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【民族大移動@ヨーロッパ-1】 フン族、ゲルマン民族の大移動(欧州方面) --- フランク王国

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【フン族移動】

300  フン族(アッティラ王406-453)  
     ┗遊牧民/騎馬民族フン族は牧草を求めて西へ移動 原因は寒冷化?  
      最終的に落ち着いたところが今のハンガリー(HungaryのHungが語源か?)  
      アジア系のマジャール人  
      名前は姓名の順:日本と同じ

375  西ゴート族(ゲルマン)が最初に移動---スペインで定住

     東ゴート族(ゲルマン)はフン族につかまったまま  
     ┗フン族が弱体化すると@西ローマ帝国滅亡の頃476  
      オドアケルを倒してイタリアに定住建国  
      ゴート:ゴシックの語源

【ゲルマン民族移動】--- 4世紀~8世紀で中世ヨーロッパが形成される

4世紀  ゲルマン民族の中のフランク族は今のフランスライン川中流域に移住し、やがて西ヨーロッパ全域を支配する。

    375年に急に来たわけではない すでにローマで傭兵、下級役人、農奴(コロヌス)になっていた

    フランク族は元々キリスト教アリウス派(イエスは人)であった

      → ローマ人に合わせてアタナシウス派(三位一体)に改宗した

395-  ローマ帝国の分裂 : 理由は①内政弱体化 ②他民族外圧

     → 西(ローマ教皇:ラテン十字) 

     → 東(コンスタンティノープル総主教:正十字)

     アレクサンドリア/エルサレム/アンティオキア---イスラムに吸収された

410  西ゴート族(ゲルマン)がローマ略奪---西ローマ帝国はほぼ崩壊

435-  ゲルマニアからスペイン経由(西ゴートに敗戦)で北アフリカに移住した民族をヴァンダル人といい、北アフリカカルタゴを首都とするヴァンダル王国をを建国した。  
     ┗地中海の島々を制覇、ローマをも略奪(ヴァンダリズム)

彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシアが語源である。ゲルマン民族の中でもブルグント人はフランスの中東部地域に移動。ブルゴーニュ ワインで有名なブルゴーニュはブルグント人が語源である。

    ヴァンダル : 南仏アンダルシア地方の語源

    ブルグント : 西仏ブルゴーニュ地方の語源 

5世紀   ゲルマン民族の中でもアングロ人、ジュート人、サクソン人の3部族はアングロ・サクソンという総称で呼ばれる。彼らはブリテン島への渡来を行い7王国を建てる。

 

    フランク族 : 移動最小、統治方法(ローマ宗教に改宗)           ゲルマン民族の生き残り戦略-1

476-  西ローマ皇帝(ロムルス・アウグストゥス)廃位 By 軍人オドアケル433-493 

    西ローマ(皇帝政治+教皇宗教)の政治力低下 : フランク族が原因の一端 

481-  フランク王国メロヴィング朝481-751(西ローマ皇帝廃位の頃) 

    ランゴバルド : 北伊ロンバルディア地方の語源 

    サクソン   : 独ザクセン地方の語源  

530-  この様な大移動によってイタリア北部にいた東ゴート人は減少し、西ゴートへ移動する  
     ┗その後、東ローマ帝国・ユスティニアヌス483-565は地中海を制圧、ペルシャと抗争 
           ┗東ゴート、ヴァンダルを滅ぼす

568-  ゲルマン民族のランゴバルド人はランゴバルド王国を築いた@イタリア半島 
                    ┗その後フランク王国によって滅亡  
      イタリア半島の変遷 
        ┗オドアケルによる西ローマ皇帝廃位@476
          ┗東ゴート族侵攻       @493
            ┃ フランク王国クローヴィスがアタナシウス派に改宗@496
            ┃               ┗ローマ教皇と強固な結びつき
            ┃ キリスト教の正当性:ニケーア公会議
            ┃           アリウス派は異端
            ┗東ローマ侵攻      @530
              ┗ランゴバルド侵攻  @568 
                ┗フランク王国侵攻@774  
                   ┗・・・ブルグント滅ぼす

      フランク王国の変遷 
        ┣初代クローヴィス466-511がフランク族を統一メロヴィング朝@481
        ┃                      ┣祖父メロヴィクスにちなむ王朝名
        ┃                      ┗祖父はフン族を撃退:カタラウヌムの戦い@451 
        ┣妹を東ゴートのテオドリックに嫁がせる
        ┣自分はブルグントの王女クロティルダと結婚--体制安定策
        ┣アタナシウス派に改宗---ローマ教皇の権威を得る@ランス・ノートルダム大聖堂で戴冠式
        ┣西ゴート侵攻---イベリア半島に追いやる@507
        ┣東ローマと会談--アウグストゥス称号得る
        ┣ブルグント侵攻---クローヴィスの子の時代に滅亡@534
        ┣宮宰(国王の側近-カロリング家ピピン2世635-714)が力を持ち始める
        ┃ ┣トゥール・ポワティエ間の戦い@732⇔イスラム軍
        ┃ ┃                   ┗西ゴート滅ぼす@721
        ┃ ┣カール・マルテル688-741(ピピン2世の子)が撃退---マルテル:意味は鉄槌
        ┃ ┃  ┗ピピン3世714-768 : ローマ教皇の許可を得て自分が王となる→ピピンの寄進(ラヴェンナ)
        ┗ ┃    ┃                        ┗カロリング朝@751 
          ┃    ┃ランゴバルド侵攻(ロンバルディアの語源:ミラノ周辺)→ラヴェンナ奪取(後の教皇領)  
          ┃    ┗カール大帝742-814
          ┃      ┣ランゴバルド滅亡@774 
          ┃      ┣東側勢力(アジア系アヴァール民族)撃退
          ┃      ┣カールの戴冠@800 Byカトリック教皇(ランスの戴冠の上位:西ローマ帝国皇帝) 
          ┃      ┃ ┣ローマ文化+ゲルマン民族+カトリック  
          ┃      ┃ ┣東ローマ帝国(エイレーネ女帝752-803)が東西統一を持ち掛けたが没
          ┃      ┃ ┣エレーネの失政が元でローマ教皇はカール大帝に近づいた
          ┃      ┗ルートヴィッヒ1世778-840敬虔王  
          ┃        ┗3分割ヴェルダン条約@843(西、中、東)  
          ┃          ┗メルセン条約@870
          ┃            ┣東フランク---断絶@936→選挙王政→オットー1世912-973  
          ┃            ┃           西ローマ皇帝戴冠→後に弱体化し・・・神聖ローマ帝国
          ┃            ┣西フランク---断絶@987→パリ伯爵ユーグ・カペー+諸侯の封建体制  
          ┃            ┃           カペー朝
          ┃            ┗中フランク---断絶@855→1861迄都市国家(ヴェネツィア、ナポリなど)分立
          ┃      
          ┗イスラム支配@イベリア半島は以降800年続く
          
