184三井寺長官)      
    ┃1078-1162 ┏(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)              
    ┃  忠実┳藤原忠通1097-1164  ┃雑子女:常盤御前1138-?         
    ┃    ┃  ┣基実1143-1166 ┃     ┣今若1153-1203
    ┃    ┃  ┣基房1145-1231 ┃     ┣乙若1155-1181
    ┃    ┃  ┗兼実1149-1207 ┃     ┣牛若1159-1189
    ┃    ┗藤原頼長1120-1156  ┃    源義朝1123-1160     
    ┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃     
    ┃サネヨシ実能┳幸子        ┃    
    ┃  教長┃徳大寺     76近衛天皇1139-1155      
    ┃    ┗公能右大臣     ┃                  
    ┃        ┣藤原実定  ┃     
    ┃        ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)       
    ┃        ┣ 娘    ┃  
    ┃     藤原豪子 ┗一条能保┃   藤原忠隆1102-1150          
    ┃┏藤原経宗1119-1189      ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣                  
    ┃┗源懿子1116-  ┏━━━━━━━┛ ┣ 公子                    
    ┃ ┃  1143 ┃ 伊岐致遠女   ┣勧修寺光頼           
待賢門院┃ ┃     ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)   
  ┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母               
  ┃ ┃ ┃     ┃   
  ┃ ┃ ┃    女朱内親王1141-1176    
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
74代┃   ┃    ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局)    ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃        
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女        
      ┃    ┣-  ┣範子内親王1177-1210斎院              
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    
      ┃              ┃  ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
      ┃              ┃ 藤原殖子(七条院)          
  藤原祐子┃         ┣言仁トキヒト親王(81代安徳天皇1178-1185)
     ┣滋子1142-1176 平清盛 ┃ 
     ┃(建春門院)    ┃  ┃ 
  平時信         ┣徳子1155-1214(建礼門院)
    ┣時子1126-1185   ┛                      
    ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
    ┣親宗1142-1199     ┣讃岐中将時実                  
  藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
             ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
             ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
             ┣ゆかり姫                  
           師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)

高倉神社内にある以仁王の陵墓

 

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新・平家物語 第10話 時忠の館に鼓師・磯の禅師の娘・静御前

2012年10月30日 | 平家物語

 最期の宴が仰々しく開かれたのは平家一族の義経に対する寛容さをみせるためである。義経に居場所はなかったが、烏帽子に水干を着、太刀姿の白拍子のひとりに目がとまった。かつて鞍馬山から脱出したあと堀川の姉妹白拍子に匿われていた頃にであったひとりが、その宴の席にいたからである。

鼓師・磯の禅師の娘・静である。年はまだ十六、七である。かつて幼い頃父の鼓師は大火で焼け死に、老母を養うために白拍子にでたのである。義経は舞に気をとられているうちに、時刻がきた。時忠の娘・夕花に促されて、五条の方角へかけぬけた。東大寺の並木道に弁慶は濡れていた。ところが子の刻になっても一向に義経は現れない。そのうち四位殿の家来があわてて弁慶にかけより、義経が五条の方角へいったと話す。そして有名な五条大橋での義経と弁慶の対決となるのである。もちろん義経が豪腕弁慶をあっけなく倒すということであるが、実はあっけなくひらりと身をかわし逃げ去るのである。そして 義経は伊勢三郎と鮫の待つ隠れ家へ弁慶を誘い出しながら逃げ急いだ。熊野からお供をしてきた、この鮫女は弁慶の母である。隠れ家にたどり着いた弁慶は義経を見るや襲いかかろうとするが、なんとそこには鮫が・・・・。 弁慶の狼狽は義経どころではなかった。鮫に諭された弁慶はこのとき以来、義経に全てをささげて下部となったのである。

京都時代祭りでの静御前                  知り合いの白拍子姿

 

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新・平家物語 第9話 義経は時忠の娘・夕花の君を妻室に

2012年10月29日 | 平家物語

平時忠の眼中には遮那王牛若、真の義経しかなかった。そのとき東国の異なる武士ふたりが大納言・時忠を訪れた。義経の腹心である月尊こと鎌田三郎生近と御厨小藤次である。彼らの口から義朝の忘れ形見義経殿の使い・・と聞くと、時忠が驚愕と疑いの中、自ら釣殿へと招いた。密談はふた刻にも及び、鎌田と御厨は時忠から承諾をえる。その内容は、「獄中の山下義経以下13名の者を即刻釈放する」 というものであった。しかし、交換条件として、堅田衆は一切洛内より引き上げ、主従は遠国へ立ち退くというものである。またその書状を義経自ら持参するというものであった。かくして、その契りは守られた。

九郎ただ一騎にて時忠の門前に駒をとめ、取次ぎを申し入れた。その勇姿は山下とはまるで違う初々しさと優しさを備えている。時忠の妻師の局とふたりの娘、夕花の君・ゆかり姫もさし覗いてはなにか、ささやいた。用向きはわかっている。義経は奥に招かれると、庁の下官と武士に囲まれ、九郎を歓迎したのである。約束の誓文を提出すると約束はすみ湯殿へ案内された。九郎はこの後死が待っているのか・・とも思いつつ覚悟はしていたが涅槃を思った。

麗しい狩衣・袴が北の方から賜い、別な一殿へ案内され、時忠の妻・姉妹とともに夜の食事をしたのである。姉の夕花の君を綺麗な姫君よと、ひそかに思った。後に壇ノ浦の合戦で凱旋した義経は時忠の娘・夕花の君を妻室にむかえている。義経に対して助命の余地なしとの清盛の意があったが、このとき時忠は寛容な沙汰を考えていた。 しかし、同族の経盛の子・経俊、教盛の子・教経や忠度、資盛などは助命に反対である。ここで義経を討ったとなれば山門の堂衆は黙っておかないし、助命にすれば平家一門が黙らない。 

微妙な立場におかされた時忠は考えた。時忠の門下にならないかと声をかけていた弁慶に功を立てないかと仄めかし、義経捕獲に失敗した弁慶をその気にさせ、宴の後、館から無罪放免とした義経をこんどこそ討ち取れとの案をだいたのである。これで平家一門と山門の堂衆からの非難を浴びずに済むという体である。しかし時忠の策を感じた娘・夕花姫は、表門ではなく、そっと雑人門から五条への退出を促し女性用の被衣装を渡した。

