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【アメリカ-2-2】 19世紀の産業革命による成長は約500倍

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【工業生産量の伸び率】       
  ・アメリカの経済・技術が大きく発展したのは19世紀である。   
  ・これを工業生産量で示すと約500倍になっているという。   
  ・1776年に独立宣言を行い、1783年の独立戦争終結後にパリ条約を結んで独立した。   
    それから僅かに100年も経たないうちに鉄道、蒸気船、製鉄、電話・通信、電灯、発電所、自動車・・・と発展した。   
    まさにイギリスの産業革命を凌ぐものである。ではアメリカの産業革命の勢いを調べてみると次の通り。

【蒸気船、鉄道革命】       
  ・1783年の独立戦争後、新政府は特許の考え方を移住したイギリス、フランスおよびオランダの人々から学んだ。   
  ・1780年代中頃、穀物揚重機が発明され、綿花の種を綿の繊維から取り除く機械を開発、必要な労力を50分の1に短縮。   
  ・1800年になると分業制を採用、   
  ・1798年にはフライス盤、   
  ・1819年には旋盤を開発、武器製造能力は飛躍的に向上した。   
     
  アメリカ合衆国の13州は広い地域(ニューハンプシャー州からジョージア州まで)を管理。   
  ・アメリカ合衆国の政界や実業界が道路と運河の建設を始めた。   
  ・1816年から1840年の間に総延長で5,322 kmの人工水路が出来上がった。   
  ・1820年までに、大西洋岸の航行可能な川やチェサピーク湾で蒸気船が運航された。   
  ・1817年の17隻から1855年には727隻まで増えた。これによって都市までの所要時間は週の単位で削減され、運搬費用も90%が削減された。   
  ・1820年から1830年にかけて、蒸気船の技術を陸上に適用しようとし始めた。   
  ・1840年から1860年にかけて、鉄道の総延長は5,320 kmから49,000 kmまで伸びた。   
  ・1869年、最初の大陸横断鉄道が全通し、1920年までに総延長406,000 kmの鉄道が標準軌となった。

【独立支援と輸出拡大】        
  これらの技術の積み重ねが、電信、発電、自動車産業へつながったことは間違いない。   
  かくしてGDPはグラフのように飛躍的な発展を遂げるが、それら産業革命で生み出されたけた外れの製品量は、やがて内需しきれなくなる。   
  つまり米国以外の国々へ輸出する必要がある。   
  ・1823年のモンロー宣言では中南米の国々の独立を支援した。   
  ・1804年ハイチ、   
  ・1818年チリ、   
  ・1821年メキシコ・ベネズエラ・ペルー、   
  ・1822年エクアドル・ブラジル、   
  ・1825年ボリビア、   
  ・1828年ウルグアイ、   
  ・1844年ドミニカ。   
  これによって綿花製品、工業製品は中南米の国々が需要国となってバランスすることとなる。   
  そしてハワイ、グアムを併合(1898年)へと繋がるのである。

【1890】 産業革命により帝国主義が発達:植民と支配

【1898】 メイン号事件(スペインVSアメリカ)   
       メイン号がハバナ湾で沈没:反スペインプロパガンダ   
       アメリカ艦隊がマニラ沖でスペインと戦い勝利    
        ⇒ アメリカはスペイン植民地だったフィリッピン、グアム、プエルトリコ獲得

【ローラ・インガルス・ワイルダー】    
  因みに西部開拓のアメリカ映画などでその年代がわかれば、時代背景をも考慮しながら見るのも面白い。   
  例えばアメリカ独立100年を祝う祭が出てきたら、それは1886年となる。   
  するとその頃は、   
    南北戦争が終わって20年   
    横断鉄道が開通して15年、   
    白熱灯が開発されて5年   
  西部劇の日常に電灯は無く、蠟燭の生活が普通であれば、それは独立してまだ100年は経っていない頃ということになる。   
     
  米の大ヒットTV番組「大草原の小さな家」の原作はローラ・インガルス・ワイルダー1867-1957である。   
  物語に登場するインガルス家の次女・ローラが10才くらいの頃に、米独立100年を祝う祭がシリーズの中で描かれている。   
  アメリカの歴史を学ぶなかで思い出したのは、45年ほど前にTVで観たことを思い出した。   
  インガルス家が過ごしたウオールナットグルーブという村での事件(宗教、教育、偏見)から   
   色々な事を学ぶ様子に見入ったことを思い出す。

【世界初の国立公園 イエローストーン】    北米ワイオミング州にあるイエローストーンが国立公園に指定されたのは1872年、ペンシルベニアに製鉄所ができたのと同じ年である。ここには60種類以上の野生動物がいるが、年の半分以上は冬。

南北戦争で工業地域の北部が勝利したことで産業革命が起こった

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【アメリカ-2-1】 18世紀 アメリカの海賊、保安官、マリファナ、ゴールドラッシュ

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

 開拓に大いに役立ったのはラクダ、1850年代アメリカ陸軍長官ジェファーソンデービスの働きかけで始まった。1865年に南北戦争が終わるとラクダは姿をけした。1869年の西部鉄道完成により益々運搬は加速されたからである。かくして19世紀末になるとアメリカはある程度安定し、第25代マッキンリー大統領1843-1901の時代には、フィリピン、ハワイ、グアムなどを植民地化する帝国主義へと移行する。ところでこのマッキンリー大統領は1901年銃撃に会い、その傷がもとで8日後に死亡した。このとき銃弾の状態を確認するために利用されかかったのが、トーマス・エジソンが発明したというX線透視装置である。しかし危険であるとして利用はされなかった。尚、エジソンの発明品のなかで最も利益につながったのは蓄電池。

ところでエジソンは大手の映画会社・エジソンスタジオを率いて産業を独占すべく、小さな映画会社を脅迫まがいなことをしていたという。そこで弱小映画会社が目指したのは未開の地・ハリウッド。20世紀初頭にN/Yから逃れてカリフォルニア州+ロサンゼルスに移った。当時脚光を浴びたのが西部劇。かくしてハリウッドは映画の聖地となったがこれはエジソンのおかげとも言える。

 アメリカの国旗が正式に制定されたのは世界で3番目に古い1774年6月14日。これはアメリカ陸軍誕生の日でもある。一番はデンマークで二番はオーストリア。

因みに日章旗
 ┣国の決まり事   :1859---事実上の国旗
 ┣陸軍制定     :1870---左右対称
 ┣法律で規定    :1999
 ┣旧幕府軍が掲げる :新政府軍が掲げたのが旭日旗---十六条旭日旗:皇室の菊花紋章
 ┣海軍軍艦旗    :1889---左右非対称
 ┣陸上自衛隊    :八条旭日旗
 ┣海上自衛隊    :十六条旭日旗---縁起良い:大漁旗、スポーツ

 

 1800年ごろ、アメリカテキサス・カリブ海でジャン・ラフィットという海賊がいた。米海軍よりも多くの船を持つ実業家で人身売買密輸業者であった。当時の海軍の艦隊6隻に対して彼は25隻以上の艦隊を所持。合法的にスペイン船を襲っては米政府に奴隷を引き渡して大金を得ていたのである。ヒューストンの南にあるギャルベストン島に王国を建設したいた。やがて1818年ごろにはスペインとアメリカとの関係は改善され、1823年にはラフィットの船は米海軍からの攻撃を受けて死んだという。

 この頃テキサス・レンジャーという法の執行人が生まれる。元々はテキサスに植民地を作ったスティーブ・オースティンの提案で、先住民から植民地をまもるのが目的であった。かくしてテキサスはメキシコから1835年に独立。テキサスと言えば巨大な角を持つロングホーン。この牛は元々はスペインからコロンブスとともにイスパニョーラ島にやってきた。コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年の翌年1493年である。1845年アメリカはテキサスを併合しようとした。当時の独立したテキサス共和国とイギリスは強い協力関係にあった。アメリカはイギリスからの干渉をさけ、テキサスの綿花貿易の利権を得ようとして、テキサスにとって有利な条件で併合を行った。

 ところで、マリファナ(大麻を乾燥させたもの)、、、米コロラド州とワシントン州以外は合法化されていないが、この頃1800年頃、アメリカでは大麻を禁止するどころか、栽培を推奨していたという。マリファナという名称の起源は不明であるが中国語で大麻のことを「マッファ」というらしいし、メキシコ教会では聖母マリア・ファナが語源だとか。 入植者は大麻の栽培を義務付けられていたし、拒否すれば罰金を科すという法律さえあった。初代大統領ワシントンもジェファーソンも大麻草を米繁栄の一助としていたことは確かである。実はこの大麻、アメリカの独立以前から大陸には存在していて、入植者にとっては直ぐに生活の一部となった。しかも奴隷にとっても稼ぎの糧となり、その金で奴隷から解放された者もいたという。1850年頃からは大麻は薬として、また富裕層の娯楽としても普及していったが、連邦麻薬局のハリー局長は1930年代に、メキシコ移民を締め出す目的で大麻を吸う事に罪悪感を植え付ける運動を起こした。そしてマリファナ所持に税を課す法案が1937年にできた。違反すると30gの所持で今の1700$の罰金だったというから凄い。こんなマリファナであるが、第二次世界大戦中は艦船の縄が必要だとして大麻栽培を推奨した。農場主には出兵の猶予を与えてまで大麻草の栽培を求めたのである。戦争が終わり、大麻が必要でなくなると禁止するようになり、戦争中に推奨した事実迄抹消しようとしたらしい。

1848/1 ジョーン・サッターの雇人・ジェームズ・マーシャルはカリフォルニアで金を発見。これが瞬く間に広がってカリフォルニア・ゴールドラッシュが始まった。第11代大統領ジェームズ・ポークはカリフォルニアから砂金を受け取ると1848年、その演説が新聞報道されたことからゴールドラッシュは生まれた。全国からあつまった開拓者は30万人。やがてサンフランシスコやサクラメントといった大都市が生まれた。ジョーン・サッターは1839年にカリフォルニアに来た開拓者で、11リーグ(18000万平米)という広大な土地を所有した。結局ここでは大した金脈もなくサッターは土地を手放すこととなる。それから10年後の1858年コロラドで金脈が発見された。かくして多くの人々が幌馬車を走らせて西部に移住しようと殺到した。ミシシッピ川より西側は道路状況が悪く、移動者の2%がコレラなどで亡くなったという。一方技術の発達にも少なからず貢献ががあった。より早くカリフォルニアに到着すれば一獲千金を狙えるということで、ルーファス・ポーターは蒸気機関で動く飛行船を考えた。1849年のお披露目の際に、観客が飛行船によじ登って破壊、1853年には断念した。他にはウイリアム・トーマスは30人運べる風力荷馬車(速度は40km)を発明、1853年に完成させて走らせるが転倒、そしてそれでおしまい。

カリフォルニアへ陸路だけではなく、サンフランシスコへの海路もあった。1859年には500隻以上の船がイヤバブエナの入り江に着いて人や物資を下すと、ほとんどは役目は終わり放置されたという。つまり現在でもサンフランシスコの地下にはこの船が朽ちて残っている。

ところで、ゴールドラッシュの時代に金で大金持ちになった人はほとんどいない。それよりも、食料、日用品、水を売っていた人の方が金持ちになれたという。西へ行くほど苦難が待ち受けているから、食料品なども高値でうれる。一番の高値は水4リットルが1ドル。今のお金で2500円くらい。ところで、この様に労力をかけてどれくらいの金が採掘されたのか。1848年からの5年間で370トン、次の時代1853年から半ばまでには水圧掘削法により340トン。一方、この水圧掘削法は環境を破壊することにつながるということで。1882年には環境保護法が制定されてこの掘削法は衰退する。

