【ヤルタ会談】 1945年2月、ソ連クリミアのヤルタ・リヴァディア宮殿(ロマノフ王朝の離宮)で米・ルーズベルト、ソ・スターリン、英・チャーチルが集まって戦後処理会議を行った。まずはポーランド問題、ソ連にとってポーランドはソ連の要塞的立場である。
【ヤルタ会談の主題はポーランド分割】 1939年ソ連はポーランドに侵攻、1941年には独が独ソ不可侵条約を破ってポーランドからソ連に侵攻してポーランドの東半分を取得した。1943/4月ソ連領カチンの杜でポーランドの捕虜4000人の虐殺死体が発見され、ポーランドの英亡命政権とソ連は外交断絶。1944年再びソ連が独を破ってポーランドに侵攻してポーランドの英亡命政権に対抗すべく、1944/7 ルブリン政権を組織(ポーランド国民解放委員会、ソ連の傀儡)し、首都ワルシャワに迫った。かくしてワルシャワ市民が蜂起して独と戦うのであるが、ソ連は何故か戦闘停止、これにて独軍の報復爆撃が始まりワルシャワは壊滅し兵士、市民15万人が死亡した。この時にソ連はワルシャワに進軍して独軍を制圧、1945/1月ルブリン政権を伴ってワルシャワに入場してポーランドの支配権を得た。このポーランドの解体交渉はヤルタ会談で認められたものの、チャーチル主張の英亡命政権とスターリン主張のルブリン政権の選択は戦後、ポーランド市民に委ねられた。
【ソ連の裏切り】 しかし結果はソ連によるポーランドの完全共産化であった。そしてポーランドに帰ってきた英亡命政権は逮捕拘束された。直後の4月ルーズベルトが死去、5月独は降伏した。ルーズベルトに代わって大統領になったトルーマンは、ヤルタ会談での約束を破ったソ連の横暴を許せず米ソの関係は次第に悪化していくのである。この頃米では原爆完成が秒読み段階にはいっており、ソ連の侵攻が必ずしも必要という状況ではなくなっていた。かくしてWW"終結に向けてのポツダム(ベルリン近郊)会議は、ソ連を除いて英米で草案した資料を基に行われた。もはや米ソ関係は冷戦に突入していたのである。
【バルカン密約】 英ソが利権を争うバルカン半島に侵攻したソ連は、1944年ルーマニアに次いでブルガリアを占領した。英チャーチルはスターリンにルーマニア、ギリシャなどバルカン全域の統治権割合を提案、これにて英ソの勢力配分が決まった。そして英はインドへの地中海航路確保のためギリシャに於ける統治を強め、ギリシャの共産党系パルチザンを排除した。
【極東密約】 英を除いて米ソ会談が行われた。このとき硫黄島での日本軍の奮闘で米兵の死者は2万人、米ルーズベルトは米損害を少なくするために、ソ連に日本侵攻を持ち掛けたのである。この時日ソは不可侵条約を結んでおりソ連が日本の侵攻を行う理由をソ連国民に納得させるのは困難であった。スターリンは見返りにサハリン、千島列島の割譲、満州鉄道の権益を要求した(ポーレン覚書)。台湾の中国返還、朝鮮半島の米英統治、1945年2月11日にヤルタ会談は終了した。4月ルーズベルトが死去、5月独が降伏すると、ソ連は密約通り日本に侵攻した。ヤルタの密約通り米の原爆投下とともにソ連は日本に侵攻、日本兵約60万人がソ連に連行され、シベリア収容所などで強制労働させられて6万人が死亡したという。またアジア太平洋には600万人の兵士が取り残されて、中国残留孤児などの悲劇が起きた。そしてビキニ環礁に日本の艦隊70隻が集められて原爆実験も行われた。艦隊70隻は瞬時に破壊され、米はソ連に対して圧倒的優位な兵力を見せつけた。