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新・平家物語 第8話 近江堅田の行家は堅田衆を基盤に源氏の与類を招きいれ洛中への乱派組織

2012年10月28日 | 平家物語

源義経が奥州を出て、紀伊の熊野の新宮に身を寄せたのは叔父行家を頼ってである。いつも放浪するその主人はめったに新宮に姿をあらわさないことを心得て、ゆっくりとしていたが、平家の勢力ともいえる熊野田辺から義経への接近を知るや否や、伊勢街道から熊野の海族の手を借りて洛に潜むこととなった。平重盛が亡くなったあとは一層平家への反感は高まり、放火騒ぎなども頻発するようになったころ、一茎二花の怪しい蓮が法勝寺の蓮池にあるとして話題となった。

蓮の茎に複数の花が咲くというのは不吉な前兆であるとの言い伝えもあり、義経・月尊・伊勢三郎一行はその正体を見ようと偵察を始める。そこで怪しい連中の一人が伊豆守仲綱の嫡男有綱であった。蓮の怪奇を企てたものは義経が求める行家であるとか。有盛から仔細をきくと一向は行家が潜むという近江堅田へむかうこととなった。堅田といえば熊野にいたころに行家から隠し名として与えられた堅田の小殿を思い出し、叔父であると確信する。堅田は昔から湖族の庄といわれ、熊野の海族と同じく水路権を握って私税を取り上げる族である。

知将行家は堅田衆を基盤に源氏の与類を招きいれ洛中への乱派組織を作っていたのである。洛では、堅田の武者山下義経という男が横暴を振るっていた。実は行家の三男行宗が影武者として義経を名乗っていた。あるとき怒め坊という叡山で修行を積んだ御坊が、叡山に見きりをつけ洛中徘徊していた。山下義経という賊将に興味をもち、高野川待つことしばし、とうとう義経を捕らえ、検非違使の丁へさしだすとさっさと行方をくらました。怒め坊こそのちに義経の腹心となる武蔵坊弁慶である。左馬頭義朝の子牛若とは似てもにつかない山下義経に時忠はがっかりするが、捕われの身になったと聞いた堅田衆は大騒ぎである。行家一同、堅田の庄からかけつけた輩は義経の意に反し、行宗を取り返そうと洛内に潜入する。しかし警護の硬い六波羅兵は堅田党の面々十数人を生け捕るのである。十郎行家は深傷を負っていたものの堅田へにげかえる。山下義経こと行家の三男行宗ばかりか、堅田の衆・居初権五郎、弾正介の息子・刀禰左金吾の生死もわからず惨憺たるものであった。

清和天皇
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王  ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)          
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
            ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
            ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃        安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃(1062前九年の役)  ┗安倍則仁  ┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃                ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃              ┣娘(平永衡-1056の妻)  ┗娘
 ┃ ┃┃              ┃藤原経清-1062      ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃              ┃┣清衡1056-1128    ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼 ┗娘     ┣基衡1105-1157 ┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓ ┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘        ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-      ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┣義賢-1155(頼長侍従)      ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲   ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┣為朝1139-1170       ┣範頼
 ┃ ┃┣義元1045-1127 ┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃平直方娘    ┃        義平
 ┃ ┃        ┃         ┣
 ┃ ┃             ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┗義忠   ┣新田義重1114-1202   ┣
源俊娘(嵯峨源氏)     1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面)

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新・平家物語 第7話 清盛嫡男・重盛 42歳で死去

2012年10月27日 | 平家物語

平重盛は唯一清盛をいさめることができた武将といわれる。平家の栄華を極めた頃、重盛は平家ももぉ終わりよ・・・・と感じた。昔若かりし時には平治の乱で、敵大将 悪源太・義平と一戦交えてもなんとも思わなかったこの体も衰え、まだ42歳というのに吐血するまでになった弱気のせいかもしれない。しかし叔父の教盛・頼盛などは、さして能もなく身に過ぎた栄職・官位につき、甥・一門の子弟など一様に身内でありながら、疑問を持つことも大いに原因であった。福原・大輪田の港の建築やら、厳島の造営やら内外の政務で多忙な清盛とはまったく対照的に、重盛は小松谷の館の持仏堂に聖者のように籠もっている。別名灯篭の大臣ともいわれ、小松殿の庭園には精舎があり、内部には48体の金色の十二光仏を安置し、その一体ごとに灯篭をかけて、18歳の頃の美女48人に灯篭の下に座らせて油の番をさせていたからである。そして重盛はその中央に座り、香煙らせながら浄土極楽境を心ゆくまで楽しんでいたのである。     
 ・「心の闇のふかきをば 灯篭の火こそ照らすなれ」     
 ・「弥陀の誓いを頼む身は 照らさぬところも なかりけり」      
東宮(皇太子)誕生の宴のあと吐血し、危ぶまれたものの快復の兆しをみせると、重盛は熊野詣に旅立っている。今生の参詣である。さきの地図でもわかるように、洛から熊野詣を行い、帰りに清盛がいる福原に立ち寄っているのだから、すごいとしか言いようがない。重盛の死期が遠くないことは知れ渡り、小松殿がなくなられたら平家も終わりよ・・・とささやかれたことからもわかるように、世間の重盛への人望の深さがうかがわれる。また反面、実質的には平家の力があっても、人の心の動揺が大きな力で平家滅亡への一途をたどらせるのも事実かもしれない。    
     
やがて重盛は髪を下ろし、浄蓮と名をあらため出家した。その後、後白河法皇が小松谷の館に見舞ったころから危篤の噂が流れた。そしてその一月後に清盛に先立って亡くなったのである。病名は不明であるが、恐らく胃潰瘍と思われる。胃潰瘍は食が細くなり、年々やせていき吐血するが、今の医学ではなんということはない病気である。ともかく重盛に対して悪く言う公卿・僧侶はだれもいない。平家をうらむ相手ですら、重盛を悪く言う人はいなかった。それだけに、彼の死は平家繁栄の将来に影をさす大きな意味をもっていたのだと思う。