実はこの頃、アメリカはアラスカを手に入れている。それまではソ連の領土であったが、クリミア戦争1853-1856で財政難に陥ったソ連はアラスカを720万ドルで売却。交渉人は国務長官ウイリアム・スワード。何の価値もないと非難されたが、30年後に金鉱が発見されてゴールドラッシュに沸いた。ジュノーやフェアバンクスが発展したのはこの時である。鉄道も敷かれてアラスカは発展し1959年に49番目のアラスカ州となった。1968年には油田も見つかりソ連の売却失敗は大きかったのである。これは結果論であるが、政治戦略的な買収目的がある。1867年にカナダはイギリス領土で初めての自治領となり、1931年にはイギリス連邦のなかで実質的に独立。こういった状況の中でのソ連の領土アラスカを買収することの意味は金や石油よりも大きい。

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【アメリカ-1-2】 南北戦争(Civil War)後も黒人奴隷は苦しんだ

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【南北戦争以前のアメリカ】南北戦争というのは日本だけ

1584年 北米に英国の「バージニア植民地」By エリザベス女王

1783年 13-植民地 東側にアメリカ建国(西側は未開拓)

1803年 ルイジアナを仏(ナポレオン1世)から購入

1819年 フロリダなどをスペインから割譲

    南部の奴隷州:11 北部の自由州:11 でバランス

1820年 黒人奴隷が多かったミズーリ準州の州昇格は連邦議会  

    北緯36’30”をミズーリ協定線とした
       ┣メーン州は自由州(ホイッグ党)
       ┗ミズーリ準州は奴隷州(民主党)

1830年 第5代モンロー大統領---インディアン強制移住法

1829-1837 第7代ジャクソン大統領 : 民主党のリーダー 普通選挙 黒人奴隷主義

      ジャクソンの20$札は刷新

      ハミルトン(黒人奴隷主義)の10$札は刷新させない Byブロードウェイ

1845年 テキサス併合 Fromメキシコ

    オレゴン併合 Fromイギリス

1846年 アメリカ ◎ VS メキシコ戦争@ベラクルス上陸作戦:ペリー提督が指揮

    これを侵略戦争であり憲法違反と非難したのが若きリンカーン

1848年 ゴールドラッシュ@カリフォルニア

    カリフォルニア割譲 Fromメキシコ(戦利品 サンフランシスコ、サンタフェ、サンディエゴ)

    西海岸が領土になったことで東洋への航路が開けた(太平洋航路)

    カリフォルニアで金が発見 ゴールドラッシュ(1849-1855)

1853年 太平洋航路が開けたことでペリーが来日(アジア進出の足掛かり、1858年死亡)、開国交渉

    日本では有名なペリーだが、アメリカ本国では兄ペリーのほうが有名

    当時のアメリカは南北奴隷問題、大統領選挙が中心、日本など無知  

1854年 アンクルトムの小屋発表Byストゥ夫人 →黒人奴隷の非人道的実態を描く

    カンザス・ネブラスカ法を提案で奴隷制拡大 BY 民主党
       ┣
ミズーリ協定線を撤廃しようというもの:北部にも奴隷が必要な地域がある
       ┗
カンザスとネブラスカを州として奴隷州か自由州は自ら決めようというもの
         ┗
これに反発した北部は共和党(民主党の一部がホイッグ党に流入)を結成 →南部民主党との対立が始まる

1859年 ジョン・ブラウンの反乱(奴隷制度廃止を訴えた武装蜂起) ---民主党により処刑

1860年 北部のリンカーンが第16代大統領(北部--共和党)となる

    カンザス準州を中心に政治的衝突が発生(ブラッディー・カンザス)

    北部の活動家・ジョン・ブラウンが死亡

    北部--寒冷-工業--保護貿易(英製品に関税)奴隷✖ ホイッグ党→共和党

    南部--温暖-農業--自由貿易(綿花製品安価)奴隷〇 民主党

    共和党・リンカーンの政策に反発する南部州

1861年 アメリカが分裂→南北戦争勃発
       ┣北部--アメリカ合衆国
(共和党のリンカーン政策) --ゲティスバーグの戦で勝利@1863-7(ワシントン北側)  
       ┃    ┗リンカーンは中立の西部アメリカ人に支援を要求
       ┃       ┗
By ホームステッド法:5年後土地はあげる

       ┗南部--アメリカ連合国を結成             --初期は有利
            ┣
ロバート・E・リー将軍1807-1870
            ┗
英が武器支援 --リンカーンの奴隷解放宣言で英の武器支援が絶たれる

1863年 南北戦争終結(Civil War アメリカの人口の2%が死亡) 北部勝利 奴隷解放宣言Byリンカーン

1865年 奴隷制廃止 リンカーン暗殺@フォード劇場 

1868年 黒人の市民権付与

1870年 黒人の参政権付与 --- 白人による黒人への殺害多発

1876年 ジムクロウ法制定(黒人、インディアンなどの有色人種に対する差別的法律 :黒人保護的な法律)

1892年 黒人の虐殺By KKK

1955年 ローザ・パークス事件 アメリカ南部では白人と黒人を分離するジム・クロウ法があった。バスの後部黒人専用席に座っていた彼女は、バスの運転手から白人に席を譲るように言われたが従わずに逮捕されて、これをきっかけに公民権運動が巻き起こった。

1963年 20万人のワシントン大行進with ボブ・ディラン:ジョンソン大統領賛同

1964年 公民権法制定

1968年 キング牧師暗殺

1995年 法的に黒人差別禁止

【南北戦争は自由貿易をするかしないかで勃発した】    1861年4月、南北戦争が勃発した。原因は黒人奴隷解放でも何でもない。アメリカ北部の商工業地帯では、工業製品を正当な価格で売りたいためイギリスなどの産業革命国からの安い製品には関税をかけて諸外国との貿易価格調整(輸入制限 保護貿易)をしようとした。一方、アメリカ南部は、奴隷を使って広大な土地を利用した農業地帯である。生産物はヨーロッパ諸国が欲しがっており、自由貿易を望んでいる。北部の都合で関税をかけると、南部にとっては自由貿易が阻害されることとなる。こうした事が問題となって南北戦争1861/4-1865/5が始まったのである。

元々アメリカ南部は米、たばこの生産が主流であったが、イギリスの産業革命以降綿製品の生産の為に安い綿花が必要になった。かくしてアメリカ南部は綿花の生産中心となる(イギリスのバックアップ)。イギリスは奴隷反対(人道主義)をうたいながらアメリカの奴隷は容認する矛盾。

こうした状況の中、第16代リンカーン大統領1809-1865(暗殺)は1862年にホームステッド法を発布した。これは、公有地を自ら耕作するものには160エーカーの土地を無償で提供するというもので、西部農民の夢が叶うような政策であった。これによって北軍は、アメリカ西部を味方につけることに成功し勝利する。また同時に、西部開拓は進み人口は増加、農牧業は振興することでアメリカの工業生産にとっても市場の拡大を意味した。リンカーンの政策で奴隷解放もあったが、これは後々の生活を考慮しない無責任な解放政策であり、南部の奴隷は解放されたものの生活に困窮するものが多発した。この様子は色々な西部劇で描かれている。1962-1965年はアメリカにとってゴールドラッシュが終わり(1855年)、大陸横断鉄道が敷かれる(1869年)迄のアメリカ産業革命の真っただ中にあったと言える。

南北戦争の初期、1862/4にシャイローの戦いというテネシー州南西部で行われた大きな戦いがあった。ちなみにシャイローとは、ヘブライ語で「平和な土地」という意味でその命名理由が気になる。ジョンストン将軍とボーリガード将軍が指揮するミシシッピ南軍と、グラント少将の指揮するテネシー/オハイオ北軍との戦いである。近代的な兵器を使ったために、南北で死傷者は25000人に及ぶ大きな戦争になったが、以降3年の間に8回もの戦闘が行われ、場合によってはアメリカが南北に分裂する可能性もあった。というよりミシシッピなどを含む南部の11州はアメリカ合衆国を脱退してアメリカ連合国を作って戦ったから当時は既に分裂していたのである。そして北部が勝利したことで、アメリカ連合国は滅亡。アメリカ合衆国は領土を維持し、黒人奴隷を廃止し、アメリカのリコンストラクションが始まった。新しいアメリカ合衆国の再建である。諸州の合衆国への復帰や、アメリカ連合国側の指導者たちの地位の回復に取り組んだが、解放された奴隷の社会的なシステムでの平等実現には至らなかった。つまり、南部白人が結成したKKK(白人至上主義団体)が暗躍して、北部白人や黒人に対する暴力が絶えなかったという。

【風と共に去りぬ】    南北戦争の最中、アメリカ南部・アトランタを舞台に描かれたのがマーガレット・ミッチェル1900-1949の「風と共に去りぬ」南部の大富豪の我儘放題の娘スカーレット・オハラにヴィヴィアン・リー1913-1967、レット・バトラーにクラーク・ゲーブル1901-1960。マーガレットの義妹・メラニー・ハミルトンは映画では早くに死ぬが、演じたオリビア1916-2020は私生活では104歳迄生きた。

【若草物語:Little Women】    1868年出版 著者:ルイーザ・メイ・オルコット1832-1888  南北戦争の最中、アメリカ北部・マサチューセッツ州を舞台に描かれたマーチ家の四人姉妹と母親の物語。四姉妹の長女マーガレット(メグ)、次女ジョゼフィーン(ジョー:快活な少女で主人公の立ち位置、小説家志望)、三女エリザベス(ベス、黒髪に青い目の非常に内気で病弱)、四女エイミー(エリザベス・テイラー、金髪の巻き毛が自慢のおしゃまな12歳)が隣人との関係を繰り広げる。

【それでも夜は明ける】    2013年のイギリス・アメリカ合作映画で南北戦争以前には、市民権を持った黒人さえも奴隷として売買されていた実話をもとにした映画である。原作は1853年発表。1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷として売られた自由黒人ソロモン・ノーサップによる奴隷体験記 "Twelve Years a Slave"。ソロモンは自由黒人のヴァイオリニストだったが、ある日二人組の男たち金儲けの誘いを受ける。そして薬漬けにされて奴隷商に売られることとなった。大工のサミュエル(ブラッド・ピットが演じていた)と出会ったことから、知己に手紙を送るなどして遂に奴隷から解放されサラトガに帰郷する。黒人奴隷の過酷な状況をうまく描いた映画である。

【ハリエット】   ハリエット・タブマン1822-1913は、アメリカ合衆国の元黒人奴隷で奴隷解放運動家。黒人の逃亡奴隷をひそかに領外に逃がすための秘密結社「地下鉄道」の指導者のひとりとして知られる。2016年、20ドル札のデザインに初めてアフリカ系アメリカ人として初めて採用される。そのハリエットを主人公とした映画が「ハリエット」である。

南北の分布

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【アメリカ-1-1】19世紀 産業革命と帝国主義 と移民

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【アメリカへの移民の歴史】
     17世紀   大航海時代:移民とともにユダヤ人(大航海資金源:スファラディ)も移民@マンハッタン
           当時のアメリカは近代的建物が林立していた未来都市(入国審査はエリス島)

     19世紀   宗教、経済的要因で始まった移民(貧しい人々)は19世紀に加速する
          ・ナポレオン登場で西欧各地で戦争
            失脚するとウイーン会議@1815:西欧秩序回復
            バラバラのドイツ、イタリアが統一ナショナリズム運動
          ・ユダヤ人(アシュケナージ系:イデッシュ語400万人)がアメリカへ移動
          ・ゴールドラッシュ@1848-1-24金発見   
          ・アヘン戦争後の中国人   
            仲介業者マフィアが船賃を立て替えて後に稼ぎを没収----苦力(クーリー) 
     19世紀後半 ロシア系ユダヤ人迫害(ポグロム)でアメリカへ移動:アメリカユダヤ最下層   
     20世紀  ・キューバからフロリダへの移民  
     現在   ・中南米の貧困層がメキシコを経由して米へ移住 
      