                     

726-  聖像禁止令 By東ローマ皇帝(レオン3世675-741) --- 西ローマ教皇は孤立

    イスラムとの対立を避ける為

732-  イスラム侵攻 --- ゲルマン民族・フランク族(カール大帝)がイスラム撃退@732 ゲルマン民族の生き残り戦略-2

751-  カロリング朝誕生 カール・マルテル688-741の子ピピン3世714-768が初代@751

756-   ⇒息子ピピン3世がローマ教皇・ステファヌス3世に領土寄進(ラヴェンナ地方)  ゲルマン民族の生き残り戦略-3

800- カールの戴冠12/24 ローマカトリックは カール大帝742-814 に西ローマ皇帝の称号を与える(初代神聖ローマ皇帝)

      ⇒ローマカトリックにとってのカール大帝は収入源

      ⇒フランク王国の宮廷が置かれたのはアーヘン(ベルギー境界の近く)

      ⇒国王のカール大帝がここの温泉を気に入ったという。アーヘンの有名な菓子はプリンテン。

814-    ⇒フランク王国は、滅亡して814年に東/中部/西フランクに分裂

      ⇒ゲルマン民族に対するキリスト教布教に聖像を利用

 

      一方、東ローマはビザンツ帝国(ギリシャ正教)として以降1000年続く

      ⇒キリストは偶像崇拝を禁止しているとしてフランク王国と対立

 

   以降は【フランス-1】 10世紀 フランス王国は元々ローマ帝国-カペー朝のフランス

 

遊牧民の分布

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【フランス-8】 1枚の絵・モナリザから始まったルーブル美術館

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

ルーブル美術館
     
火曜日:休館日
     
水曜日、金曜日----9:00-21:45
     
その他    ----9:00-18:00
     

     時間指定チケットの入口----リシュリーの優先口

     

【12世紀:仏王フィリップ2世1165-1223により要塞建造@1192】 
  ・十字軍遠征で留守にするので 
     フィリップ・オーギュスト城壁建設----タシュロン:職人のマーク 
     英国の侵攻防御のためにセーヌ川近くの城壁に要塞建設 
     1981の発掘で要塞が出土----現在は見学可能 
   
【14世紀:シャルル5世1338-1380により街拡大】 
  ・城壁の外側にも街が拡大 
  ・要塞は宮殿に変わる 
     この時の宮殿は「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれている

【16世紀:ルーブル美術館 国王・フランソワ1世が惚れたダビンチ】          
  ・
それは16世紀初頭の一枚の絵から始まった、モナリザである。 
  ・
以降世界の秀宝が集められてきた。 
  ・
古代ギリシャの匠が大理石から掘り出したビーナス、 
  ・
ルネサンスの画家が描いた人間の姿、 
  ・
その68万点ものコレクションが500年の歳月をかけて集まった。 
  ・
これらの作品をフランスに導いたのは国王・フランソワ1世1494-1547である。 
    
彼は1515年イタリアに攻め入り
、ルネサンスの芸術を持ち帰る
とフランスを芸術の街とした。 
    
1516年ダビンチをフランスに呼び寄せた 
    
その時にダビンチが持っていたのが「モナリザ」である。国王はダビンチにほれ込んだのである。 
    
そしてラファエロ・サンティオもその一人である。 
    
ラファエロは柔らかに描くスフマート技法をダビンチから学んでいた。 
    
またミケランジェロの彫刻もフランソワが手に入れた至宝。 
    
そして1519年ダビンチが亡くなったが、最後までモナリザには筆を入れたという。 
   
  ・
その後フランソワ1世はイタリアから多くの芸術家を招き、 
    
フランスに新たな「フォンテーヌブロー」という芸術が生まれた
 
    
そしてフランソワ1世は城塞であったルーブルをイタリアのような宮殿に変えた。 
    
レスコー翼は最も古い宮殿建築で、中心にはカリアティードの間という広場がつくられ、当時は華やかな宴が開かれた。 
    
これは国王の遺言で作られたものである。

       
    
この時期の天才レオナルド・ダ・ビンチの「聖アンナと聖母子」という最高傑作がある。 
    
羊として描かれた危険と戯れるキリストを羊から引き離そうとするマリア、 
    
慈愛に満ちたマリアの微笑みが印象的である。 
    
「岩窟の聖母」は30歳の頃の傑作(制作依頼者から受け取りを拒否された)、 
    
「洗礼者聖ヨハネ」は最晩年の傑作、キリストの出現を予見しているものだという。

  ・仏建築家ピエール・レスコー 1515-1578により宮殿中庭改築 @1559
     装飾はジャン・グージョン1510-1567----カリアティード装飾@1550 
     H装飾はアンリ2世              1519-1559の意味
  
     C装飾はアンリ2世妃カトリーヌ・メディシス  1519-1589の意味 
     D装飾はアンリ2世の愛人ディアーヌ・ポワティエ1499-1566の意味
  
  
  
  ・アンリ2世の事故死の後シャルル9世1550-1574が継ぐ 
     K装飾はシャルル9世:ゲルマン読みでカール
     この時カトリーヌは幼いシャルル9世の摂政
        ⇒フランソワ1世の母所有の土地に宮殿----チュイルリー宮殿
         火災@1870で庭園だけが残る
  
  ・アンリ4世1553-1610建造
     ルーブル最大の展示室グランド・ギャラリー----元々は宮殿間を繋ぐパッセージ400m     

      
左右の壁には16世紀イタリア・ルネサンスの名画が展示されている。    
      ルネサンス師
    
       ・ジョット     1267-1337    
       ・フィリッポ・リッピ1406-1469    
       ・ペルジーノ    1446-1523     
       ・ギリランダイオ  1448-1494   
       ・マンテーニャ   1434-1506    
      ルネッサンス巨匠     
       ・レオナルド    1452-1519     
       ・ラファエロ    1483-1520    
       ・ロマーノ     1499-1546   
       ・ヴォルテガ    1509-1566   
       ・アンチンボルト  1526-1593
     
      バロック    
       ・カラバッジョ   1571-1610    
       
  ・ルイ13世1601-1643建造
     ルメッシエ翼By建築家ルメッシエ
     カリアチット様式----柱が女性
     Λ(ラムダ)装飾はルイ13世
     A装飾はルイ13世妃のアンナ・ドートゥリシュ
    

 

 

【モナリザは1503年に肖像画として注文を受けて製作開始された普遍的な絵】
  ・ドゥノン翼    
  ・
モデルはフィレンツェの絹商人の妻・リザ・デル・ジョコンド。 
  ・
ダビンチの真作は15点程度と言われるくらいに少ない。 
    