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新・平家物語 第6話 鞍馬-奥州-熊野での義経

2012年10月26日 | 平家物語

数多の烏天狗に匿われ、鞍馬山から奥州平泉へ旅立った義経    
 ・であったが、平泉での生活は暇をもてあましたようである。    
 ・平泉を捨てるかのように、最上川をくだりいつのまにか紀州にたどり着いていた。    
 ・宇多天皇が初めて熊野詣を行ったという熊野街道には、熊野三山に囲まれた壮大な自然がある。    
 ・実は義経が紀州熊野に辿りついたのも、叔父の源行家が熊野三山のひとつ新宮に落ちていたからである。    
     
行家は為義の十男として生まれたことから新宮十郎行家といわれ、知力の長けた武者    
 ・先の平治の乱では兄であり義経の父・義朝とともに戦うが破れ、ここ熊野新宮に落ち延びてすでに20年近く経っていた。    
 ・母は熊野別当長快の娘で、姉・丹鶴姫は熊野別当行範と結婚していた為である。    
 ・熊野街道の中辺路の入口である田辺は熊野別当湛増が六波羅探題のような熊野平家の勢力を広げ、    
   本宮、新宮、那智にまでその威力は及んでいた。    
 ・これに対して熊野新宮にあたりに熊野源氏が二大勢力として力をもっていた。    
 ・行家は、いつかは再び源氏が・・・・とその思いをくすぶらせていたのである。    
 ・義経は、ほとんど留守にする行家の屋敷に身を細めながら思い存分の暮らしをしていた。    
 ・すぐ近くの熊野三山のひとつ那智で修行中の月尊と出会っている。    
 ・彼の本名は鎌田三郎正近という。4年前に義経が鞍馬を脱したときにそばにいたのである。    
 ・久々の再会に胸躍らせて語ったものである。    
 ・また後に伊勢まで何故か共に旅するのであるが、鮫女という武蔵坊弁慶の母なる者と義経を引き合わせたりもしている。    
 ・義経が20歳のときに、熊野新宮をでて洛への旅を決意する。    
 ・熊野平家の追っ手に悟られないように選んだ道が伊勢路である。    
 ・しかし月尊・鮫と山路たびでは埒があかず、途中で海路をとっている。    
 ・そこで知り合った海族の鵜殿家・御曹司隼人の介に世話になり、伊勢に着くと最期の宴に酔いしれた。    
 ・海族とは海を往来する船から保険料ともいうべき通行料をとって富を得ているもの    
   で、船の遭難などがあれば命をはって救助を行うのである。    
 ・そして今度は伊勢の土地に詳しい江の三郎が仲間に加わった。かれが後の伊勢三郎義盛である。

藤原成通が最初に詣でた熊野街道入り口にある滝尻王子

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新・平家物語 第5話 打倒平家を企てた鹿ヶ谷の陰謀@1177

2012年10月25日 | 平家物語

打倒平家を企てた陰謀は1177年に起きた。
 ・左大将・藤原師長が辞職した後の空席を、院の近臣の藤原成親らが争っていた
 ・ところ、左大将には平重盛がなり、さらに右大将には平宗盛がなった。
 ・特に成親は、妹が重盛の妻になっている関係で、平家と親しいだけに腹を立てたことがこの陰謀の一因ともされている。
 
1177年4月、加賀国目代藤原師経は、加賀白山中宮八院の一つ湧泉寺で、些細なことから寺僧と論争になり、寺を焼き払って帰京した。
 ・白山勢力は本寺の比叡山に通報、比叡山を通じて目代師経と、国司の師高兄弟の処分を院に求めた。
 ・師経は備後国へ流罪となったが、これに不満な叡山大衆が、神與を奉じて入洛、朝廷方の武士・平重盛と激戦となる。
 ・結局、国司の師高は尾張に配流となり、事件は終息へ向かう。
 ・「白山事件」で藤原師高が尾張に配流になったことで、
  その父・西光がこれを嘆き、寺院勢力の中心と思われていた天台座主明雲を院に訴えた。
 ・すると明雲は天台座主を解かれ、伊豆に配流された。しかし僧兵は伊豆へ向かう明雲を近江国粟津で連れ戻す事に成功。
 ・ここで院は、院宣に叛いた罪で明雲の召還を指令し、経盛に比叡山攻撃を命ずる。
 ・ところが経盛は、明雲が親平派でもあり得策ではないとして、拒否。そこで院は清盛に比叡山攻撃を5月23日に命じた。
 
清盛は悩んだあげく比叡山攻撃を5月28日に決定。
 ・2日後、源行綱(多田行綱)の密告により鹿ヶ谷の陰謀は発覚し、成親は備前に流罪後処刑、西光は処刑、俊寛らは喜界島に流された。
 ・これにより、平氏は寺院との提携に成功し、院を完全に孤立させた。
 ・死罪となったのは陰謀の首謀者・西光のみで、藤原成親などは娘・経子が重盛と結婚し、
   嫡男・成経は教盛の娘を娶っていることから、清盛は重盛、教盛から成親への罪の軽減を迫られ、流罪となった。
 ・しかし成親は備前国庭瀬の郷ににて非業の斬殺を遂げている。
 ・また、たいそうな美男子であった成親嫡男・成経は局々の女房から惜しまれて、俊寛、平康頼とともに喜界島に流罪となった。
 ・が流人舟の船出はたいそう遅れたそうである。
 ・門脇殿の教盛が福原の別邸にいる清盛を訪ね、成経の赦免を懇願してやまなかったのである。
 ・喜界島での成経・康頼は赦免の沙汰を待ち、島の山々を熊野に見立てて詣でいたこともあり、
   1年後には都へ帰っているが、悪僧・俊寛は無残にも島からでることは許されずに没している。

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新・平家物語 第4話 遮那王は龍胆に化けて奥州を目指す

2012年10月24日 | 平家物語

元服前の義経・遮那王
 ・鞍馬山で暮らし、15歳になったとき天狗こと源氏の落ち武者の助けを借りて逃亡を図った。
 ・そのときに実は平清盛の寵愛を受けた祇王庵に立ち寄っている。
 ・金売吉次を伴って奥州藤原氏のもとへ参じる計画があったわけであるが、その吉次と密会するために祇王庵で落ち合ったのである。
 ・そのとき祇王は25歳。もちろん妹の祇女、仏御前にも会ったと思われる。
 ・15歳の遮那王は小柄であったため、たいそういたいけな少年にみえたようで、「かわいいわね・・」などとからかわれている。
 