     バイデン民主党が移民を歓迎する理由 : 選挙票につながるから 
     トランプ共和党が移民を拒否する理由 : 治安が乱れるから    
     
   【移民の人口比率】  
          
     
【移民成功例】  
  ・シンガポール移民は40%  
    高度技能者:企業に対して外国人雇用税 上限比率有 
    中級技能者 
    単純労働者:家政婦(妊娠したら国外追放)滞在期間絞る

【移民失敗例】  
  ・ドイツ :移民は人口の20%@2022 EUに流入した移民は700万人@2022 
    1960 トルコ人受入 :WW2後の復興で労働力不足を補う目的  
                1961二国間協定 
    2000 国籍法改正  :ドイツで生まれた移民の子供はドイツ国籍取得可  
                東ドイツでの移民排斥運動  
                2024 移民排斥を主張する党AfDが代党となる 
    2005 移民合法化  :ドイツ人化教育600時間  
    2015 シリア難民等 :トルコ→ギリシャ→ドイツ:110万人難民 
                移民を歓迎していたメルケル首相(在任2005-2021)も驚く 
     
    2016-1 ケルン集団暴行窃盗事件が500件:犯人は約1000人 
        不法移民を入れるなという運動発生 
        移民排斥を主張する党AfD が躍進する
        1位CDU 2位社民 3位AfD
        メルケルはEU各国に移民受け入れ及び費用負担を懇願
    2020 英はEU離脱
   
  ・フランス :流入した移民は730万人@2023---アルジェリア、モロッコ 
    1919 労働力不足
    1968 この頃から出生率低下、移民受入
    2021 700万人:35%はフランス国籍
          
           
【ドイツ系ユダヤ人の名前】:ドイツ諸国で改名を強制された
     ・~~マン   (人)ゴールドマン
     ・~~バーグ  (山)ザッカーバーグ、スピルバーグ 
     ・~~タール  (谷)ローゼンタール
     ・~~フィールド(野)
     ・~~シュタイン(石)アインシュタイン、バーンスタイン
     

1797年 2代ジョン・アダムズ1735-1826-7-4 マサチューセッツ州出身
     
ハーバード大学卒業 印紙法@1765 タウンゼント諸法@1765
     
ボストン虐殺事件@1770:英軍人散髪未払い?
     
アメリカ海軍創設@1796:フリーゲート艦
     
首都ワシントンDC@1800 

1800年 3代トマス・ジェファーソン1743-1826-7-4  :バージニア出身
     
独立宣言の草案者:黒人奴隷廃止を起草したが・・・反対にあって消す?
     
バージニア州知事@1779 フランス大使@1785 国務長官@1790
     
仏領ルイジアナ(ミシシッピ川西 現国土の23%)購入@1803 
     
 →ルイス・クラーク探検隊 インディアン強制移住政策(虐殺)
     
バージニア大学創設@1819

1809年 4代ジェームズ・マディソン1751-1836 :バージニア出身 大農園主 現プリンストン大学
     
米英戦争@1812 ワシントン焼き討ち@1814 元に戻すガン条約 → 不人気

1817年 5代ジェームズ・モンロー1758-1831-7-4:バージニア出身 農園主 ウイリアム&メアリー大学
     
スペイン領フロリダ購入@1819 
     
ミズーリ協定(奴隷州-自由州)@1820 インディアン政策(同化、虐殺)
     
モンロー主義@1823 : アメリカはヨーロッパに関与しない

1829 7代ジャクソン インディアン強制移住 

1845 11代ポーク 1845年 : テキサス、オレゴン併合
     
     1848年 : カリフォルニア獲得

1861 16代リンカーン  南北戦争

1865 17代ジョンソン  大陸横断鉄道

【世界の植民地政策】

16世紀 ポルトガル、スペイン
17世紀 オランダ
18世紀 イギリス--フランス:自由貿易
    ロシア
     ┗南下政策
    ドイツ :保護貿易
    日本
     ┗満州国
    アメリカ:保護貿易

1890 産業革命により帝国主義が発達:植民と支配

1897 25代マッキンリー 米西戦争 比、グアム、ハワイ獲得

1901 26代ローズベルト 棍棒外交 共和党(大企業の味方)→
             ┗革新党
              ┗ポーツマス条約@1906
               ┗モロッコ事件仲介@1906 
                ┗ノーベル平和賞@1906       

1909 27代タフト    ドル外交

1913 28代ウイルソン  宣教師外交 第一次世界大戦

1921 29代ハーディング 

1923 30代クーリッジ  永遠の繁栄

1929 31代フーバー   世界恐慌 

【ラテンアメリカの独立で市場確保】    
    
独立後のアメリカは、ヨーロッパ諸国の支配下にあったラテンアメリカの独立をアシストする。
    
広大なアメリカでの生産物を通じてラテンアメリカ諸国市場の確保が狙いである。
    
このようにしてスペインの支配下にあった多くの国々が独立した。ボリビアやチリも例外ではない。
    
ここでチリという国は南北に長い(南北4300km 東西平均170km)が最初は中央だけであった。
     
領土を拡張するにはアンデス山脈があるため北へ侵攻。
     
硝石確保のためボリビア、ペルーと戦った(太平洋戦争1879-1883)。
    
また南へはマゼラン海峡の獲得のため、先住民のマプチェ族を征圧:アラウカニア作戦1861-1883
    
(インカ帝国やスペインにも300年間屈しなかった)

【モンロー宣言によりヨーロッパの干渉を回避】    
    
当然ヨーロッパ諸国から反発があるが、第5代モンロー大統領1758-1831は、モンロー宣言を1823年に発布
      
ヨーロッパからの口出しを阻止しようとした。
    
やがて1861年には南北戦争が勃発、原因は奴隷解放でも何でもない。
      
北部の商工業地帯では工業製品を正当な価格で売りたいため
      
イギリスなどの産業革命国からの安い製品には関税をかけて諸外国との貿易価格調整をしようとする。
    
一方南部は奴隷を使って広大な土地を利用した農業地帯である。
      
生産物はヨーロッパ諸国が欲しがっており、自由貿易を望んでいる。
      
北部の都合で関税をかけると、南部にとっては自由貿易が阻害されることとなる。
    
こうした事が問題となって南北戦争1861-1865が始まったのである。

【南北戦争は自由貿易の末勃発】    
    
第16代リンカーン大統領1809-1865(暗殺)は1862年にホームステッド法を発布
     
(公有地を自ら耕作するものには160エーカーの土地を無償で提供するというもので、西部農民の夢が叶うような政策である)。
    
これでアメリカ西部を味方につけることに成功し、北部は勝利する。
    
これにより西部開拓は進み、人口は増加、農牧業は振興することでアメリカの工業生産にとっても市場の拡大を意味した。
    
リンカーンの政策で奴隷解放もあったが、これは後々の生活を考慮しない無責任な解放政策であり、
      
南部の奴隷は解放されたものの生活に困窮するものが多発した。とにかく西部開拓が加速された。 

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【アメリカ-0-5】17~20世紀 ユダヤ人の移民@アメリカ 

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【金融界のユダヤ人】

 17世紀 大航海時代:移民とともにユダヤ人(大航海資金源:スファラディ)も移民@マンハッタン
           
当時のアメリカは近代的建物が林立していた未来都市(入国審査はエリス島)
 18世紀 ソロモン家:スペイン系 スファルディ
          ハイム・ソロモン1740-1785
            ポーランド出身:ポーランド移民受入政策、ユダヤ人歓迎
            ポーランド分割@1772(ロシアに併合されたのがウクライナとベラルーシ)でNYへ移動、金融業
            米独立戦争で資金提供(アメリカ側は同胞!)
            子孫の3兄弟がソロモン・ブラザーズ@1910
                   →日本のアジア証券
     クーン・ローブ商会
          ソロモン・ローブ1828-1903
            ドイツ出身:アシュケナージ
            ドイツ革命で渡米@1848
              ドイツが統一されて居場所がなくなった
            NYのアブラハム・クーン1819-1892とクーン・ローブ商会設立@1865
            ロスチャイルド家@フランクフルトのジェイコブ・シフ1847-1920が渡米入社+社長の娘婿@1885 
              ジェイコブ・シフ:ロシアで迫害されたユダヤ人を支援
              ロシア打倒の為に 日本支援 @日露戦争(高橋是清の日本国債購入)
              ロスチャイルド家はロシア支援@日露戦争(ロシア・バクー油田に投資中)
     リーマン・ブラザーズ 
          ヘンリー・リーマン1822-1855
            ドイツ出身@バイエルン:アシュケナージ
            ドイツ革命で渡米@1848
            リーマン商会:日用品@アラバマ
              綿花取引:代金の代わりに綿花
              南北戦争で南部敗退→北部NYへ移住
            クーン・ローブ商会を買収統合
            住宅バブルで経営拡大@2000年代@ブッシュ息子
              サブプライムローン:貧困層(一般銀行は貸さない)向けに低金利のローン設置
              バブル崩壊で破産 :多くがローン払えず貧民層は自己破産
              リーマン商会は64兆円の負債で破綻(リーマンショック)
              サブプライムローン実施の他の銀行も株価暴落----世界金融危機 
     ゴールドマン・サックス 
          マーカス・ゴールドマン1821-1907
            ドイツ出身@バイエルン:アシュケナージ
            ドイツ革命で渡米@1848
            行商人からNYの投資家へ
            娘婿のサミュエル・サックスと共同経営 
            ロバート・ルービン1938-入社@1960代 
              →共同代表@1990
              →財務長官@1995クリントン民主党政権:選挙で資金提供
              →以降の財務長官は全てゴールドマン・サックス 
          中国への投資拡大@トランプ政権以前 
          中国への投資縮小@トランプ政権以降 
            ゴールドマンサックス不在@バイデン政権:代わりにブラックロック
     ブラックロック 
          ラリー・フランク創業@1988
            米系ユダヤ人
            公的年金運用   
            郵貯・かんぽ投資顧問会社勤務
            ブライアン・ディーズ:国家経済会議委員長@バイデン政権
            アデワレ・アデエモ :財務副長官@バイデン政権 
           
 19世紀 ナポレオン登場で西欧各地で戦争
           失脚するとウイーン会議@1815:西欧秩序回復
           バラバラのドイツ、イタリアが統一ナショナリズム運動
           ユダヤ人(アシュケナージ系:イデッシュ語400万人)がアメリカへ移動
 19世紀後半 ロシア系ユダヤ人迫害(ポグロム)でアメリカへ移動:アメリカユダヤ最下層
     

ユダヤ系企業

  1. Facebook
  2. Google
  3. WhatsApp
  4. Oracle(オラクル)
  5. Dell(デル)
  6. SEGA(セガ)
  7. TAITO(タイトー):インベーダーゲーム ミハイル・コーガン1920-1984ウクライナ→満州→日本受入後頓挫
  8. インテル(半導体を作ってる方のです)
  9. IBM
  1. ハーゲンダッツ
  2. スターバックス
  3. テスコ
  4. マクドナルド :レイ・クロック1902-1984 フランチャイズ権@1940経営権@1961
  5. バーガーキング
  6. コカ・コーラ
  7. ネスカフェ
  8. ダンキンドーナツ
  1. Hugo Boss(ヒューゴ・ボス)
  2. カルバンクライン
  3. ロレアル
  4. マックスファクター
  5. ジョンソン&ジョンソン
  6. プロアクティブ
  7. サングラスハット(Sunglass Hut)
  8. ギャップ(GAP)
  9. ジョルジオアルマーニ
  10. ラルフローレン
  11. ティンバーランド
  12. リーバイス
  13. ダナキャラン・ニューヨーク(DKNY)
  14. ゲス(GUESS)
  15. リーバイス : リーバイ・ストラウス1829-9002 ドイツバイエルンから渡米 衣類Forゴールドラッシュ
  16. NYタイムズ:アーサー・ザルツバーガー1891-1968 移民歓迎の民主党支持