それは納期を守らず注文通りに描かないという完璧主義者だったからで、仕事はなく各地を転々としたという。 
    
こうした状況の時に注文を受けて描いたのがモナリザである 
    
やはり納期を守らず。当時の名誉は最高権力者・ローマ教皇から注文を受けることであったが、 
    
ダビンチの絵はバチカンには何も残っていない。 
  ・
そしてやがてイタリア侵攻していた敵のフランスのフランソワ1世に仕える。 
    
いかにイタリアから信頼を得ていなかったかがわかる。 
    
そしてダビンチは、半身不随になりながらもモナリザをずっと持ち歩いて 
    
描き直し(塗り重ねの技法:スフマート=語源はスモーク煙)続けた。

1911 盗難

1956 一部破損

現在 ニスと絵具の経年劣化により黄ばんでいる

 

 

【宗教戦争の血で染まったルーブル】         
  ・
フランソワ1世の孫シャルル9世が即位すると、カトリックとプロテスタントとの宗教対立が深まった1572/8月    
  ・  
両者の和解を目指しカリアティードの間という広場で王の妹とプロテスタント貴族が結婚。    
  ・  
宴の後、プロテスタントはサンジェルマン教会の鐘の音を合図にカトリックを襲撃。    
  ・  
シャルル9世はこの暴走を抑えることができず。ルーブルも多くの血で穢された。    
  ・  
ルーブルから始まったサン・バルテルミの虐殺1572年は国中に広がった。    
  ・  
フランソワ1世の芸術による平和の国フランスは消え去った。    
  ・
この宗教対立が収まったのは20年後    
  ・  アンリ
4世(パリ・シテ島の西端に騎馬像がある)が国王となり芸術の力を重んじてプロテスタントを解放した時である。    
  ・
復興はルーブル、宮殿の中に巨大な回廊(グランドギャラリー)を築かせたのである。    
  ・
アンリ4世はこの場所に多くの芸術家を住まわせて、これを拠点にフランス独自の芸術がうまれた。    
  ・
ガブリエル・デストレ(アンリ4世の寵愛を受けた女性)などのフォンテーヌブロー派芸術である。    
  ・
これを機に実在の女性の裸体表現が広まった。

ガブリエル・デストレとその妹ビヤール公爵夫人の肖像

 

【17世紀:ルーブル美術館 ルイ14世によるアポロンのギャラリー】
  ・豪華王宮入口設計(東ファサードの設計)
     ルイ14世は伊建築家ベルニーニ1598-1680に依頼

     仏建築家クロード・ペロ1611-1688が再設計
     ナポレオン1世が着手ほぼ完成----N、鷲、蜜蜂
     ルイ18世装飾完成----L

  ・ドゥノン翼
  ・
17世ルイ14世の治世、フランスの芸術を花開かせ多くの芸術家を育てたことで芸術大国フランスとなった。 
    
リゴーによるルイ14世の肖像画は有名である。 
    
ルイ14世が即位したときの絵画コレクションはまだ数十点だったという。 
    
そして諸国の名画をできる限りあつめたことで2500点になった。 
  ・
ルイ14世は4歳で即するが対立する貴族に追われて9歳でパリを離れる。が、再び絶対王政を取り戻したのは22才。 
    
その権威を誇示するために芸術の力を借りた。 
  ・
その思いを伝えるのがルーブル美術館のアポロンのギャラリーである。 
    
回廊の中央天井には太陽の神・アポロンを描いて自らをなぞらえ、太陽王と語った。 
  ・
またこの時代は戦争に明け暮れた時代でもあった。 
    
オランダでの勝利を記念するサンドニ凱旋門は古代ローマ風で、王が育てた芸術家が刻んだものである。 
  ・
1663年ルーブル宮殿に王立絵画彫刻アカデミーが誕生した。 
    
王の業績を後世に伝える芸術家を育てることが目的である。 
    
そしてルイ14世が手本として示したのがニコラ・プッサンというひと世代前のフランス人歴史画家であった。 
    
「サビニの女たちの略奪」 
    
(古代ローマの伝説で、女が少なかったローマではサビニの女を略奪して子孫を残そうとした歴史を描いた) 
    
などの歴史画・古典画に対する知識を頂点とした。 
  ・
ベルギーの巨匠ルーベンスは「マリーの生涯」を24枚の連作として描いた。 
    
マリーはイタリアフィレンツェのメディチ家出身、ルイ13世の妃となったが、彼女の生涯を描いた連作である。

アポロンのギャラリー@ドゥノン翼

 
  ・
ルーブルの中庭にはピエール・ピュジェによる「クロトナのミロ」がある。 
    
かつての勇者が身を亡ぼすさまを彫刻にしたものである。何を表したかったのだろうか。 
    
また中庭には4体の捕虜のブロンズ像がある。 
    
それはルイ14世が20年に渡って戦争を行い4国を制覇した証のものであるという。 
  ・
この治世芸術の繁栄の一方で飢え苦しむ国民は増え続けていた。そして太陽王への尊敬は失われていった。 
  ・
1715年国の財政が破綻寸前の状態で、ルイ14世は亡くなった 
  ・
18世紀初頭、これまでにないフランス独自の美が生まれた。それは権力や栄光とは無縁の華やかで繊細なロココ芸術。 
  ・
そしてやがて国民の家に飾るような絵が売買されるようになった。特に人気がでたのは静物画だったという。 

【19世紀:ルーブル美術館 ナポレオンのコレクション】   
  ・ドゥノン翼
   
  ・
ルーブル美術館は西洋美術の宝庫であるが、実は6万点もの古代エジプトの美術品が収められている。 
    
これらは4000年以上も前のナイル川流域の芸術である。 
    
特に書記座像。書記はファラオの祈りを神に届ける役目を担う重要な職である。 
    
太陽神などの神々に祈りを捧げるためにパピルスに記したヒエログラフは世界中に知られている。 
    
これらがもたらされたのは19世紀。 
  ・
1789年のフランス革命では王政を打倒し、その直後ヨーロッパ諸国との戦争に追い込まれたときに現れたのがナポレオン 
    
イタリア遠征などでは革命軍を鼓舞して連勝。列強からの脅威を退けてフランスを独立に導いた。 
    
そして戦勝品である絵画などを数多く持ち帰って、 
  ・
1793年ルーブルを世界で初めての美術館(共和国美術館)に仕上げた 
    
イタリア・ヴェネチアの修道院から持ち出した「カナの婚礼:ベロネーゼ作@1563」
       --サン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト修道院の食堂の壁
       --ガリラヤ(パレスチナ地方)のカナ
       --イエスが初めて奇跡を起こす---水をワインに変える
       --砂時計、骨をかじる犬
       --ベネツィア商人
       --ベネツィア音楽隊---ティッツァーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ
       