さて、吉次の計画で後に奥州に旅するのであるが、時はまだ早々であるとして、しばらく洛中に身を潜めることとなる。
 ・平家一族が、遮那王をやっきになって探していたからである。
 ・そして、遮那王は追っ手から逃れるために、化粧を施し髪も女風にし、袴も艶やかな女童姿となった。
 ・眉白粉にべにをつけ、可憐な白拍子の雛となる。そして名を龍胆とかえて呼ぶこととした。
 ・実はこのとき多くの白拍子とであっているのである
 ・が、後に結ばれる静御前とも出会い、ともに一条で遊び暮れ車の中で抱き合って寝てしまったことがあったのである。
 
遮那王は奥州へ旅立つ前に一度、母・常盤に会いたかった。
 ・鞍馬では金王丸(遮那王の父・義朝の家臣)から母の知らせは受けており、
   僧として立派に16歳の剃髪の儀を望まれていたが、遮那王にはその意思はなかった。
 ・当時母・常盤は清盛の寵愛を受けた後、一条長成に嫁いで、三十路の半ばになっていた。
 ・常盤はもちろん昼夜を問わず平家の囮となって見張り役がついていたため、金王丸でさえ近づくことは難しく、遮那王を説得する。
 ・こうして平家を討つことにより母・常盤御前との再会を果たそうと思うのである。
 ・そうこうして奥州への期をうかがっていた翌年の16歳のとき、白拍子の雛妓姿の遮那王、龍胆は五条橋の欄干にもたれていた。
 ・彼が身を寄せていた家の姉妹とともに五条の市へ雛祭りの買い物の帰りである。
 ・父・義朝の思いにふけっていたその時、「牛若!」と女衒の朽縄が迫ってくる。いよいよ都の生活も潮時がやってきたのである。

  

祇王寺には祇王と清盛の墓があります

 

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新・平家物語 第3話 崇徳上皇側の大敗と文覚

2012年10月23日 | 平家物語

保元の乱で惨敗した上皇側
 ・藤原頼通は、喉を射抜かれ看護されるが、後に舌を噛み切って自害する。
 ・父・忠実は奈良興福寺・禅定院へと逃れるが後に捉えられ処刑される。
 ・源為義・息子は三井寺へいったん隠れるが、後に信西の命により処刑。
 ・清盛の叔父・忠正は命乞いするも、同じく信西の命により三条河原にて民衆にさらされ親子ともども斬首される。
 ・崇徳上皇は剃髪し、弟が門主の仁和寺へ逃れ出家し、讃岐に流され、
   阿野高遠の手にあずけられ、侍女・佐の局など数少ない女房とともに山里にて心温かいお世話をされたそうです。
   「思ひやれ 都はるかに沖つ波 たち隔てたる 心ぼそさを」 
 ・その後崇徳の心労を察し、幾度となく都へ便りをだす女房であったが返事はなく・・・。 
 ・しかしあるとき、横笛の音を耳にする。この果てまで、崇徳の御身を思い訪ねてきたものがいた。
 ・阿部麻鳥という都の御所にて水守をしていたお方である。女房はいわんや、崇徳はどえだけ感涙したか。
 ・交わす言葉もそこそこに、横笛の音にて阿部麻鳥は崇徳を慰めたという。
 ・そしてその後なくなられるまで、だれひとりとして訪問するものはいなかった。
 
保元の乱以降、無慈悲な信西入道による戦犯処理が行われた。
 ・これで約400年というもの、戦に負けた郎党が死刑に処せられることはなかった。極刑でも流罪であったのだ。
 ・源為義親子、平忠正親子の処刑に対して、民衆の勝者に対する風当たりは強かった。
 ・なかでも文覚の批判は強かった。遠藤盛遠と名乗っていた頃、源渡の新妻である袈裟御前の首を討った男である。
 ・しかし信西の前に一蹴されたのはいうまでもない。さらに、信西は平清盛の財力を後ろ盾にして、思うが侭のありさまであった。
 
そして、打倒信西の謀反を企てたのが二条天皇派であり後の平治の乱へと発展していくのである。
 ・保元の乱から3年の間に、後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令した。
 ・また、35箇条の新制を発布しているが、これらは、後白河の側近である信西が立案・推進したものだった。
 ・権威の確立に努めた後白河は、1158年に実子の二条天皇へ譲位し、自ら院政を開始した。 
 ・二条天皇は若くして英君との評価が高く、少なくない貴族らが二条へ接近していき、宮廷は内部分裂の様相を呈した。
 
後白河院政を後見した信西は、清盛の武力をもって、院政の安定を図った。
 ・当時、後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣として台頭しつつあり、右近衛大将の官職を望んだが、信西は信頼の申し出を一蹴する。
 ・これにより、信西との対立を深めた信頼は、藤原経宗、惟方、成親、源師仲とともに、二条天皇派として結束していった。
 ・さらに、後白河院政へ不満を持つ源義朝を武力とし引き入れることに成功した。
 
1159年には、院の近臣である信西派・信頼派間の緊張関係が高まっていく。
 ・信西派の平清盛が熊野詣に出発した直後、藤原信頼・源義朝一派は二条天皇派の了解を得て、三条殿御所を襲撃
 ・して二条天皇、後白河上皇を確保する。 
 ・この事態に信西は逃亡を図るが、ほどなく捕えられ殺害された。
 ・政権を掌握した信頼・義朝らは勝手に除目を行い、信頼は右近衛大将、義朝は播磨守になる。 
 ・その最中、東国より兵を率いて参じた義朝の長男義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張
 ・したが、信頼は退け、清盛の帰洛を待つのである。
  