               
【ドイツ系ユダヤ人の名前】:ドイツ諸国で改名を強制された
  ・~~マン   (人)ゴールドマン
  ・~~バーグ  (山)ザッカーバーグ、スピルバーグ 
  ・~~タール  (谷)ローゼンタール
  ・~~フィールド(野)
  ・~~シュタイン(石)アインシュタイン、バーンスタイン

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【アメリカ-0-4】18世紀 アメリカ独立戦争の契機はボストン茶会 

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【英本国から植民地への重税:英仏戦争で財政悪化】
1764  砂糖法(英または英植民地から砂糖買うなら重税 商業規制)
1765  印紙法(何かの活動するには印紙要:重税)
1767  タウンゼント法(ペンキ、紙、ガラス、茶の輸入に増税)→本国からも重税過ぎるとしてペンキ、紙、ガラス課税は無し 
1773  茶法(東インド会社からの購入制限
        ┗東インド会社の船荷・茶樽をボストン湾に廃棄 :ボストン茶会事件

【ボストン茶会事件@1773】    
     英仏戦争によりイギリスは大きく戦費を消費し、イギリス国教会は植民地に重税を課してきた。
     かくして発生したのが1773年のボストン茶会事件である。
       これは植民地のボストンに於いて植民地人の急進派(ジョン・アダムス派の自由の息子たち)
       港湾に停泊中の貨物船に侵入してイギリス東インド会社の船荷・茶箱340箱を海に投機した事件。
     これがアメリカ独立革命の引き金となったのであるが、実はアメリカ国民からは支持されなかったという。
     というのも当時のアメリカ国民はイギリス人、母国イギリスへの反逆行為である事件は死刑の対象にもある。
     ワシントンやジェファーソンでさえ賛成はしなかった。
     かくして1774年、イギリスは法を盾にボストンを圧迫してきたのである。

【独立革命のときに世界で初めて潜水艦が使用】
     コネチカット州の発明家デーヴィッド・ブッシュネル1740-1824は、
     ワシントンと交渉して革命戦争に利用する承諾を得て、
     エズラリーという大陸軍人が潜水艦・タートル号を操縦したという。
     1776年イギリス艦船イーグルを攻撃する予定だったが、その攻撃方法は特攻・自爆である。結局作戦は失敗した。

【ベンジャミン・フランクリン1706-1790による電気の存在を証明する実験】
     雷の伴う嵐の中で凧をあげて、ワイヤーで接続したライデン瓶を用いた。
     ただこの実験で多くの死者がでたらしく、極めて危険である。

     ベンジャミン・フランクリン
      貧しい家庭に生まれ12歳で印刷屋で働きプロテスタントの気持ちをくすぐるような名言入りのカレンダーを発売、
      これが当たって金持ちになり研究に没頭する。

     ところで、アメリカ西部開拓時代1875年頃のドラマ「大草原の小さな家」で
     同じような実験を行う科学少年が登場している(シーズン2)。
     インガルス家のローラが彼を好きになるという・・・物語。
     この中で蓄音機がTalking Machineとして登場。
     蓄音機のセールスマンがやっとこさっとこで1台売ったが・・・。

【アメリカ独立戦争は母国からの重圧から発生】   

1774  13の植民地はイギリスからの独立のために、植民地人の団結は深まり独立戦争(1775-1783)を決意して始まった。
     大陸軍の総司令官はワシントン1732-1799。

     入植者軍:250万人
            ┣愛国派パトリオット1/3 + 仏、西、蘭の支援 + 中立派の義勇兵
            ┃  仏からの支援(英仏戦争の恨みを晴らすByルイ16世)
            ┃   :仏貴族軍人(義勇軍)ラファイエット1757-1834----フランス革命に影響
            ┃

            ┣忠誠派ロイヤリティ1/3
            ┗中立派1/3

     英本国軍:ヨーロッパ最強であったが負ける

1775:レキシントン・コンコードの戦い  :独立戦争の始まり
1776:7月6日:独立宣言を行った → 中立派をその気にさせた
    
 トマス・ジェファーソン1743-1826、後の第3代大統領である。
    そして独立宣言を行った場所はNYの南のフィラデルフィアである。
    アメリカ工業の中心であり19世紀末に最盛期を迎えた。
    当時ここの造船所で働き、アメリカの神髄を実感した日本人が造船技師・桝本卯平1873-1931である。
    設計室の技師のほとんどがヨーロッパ先進国からの新移民であったという。
    桝本の給料は週に5ドル(1899年/明治32年)
    食事は良くてケーキパーティーが楽しかったと回想録にあり、当時の日本では考えられまいことであったらしい。
    アメリカに憧れてやってくるのも当然である。

1777:サラトガの戦い:仏(ルイ16世 ラファイエット)の支援
    
植民地軍が優勢
1778:英クック船長がハワイにインフルエンザを持ち込み、ハワイの人口が50万人から7万人に減る
1780:武装中立同盟 :ロシア・エカチェリーナ2世(英露同盟あったが支援せず)
1781:ヨークタウンの戦いで勝利 アメリカ合衆国成立@フィラデルフィア
1783:パリ条約でイギリスが承認 ワシントン司令官辞任
    
植民地争奪戦が繰り広げられ1783年パリ条約でイギリスが獲得したのは、ルイジアナ、フロリダ、カナダである。
    この頃インド周辺でも英仏戦争(カーナティック戦、プラッシー戦)が起こり、英が勝利している。
1783:13州+ルイジアナ@パリ条約
1789:フランス財政難で重税が原因でフランス革命

1787年:合衆国憲法制定

1789年:大統領にジョージ・ワシントン1732-1799 副大統領:ジョン・アダムス 国務長官:トマス・ジェファーソン
    
                           第二代大統領        第三代大統領:共和派
    
 ヴァージニア州出身
    
 マウント・バーレン農場主
    
 フレンチ・インディアン戦争1754-1763/パリ条約 EROでは7年戦争 :司令官
    

     
イギリス軍は植民地ニューイングランドを孤立化させようと進軍していた。
     
この時16歳の少女シビル・ラディングトンは400人の市民軍に危険を知らせるために、馬で60kmの道のりを走らせた。
     
1777/4/26の事である。かくしてヨークタウンの戦いなどを経て1781/10/19イギリス軍は降伏し、
     
1783/10にパリ条約を締結、アメリカは独立した。
     
独立に際してフランス国王ルイ16世は応援をしているが、フランスは先のフレンチインディアン戦争で、
     
益々弱体化してフランス国民から反感をかってフランス革命へとつながるのである。

茶会事件、砂糖法----アメリカ人はブラックコーヒー党

 

【アメリカ合衆国の領土】

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【アメリカ-0-3】18世紀 英仏植民地戦争で英勝利

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

 【北アメリカの植民地争奪戦・7年戦争】  

 【フランスによる入植:ルイ14世】     
1664    
ルイ14世の治世から行われてきた重商政策(東インド会社を1664年に再建)に基づいて
       フランスもインド、北アメリカへ進出していた。
現在のカナダにケベック(ヌーベルフランス:1712年に頂点)
1688    また、ミシシッピ川流域にルイジアナ(1682年頃発見、命名)
       実はアメリカ独立戦争の前に起こった7年戦争よりもずっと以前から、英仏間では植民地の奪い合いが続いており、
       これを第2次英仏100年戦争1688-1815という。
1702    ~1713年、アン女王(1665-1714)の時代に起きた戦争をアン女王戦争
       
これはスペイン継承戦争と時期は一致
       フランス・ルイ14世が孫をスペインの王位に就けようとしたことで始まった戦争に相乗りして、
       北米でもイギリスが持ち掛け、イギリスはカナダ東部、ジブラルタル海峡など多くの領土を獲得している
       (ユトレヒト条約@1713)。
1732    ジョージア植民地ができて13植民地が成立する。 

1755    ルイ15世の治世時フレンチ・インディアン戦争は1755-1763に発生
       (7年戦争1754-1763の一部
、北アメリカを舞台に繰り広げられた戦争)
       イギリス、フランス共に重商主義に基づき北アメリカの植民地の奪い合いを行ったものである。
       
戦場は北アメリカの英植民地(ニューイングランド)と仏植民地(ヌーベルフランス)周辺
       
いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われたが、1756年には北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。

 【英仏植民地戦争】   
1747   カーナティック戦争@インド
1757     プラッシーの戦い   @インド
1763     フレンチ・インディアン戦争終結 英仏背景 以下であり戦争は仏が有利だったが・・英の勝利@1763(パリ条約)
        ・英入植者 : 自主独立--アメリカ永住 ⇔ インディオ               ┗本国支援不要

           ┗本国からの徴税に対して妥協--本国からの支援が必要だから              ┗納税拒否
        ・仏入植者 : 商売目的 & 布教--インディオとは和平
           ┗本国からの支援あり

  仏入植者目的:商売・布教---現地インディオと交流+本国支援大
  
英入植者目的:永住   ---現地インディオと敵対+本国支援小(本国の重税に妥協)

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【アメリカ-0-2】17世紀 英仏の入植@アメリカ大陸 

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【英最初の入植はジェームズタウン@1607】    

1607   Jamestown(ニューヨークの南)は、英が最初に北アメリカに建設した植民地都市  
       
ロンドン・ヴァージニア会社によって105名の植民団が北米植民地開拓に送り込まれ、  
       ジェームズ川の島内に入植地を建設。  
       イングランド王ジェームズ1世1566-1625(1603年-エリザベス1世死去の直後に即位)に因んで名付けられた。  
       インディアンの支援を受けるも食糧は底を尽き、病気が蔓延したことで1年後には2/3が死亡。  
       新たな入植者が英国から送りこまれたが、それも半数以上が死亡したという。  
       やがて、英国人以外のドイツ、ポーランド、スロバキア人の職人たちも送りこまれて  
       彼らによるガラス製品はジェームズタウンの最初の輸出品となった。  
       それ以降も人は次々と送り込まれて生活状況は改善されたのは最初の入植から15年後だという。

【1620年メイフラワー号で入植】   

1620    1620/9/16にメイフラワー号(180トン、30m程度)でイギリス・プリマスを離れて、  
       66日後にはマサチューセッツ州プリマス植民地に渡ったピルグリム・ファーザーズ102人  
       (英で迫害を受けたピューリタンは1/3 神の前の孤独:ニューイングランドでの基本的精神構造)
       彼らは上陸に先立ち船上でメイフラワー誓約書を交わす  
       (植民地での自治ルール、政治組織、憲法制定、公職設置などの共和制体)  
       つまり全員がサインするという重要な行事を行った。

1620年の冬 近隣のインディアン・ワンパノアグ族からの穀物で生き延びられたという。  
       但し当時の現地インディアンは、1492年のコロンブスによる大航海によってもたらされた  
       ヨーロッパのインフルエンザ、コレラ菌などで、多くが死亡していたという説もある。  
       そして翌年は豊作だったため、ワンパノアグ族を招いて収穫に感謝し共に過ごしたという。  
       これがきっかけで感謝祭(サンクスギビング、11月の第4木曜日で、その翌日はブラックフライデー)が定着していった。