    
(繁栄はいつまでも続かないことを暗示しているというから平家物語に通じる) 
    
古代ギリシャ・ローマの彫刻「戦う戦士の像:BC1世紀頃」、 
    
エジプト遠征での戦利品(200名もの学者を連れていったというから古代エジプト研究も目的)、 
    
アメンヘテプ3世の巨象の頭部(ツタンカーメンの祖父 BC14世紀)、 
    
プトレマイオス朝のミイラ(BC4-1世紀)を所蔵することで、名を「ナポレオン美術館」と変えた。 
  ・
ルーブルの2階の赤の間には「皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの戴冠式:ジャック・ルイ・ダヴィッド」@1804 
    新古典主義
      
    
この式典ではノートルダム大聖堂で2万人が参列した。 
    
ナポレオンの背後に窮屈そうに座るローマ教皇・ピウス7世が印象的。 
    ナポレオンは王冠をローマ教皇から取り上げると自分で戴冠し、その後ジェセフィーヌに被せた 
    ジョセフィーヌの後ろにはナポレオンの5人の妹と2人の兄弟がいる
 
  ・
「エイローの戦場におけるナポレオン:アントワーヌ1808」はロシア・プロイセンに勝利したナポレオン絶頂期の絵画、 
    
以降国民の心は離れて1814年には退位。 
    
フランス革命から僅かに25年でナポレオンの時代は終わった。 
  ・
そして美術館は王立美術館となり、新しい芸術が現れた。 
    
「グランド・オダリスク:ドミニク・アングル」 
    
オダリスクというのはオスマン帝国のハーレムに仕えた女性、柔らかな裸体画である。

皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの戴冠式

 
  ・
19世紀初頭に革命を起こした絵画が、「ネデュース号の筏 By テオドール・ジェリコー」である---ロマン主義。 
    
19世紀に実際に起きた軍艦の難破描いたもので、何もない中で13日間漂流、フランス国家は救出せず、 
    
130人もの犠牲者がでた事件であった。 
    
ジェリコーは誰からの依頼も受けずに自ら実物の死体を描いたという。 
    
彼方に見える船に対して必死で救いを求める黒人の姿が、当時の混乱期にあったフランスそのものを描いたのかもしれない。 
    
この作品、当初は非難を浴びたが、ジェリコーは「真実こそが美である」と語った。

ネデュース号の筏

【フランス7月革命】     
  ・
ナポレオン亡き後、フランスは王政・革命などで揺れ動いた。 
  ・
1814年にはブルボン王政が復活して1824年迄ルイ18世が即位し、1824年迄王位に就いた。 
  ・
次に王位に就いたのは1824年シャルル10世。まさに混乱の時代であった。 
  ・
赤の間にそれ激動を象徴する絵画がある。 
  ・  
1830年に起きた7月革命を描いた絵・「民衆を導く自由 By ウジェーヌ・ドラクロア1798-1863:ロマン派」である。 
  ・  
当時主流であったラテン語的な古典主義(代表的なのは美術アカデミーのアングル)に対してロマンス語的なロマン主義が、 
  ・  
現在の矛盾・描画タッチ・動的構図をテーマに描き始めた。 
  ・  
中央で三色旗を掲げる女神は「マリアンヌ」というフランスの象徴であり自由の象徴。

 
  ・
1814年にブルボン家が王政復活を成し遂げ、シャルル10世は絶対王政を目指した 
  ・
1830年の7月革命でシャルル10世1757-1836はイギリスへ亡命し 
  ・  
フランス・ブルボン家の終焉を迎えることとなる
 
  ・  
ブルジョア、労働者、市民といった異なる階級の名もなき人々たちが武器をもって自由と希望を求めたのである。 
  ・  
この作品はルーブルで公開されると熱狂的に迎えられ、民衆は自らの姿を見出したのであろう。 
  ・  
しかし革命では民衆が願った理想の社会は訪れなかった。革命を担ったはずのブルジョア達は再び国王を擁立した。 
  ・
やがて、1848年の労働者たちが18年続いたルイ・フィリップの7月王政を倒す二月革命につながる。 
  ・  
結果政治は混迷を極め、第二帝政皇帝・ナポレオン3世1808-1873(ナポレオン1世の甥)が即位して権力を握る 
  ・
まだ独身だったナポレオン三世がスペイン貴族ウジェニー・ド・モンティジョ結婚したのは1853年1月。 
  ・  
そしてルーブルの一角に絢爛たる「ナポレオン3世の迎賓室」を造った。 
  ・  
天井の巨大なシャンデリアはフランス・バカラ社製。室内装飾には惜しげもなく黄金が使われた。 
  ・  
ナポレオンは自国の産業に力を入れて近代化に貢献し、ルーブルを発展させたが、 
  ・  
しかし一般庶民が重税に苦しめられていた背景は忘れてはいけない。

【ナポレオン3世の頃の傑作・サモトラケのニケ】     
  ・
ナポレオン3世の頃にルーブルはほぼ現在の姿になった。 
  ・
そしてこの時代にもたらされたのが「サモトラケのニケ」BC190年頃である。 
  ・  
1863年、フランス人によってサモトラケ島で発見された勝利の女神・ニケは、 
  ・  
古代ギリシャ・エーゲ海の民の彫刻である。翼を広げて天から舞い降りた姿である。 
  ・  
薄い衣に覆われ、翼を織りなす羽は降り立った躍動感に満ちている。 
  ・  
発見当時はバラバラであったが、つなぎ合わせて復元した彫刻は2000年の時を超えて蘇ったのである。

 

【産業革命とともにやってきたフェルメールの絵】     
  ・
1889年万博@パリで建設されたシンボルはエッフェル塔、社会の豊かさを支えた物は産業革命である。 
  ・  
これによって地方からパリへ人々は流れ、その多くは労働者となった。 
  ・  
ボードレールの言う恐るべき、憂鬱な都会の始まりである。 
  ・
この時代にパリ市民の間で人気となった画家、それは17世紀のオランダで活躍したヨハネス・フェルメール1632-1675である。 
  ・  
それらの絵は19世紀後半にルーブルに収蔵された小さな枠に収まった情景は日常生活の女性の姿である。

 