帰京して六波羅に入った清盛は降伏を装って経宗と惟方を調略し、後白河と二条を内裏から脱出
 ・させ、二条は六波羅に迎えられ、後白河は仁和寺に入った。
 ・そして、清盛に信頼・義朝追討の宣旨出されると、清盛の嫡男重盛、弟の頼盛、経盛は3000騎を率いて内裏へ向かい、
 ・源氏方2000騎との壮絶な戦いとなる。
 ・重盛が待賢門に迫ると怯えた信頼は逃げ出し、代わって義平が防戦に出て激闘になり、
  御所の右近の桜、左近の橘での一騎打ちが源義平19歳、平重盛23歳の間で繰り広げられた。
  義朝、義平が追撃して内裏を出ると、教盛の軍勢が陽明門に迫り、光保、光基は門の守りを放棄して寝返ってしまった。
  両軍は六条河原で激戦を展開するが、疲労した源氏軍は遂に敗走し、戦いは平氏の勝利に終わるのである。

 

藤原顕季アキスエ1055-1123             
┣藤原顕輔1090-1155             
┃┗藤原清輔1104-1177(百人一首84番)⇔藤原俊成1114-1204             
┗藤原長実1075-1133(白川法皇に近侍)             
  ┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160              
    ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155             
    ┣女朱内親王(高松院)1141-1176             
    ┃        藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘             
堀河天皇┃           ┃             
  ┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
藤原苡子┃     ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
    ┃     ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
    ┃     ┣顕仁親王75崇徳天皇1119-1164      ┣-              
    ┃     ┃    ┣重仁親王1140-1162   源渡            
    ┃     ┃    ┃     乳母:有子           
    ┃     ┃    藤原聖子1122~1181               
    ┃     ┣後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)         
    ┃     ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主         
     祇園女御   藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘         
後三条 ┣清盛   ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
   ┣白河上皇72代1053-1129                    
藤原茂子┣                   
   祇園女御・妹兵衛佐局  平完子(清盛六女)            
    ┣清盛 1118-1181   ┃平信範娘                   
    ┃┗盛子1156-1179次女 ┃┣近衛家経1184-1238      
    ┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子       
    ┃┣近衛基実1143-1166  ┣近衛家実1179-1242  
    ┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘 
    ┃┃藤原忠隆娘  
    ┃┃  
    ┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)        
    ┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠       
    ┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣         ┣師家
    ┃                       ┣伊子(冬姫:義仲側室)     
    ┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方)    俊子
    ┃┣家盛1120-1149                
    ┃┣頼盛1131-1186     
    ┃┃     ┣仲盛?-?
    ┃┃     ┣光盛1172-1229
    ┃┃     ┣為盛    -1183
    ┃┃     ┣娘
    ┃┣忠重  大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
    ┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)                  
    ┃┃ ┃   ┣-             教盛・娘
    ┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘   藤原成親  ┣-
    ┃┃浜御前             ┣藤原成経-1202丹波少将
    ┃┃                ┗娘1155-
    ┃┃                    ┣六代(高清)1173-1199
    ┃┃        藤原親盛・娘      ┣姫(夜叉御前)      
?-1121 ┃┃         ┣維盛コレモリ1157-1184(桜梅少将 那智で入水)            
正盛  ┃┃      高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)            
 ┣忠盛1096-1153        ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死) 
 ┗忠正  ┃-1156       ┃ ┣清経1163-1183 
  ┣長盛┃?-?        ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)   
  ┣忠綱┃?-?          ┃ ┣忠房    -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)  
  ┗正綱┃?-?          ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)  
     ┃          ┃ ┣娘  
     ┃          ┃ ┃┣-  
     ┃          ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)  
     ┃          ┃藤原家成娘経子                     
     ┃          ┃(鳥羽院寵臣)               
     ┃          ┣基盛1139-1162右衛門督                 
     ┃          ┃ ┗行盛-1185壇ノ浦で入水                
     ┃          ┃ ┏娘 (平通盛室)                
     ┣清盛 1118-1181 ┣清宗1170-1185(父と鎌倉からの帰りに義経により斬首)  
     ┃ ┣冷泉局 ┣宗盛1147-1185中納言
     ┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将                    
     ┃      ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党                   
     ┃      ┃ ┣知宗1184-1255                    
     ┃      ┃ ┣知忠1180-1196                    
     ┃      ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕                    
     ┃      ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕                    
     ┃      ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)          
     ┃      ┃ ┣-        
     ┃      ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)         
     ┃      ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守         
     ┃      ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守        
     ┃藤原家範娘 ┣徳子1155-1214建礼門院       
     ┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王       
     ┃ ┣平時忠1127-1189┃         藤原棟子1173-1238北白河院
     ┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234         
     ┃平時信 ?-1149     ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院           
     ┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇        
     ┃藤原祐子?   ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181          
     ┃     後白河天皇77代1127-1192     
     ┃ 
     ┃平盛国1113-1186(清盛側近)               
     ┃  ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六          
     ┃    ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛        
     ┃    ┗盛綱?-?        
     ┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
     ┃ ┣経正    -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
     ┃ ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡) 
     ┃ ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡) 
     ┃   ┣-
     ┃  右大弁時宗・娘       小宰相1165-1184(上西門院の女房)
     ┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水┣-
       ┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)⇔木村源吾重章         
       ┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))       
       ┣教子?藤原範季妻         
       ┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)  
       ┗仲快1162-1227(中納言律師)

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新・平家物語 第2話 源平合戦序章ともいえるのが保元の乱

2012年10月22日 | 平家物語

源平合戦の序章ともいえるのが保元の乱である。
 ・76代近衛天皇は鳥羽天皇・藤原得子(美福門院)の皇子で、藤原璋子(待賢門院)の皇子・崇徳天皇譲位のあと即位する。
 ・崇徳天皇は妃・藤原聖子との間の重仁親王を即位させたかった
 ・が、当時鳥羽上皇には藤原璋子に意がなく、寵愛妃・藤原得子との間に生まれた体仁親王を近衛天皇として幼帝を即位させた。
 ・実は、藤原璋子(待賢門院)は白川法皇から格別な寵愛を受けており、鳥羽上皇は顕仁親王(崇徳)を自分の子であるとは考えていなかった。
 ・白川と藤原璋子の間にできた子であろうと・・・・。 
 ・こうして崇徳と鳥羽親子の間には確執が生まれており、崇徳は後々幸せ薄い人生を送ることとなるのである。
 