【ソ連による鉄道・道路封鎖】 1945年、第二次世界大戦が終結直後、ほとんど戦争の影響を受けなかったアメリカは兵士の住宅、車、高速道路など繁栄に沸き立つが、戦火に見舞われて壊滅したヨーロッパ東側諸国ではソ連の支配下となって権力者が粛清され難民が溢れて居た。欧州移民のドイツ人1400万人が難民となってユトランド半島へ移動。途中迫害をうけたために200万人が死亡したという。こうした中でドイツ全土及び首都の西ベルリンも分割されたが、ソ連は西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した。西ベルリンはソ連の分割地内にあり、ソ連はドイツとの戦争で甚大な被害が出ていたため取れるものは全てとるという方針をとったことから、早期復興を目指す英、米、仏3か国と対立したのが理由である。チャーチルによるソ連を非難した鉄のカーテン演説はこのときのものである。
【東側の通貨改革失敗に伴う西ベルリン完全封鎖】 ソ連が東側共産主義領域においてドイツマルク発行を実施すると、すかさず西側も新通貨を発行すると公表した。この結果、マーシャルプラン(米による復興支援:マーシャル提唱)に保障される西側通貨が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗する。反発を強めたソ連側は、西ベルリンへの陸路の完全封鎖、4本の鉄道は閉鎖され、東ベルリンとの間を結んでいた地下鉄も運休し、運河を経由した船舶輸送も停止され、アウトバーンも閉鎖され、電力供給も停止となり物流を完全に停止させた。ソ連による恐ろしい行動である。これに立ち上がったのがチャーチルである。
【1948年、ベルリンへの空輸作戦】 かくして1948/6空輸による物資輸送が開始された。C46輸送機、民間航空機、B29による輸送量は4500トン/日。15ヶ月で183万トンにのぼる。この空輸作戦の成功により、さすがのソ連もベルリン封鎖の失敗を認めざるを得なくなり、1949年5月12日に封鎖は解除された。ドイツでは、この空輸作戦を称し「ベルリンへの空の架け橋」といい、空輸作戦の記念碑が建てられている。空輸作戦に要した費用は、当時の金額で約2億2400万ドルである。また、作戦期間中に17機のアメリカ軍機と8機のイギリス軍機が事故を起こしたことで、70名が殉職している。かくしてヒトラーのベルリン(アメリカが爆撃していた)が自由なベルリン(アメリカが物資を供給する)へと変貌したのである。
【1954年パリ協定】 西ドイツの主権は回復が決定、再軍備も始まってNATO(北大西洋条約機構)に加入する。西ドイツはドイツ連邦共和国(初代首相・アデナウアー)、東ドイツはドイツ民主共和国(形だけの民主であり実態は社会主義 首相・グローテウオール)。西側はどんどん経済発展するが社会主義的影響下にある東側の発展はないことから、市民は東から西へどんどん逃げる。これを防ぐために1961年に建設されたのがベルリンの壁である。やがてこの壁は1989年に崩壊する。東側は1955年にワルシャワ機構に加盟する。
現在:ドイツでのクーデター By反グローバリスト
・2022 石油、電気代高騰
・2022 移民による治安悪化
-12月 トルコ移民殺害
ドイツ連邦検察3000人が殺害犯を検挙
・殺害犯は極右によるクーデター計画
極右勢力はライヒスビュルガー運動を実施
→・中世連合国を取り戻す運動
・ビスマルク第二帝国が目標
・今の国家は認めない
・ディープステート(DS)は認めない
・会員は約2万人
・中心人物はロイス公爵ハインリッヒ13世
極右の計画
→・政治に入り込む
・ドイツ軍に入り込む:爆弾等々も調達済であった
・国会議事堂襲撃
・ショルツ首相1958-暗殺
・第二帝政復活宣言
・ロイス家から国王を立てる
・AFD(極右ポピュリスト政党 EU懐疑的 移民反対)前議員を法務大臣とする
・ロシアからの支援あり