【20世紀:ルーブル美術館】     
  ・
20世紀初頭、第一次世界大戦では、フランスは戦勝国となったものの140万人が戦死。 
  ・
ヨーロッパ全土が暗雲満ちた時代に脚光を浴びたの画家がラトゥール1593-1652である。 
  ・  
17世紀宗教戦争の最中に人の奥底を見つめたフランス人画家である。 
  ・  
それが戦争の時代にパリ市民の評判となったという。 
  ・  
「ダイヤのエースを持ついかさま師」無垢な青年をいかさま師がぐるになって騙しているまさの絵。 
  ・  
さて、騙されるカモ、騙すいかさま師は一体何を象徴しているのだろう。

 

【ナチスドイツによって奪われた芸術】     
  ・
1939年第二次世界大戦が勃発し、翌年フランスはドイツに敗れてパリは占領された。 
  ・
大戦中ナチスは占領した国々から大量の美術品を奪った。 
  ・
しかしルーブルは開戦前に作品を避難させ、4000点もの美術品をフランス各地に隠したのである。 
  ・
その中にミロのビーナス、サモトラケのニケ、モナリザなどが含まれた。 
  ・
守り切れずにナチスに奪われたのは16世紀につくられた宗教彫刻の傑作 
  ・  
「聖マグダラのマリア By グレゴリー・エアハルト」がそれである。 
  ・  
かつで娼婦であったマリアはキリストによって聖女に生まれ変わる。 
  ・  
16世紀以来、多くの戦争の中、数えきれない人々がこの像に祈りを捧げてきたのである。 
  ・
1945年第二次世界大戦後、4000点もの美術品は各地からルーブルに帰ってきた。 
  ・  
その中にあって世界最高峰の美と称えられた古代ギリシャがもららしたミロのビーナスも帰ってきた。

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【フランス-7-5】オルセー美術館7区、ポンヌフ駅1区、シテ島ノートルダム大聖堂4区

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【セーヌ川沿い】

7区----オルセー美術館~ポンヌフ駅~ノートルダム大聖堂

・オルセー美術館
   オルセー駅@1900だった大きな建物を活用した有名な美術館@1986  
     ⇒1900以前の主要駅はオーステルリッツ駅----シテ島からは遠い 
     ⇒技術革新に伴い列車が長くなるとオルセー駅は廃駅となる@1939 
     ⇒歴史的建造物として残しつつ美術館として開館@1986
    
   1848-1914の作品展示
   日本人女性の彫刻像がある@1876-パリ万博
   自由の女神@1889 -- アメリカ独立100年記念にフランスが贈った
   中を飾るのは印象派の画家達 
     ⇒
  マネ1832-1883
   @1860 マネ夫妻の肖像----オーギュスト・マネは官僚  
                       
   @1861 南北戦争~1865
               
   @1862 二人は知り合う@ルーブル美術館            
        この時マネは有名:草上の昼食@1862でスキャンダル
        若い画家たちは絶賛
        マネの父オーギュスト・マネ死亡 
   @1863 「オランピア」→大批判          
        モデル:ヴィクトリーヌ・ムーラン1844-1927   
                  
   @1866 「女性とおうむ」    
        モデル:ヴィクトリーヌ・ムーラン         
                           
   @1867 「シャボン玉」   
               
   @1868 ドガは「マネ夫妻@北九州美術館」を描くがマネは激怒?     
            →妻スザンヌ1829-1906はピアノの先生       
             息子はレオン、父親は?マネ?
        「ピアノをひくマネ夫人」
        「エミール・ゾラの肖像画」      
        「バルコン」 モデルはベルト・モリゾ1841-1895   
                         
   @1870 普仏戦争                      
                       
   @1871 「休憩」 モデルはベルト・モリゾ  
        この頃マネはベルト・モリゾを数多く描く 
   @1871 現在のオルセー美術館がある所が火災@パリコミューン 
        パリオルレアン鉄道がこの空き地にオルセー駅を建設@1900
   @1874 4月15日 第一回印象派展@パリ 
        ⇒会場はナダール1820-1910の写真スタジオ@キャプシーヌ大通り 
            ⇒オペラ座の通り、赤いファサード  
            ⇒Grand Café Capucinesの数件隣り 
        ⇒画家は30人
                          
   @19世紀後半 振興ブルジョワ時代----肖像画が流行
   @1883 マネ死亡:梅毒で足が壊疽                    
   @ドガは、マネの死後に掘り下げていく----大量のマネ作品所有
   @2024 印象派展150年記念@オルセー美術館 ---- 2024-7-14迄 
        ⇒200年の歴史を持つサロンと対比展覧 
        ⇒ルノワールの踊り子から始まる 
        ⇒モネのキャプシーヌ大通り          
   
   
   
            
・バトー・ムーシュ: セーヌ川の遊覧船             
・ルーヴル美術館
   古代メソポタミア~19世紀中まで
の作品
   かつての宮殿に膨大な数の芸術品を所蔵する美術館            
・チュイルリー宮殿
   フランソワ1世がここを購入----元々は瓦工場
   瓦のことをチュイル 
   
   1871パリコミューン時代に消失 現在は庭園  
      ⇒1870普仏戦争後、反帝政運動を進める民衆の自治政権@1871-3 
       ドイツの支援を受けた臨時政府軍(仏ブルジョワ政治家)に敗れて崩壊(血の一週間 死者3万人)@1871-5
      ⇒普仏戦争:ドイツ統一を目指すプロイセン VS 統一を阻むフランス 
       結果ドイツ統一
    
   設計はアンドレ・ル・ノートル1613-1700
   H2気球初飛行@1783----シャルル&ロベール
   シャルル・ペロー1628-1703----『ペロー童話集----眠れる森の美女』の作者
      ⇒財務大臣ジャン=バティスト・コルベール1619-1683が認める
      ⇒ルイ14世に仕える
      ⇒公園を庶民に開放
               
・ポルト デ リオン            
   ルーブル美術院            
・カルーゼル凱旋門
   1808完成Byナポレオン1世@チェコ--アウステルリッツ戦@1805
   4頭の馬@ヴェネチア聖マルコ寺院
   凱旋門から伸びる敷石----日時計
                
・Quai François Mitterrand通り----ル
ーブル美術館外壁            
・フランス学士院             
・ペニッシュ: セーヌ川で船上生活をする人 (平底船を使用)            
・コンシェルジュリー宮           
   ゴシック宮殿
            