当時摂関政権を握っていたのが藤原忠実の息子藤原忠通と藤原頼長である。
 ・もちろん外戚関係を築くべく頼長は養女としていた藤原多子を近衛天皇妃として入内させる。
 ・また、忠通は藤原伊通・娘の呈子(シメコ)を養女としてむかえており、呈子を近衛天皇妃として入内させる。
 ・話は前後するが、忠通・頼通はお互いに藤原忠実の息子で年齢は25歳はなれていた。
 ・忠通は温厚であったが、頼通は悪左腑と呼ばれたように腹黒い一面があった。 
 ・父・忠実は政治手腕という意味で、温厚な長男よりも、やり手の次男・頼通をかわいがっていた。
 ・というよりも長男・忠通を毛嫌いしていたのである。 後に父・忠実は長男・忠通を勘当している。
 ・考え方も風貌もまったくの正反対の兄弟に異様な空気が流れていたことは計り知れる。
 ・しかし幼い近衛天皇はというと温厚な兄のほう忠通が好きであった。
 ・政治的には兄・忠通は失脚していくが天皇の信望は集めるのである。
 
しかし、病弱な近衛天皇は1155年17歳の若さにして崩御される。 
 ・そして一気に忠実・忠通親子の独断場が始まろうとした。
 ・しかし、それもつかの間・・・近衛天皇崩御で崇徳天皇は息子・重仁親王の即位を望んだが、またしてもその願いは叶わず
 ・父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す弟・雅仁親王が77代後白河天皇として即位した。
 ・そして、摂関・藤原忠実、頼通は一気に奈落へと落ちていく。
 ・理由は、近衛天皇崩御が藤原忠実・頼通親子の呪詛によるものであるとの奏上が信西入道より上皇に出されたからである。 
 ・これにより親子は法皇から遠ざけられ、参内も拒否された。
 ・蘇我・藤原氏が権力の座につくために、過去何度も繰り返されてきた呪詛事件だが、果たして本当かどうかは怪しい。
 ・悪左腑を陥れるにはこれで十分であったのだろうか。

近衛天皇御崩御の時には民衆も一様に、崇徳の息子・重仁親王の即位が期待されていた。
 ・藤原頼通は、近衛天皇即位により失意にあり世捨て人のように三条西の洞院にひっそりいた崇徳上皇に近づいていた。
 ・しかし即位は後白河天皇であった。藤原得子(美福門院)の希望が大きく影響したのも間違いない。 
 ・また、忠通は後白河天皇に接近する。
 ・藤原忠通・頼通兄弟の亀裂に順ずるように、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立もますます深まり、一触即発の緊張状態が続く。
 ・そして、やがて両派はそれぞれ武士を集める。

崇徳上皇・藤原頼長・教長方には源為義、源頼賢、源為朝などの源氏親子や、平忠正・長盛親子らが集結した。
 ・後白河天皇・藤原忠通・信西入道方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが集結した。
 ・このときの兵力は断然天皇方が優勢であったが上皇側は各地の僧兵の集結を期待し強気であった。 
 ・ところが、僧兵軍の応援はなく、崇徳上皇側はあえなく源義朝、平清盛率いる天皇側に惨敗する。
 ・当然のことながら、戦犯に問われた上皇側はことごとく処刑されることになるが、これを仕切ったのは後白河側近の信西入道であった。
 ・平清盛は、叔父の忠正から命乞いをされるが、信西の沙汰が変わることはなく、忠正はこの世を惜しんで斬首された。
 ・また、源義朝とて同じである。実父・為義及び兄弟6人を涙ながらに処刑しなければならなかった。
 ・このときに処せられた者は100人以上に及び、洛三条の河原では幾日にも続いて斬首が行われたという。
 
そして崇徳上皇の沙汰があった。思えば不遇の御方である。
 ・「お前の父はおれ(鳥羽)ではない。白川である」とののしられ、退位後は次期天皇に息子・重仁親王と思っていた
 ・ら、鳥羽と美福門院の子・近衛天皇が即位し、
 ・近衛天皇譲位の後は、順番で言えば今度こそ重仁親王と思っていたら、後白河・・・。 
 ・そして最期は、ある意味藤原頼通の勢いに乗って起こした謀判・保元の乱での惨敗である。
 ・崇徳上皇は髪を下ろして仁和寺にはいったものの、讃岐の国に流された。その後は讃岐院とも呼ばれ、8年後に不遇の人生を閉じた。