1621    オランダ(1621年に西インド会社設立)はニューアムステルダムを建設を許可し、建設@1625 

1629    以降1629年から1630年にかけて約2万人もの清教徒が移住し、  
       マサチューセッツ湾植民地を建設し、  
       ボストンなどの町を建設した。  
       ボストンはWASP本拠地の町(W:白人 AS:アングロサクソン P:プロテスタント)、  
       1629年英のマサチューセッツ湾植民地以来の伝統を守る街でもある。  
       この時期の移民はうらぶれた者ではなく、入植6年後にはハーバード大学をつくった。  
       16世紀にヨーロッパで宗教改革が起こると、イギリスも影響を受けてカトリックからプロテスタントの国になるが、  
       徹底はされなかった。これに不満を持ち純粋なプロテスタントを目指したのが清教徒である。  
       彼らは教会を重要視するのではなく神と個人の尊厳を重要視した。

1634    アン・ハッチンソン1591-1643は聖職者、先駆的開拓者。  
       1634年にマサチューセッツ州プリマス(ボストンの南)に上陸する。  
       牧師コットンと出会い働く。  
       やがて人気がでてくると・・・・そして追放処分、ロードアイランド州(最も小さい州)に移住@1638  
       ニューアムステルダム移住@1642するとインディアンに襲撃されて1643年に死亡。

1664    フランス(1664年に西インド会社設立)はルイジアナを入手  
1686    イギリスはバージニアやニューイングランド(ニューアムステルダムを奪って改名)を植民地化した。  
     【
ジョン・スミス1580-1631(英軍人 植民地請負人)】 
       ジョン・ロルフ1585-1622とともに入植し       
       ポカホンタス1595-1617と結婚@1614  
        (ジョンを救った現地の女性 英国に渡ってアン王妃と謁見@1616 ポーハタンは父親)  
       たばこ栽培(茶色の黄金)を開始で経営安定(黒人奴隷の原点)

1692    セイラム村での魔女狩り@1692:少女の発言で19名が処刑された事件

1620年にメイフラワー号でイギリスを離れてマサチューセッツ州プリマス植民地に渡ったピルグリム・ファーザーズ

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【アメリカ-0-1】 15世紀 アメリカ大陸発見はユダヤ大富豪の資金による

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【16世紀 アステカ王国が滅亡】       
      ・北アメリカのメキシコ高原に於いてはBC2世紀から6世紀にオルメカ文明やテオティクカン文明が発達し、    
      ・14世紀から16世紀にはアステカ王国が栄えていた。    
          
   
1520 ・天然痘でメキシコセンポアラン全滅:スペイン船がアフリカから持ち込む    
      ・
→ 天然痘蔓延    
      ・
→ アステカ王国に上陸し人口の1/3が死亡(2100万人が1400万人)    
      ・
→ 50年後には人口200万人以下

   1525 ・スペイン人コルテス1485-1547は、1525年ごろにカルロス1世(カール5世)の指令でアステカ王国を滅亡させ、    
      ・メキシコはスペインに併合された。    
      ・このようにして原住民はスペイン、ポルトガルに支配される。

【15世紀 アメリカ大陸発見】    

アメリカ大陸の先住民はモンゴロイド系、コーカソイド系。最初にアメリカ大陸に移住したのはノルマン人の10世紀から11世紀頃。中世の大航海時代にアメリカ大陸は発見された。

1492   コロンブス1451-1506は    
      ・西インド航路を辿って1492年に漂着したのは西インド諸島のサンサルバドル島10-12。    
      ・現地の金品財宝略奪、2回目は兵器持ち込んで、より酷い略奪、虐殺。    
      ・10%は自分の物、90%はスペイン王に献上。現在では各地の像の破壊運動が勃発。    
      ・当時はインドに漂着したものと思い込み、この航路を西インド航路、諸島を西インド諸島と言った。    
      ・この時天然痘を持ち込んだために免疫を持たない先住民の多くが死亡する。

1503   その後イタリア・フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチ    
      ・
4度にわたってアメリカ大陸の探検を行い、1503年に「新世界」を発表した。    
      ・これがきっかけでアメリカ大陸のことを彼の名前をとって「アメリカ」と呼んだ(コロンビア大陸と言われたこともある)。    
      ・アメリカ大陸の先住民はモンゴロイド系民族で、鉄、車、馬車などは使用していなかったために簡単に征服されることとなる。

1494/4 【スペインとオランダ】    
      ・西インド航路(マゼラン海峡の西)はスペインが、    
      ・東インド航路(マゼラン海峡の東)はポルトガルが占領する :トルネシア条約   
      ・当時のスペイン国王はフェリベ2世、    
        ・マゼラン(セブ島で死亡して部下が世界一周を達成)が発見したフィリッピンは国王の名にちなんでつけられた。    
        ・一方でラス・カサス1484-1566(スペイン人の司教)のように植民・征服事業にたいする残虐行為を告発し、    
        ・スペインの支配の不当性を訴え続けた人もいた。    
          
    【スペインによる大航海はユダヤ人大富豪が出資】    
      ・当初イザベルはコロンブス(東洋に黄金、シルク、胡椒)の話を信用せず     
      ・レコンキスタで金ないし・・・    
      ・ユダヤ人大富豪サンタンヘル1448-1498(アラゴンの財務大臣でコンベルソ)が援助    
        【援助の目的のひとつ】    
          ・イベリア半島に取り残されたユダヤ人たちの新天地探し  
      ・出航2週間後に新大陸到達    
          
    【ユダヤ人の50%がニューヨークに住む理由】    
      ・ユダヤ人は金融、情報、メディアを仕切っている    
      ・そんなユダヤ人は元々NYにいなかった    
      ・日本の鎖国時代末期に唯一貿易をしていたのはオランダ    
        ・1600-4-19オランダ・リーフデ号が大分に漂着   
        ・餓死寸前の乗組員を助けたのが徳川家康   
        ・その中にヤン・ヨーステン1556-1623、ウイリアム・アダムス1564-1620がいた   
        ・ヤン・ヨーステン  :侍名・八重洲   八重洲口はヨーステンの屋敷跡       
        ・ウイリアム・アダムス:侍名・   
      ・1604オランダはアムステルダムに東インド会社設立:初の株式会社   
        ・株式会社:多くでで航海のリスクを負う仕組み(預かり証発行)   
              財宝発見したら利益を配当金として分配        
              この仕組みを作ったのはカルヴァン派の商工業者+スペインから追われたユダヤ人   
      ・日本航路は遠いBy英ヘンリー・ハドソン1565-1611   
        ・1608モスクワ経由:北極海は凍っていたので無理だった     
        ・アイスランド経由:セントローレンス川は行き止まり   
                 :1609ハドソン川(ヘンリー・ハドソンが由来)は行き止まり    
                  アメリカ先住民と交易:カワウソ毛皮  
                 :1610ハドソン湾行き止まり   
                  1611乗組員反乱--ハドソン置き去り、行方不明   
        ・反乱者は英に帰国--逮捕--放免--情報周知      
      ・1625ハドソン川河口のマンハッタン島にニューアムステルダム建設(オランダ植民地)   
        ・マンハッタン先住民はマナハッタ族    
        ・マナハッタ族と戦争、領土拡大   
        ・最初の境界---今はウオールストリート(ちなみに南北の道はアヴェニュー)   
        ・材木の取引所が今の株式市場   
      ・スペイン弱体で英蘭東インド会社が競合   
        ・1607英はバージニアを植民地(エリザベス1世1533-1603から命名)  
        ・1620英はボストンを植民地      
        ・1623アンボイナ事件(蘭勝利:東南アジアでは蘭が生き残る)  
        ・1652英蘭戦争   (英軍がニューアムステルダムを占領)  
          ・英軍ヨーク公ジェームズ1633-1701の名をとってニューヨークに変名(チャールズ2世1630-1685治世)  
          ・元々の大商人、ユダヤ人は残す  
          ・金融商業の中心地として変わらない 

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【スペイン-3】 18世紀 ブルボン朝スペイン王(フェリペ5世)とハプスブルグ家の衰退

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【カルロス2世の治世】   16世紀以降17世紀にかけて、スペイン国王は、フェリペ3世1578-1621、フェリペ4世1605-1665、カルロス2世1661-1700と続くがカルロス2世の代でスペインハプスブルグ家は途絶える。ハプスブルグ家の青い血と呼ばれ、近親相姦を繰り返すことで発生する遺伝子異常が原因でカルロス2世はスペイン、ナポリ、シチリアの王でありながら政務をこなすことはできなかった。オルレアン公フィリップ1世(ルイ14世の弟)1640-1701と英王女ヘンリエッタ1644-1670の子・マリア・ルイザ1662-1689は、カルロス2世の王妃となった。勿論政略結婚、マリア・ルイザはカルロス2世の病状を聞き及んでいたので結婚はしたくなかった。そこでルイ14世に断りを入れたが拒否。無理やりの結婚である。ところが徐々にカルロス2世の良いところをみつけるようになる。しかし、子もなく愛の無い生活に疲れ26歳で急死した。二番目の王妃はマリア・アンナ1667-1740で、極めてしたたかな女性であったという。フィリップ・ヴィルヘルム1615-1690とエリザベート・アマーリア1635-1709という独貴族の娘である。多産系を見込まれての政略結婚である。二番目の王妃はマリア・アンナは王にまったく興味はなく、財産だけがすべてであったから、その生活ぶりは贅沢三昧。スペインの王室の財宝を実家に送るなど、盗みまがいなことも行っていたという。したがってスペイン王室の評判は極めて悪かっただけに、架空の妊娠中絶を繰り返すことでその地位の確保を維持していたという。カルロス2世がなくなると、甥のカール6世を次期王に推薦するが、次に王位に就いたのはフェリペ5世。そして王から国外退去するように命じられた。スペインからも追放されてフランスに住んだが死の直前に何故かスペインに戻り死亡する。

【マルガリータ・テレサ】   カルロス2世の姉・マルガリータは近親婚の影響はあまり受けなかったと言われる。父フェリペ4世はマルガリータを可愛がり、宮廷画家ベラスケスに数多くの肖像画を描かせている。その目的は対外的に王妃としての宣伝もあった。それらの肖像画は現在ウイーン美術館に所蔵されている。やがて15歳の時にレオポルト1世(マルガリータの母・マリアナの弟)と結婚し、6人の子をもうけるがいずれも早世し、残ったヨーゼフ・フェルディナントがスペイン王位継承権を得るが6歳で死亡した。

「怖い絵」で一世を風靡した中野京子氏がイノケンティウス枢機卿の肖像画を怖い絵と評価している。さらに英画家フランシス・ベーコン1909-1992はイノケンティウスの怖さを表現した絵を描いている。

 

1700 カルロス2世死亡1661-1700 : スペインハプスブルク家断絶

                  ルイ14世1638-1715 VS レオポルド1世1640-1705(スペイン継承戦争)

   フェリペ5世1683-1746(ルイ14世の孫)即位:スペインブルボン朝 異国の宮廷で変調

1724 フェリペ5世退位 新王急死 フェリペ5世復位

1746 フェリペ5世死去  フェルナンド6世1713-1759即位

1759 カルロス3世即位 妻:マリア・アマリア・フォン・ザクセン

   マドリード都市整備 プラド美術館建設 ゴヤ宮廷画家 ポンペイ遺跡発掘

1788 カルロス4世即位 政治に関心なし 政務はゴドイ:王妃の寵愛

   妻:マリア・ルイーザ(父カルロス3世弟 母ルイ15世娘 祖父フェリペ5世) スペイン史上最悪の王妃 

   フェルナンド王太子はナポレオンを引き入れる

1808 カルロス4世退位 

   フェルナンド7世50日天下 

   ジョセフ・ボナパルトがホセ1世として即位

   民衆の反フランス運動

1813 フェルナンド7世復位 裏切り者は火あぶり

1819 マリア・ルイーザ病死 カルロス4世死去

 

 