   衛兵の間:2000人             
   政治犯の牢獄----マリーアントワネット幽閉            
     受付--牢獄署長--散髪            
   独房----現在は礼拝堂             
   マリーアントワネットの肖像画@独房            
・ゴシック聖シャペル@ルイ9世           
   コンシェルジュリー宮使用人の礼拝堂            
   19世紀に装飾           
   コンスタンティノープルにあったラテン帝国のボードゥアン2世1217-1273            
    ⇒聖遺品茨の冠を購入したのがルイ9世:金額は約40兆円            
    ⇒ボードゥアン2世は困窮をしのいだ           
    ⇒冠の宝箱が聖シャペル----現在冠はノートルダム大聖堂にある           
    ⇒仏がエルサレムに次ぐ聖地となる          
・花市場                        
   ナポレオン1世創設            
   英エリザベス2世が訪問@2014             
・ノートルダム大聖堂:「私たちの貴婦人=聖母マリア」1163着工1225完成
   威厳ある 1345完成の大聖堂。飛梁と、ヴィクトル ユーゴー作の小説に登場するガーゴイルがある。                        
   屋根火災@2019-4-15----瓦礫も遺産なので個々に調査             
   仏全土から木材を調達
            
   内部壁画も同時に修復
            
   ステンドグラスや彫刻は壊れずに残った             
   木組み屋根の上には完成を祝ってミモザの花束を設置

ポワン・ゼロ・デ・ルート・ド・フランス
   ここを踏むと、パリにまた来れる。

 

1区   
・オランジュリー美術館
 ポール・ギョーム1891-1934----美術館の地下にある印象派絵画コレクションの原点
   1911 アポリネールと知り合う@パリでギャラリー開設時代
   1914 モディリアーニと知り合いパトロンになる:アフリカ彫刻的絵画に魅了される
       アポリネールを刺激→多くの画家と知り合う契機となる
         →マティス、デュラン、ルソー、ユトリロなどの絵画を購入販売
   1917 アフリカ芸術「彫刻ネグレ」を制作
   1922 ジュリエット・ラガズ(ドメニカ)と知り合う 後に結婚
       多くの画家がドメニカを描く@1924頃~
   1928 ドメニカはジーン・ワルター1883-1957と知り合い3人の共同生活が始まる
   1934 ポール・ギョーム病死(腹膜炎)殺害の疑いあり
       ドメニカはパウロを金で買って偽造妊娠を図りポールの財産相続を狙う
   1941 ドメニカはジーン・ワルターと結婚
       ドメニカは知り合った医者ラクールと3人の共同生活を始める
   1957 ジーン・ワルター事故不審死(ドメニカの殺害説)
       ドメニカはジーン・ワルターの遺産を相続
       邪魔になったパウロ殺害を計画
       パウロと殺し屋レイ少佐が反逆
       ラクール博士は投獄されるがドメニカは逮捕されず
       
       後に大量の絵画が国家寄贈されてオランジュリー美術館地下にある
       当時の文化大臣アンドレ・マルロー1901-1976が取引を行った模様
       
 オランジュリー美術館:モネ編
   元々はオレンジ倉庫、温室
   クロード・モネ1840-1926が描いた睡蓮の壁画を 8 枚展示----最晩年の遺作      
      
雲 朝 緑の反映 日没 樹木の反映 朝の柳 二本の柳 明るい朝の柳       
 


1914 第一次世界大戦
1918 ドイツ降伏@仏首相であり美術愛好家ジョルジュ・クレマンソー1841-1929       
    翌日モネはジョルジュ・クレマンソーに絵画寄贈を申し出
      モネ    :連作を引き受ける   
      クレマンソー:建物を用意する
1920 ロダン美術館の中庭提案される    →モネは却下       
1921 クレマンソーはオランジュリーを提案 →決定 
1922 この頃82歳のモネの視力は白内障で衰え、赤黄は見えず 右目は失明       
    元々医者だったクレモンそーは手術を勧める      
1923 右目手術するが国家寄贈を断念@1924          
1925 義娘ブロンシュの仲介でモネはクレマンソーと再会→視力回復@85歳      
1926 睡蓮の連作完成 →その年末にモネ死亡          
1927 作品公開@オランジュリー        

 

   隣にあるチュイルリー庭園は元々チュイルリー宮殿 
    フランス革命のときに戦ったスイスの傭兵がここで戦死
    スイス・ルツェルンにある「瀬死のライオン像」はスイスの傭兵の悲しみの象徴
    オーギュスト・ロダン1840-1917の彫刻「キス」
     ⇒地獄の門@40才からヒント
     ⇒弟子カミーユ・クローデル1864-1943は愛人@1880----精神病 
     ⇒妻はローズ      
    
   
8区   

・ジャンヌ・ダルク騎馬像

・コンコルド広場
   噴水や彫像
   エジプトのオベリスク(クレオパトラの針)がある:ルクソール神殿より
   処刑場所としても有名:ルイ16世、マリーアントワネット

・シャンゼリゼ大通り
   7/14----革命記念日にはパレード

・エッフェル塔
   ギュスターヴ エッフェルが設計したパリを象徴する鍛鉄製の塔。1889 年パリ万博を記念して完成

・パリロンシャン競馬場
   
競馬といえば「ダービー」いわれは英国のダービー伯爵家、12代当主が始めたという。
   
その肖像画はナショナル-ポートレート-ギャラリーにある

・ギメ東洋美術館
   入館料無料、東洋の仏陀像や絵画、ガンダーラの美術品

 

 

【アレクサンドル3世橋】1900年完成@万博 with グランパレ・展示会場

【オテル・デ・ザンバリッド廃兵院】1793完成 大聖堂はルイ9世を安置する目的 ナポレオンの墓

【シャイヨー宮】

【エリゼ宮】 大統領官邸

【コメディ・フランセーズ】1680年、ルイ14世時代の劇作家モリエールが創設した世界最古劇場。

【ヴァンドーム広場】 ルイ14世完成後、ナポレオンが凱旋

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【フランス-7-6】 フランスの現政治 ドゴールからマクロン

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【ヴィシー政府を嫌ったシャルル・ドゴール1890-1970】
 ・1940/5--ナチス侵攻、仏降伏 
 ・1940/6--英に亡命して、ロンドンに自由フランス政府立ち上げ、ナチスドイツに対抗した
 ・1944/6--ドゴールは英チャーチルに働きかけたことで、米ノルマンディー上陸
      英大嫌いな仏が英を頼る・・・・
 ・1944/8--パリ帰還、臨時政府首相
 ・1945/5--無条件降伏
      ドゴールはこれを自分の手柄にする・・・・
 ・結果、仏は戦勝国 国連安保理事国入り 

【現在のフランス】

    

 1968 5月革命 :新左翼による一斉蜂起@パリ
     ・ドゴール体制批判
     ・武力制圧の結果ドゴール退陣@1969
 
 1972 国民連合結成 By ルペン1928-
     ・ドゴールに対抗:元々はドゴールに傾倒
       が、アルジェリア独立を承認するドゴールに激怒
       ドゴールは暗殺されかかっている
       映画:ジャッカルの日@1973
     ・超保守 排外主義
     ・反ユダヤ
     ・1986 35議席@比例代表
         マスコミによる極右攻撃が始まる
     ・2002 ルペンが大統領に立候補するが惜敗
     ・2011 娘のマリーヌ・ルペンは父を党から除名
         マリーヌが党首となると大躍進する
 1974 ジスカールデスタン大統領--1981迄
     ・米べったりのグローバリズム(反ドゴール派)
 1981 ミッテラン大統領--
     ・EU結成 ユーロ発行
 1995 シラク大統領
     ・イラク戦争反対
 2005 移民暴動
     ・
 2015 同時多発テロ@パリ
     ・マリーヌによる移民取締強化