藤原顕季アキスエ1055-1123             
┣藤原顕輔1090-1155             
┃┗藤原清輔1104-1177(百人一首84番)⇔藤原俊成1114-1204             
┗藤原長実1075-1133(白川法皇に近侍)             
  ┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160              
    ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155             
    ┣女朱内親王(高松院)1141-1176             
    ┃        藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘             
堀河天皇┃           ┃             
  ┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
藤原苡子┃     ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
    ┃     ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
    ┃     ┣顕仁親王75崇徳天皇1119-1164      ┣-              
    ┃     ┃    ┣重仁親王1140-1162   源渡            
    ┃     ┃    ┃     乳母:有子           
    ┃     ┃    藤原聖子1122~1181               
    ┃     ┣後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)         
    ┃     ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主         
     祇園女御   藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘         
後三条 ┣清盛   ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
   ┣白河上皇72代1053-1129                    
藤原茂子┣                   
   祇園女御・妹兵衛佐局  平完子(清盛六女)            
    ┣清盛 1118-1181   ┃平信範娘                   
    ┃┗盛子1156-1179次女 ┃┣近衛家経1184-1238      
    ┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子       
    ┃┣近衛基実1143-1166  ┣近衛家実1179-1242  
    ┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘 
    ┃┃藤原忠隆娘  
    ┃┃  
    ┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)        
    ┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠       
    ┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣         ┣師家
    ┃                       ┣伊子(冬姫:義仲側室)     
    ┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方)    俊子
    ┃┣家盛1120-1149                
    ┃┣頼盛1131-1186     
    ┃┃     ┣仲盛?-?
    ┃┃     ┣光盛1172-1229
    ┃┃     ┣為盛    -1183
    ┃┃     ┣娘
    ┃┣忠重  大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
    ┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)                  
    ┃┃ ┃   ┣-             教盛・娘
    ┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘   藤原成親  ┣-
    ┃┃浜御前             ┣藤原成経-1202丹波少将
    ┃┃                ┗娘1155-
    ┃┃                    ┣六代(高清)1173-1199
    ┃┃        藤原親盛・娘      ┣姫(夜叉御前)      
?-1121 ┃┃         ┣維盛コレモリ1157-1184(桜梅少将 那智で入水)            
正盛  ┃┃      高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)            
 ┣忠盛1096-1153        ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死) 
 ┗忠正  ┃-1156       ┃ ┣清経1163-1183 
  ┣長盛┃?-?        ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)   
  ┣忠綱┃?-?          ┃ ┣忠房    -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)  
  ┗正綱┃?-?          ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)  
     ┃          ┃ ┣娘  
     ┃          ┃ ┃┣-  
     ┃          ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)  
     ┃          ┃藤原家成娘経子                     
     ┃          ┃(鳥羽院寵臣)               
     ┃          ┣基盛1139-1162右衛門督                 
     ┃          ┃ ┗行盛-1185壇ノ浦で入水                
     ┃          ┃ ┏娘 (平通盛室)                
     ┣清盛 1118-1181 ┣清宗1170-1185(父と鎌倉からの帰りに義経により斬首)  
     ┃ ┣冷泉局 ┣宗盛1147-1185中納言
     ┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将                    
     ┃      ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党                   
     ┃      ┃ ┣知宗1184-1255                    
     ┃      ┃ ┣知忠1180-1196                    
     ┃      ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕                    
     ┃      ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕                    
     ┃      ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)          
     ┃      ┃ ┣-        
     ┃      ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)         
     ┃      ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守         
     ┃      ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守        
     ┃藤原家範娘 ┣徳子1155-1214建礼門院       
     ┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王       
     ┃ ┣平時忠1127-1189┃         藤原棟子1173-1238北白河院
     ┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234         
     ┃平時信 ?-1149     ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院           
     ┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇        
     ┃藤原祐子?   ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181          
     ┃     後白河天皇77代1127-1192     
     ┃ 
     ┃平盛国1113-1186(清盛側近)               
     ┃  ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六          
     ┃    ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛        
     ┃    ┗盛綱?-?        
     ┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
     ┃ ┣経正    -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
     ┃ ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡) 
     ┃ ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡) 
     ┃   ┣-
     ┃  右大弁時宗・娘       小宰相1165-1184(上西門院の女房)
     ┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水┣-
       ┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)⇔木村源吾重章         
       ┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))       
       ┣教子?藤原範季妻         
       ┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)  
       ┗仲快1162-1227(中納言律師)

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新・平家物語 第1話 袈裟御前を殺した文覚の苦闘

2012年10月21日 | 平家物語

 新・平家物語は約60年前に吉川英治によって書かれた大作である。当ブログはこの新・平家物語を中心として平安時代を楽しむことを目的に数年前立ち上げた。具体的には新・平家物語に登場する人物ゆかりの地を訪れてその詳細を紹介することにあった。5年ぶりに改めて16巻を読み直し、もう一度最初からその内容を復習することで、5年間の進化を見直してみたい。まずは第1話 袈裟御前である。

1107年に即位した鳥羽上皇
 ・皇后藤原泰子(高陽院)
 ・寵愛妃・藤原得子(美福門院)
 ・中宮・藤原璋子(待賢門院)がいた。
 ・袈裟御前は、鳥羽と藤原璋子(待賢門院)との間にできた統子内親王(上西門院)に 雑仕女として出仕
 
鳥羽上皇の護衛武士
 ・『平家物語』の主人公である平清盛
 ・遠藤盛遠
 ・同僚には佐藤義清(後の歌聖といわれる西行)
 ・源渡がいた。
  
袈裟御前は源渡の新妻
 ・であり、涼しい目元に凛とした気品のある桔梗の花のように美しい女性であった。 
 ・そして遠藤盛遠は袈裟御前が鳥羽上皇の皇女統子に仕えていた頃から懸想していたのですが、袈裟御前は源渡に嫁いでしまう。
 ・傍目からも羨ましがられる仲の良い幸せな夫婦で、盛遠はとても諦め切れない気持ちでいた。

言い寄ってくる盛遠に袈裟はきっぱりと断るが、「ならば、そなたの母を殺し、我も腹を切る」と遠藤盛遠は言い出します。 
 ・困り果てた袈裟はついに「わたくしは夫のある身でございます。
 ・いっそのこと、夫を亡きものに…さすれば、あなた様の御心に沿えましょう程に」と泣きながら言います。 
 ・そこで 「今晩八つの鐘を合図に当屋敷に忍び込み、東より二つ目が夫の寝所にございます。
 ・先に休ませておきますれば、洗い髪を頼りに夫をお討ちください」 という袈裟の言葉通りに盛遠は実行したのです。
   
盛遠は斬り落とした首を抱いて屋敷から走り出たのですが、月明かりの中でその首を見て仰天します。 
 ・それは、なんと源渡ではなく、愛しい袈裟の顔だったのです。
 ・それは、一途に自分を思ってくれる盛遠と愛する夫との板挟みになって煩悩した末の袈裟の悲しい決断でした。
 ・盛遠は幾日も袈裟の首を抱いて鞍馬の山奥をさまよった果てに出家しました。
 ・武士を捨て名前も文覚と改名し、各地の霊場を遍歴しては三十二日間の断食や厳冬の那智の滝に何日間も当たるなどの荒行に励んだという。
 
後に、京都に戻ってきた文覚は荒れ果てた神護寺の再建を果たそうと
 ・後白河法皇に何度も直訴を繰り返し遠島など申し渡されるが、次第に顔見知りとなっていく。
 ・そして、ついには院宣まで入手して頼朝の蜂起をを説得するまでになるのです。
 ・袈裟御前は、盛遠を文覚として生まれ変わらせたヒロインであり、
 ・もし文覚が居なければ頼朝の蜂起はなくて歴史が大きく変わっていたのかもしれない。
 ・文覚ゆかりの碑は中国縦貫道沿いの、広島・岡山県境の文覚寺にあります。
 ・また、袈裟御前ゆかりの碑は京都南インター降りてすぐ北側の恋塚寺にあります。