【スペイン継承戦争】   王位に就いたフェリペ5世1683-1746の父はルイ14世/マリーテレーズの子・ルイ1661-1711、母はマリーアンヌ1660-1690。つまりスペイン・ブルボン朝の初代である。実はこのボルボん朝、現在のフェリペ6世2014- まで続いている。子の無いカルロス2世が死ぬと、これを好機を見たルイ14世はアンジュー家フィリップ(スペイン王家の血も濃い)を推した。次期王位継承権を持っていたのはカルロス2世の姉・マルガリータ・テレサ1651-1673の孫・ヨーゼフ・フェルディナント1692-1699であったが6歳で早世したためルイ14世が乗り出してきた。しかしフランス勢力の拡大を快く思っていない各国(特にオランダ、イギリス)は異議を唱え、かくしてオーストリアハプスブルグ家は戦争を仕掛け、これがスペイン継承戦争となる。この戦争はフランスが敗北したが、神聖ローマ帝国をカール6世が継承したことで、ハプスブルグ家の権力拡大を恐れた各国は、スペイン国王継承にはフィリップが適任とし、フィリップはフェリペ5世と名乗って即位した。王妃マリア・ルイーザ1688-1714との間にもうけたルイス1世1707-1724が16歳のときに王位を譲ったが、翌年ルイス1世が天然痘で死去。やむなくフェリペ5世は再び王位に就き、その後子のフェルナンド6世に王位を譲る迄の20年間、在位につくが、晩年は躁うつ病に苦しみ、後妻のエリザベータ・ファルネーゼ1692-1766に政治に介入させた。

フェルナンド6世1713-1759はフェリペ5世とマリア・ルイーズの4男。フェリペ5世の崩御1746に伴い即位すると、英、仏、ポルトガルとの関係を改善すると、ポルトガル王女・バルバラ1711-1758と結婚するが子はできず、精神疾患に悩み幽閉されて死んだ。

その後はフェリペ5世とファルネーゼの子・カルロス3世1716-1788が即位してナポリ、シチリア王も兼任する。ナポリ、シチリアはスペイン継承戦争1701-1713で失った領土であったが、ルイ15世の支援を受けてポーランド継承戦争1733-1735で奪還した。その後7年戦争(1754-1763に起こった英仏間の植民地競争で仏の孤立化、オーストリアの権力低下を招く)では仏と同盟を組む。戦争終結後はフロリダを英に譲渡、かわってフランスからルイジアナを譲り受ける。後のアメリカ独立戦争では仏に加担して英に宣戦した。

カルロス3世の死後王位に就いたのは、カルロス4世1748-1819が40才の時である。妻はパルマ公女マリア・ルイーザ1751-1819、馬鹿な王を支配する粗野な女とみられた。公務は王妃と首相・ゴドイ1767-1851に任せ、スペインはフランスの属国扱い。トラファルガーの海戦では英に完敗し、フランス・ナポレオン1世の英上陸は粉砕された。そしてこの戦いでスペイン全艦隊は失われた。一方息子のフェルナンド王太子は英支持派。首相ゴドイの辞任を主張するがカルロス4世はゴドイを支持。カルロスに不満を持つ民衆はアランフェスで蜂起すると、カルロスは退位して、フェルナンド7世が即位した。しかしながら王族は仏からの信任は得られず、フェルナンド7世は退位してナポレオンの兄・ジョセフ1768-1844がスペイン王になる。

 

【余談:トレジャーハンター】   スペイン継承戦争の頃、金銀財宝を積んだスペイン船が各地で座礁、特にフロリダ沖では多くの財宝が発見されている。とあるトレジャーハンターは「トライセンテニアル・ロイヤル」という金貨を発見。これはフェリペ5世に献上する為に作られた幻の金貨である。

 

 

【スペインの宮廷画家・ゴヤ 1746-1828】   フランシスコ・デ・ゴヤはベラスケス(1599-1660フェリペ4世付きの宮廷画家)と並ぶスペインの宮廷画家で、カルロス3世/4世に仕えた。「カルロス4世の家族」をはじめ、それぞれの家族の肖像画がプラド美術館に残されている。1807年、ナポレオンがスペインへ侵攻し、翌1808年にナポレオンの兄・ジョゼフがスペイン王位に就いた。このようにスペインはナポレオンの支配下に置かれ、カルロス4世は退位。この時ゴヤは62歳、宮廷画家とは程遠い生活を強いられる。45歳ころからの難聴も酷くなり、70歳を超えてマドリード郊外に「聾者の家」に移動し、黒い絵のシリーズを晩年に残した。代表的なのは「我が子を食らうサトゥルヌス @1819-1823」サトゥルヌスというのはローマ神話に登場する神で、サターンのこと。親を殺害したことからゼウスによって追放されたとか。やがて己の子に殺されるのではないかとの思いから我が子を食らうようになったという。 では何故ゴヤは「黒い絵のシリーズ」を晩年に残したのだろう。難聴のため気が病んだのか? 宮廷画家を追われて気が病んだのか?

 

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【スペイン-2-2】 16世紀 スペイン王国成立(フェリペ2世の隆盛)とスペインハプスブルグ家衰退

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

スペイン王国の成立
 ・1492年イスラムのナスル朝を滅ぼしてグラナダ(果物のザクロの意味、各地にザクロの像がある)を占領した時だろうか
   (ローマ=カトリックの信仰を統一国家理念として絶対王政が成立)、
   カスティーリャ王でありアラゴン王のカール5世1500-1558が1516年にスペイン王・カルロス1世になった時だろうか。
 
 ・アラゴン王・フェルナンド2世1452-1516の治世、
   妻のイザベル1世1451-1504
   (二人は1469年に結婚し、1479年にイザベルはカスティリア女王に、フェルナンド2世はアラゴン王に即位した)、
   スペイン人・コロンブス1451-1506が1492年に西インド諸島を発見した時の大航海スポンサーとなった。

 ・インドだと勘違いして西インド諸島、航路などの名称がついたが実際にはアメリカ大陸に到達していたことは有名である。
   かくして西インド諸島や南北アメリカ大陸が次々と発見されて、莫大な富がスペインにもたらされた。
   実際には原住民のモンゴロイド族を支配・虐殺してその財産を略奪したのである。
   イベリア半島のイスラムを追い返してキリスト教を復活させた「レコンキスタ運動」の後すぐに、大航海時代が訪れたころ、
 
 ・国王の娘・カスティーリャ女王・ファナ1479-1555が
   フィリップフェリペ1世1478-1506(ローマ皇帝マクシミリアン1世の長子)と結婚した。

 

-----聖なる巡礼の道 アルメニアが出発地----------------------------
アルメニアとは
  ・アルメニア・イマーム広場のアルメニア教会は有名
  ・キリスト教&イスラム教
  ・親トルコ、親イラン
  ・古代オリエント時代からの国 
  ・キリスト教を最初に国教にした国 
  ・ノアの直系子孫
    3兄弟のうちのハムがベルベル人、エジプト人
          セムがヨーロッパ人
          ヤペテがアラブ人
  ・アララト山(トルコ領)が故郷
  ・ローマ、ペルシャに挟まれ国を失っても商業で生きる
  ・ソ連崩壊後に独立 
  ・アゼルバイジャン(イスラム教)やトルコと犬猿 
  ・露、仏、米では政治的に強い 
  ・ユダヤ人が中東から手をひいたところに侵入
  ・欧最初のコーヒーショップ開店@プラハ 
  ・国防は露に丸投げ        

グラナダ-サクロモンテ地区:貧しい人々が住んでいた地区 レコンキスタに敗れたイスラム教徒たちがここに逃げ延びた。そして誕生するのがフラメンコ。踊り子の苦しそうな表情は弾圧された苦しみを表すという。

グラナダの近くにあるモクリン:レコンキスタの激戦地 奇跡を呼ぶキリストの絵があり、祭りでは絵を神輿にのせて担ぐ。人口600の町に2万人もの人が集まって「キリスト万歳」と叫ぶのである。

アンダルシア地方はオリーブの産地(100kmにも及ぶ 天国にはオリーブ畑がある)、世界消費の50%をここで生産するという。その灌漑設備技術はイスラム教徒がもたらしたものである。

コルドバ、8世紀には世界最大の都市となる メスキータは世界最大のモスクをカルロス1世は改修したものの後悔したという

      イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が共存し、ユダヤ人の文化が発展した当時世界最大の都市 人口50万人

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ローマ皇帝マクシミリアン1世はハプスブルグ家である。
 ・その子・フェリペ1世(フィリップ美公)とファナ女王との結婚はハプスブルグ家がスペインに食い込んだ瞬間とも言える。
 ・ファナ女王は結婚後に狂人となったことで知られるが、
   その息子カール5世(ローマ皇帝)カルロス1世(スペイン国王)として世界を制覇する。
   彼はフランドル地方で生まれた為にフランス語が一番堪能であったが、神聖ローマ皇帝としてドイツ語を喋り、
   スペイン国王としてスペイン語を学び、イタリア語まで喋ったという。

 ・スペインの黄金期を統治したのはカール5世の子・フェリペ2世1527-1598で、絶対主義の代表的君主となった。
   ヨーロッパ、中南米、フィリピンを支配し、オスマン帝国を退けて領土を拡大したことから、
   「スペインは太陽の沈まない国」と言われた。
   最初の妻はマリア・マヌエラ1527-1545 ポルトガルの王女である(ポルトガルを制覇してポルトガルの領土まで支配)。
   一方神聖ローマはカール5世の弟・フェルディナンド1世が継ぐ。

 ・フェリペ2世の母イザベラがポルトガル王女で絶世の美人であったことから最初の妃はポルトガル王女を切望していたようだ。
   ところが最初の妃マリア・マヌエラは皇子を生むとすぐに死亡。
   この皇子が悲劇の王子ドン・カステロである。
   ドン・カステロは生まれたときから病弱で奇行癖があり、5歳迄喋ることができず体にも障害を持っていた。
   また精神的にも不安定で動物を虐待するなどを繰り返していたという。
   二度目の結婚は1554年、名はメアリー1世1516-1558英。

 ・彼女はヘンリー8世と王妃キャサリンの子
   
イングランドとアイルランドの女王でもある敬虔なカトリックで、
   プロテスタントを迫害、数多くを殺害したことから「血まみれのマリー」とも言われた。
   フェリペ2世は11歳年上のメアリーとは気が合わず、すぐに別居状態。そしてメアリーは結婚4年後に死去。

 ・1559年、3番目の妻はエリザベート・ヴァロワ1545-1568、
   アンリ2世とカトリーヌ・メディシスの長女である。
   実は彼女はフェリペ2世の息子ドン・カルロス1545-1568の婚約者であった。
   当然ドン・カルロスの不満は高まり、これがオペラの題材になっている。
   婚約者を父にとられ階段から転げ落ちて奇行が激しくなったカルロスは旅に出るが、
    そこはネーデルランド、プロテスタントの国。
    フェリペ2世はドン・カルロスを国家反逆罪でとらえて監禁、これがもとでカルロスは獄中死を遂げた。
   一方エリザベート・ヴァロワも出産が原因で23歳で死去。
 ・1570年4番目の最後の妻はアナ1549-1580、
   オーストリア・ハプスブルグ家の王女で父はマクシミリアン2世、母はフェリペ2世の妹・マリア。叔父と姪の間柄である。
   そのアナも30歳で病死、それまでに生まれた5人のうち4人は赤痢や天然痘で夭折し残ったのはフェリペ3世1578-1621であった。