 2017 マクロン大統領--1981迄
     ・1位 マリーヌ ⇒過半数行かず、決選投票で敗退
               排外主義は抑え、減税
     ・2位 マクロン
     ・3位 ドゴール派
 2022 マクロン27% VD マリーヌ23%
     ・決選投票でマクロン58%で勝利
 2024 

 

 

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【フランス-7-4】パリ中心1区、レアール2区、シャトレ・レアール4区、マレ4区、サンマルタン運河11区

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

パリの市街は、ティエールの城壁(全長33kmに及ぶ難攻不落の城壁で、1844年に完成したが1882年から解体)の跡地に造られた環状高速道路に囲まれた地域で、セーヌ川沿いのノートルダム大聖堂からエトワール凱旋門までが特に中心地と言える。

第二帝政時の19世紀、セーヌ県知事(1853年から1870年まで17年)のジョルジュ・オスマンがフランス最大の都市整備事業を行う

【セーヌ川沿い】

4区----シャトレ・レアール 

 
・①ブキニスト古本市 
・②Cheval Blanc Paris:ホテル白馬 

シャトレ駅   ----シャトレ広場:かつてはシテ島防御の要塞 
             要塞を破壊したのはナポレオン1世 
             ナポレオン勝利の塔 :スフィンクス
             シャトレ駅近傍で暗殺されたのがアンリ4世 
・パリ市立劇場  ----サラ・ベルナール劇場ともいう  
・サンジャックの塔----セーヌ川沿岸はすべて世界遺産:聖ヤコブの貝@門 サンチャゴ巡礼路のスタート 
             かつては教会、肉屋の聖ヤコブ教会  
             フランス革命の時に破壊された---塔のみが残った@19世紀修復 
             パスカルの実験塔:気圧 
・Nicolas Flamel1330-1418----錬金術師:賢者の石製造  
・ロンバール通り    ----中世の街並み  
・Rue Saint-Martin通り----聖メリー教会:ゴシック   
・ポンピドゥー・センター----ジェフ・アエロソル壁画 知識+行動=力      
・Sébastopol通りの西が1区     
・Fontaine des Innocentsイノサンの泉----@ルネッサンス      
                      16世紀中は墓地+食品市場(レアール)   
                      ルイ16世の時代に墓地廃止     
                      アンリ4世暗殺地@1610-5-14
・Rue Saint-Honoré----中世から続くような道:デーツ:ナツメヤシの実--干し柿
・枯れたトラハール・クロスの噴水----@フランソワ1世制作 ルイ16世修復@1775
                  前はプロテスタント処刑場所@マンホール
                  俳優モリエールの生誕地@1622-1-15:フランス古典喜劇

1区 ----パリの中心地
・パリの百貨店「サマリテーヌ」設計はSANAA日本人ユニット妹島和世、西沢立衛
・ポンヌフ:新しい橋という意味だが、パリ最古の橋
  かつては木造、橋の上には家が並んでいたがこれを禁止(Byアンリ4世:vert galant)、石造りに新しく変えた
  アンリ4世騎馬像----アンリ4世時に完成1578-1607
  アンリ4世は自身が造ったルーブルのグランドギャラリーを見てほしかった
  ポンプでセーヌ川の水を汲み上げてチュイルリー宮殿まで送る
  ここで@1869成功した商売人エルネスト・コニャック夫妻---百貨店「サマリテーヌ」の前身
  橋の下へ降りるとマスカロン装飾:伊から入ってきた顔の魔除け
・セーヌ川の遊覧船
Square de la place Dauphine:アンリ4世の王太子広場---ドーファン=ドルフィン=イルカ              
  テンプル騎士団のモレー総長が火炙り@1314ドルフィン広場⇔フィリップ4世             
  伊人歌手イヴモンタンが住んでいた
              
・Cour d'Appel:裁判所---元々はシテ宮殿@フランク王国クロビス1世
             14世紀にルーブルに移設@シャルル5世
             ユスティニアヌス1世(justinian帝)の顔レリーフ:古代ローマ法律を編纂
             ナポレオン1世の顔レリーフ           :仏現在の民法を整備した--ナポレオン法典
               
             Bonbec(拷問)の塔               
             セザールの塔:王の居室
             
・両替橋Byナポレオン1世---元々は木造 両替屋が並んでいた               
・時計台Byシャルル5世@14世紀            
・コンシェルジュリー
   シテ島にある要塞のようなゴシック様式の宮殿:シテ王宮
   革命時代は牢獄
   フランス革命時にはマリー アントワネットが収容された               
・サント・シャペル礼拝堂Byルイ9世:十字軍遠征で茨の冠購入して奉納した             
・花市場エリザベス2世@2015訪問 

 

 

2区----レアール界隈

・Rue des Petits Carreaux
・Rue Montorgueil ---- モン:傲慢な山
  12世紀フィリップ・オーギュスト1165-1223時代はゴミ山
  古風な看板----カルナヴァレ美術館入口の看板展示室に在り
  同性愛に対する火炙り刑@マンホール
  フランス革命以降はなくなる
  クロード・モネが描く@1878-6-30----第三回パリ万博


À la Mère de Famille
  パリ最古の砂糖菓子屋@18世紀中
・Au Rocher de Cancale
  ブルターニュ地方名物岩牡蠣
  小説家バルザック1799-1850
ストレー
  1730 年創業のエレガントな最古のパティスリー
  ルイ15世妃マリー・レグザンスカ1703-1768付のケーキ職人二コラ・ストレーが来仏
  ババオラム発祥の地
・L'Escargot
  エスカルゴ専門店
  女優サラ・ベルナール   1844-1923
  劇作家サシャ・ギトリ   1885-1957
  小説家マルセル・プルースト1871-1922

・サントゥスタッシュ教会@15世紀Byフランソワ1世----
  彫刻ピガール作
  フレスコ画トマ・クチュール1815-1879:エドワール・マネの師匠
  コルベール1619-1683の墓@ルイ14世 彫刻はコワズボゥ1640-1720
  ルーベンス「エマオの食事」
  キース・へリング1958-1990の祭壇画
  ゴシックフランボワイアン----傘の骨のような屋根
  巨大なオルガン
  2019年の復活祭ミサ実施
・ネルソンマンデラ公園           
        