   藤原得子(美福門院)1117-1160              
    ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛1139-1155             
    ┃              
    ┃    藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実1078-1162の娘             
    ┃     ┃             
  鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠?-?は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
    ┃     ┃    佐藤義清(後の西行1118-1190)も護衛             
    ┃     ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
    ┃     ┃                              ┃              
    ┃     ┣顕仁親王75崇徳1119-1164         源渡              
    ┃     ┃    ┣重仁親王1140-1162               
    ┃     ┃    ┃     乳母:有子           
    ┃     ┃    藤原聖子1122~1181               
   祇園女御   藤原璋子(待賢門院)1101-1145         
    ┣清盛   ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
    ┃     ┃             
    白川上皇72代1053-1129

 

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大河清盛・常盤御前

2012年10月17日 | 平家物語

 常盤御前1138-1190年、いわずと知れた源義経の母である。 近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女、つまり呈子の身の回りの雑用係りで、都の美女千人の中から選ばれた美女ではあったが素性は不明で、身分は極めて低い。 後に源義朝の妾となり、今若、乙若、そして牛若を産んでいる。平治の乱で義朝が平清盛と戦って敗北し、子供たちをつれて清盛の元に出頭して、母と子供たちの助命を乞うことで有名である。常盤の美しさに心を動かされた清盛は今若、乙若、牛若を助命するということになっているが、これは疑わしい。サラブレッドの嫡流(熱田神宮の宮司・藤原季範・娘由良御前の子)で、平治の乱に参加した頼朝でさえ助命されている。比較にならないほどの、なんの血統もない常盤御前の子なら、ましてである。清盛に請われて妾となり一女(廊御方)を産んだ後、一条長成という中流貴族に嫁し、一条能成の他何人かの子を産んでいる。その一人は牛若丸とともに、鞍馬寺で一緒に過ごしており、後に義経とともに都落ちをしている。このとき常盤御前は、鎌倉方によって逮捕され、保身のため追討使に義経の情報を漏らしたという。その後、義経の弟と一緒に平穏な晩年を過ごしたようであるが、はっきりした事はまったく不明。

 平家物語より ---- 源氏の大将として宇治川での初陣に勝利した義経は立派そのものである。 かつて鞍馬から金売吉次のてびきで白拍子の一帯に身を潜め、龍胆という名の頃とは大違いである。 金売吉次はその勇姿を見ようと洛入していたときに、 麻鳥と偶然であった。 かつて、義経の母・常盤御前の雑仕女として仕えていた蓬は、良人、阿部麻鳥とともに嵯峨野の田舎へ引越しをしていた。保元の乱から20年間、讃岐院と呼ばれる崇徳上皇に仕え水守をしていた麻鳥は医者のかたわら、平家の都落ち、先の戦で弧児となったものを引き取り、貧しく養っていた。 吉次は蓬から義経への土産ものを託された。 吉次が義経と会ったときに、麻鳥夫婦の話をし、預かった土産の蓬餅を手渡した。蓬はかつて義経が乳飲み子の頃に常盤に仕えていた者。 義経は母常盤の面影を想像し、はやく逢いたいという気持ちを押し殺すのに必死であった。 翌日義経は那須・佐藤の忠臣とともに嵯峨野へ急いだ。 麻鳥夫婦に会うためである。 多くの童が騒ぐ傍らの小屋が夫婦の家とみると、夫婦を訪ねた。 お互いに10年ぶりの再会である。 鞍馬の山で脱走しようとする牛若に母・常盤の形見を渡したとき以来であった。 麻鳥夫婦は源氏の大将である義経が気取らない勇姿であることにほっとした。 そして義経は母・常盤の様子について懇願するのである。麻鳥夫婦はいつも常盤御前のことを気にかけていた。清盛に寵愛されていこうは大蔵卿長成にとついで女子を設けたが、長成も亡くなり、清盛が亡くなって以降は化粧代も途絶え、それからの生活は貧困をきわめたらしい。 平家が西国へ落ち延びたあと義仲が入洛したあとは、清盛の寵愛を受けた身であることで木曾陣におびえた長成の親類縁者も 常盤を嫌うようになった。 そしていよいよ木曾に知られるようになり身の上が危なくなった頃、あの金王丸の勧めもあって洛を避けて鎌倉へ身を寄せようと旅立ったらしい。 ところがそれ以降何の便りもなく、いつか関が原で旅の男女が盗賊にむごたらしく殺されたという噂を聞いた。 女は昔九条院に仕えていた常盤御前らしい・・・・。 しかし持ち物・衣類がそのままだったことから、盗賊ではなく、木曾の追っ手にやられたらしい・・・。とも聞こえてきたのである。

2008年 京都・時代祭りでの常盤御前

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遮那王が幼少期に過ごした鞍馬

2012年10月15日 | 平家物語

 義経が牛若丸時代に過ごした鞍馬山は、鑑真和上の高弟である鑑禎上人が770年にこの地に草庵を造り、毘沙門天を安置したのが鞍馬寺の創始であると伝えられている。その後、796年に造東寺長官の藤原伊勢人が貴布禰明神のお告げにより、王城鎮護の道場として伽藍を造営し、千手観世音を祀ったとされている。889~898年には峯延が入寺して真言宗の寺になったが、その後に天台座主忠尋が入寺して天台宗に復したといわれている。更に、1947年には鞍馬弘教が立教され、当寺が総本山となり現在に至る。「仁王門」は1182年に建立後、1911年に再建。「仁王門」に安置されている仁王像は湛慶の作で、一般的に「仁王門」は俗界から浄域への結界とされている。鞍馬寺、神社と寺院を混合したような「本殿金堂」に祀られる「本尊」は「尊天」といわれている。「尊天」は、月輪の精霊であり慈愛の象徴である「千手観世音菩薩」、太陽の精霊であり光の象徴である「毘沙門天王」、大地の霊王であり活力の象徴である「護法魔王尊」の三身を一体としたものである。尊天は森羅万象あらゆるものの根源、宇宙エネルギーであり、真理そのものであるという。私がここ鞍馬を訪れたのは7年前の12月で、すでに一面は雪に覆われておりました。

 

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