16世紀前半 カール5世時代のハプスブルグ家の領土

以降スペイン国王は、フェリペ3世1578-1621、フェリペ4世1605-1665、カルロス2世1661-1700と続くがカルロス2世の代でスペインハプスブルグ家は途絶える。この頃のスペイン宮廷画家の巨匠・ベラスケス1599-1660は数多くのフェリペ4世家族の絵を残した。「女官たち」「マルガリータ王女」「馬上のカルロス皇太子」「フェリペ4世騎馬像」「イサベル・デ・ブルボン騎馬像」これらはフランスのルーブル美術館やプラド美術館などに所蔵されている。時を同じくしてフランスの宮廷画家として活躍したのがルーベンス1577-1640で外交官として1年ほどスペインを訪れた時にベラスケスと親交を深め、1624年にはフェリペ4世からナイト爵の称号を得ている。因みに彼の代表作には「マリードメディシスの生涯」つまりフランス国王ルイ13世の母親の生涯を24枚の絵画で描いたものがルーブル美術館にて見ることができる。

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【スペイン-2-1】 スペイン王国成立までのイベリア半島統治の歴史

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【415-】  ゲルマン人流入@ゲルマン民族の大移動 ⇒ 西ゴート王国:首都トレド

【711-】  イスラーム勢力(ウマイヤ朝 首都トレド)により、西ゴート王国敗戦:へレスの戦い

      将軍ターリクの名前が半島南西の山についている(ジャバル of ターリク→ジブラルタル海峡)

      西ゴートの残党ペラーヨ?-737(キリスト教徒)はイベリア半島北西部にアストゥリアス王国建国

      アルフォンソ2世760-842は王国を3分割して継承

      アストゥリアス王国:フルエーラ2世

      ガリシア王国   :フェルナンド1世

      レオン王国    :オルドーロ2世

【732】  トゥールポアティエ間の戦い: イスラム✖ VS 〇フランク王国
                      ┗後ウマイヤ朝 ┗ローマ教皇に接近 --- カールの戴冠
                      (首都コルドバ)  ┗イスラム侵攻の拠点:辺境伯(カタルーニャ地方)--バルセロナ
                        ┗ベルベル人侵入→ナスル朝
                                (首都グラナダ)

【791-】  アルフォンソ3世848-910の治世がおわると3国に分裂

【910-】  アストゥリアス王国:フルエーラ2世875-925

      ガリシア王国   :オルドーニュ2世871-924

      レオン王国    :ガルシア1世870-914

【1035-】  カスティーリャ王国(首都トレド)Byフェルナンド1世1017-1065

【1037-】  カスティーリャ・レオン王国 フェルナンド1世が統合

アルフォンソ7世1105-1157
  ┣アルフォンソ8世1155-1214(カスティーリャ国王)
 ┃ ┣ウラカ1186-1220(ポルトガル王妃)
 ┃ ┣ブランカ1188-1252(ルイ8世王妃)
 ┃ ┣フェルナンド1189-1211(カスティーリャ王位継承権)
 ┃ ┣エンリケ1世1204-1217
 ┃ ┃
 ┃ ┃フリードリッヒ1世(神聖ローマ皇帝)
 ┃ ┃┗
コンラート1172-1196
 ┃ ┃  ┣1187年婚約(カスティーリャ領土目的) 
 ┃ ┃  ┃1188年にフェルナンド誕生で王位継承権が移る
 ┃ ┃  ┃1190年婚約は破断
 ┃ ┃  ┃
 ┃ ┃  ┃
  ┃ ┣ベレンゲラ1180-1246(カスティーリャ女王)
  ┃レオノール1162-1214 ┃ベアトリス(ローマ皇帝フィリップ2世の娘)
 ┃(父:ヘンリー2世) ┃ ┣アルフォンソ10世1221-
 ┃(母:アリエノール) ┃ ┣他9人
 ┃                    ┣フェルナンド3世1201-1252
 ┃           ┃ 
 ┃                     ┣ベレンゲラ1204-1237
 ┃           ┃ ┣
 ┃           ┃エルサレム王・ブリエンヌ1148-1237 
 ┗アルフォンソ9世1171-1230(レオン国王) 
      ┣サンチャ  1191- 修道女
      ┣フェルナンド1192- 
      ┣ドゥルセ  1193- 修道女
  テレサ・ポルトガル 1176-1250
      1195年アルフォンソ9世はカスティーリャに侵攻
         アラゴン王国がカスティーリャに加勢
         不利とみたアルフォンソ9世は和睦
      1197年アルフォンソ9世とベレンゲラ結婚
      1204
年ローマ教皇インノケンティウス3世⇒この結婚は無効
         理由:近親婚
         同意しなければアルフォンソ8世、アルフォンソ9世は破門⇒離婚同意する
      1211年カスティーリャ王太子フェルナンド死去⇒エンリケ7歳が王太子
      1214年アルフォンソ8世死去 妻・レオノールも死去
      1214年エンリケ1世即位 ベレンゲラは摂政 ⇔ ララ伯(アルフォンソ8世重臣)
      1217年エンリケ1世13歳事故死@宮殿内
         ベレンゲラ女王即位⇒国民反感⇒フェルナンド3世即位
         アルフォンソ9世がカスティーリャ王位継承主張
         ルイ8世までもがカスティーリャ王位継承主張 ⇒ 1226年ルイ8世崩御
         ララ伯+アルフォンソ9世⇒カスティーリャ征服計画⇒軍侵攻⇒市民兵が撃退
         アルフォンソ9世は十字軍遠征 ララ伯病死
      1219年フェルナンド3世とベアトリス結婚
      1221年アルフォンソ10世誕生
      1230年アルフォンソ9世崩御
         カスティーリャにレオン統合
      1246年ベレンゲラ死去66才
      1252年カスティーリャ・レオン消滅

  イザベル1451-1504 遺言により遺体はグラナダ・アルハンブラ宮殿にある
      ┣イザベル1470-1498 @ドエーニャス ポルトガル王 (マヌエル1世)妃
      ┣ファン 1478-1497 @セビリア城 
      ┣ファナ 1479-1555 @トレド    ブルゴーニュ公(フィリップ4世)妃 
      ┣マリア 1482-1517 @コルドバ   ポルトガル王 (マヌエル1世)妃 
      ┣カタリナ1487-1536 @アルカラ   イングランド王(ヘンリー8世)妃
  フェルナンド2世1452-1516

  タントモンタ:二人は平等 

 

【1479-】  トラスタマラ朝 カスティーリャ-アラゴン連合国:スペイン王国の始まり

       当時イベリア半島で繁栄していたのがポルトガル : 敵も居ない---大航海を開始

       イスラム・ナスル朝と敵対し、アラゴンやポルトガルに挟まれたカスティーリャはアラゴンと組むことで活路開く

       イザベル1451-1504+フェルナンド2世1452-1516が結婚してスペイン王国成立

 1486   グラナダ陥落に向けて、周辺の町の兵糧を絶つ

      モクリン要塞(山頂の要塞)に野営 アルハンブラ宮殿を望み、攻撃の機会を待つ

      アルハンブラ宮殿 :アラビア語で赤い城という意味 スペイン語ではアランブラ

                 3重の城壁周囲2km 22人のスルタンが迷路宮殿を増築

                 かつては7宮殿 今は4宮殿+離宮

                コマレス宮 : 作ったスルタンは礼拝中に殺害された

                パルタル宮 : 最古 作ったスルタンは弟に王位を奪われて毒殺される

                メスアル宮 : 作ったスルタンは愛人を奪って恨みをかい刺殺される

                        イザベルが滞在したのはここの黄金の間

                        航海師コロンブスと会見した間でもある

                レオネス宮 : 妃と密会したことで、疑わしいアベンセラス一族36人を殺害

                        ライオンの中庭---永遠の水の循環

                        二姉妹間----ムハンマドが弾圧から逃れて籠った洞窟を表す

                              天井には「追っ手から守った蜘蛛の巣」

                              5416の鍾乳石飾り--正方形から八角形へ昇華

                              アラベスクの迷路は無限の連鎖 

                              必ずどこかに不完全を残した完全芸術

                              「神のみぞ勝利者なり」  

                

  

 1491   グラナダ王国のスルタン・ボアブディルは戦うことなく降伏  宮殿のカギはイザベル女王の手に

【1492】  グラナダ陥落 :キリスト教はイスラム教を追い出した(キリスト教に改宗 20万人)

             ユダヤ教は追放 17万人

             アルハンブラ宮殿外のモスクは破壊して教会建造

             アルハンブラ宮殿内の礼拝堂などはそのまま残っている

             → キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が混在する街-グラナダ、ゴルドバ、トレド

 1493   コロンブスへ大航海指示 --- 西インド諸島から莫大な富がもたらされる:1493-3-30 女王手紙

 1504-11-26    イザベル病死 ---- 西インド諸島への不安(略奪をしてはいけない)を遺書に残す    

                    イザベルの遺体は遺書に従ってアルハンブラ宮殿・聖フランシスコ礼拝堂に葬られた

 1516   フェルナンド死亡  遺体はイザベルとともにグラナダ大聖堂@王室礼拝堂 

                ファナと夫フィリップも横に安置されている

                その息子カール5世はスペイン王家全ての財産を継ぎ、ハプスブルグ家のものとなった

 

      船乗りたちの聖母 @セビリア城 --- コロンブス、フィリップ 

             

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【スペイン-1】 9世紀 サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【巡礼(カミノ:Camino)の地・サンディアゴ】    スペイン・サンディアゴ(12使徒のひとりヤコブのスペイン名、キリストの死後、ユダヤ王によって殺され亡骸は弟子たちの手によって船で運び出された。その後の消息は不明であった)はキリスト教の聖地。ということでフランス各地からピレネー山脈を越えてサンディアゴを目指す旅をいう。9世紀(812年)にスペイン・イベリア半島の西北の端のサンティアゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺骸が発見された。これによってバチカン、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられるようになり、フランスから、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の主要道路がスペインに向かい、巡礼の旅が世界中に広がった。最盛期の12世紀には年間50万人もの巡礼者が、800kmもの道のりを、街々の聖堂を巡り神に祈りを捧げながら歩いた。プエンテ・ラ・レイナ、エル・クルシフィオ教会、フロミスタ、レオン、サン・イシドロ聖堂、などの街や教会は、ロマネスクの建築様式(サンペドロ大聖堂)など多々文化が伝搬した。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ(星の野原という意味)の入口にある栄光の門(1188完成Byマテオ)を通り、主祭壇に祀られている聖ヤコブと対面する。そして裏にまわって聖ヤコブの背中を抱いて神の恩寵を受けて、巡礼の旅を終えるのである。いっとき、巡礼者はほとんど居なくなったらしいが、1000年以上の歴史を持つ聖地への旅が21世紀になってブームになり、今では年間およそ30万人が挑戦しているという。巡礼拠点の街には巡礼事務所があり、巡礼者の数が増えると共に、無料の宿泊所が整備されてきた。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。横断の距離はおよそ 800kmの道程で、信仰と向き合う貴重な時間となる。

フランス・リヨンの南にル・ピュイ=アン=ヴレという都市がある。ここは古代から聖なる地とされ、中世には多くの人がここから聖地サンディアゴまで巡礼を行ったという。その距離は約1500km。当時の出発地は サン=ミシェル・デギュイユ礼拝堂であった。巡礼者はクレアンシャルという巡礼手帳を用意して臨む。ノートルダム大聖堂で巡礼者のためのミサが行われ、その後出発する。聖地エルザレムを奪還するために組織された十字軍、そのテンプル騎士団は聖地への巡礼者を守る役割を担っていたという。

スペインとフランス国境にあるピレネー山脈の麓にあるのが巡礼者の宿場町サン=ジャン=ピエ=ド=ポール。ここでピレネー越えの情報を貰う。

巡礼者が泊まる宿:ジット

 

【イスラムに征服されたイベリア半島】   さて、ほんとうにサンティアゴで聖ヤコブの遺骸が発見されたのだろうか。8世紀当時のイベリア半島はイベリア半島全土がイスラム教圏(ウマイヤ朝)であった。イスラム圏勢力が凄い勢いで北アフリカ、地中海を経由してイベリア半島に渡ったのには、ローマ帝国の弱体化と大いに関係する。ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン民族の大移動(3世紀-7世紀)を経て西ローマ(フランク王国)が分裂したのは814年である。この頃キリスト教徒が激減してローマ教皇はフランク王国に布教を委ねた。本来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、ゲルマン民族にキリスト教を広めるために、聖像を使ったのである。(東のビザンツからは大いに非難されることとなる)このように弱体化したキリスト教圏内にイスラム教は侵攻してきたのである。

200年以上に渡るイスラムの文化は、現在でもその姿を各所に留めている。地中海沿岸のマーケットにはイスラム教の人々が交易を広めた痕跡が残っている。一番代表的なものはスペインのアンダルシア州グラナダ市南西の岡にあるアルハンブラ宮殿である。宮殿と呼ばれているが城塞、住居、軍隊、モスク、学校、墓地などの施設を備えている。13世紀、イベリア半島最後のイスラム王朝・ナスル朝時代の建築で、ナスル初代ムハンマド1世が建築に着手した。当時のイスラムの技術は、要塞だけに留まらず、イベリア半島の農業技術にも及んだ。そして驚くべきことは、後のスペインキリスト教徒の人達も今なおイスラムの技術を使用して生活していることである。城壁は2km、最盛期には2000人以上が暮らした。最古の砦はアルカサバ。コマレスの塔。ライオンの中庭は王に仕える女性の空間。二姉妹の間の壁には細かな装飾、鍾乳石飾り。

【キリスト教徒によるレコンキスタ運動】    これだけイベリア半島の隅々まで浸透していったイスラム圏をキリスト教圏に取り返す必要があった。この運動をレ=コンキスタ(再征服)という。イスラムのウマイヤ朝による西ゴート王国(8世紀から10世紀に繁栄)を征服してキリスト教の地に取り戻すことを言う。イベリア半島の北側に追いやられていたキリスト教徒の小国は次第に結びついてアラゴン王国を形成した。そしてこの王国から後に英雄が生まれた。それはハイメ1世1208-1276(征服王とも言われる)そして精力的に地中海沿岸の領土を取り返した。ハイメ1世がどうしても取り返したかった島がマヨルカ島(バルセロナから8時間のリゾート地)、港町パルマには守りの塔があって海賊が出没していたそうだ。そしてキリスト教徒との激しい戦争の末、この島を取り戻した。しかし再びイスラム軍が襲ってくるので島の周りを数百の塔で囲ったという。

レコンキスタが終わったのは、1492年、アルハンブラ宮殿があるグラナダを陥落してナスル朝が滅亡したときであった。なんとイベリア半島再征服には700年以上かかっているのである。このレコンキスタを達成するのに利用されたのが、サンティアゴ巡礼の旅である。従ってスペイン・サンディアゴで聖ヤコブの遺骸が発見されたというのは、あくまで伝説なのであるが、巡礼の地に沿って数多くの教会、聖堂が建てられたことは、今になっては遺跡という面で大きい。レコンキスタの情熱が大航海時代へと繋がる。

【世界最古のワインはバルセロナ産】   最も早く取り返したのはサグラダ・ファミリアやピカソで知られるバルセロナ。ここでキリスト教の象徴とも言えるワインが栄えた。この地方のワインは世界最古だそうだ。964年、アルナウ・オジェール氏は、この土地を支配していたイスラム教徒との戦いに勝利して、貴族の称号を与えられ葡萄の栽培を始めたという。そして出来上がったのがバルセロナワイン(乾杯=チェチェ) 

【ロシオ聖母祭】    実は同じような伝説がスペイン南部アンダルシア地方のロシオという町で行われるロシオ聖母祭である。かくしてエル・ロシオの巡礼と聖母祭が毎年行われている。(100万人が参加するスペイン最大の巡礼で、60kmの道のりを4日間かけて巡礼行進する)アンダルシア地方と言えばマンサニージャというシェリー酒の一種。サンルーカルは今から200年前にマンサニージャで栄えた街で、数多くの醸造所があるという。 そして面白いことに日本でも巡礼は行われた。それは空海による四国八十八ヵ所の巡礼であり、時期がほぼ同じであることは大変興味深い。

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【ロシア-9】 ソ連崩壊後のロシアの貧困の原因

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

1992 ロシア副大統領アレクサンドル・ルツコイは「ロシアで経済的な大虐殺が起きる」と言った。
  ・原因は新自由主義政策が行われたからである。
    提案したのはアメリカ経済学者ジェフリー・サックス1954-というハーバード大学教授である。
    1994年までロシアの経済顧問を務め、国営企業を民営化して市場自由化、競争激化をはかった。
  ・この民営化により多くのノウハウは外資系企業に売却され、ロシアの天然資源はアメリカ等の外資系資本のものとなった。
    つまり外資系資本はロシアの天然資源を奪ったのである。
  ・かくしてロシアの物価は2500%、中流階級は没落して格差社会が生まれた。
    ロシアの若者は極貧状態、出生率は半減し、治安は悪化していった。
    資源は豊富にあるが技術力、工業力に乏しいロシアでは民間に競争力は無く、衰退する一方であった。

1993 新自由主義に対する抵抗勢力約500人はロシア軍によって殺害された。
  ・このような状態から国民を救ったのが2000年に大統領になったプーチンである。
    彼は新自由主義を打破すべく民営化された企業を国営化に戻した。
    これにより超インフレから脱出したロシア国民はプーチンを支持。
    現在2022-5月、ウクライナに侵攻するプーチンはともかく、経済を立て直したプーチンの人気は不動のものである。

アメリカ経済学者ジェフリー・サックスの新自由主義政策は、日本でも行われている。
  ・
まさに新自由主義政策がロシア経済を破壊したのと同様に、日本も新自由主義政策によって1995年以降衰退している。
    つまりGDPは停滞(=国民の年収は上がらない)、多くの企業(特に個人商店)は廃業。
    年収200万円以下の若者が激増(就労者の40%が非正規雇用)し、未婚者激増、少子化加速。
    政治家の多くが親中派と言われるが、アメリカ資本の言いなりになって日本を潰す政治を行っている。

 

日本に於ける過去60年間の繁栄ぶりを、大卒初任給、コーヒーの価格を通してみてみる。

1960 大卒初任給1万円(GDP15兆円、コーヒー1杯60円、うどん40円)
    ↓ 10年間で給料は4倍(GDPは5倍)

1970 大卒初任給4万円(GDP77兆円、コーヒー1杯95円、うどん100円)
    ↓ 10年間で給料は3倍(GDPは3.3倍)

1980 大卒初任給12万円(GDP250兆円、コーヒー1杯250円、うどん280円)

1985 NTT民営化 JT民営化

1987 国鉄分割民営化---自由競争に勝てない路線は廃止(約500路線が廃止)
    ↓ 10年間で給料は1.5倍(GDPは1.8倍)
  
  ↓ NTT,JT、JR民営化で国力衰退の兆し有り
  
  ↓ 日本の成長には既得権益は不要というが、実際は逆 

1989 大卒初任給18万円(過去30年間で18倍 : 凄い成長)(GDP450兆円、コーヒー1杯300円、うどん350円)
    非正規雇用推進 (消費税導入により加速)

1991 第二次日米半導体協定(半導体技術が中国に流出)
    バブル崩壊

2007 郵政民営化 By 小泉純一郎 + 竹中平蔵(ジェフリー・サックスの指導)

2008 中国への原発技術供与

2009 竹中平蔵パソナ会長に就任
    ↓ 20年間で給料は1.1倍(GDPは1.3倍)
  
  ↓ 日本の成長はほぼ停止状態 

2010 大卒初任給20万円(GDP580兆円、コーヒー1杯400円、うどん500円)
    中国にGDP抜かれる
    正社員という既得権益破壊 By 維新の会(竹中平蔵がマニフェスト作成)
    一般企業だけではなく市役所、教職員等の非正規雇用加速

2015 来日中国人による爆買い(日本に来れば何でも安く買える)
    ↓ 10年間で給料は1.0倍(GDPは0.95倍)
  
  ↓ 日本は完全に衰退
  
  ↓ 日本の衰退で得をしているのは外国資本(ソ連崩壊後のロシアと同じ) 

2020 大卒初任給20万円(過去30年間で1.1倍 : 成長なし)(GDP550兆円、コーヒー1杯450円、うどん500円)

2024 ロシア人口移動傾向の歴史 
    シベリア地方の開拓にロシア政府は手厚い援助を行っていたが
    いつしか援助は無くなり、シベリアを見捨てた国民は西側へ移動、人口は減少する
    すると過密になった中国東北地方の中国人が北進、チャイナタウンが激増@19-20世紀
    彼らの稼ぎは3倍にもなるというチャンス 

    

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【ロシア-8】 ロシアの闇・アイゼンベルグ家の配下は満州鉄道初代総裁・後藤新平

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

吉田茂元首相1878-1967は
 ・麻生太郎1940-の祖父であり、
 ・その養父は吉田健三1849-1889といって、
 ・マセソン商会横浜支店長
   
マセソン商会とはアヘンの売買で多量の銀をロスチャイルドにもたらした
   
また幕末に薩長に武器を供与したグラバー商会は、マセソン商会の長崎支店

岸伸介元首相1896-1987は
 ・CIAのエージェントであり、
 ・アヘン密輸で財をなしたアヘン王・里見甫氏1896-1965を引き継いだ
 ・
里見甫(昭和通商設立)は三井、三菱に出資させてアヘンを扱う
 ・
里見甫の配下が児玉誉士夫、岸信介、佐藤栄作、池田勇人

彼らに共通するアヘン売買は、
 ・当時日本の国策として行われたが、
 ・率いたのは後藤新平1857-1929であり、満州鉄道初代総裁
 ・
彼らはショール・アイゼンベルグ1926-1998の配下であり、
 ・アイゼンベルグ家が麻薬利権、戦争利権により莫大な富を築いた

1926 ショール・アイゼンベルグはポーランド系ユダヤ人としてミュンヘンで生まれ

1938 スイスへ逃亡、オランダ、上海を経由

1940 来日する。画家フロイデル・スペルガーの娘・のぶ子と結婚

    永野重雄1900-1984、後の新日鉄社長と出会い

1942 CIAの前身であるOSSを設立

1948 イスラエル建国時にアイゼンベルグ法を成立:アイゼンベルグ家は無税

    中国アヘン人脈を使ってロスチャイルドの右腕であった英サスーン家を追い出しアヘン王・里見甫と連携

1949 イスラエル・モサド(諜報特務庁)設立

1954 仏領アルジェリア独立運動のときは仏に武器を販売して独立を阻止   

以降 イスラエルコーポレーションを設立@1968
   ・
北朝鮮の核開発を支援 by ABT
     
ABT:アメリカンバンク&トラスト:幹部はブッシュ政権時の副大統領ディック・チェイニー
     
日本の原発開発に融資
   ・
ブッシュ政権をコントロール
   ・
中国に武器輸出
   ・
核兵器を世界中に拡散
   ・
仏核兵器開発に関与
   ・
パキスタン核武装支援
   ・
中国、イランのミサイル開発支援

1979 アジアハウス設立:アジアにミサイル販売
   ・
イスラエルは中国に35億$もの武器販売
   ・
米・露・イスラエルマフィアの幹部マークリッチ1934-2013と婚姻関係
   ・
マークリッチを引き継いだプリゴジン(ワグナー経営者)はプーチン大統領の側近
   ・
ワグナー:ロシアの民間軍事会社
   ・
ウクライナ戦ではロシアを支援@2022
   ・
シリア戦ではアサドを支援@2018
   ・
ゼレンスキー大統領を暗殺未遂:10回以上に及ぶ

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