・現代美術館Byピノー財団;ブルス・ドゥ・コメルス          
  16世紀 :カトリーヌ・メディシスの邸宅+塔@1572           
        おかかえ占い師の提案         
  18世紀末:小麦倉庫@1749          
        食糧危機→フランス革命        
  19世紀末:鉄道整備 初は1830         
        食料巨大倉庫は不要→商品取引所@1889 万博会場にもなった           
                  アンリ・ブロンデル1821-1897設計          
  21世紀 :商品取引所不要→維持費莫大          
        →大富豪フランソワ・ピノー1962が借りる@50年契約          
         現代美術館とする         
         安藤忠雄1941-が改修設計          
         直径29m円形シリンダー構造

             

2-3-4区----お洒落なパッサージュ

              
・Rue Saint-Martin              
・Rue Rambuteau             
・Pass. Molière               
  ルイ14世1638-1715の死後財政難を克服しようとジョン・ロー1671-1729              
  金銀不足対策として信用貨幣を考案して流通             
  結果ハイパーインフレを起こして銀行券は紙くず               
・Maison de Nicolas Flamel 1330-1418 錬金術師             
  ニコラ・フラメルが住んでいた最古の建物@1407              
  修復@1900             
  ミシュラン★レストラン----ランチ78€               
・フィアクル邸              
  馬車レンタル業が大流行             
  同時にぼったくりも横行して、メータ義務化⇒タクシーの起源               
・Passage de l'Ancre----最古              
・パサージュ・デュ・ブール・ラベ----サンマルタン修道院司教地域の通り             
・パッサージュ ド グラン サーフ ----鹿の通り
            
・Tour Jean-sans-Peur    ----ジャンの塔@1410            
                  ブルゴーニュ公爵ジャン1世>フランス王家@15世紀           
                   ⇒シャルル6世の後の後継オルレアン公爵ルイを暗殺@1407           
                            
            
【仏 ヴァロワ朝 1328-1498】
  ①フィリップ6世1293-1350@1328即位(フィリップ4世の弟の子)
      ┃
    ┗②ジャン2世1319-1364@1350即位   
         ┃・ペスト流行   @1348~ 
         ┃・ジャックリーの乱@1358 農民反乱     
         ┣ ブルゴーニュ公フィリップ2世1342-1404
       ┃  ┗ジャン1世1371-1419(無怖公 暗殺死Byオルレアン派)
       ┃    ┗フィリップ3世1396-1467
         ┃    
         ┣ ベリー公ジャン1世     1340-1416----ベリー公のいとも豪華なる時祷書
         ┃
       ┗③シャルル5世1338-1380@1364即位
              ┃ ・ゲグラン抜擢:ブルターニュの鷹
              ┃  コシュレルの戦い @1364勝利
              ┃  ナヘラの戦い   @1367敗戦 ⇔ 黒太子勝利するが赤痢
              ┃  ポンヴァランの戦い@1370勝利
              ┃ ・常備軍設置
              ┃ ・エドワード3世死去 @1377
              ┃ ・黒太子死去    @1376
              ┃ ・シャルル5世死去  @1380  ---休戦
              ┃ ・ゲグラン死去   @    
            ┣ オルレアン公ルイ1372-1407(暗殺死Byジャン1世(無怖公))
              ┃
          ┗④シャルル6世1368-1422@1380即位
                 ┃ ・ブルゴーニュ派 (親英:シャルル6の妻イザベル)---内乱
                 ┃ ・アルマニャック派(反英)
                 ┃ ・英ヘンリー5世@1399即位
                 ┃ ・アザンクールの戦い@1415--仏敗戦
                 ┃        ┗トロワ条約@1420             
                               ┃ ・ヘンリー5世@1422、シャルル6世死去@1422          
                 ┃    
                 ┣カトリーヌ  → ヘンリー5世の妻:シャルル6の妻イザベルの企み
                 ┃
             ┗⑤シャルル7世1403-1461@1422即位
                  ┃ ・アルマニャック派(反英)がシャルル7世を担ぐ
                  ┃ ・オルレアン(アルマニャック派砦)包囲@1428
                  ┃ ・パテーの戦い仏圧勝@1429
                  ┃   ・ジャンヌダルクがオルレアン開放@1429
                  ┃ ・シャルル7世戴冠@ランス大聖堂
                  ┃ ・ブルゴーニュ派(親英)が親仏に寝返る
                  ┃ ・アラスの和約@1435---ブルゴーニュが仏領
                  ┃ ・パリ、ルーアン、ボルドー奪還@1453
                  ┃ ・カレー以外はイングランド撤退
                  ┃
                ┗⑥ルイ11世@1461
                   ┗⑦シャルル8世@1483
                       イタリア侵攻@1494-1559 対ハプスブルグ家
                       諸侯没落、王権拡大 →ルイ14世登場  

    

マレ地区:4区


・マリー橋:サン・ルイ島を結ぶ橋でクリストフ・マリー設計
・Hôtel de Sens 大司教邸----今は
Library Forney
・フィリップ・オーギュストの城壁@1180-1210
  「サン=ポールの隠し戸」----アンリ2世の事故@1559でモンゴメリーが幽閉
   
・サンポール・サンルイ教会:イエズス会
・Rue Charlemagne:カール大帝
・Rue Eginhard   :カール大帝の伝記を残す
・スリーの邸宅     :アンリ4世時代の財務大臣
   外壁の彫刻
   奥にはスリーの庭園:Cour et Jardin de l'Hôtel de Sully
・L'Ambroisie   :豪邸 今は高級レストラン
・ヴォージュ広場   :元々はアンリ4世が造った王立広場
   周りはアンリ4世が定めた規則にのっとり建築
   セヴィニエ公爵夫人誕生@1626-1696:マリー・ド・ラビュタン=シャンタル
   ヴィクトル・ユーゴの家
   中央のルイ13世銅像は破壊@フランス革命----現在は大理石の彫刻
   北側には王立絹織物工場
・カルナヴァレ美術館:セヴィニエ公爵夫人の住居----パリ市の博物館 無料

   アテナ    :知恵の神
   メルクリウス :商業の神
   鶏      :仏の象徴
   カーニヴァル :芸術の象徴
・ラモワニョン館  :初の図書館
・Rue des Rosiers:職人労働者のユダヤ人街
            フランス革命後に多くが東ヨーロッパから仏に移住して市民権獲得(アシュケナージ)
            WW2後は地中海から多くが移住
            ユダヤ人職業学校
            アウシュビッツにて多くが殺戮された
・ロジエ・ジョゼフ・ミニュレ庭園:ユダヤ人学校の校長先生
          フィリップ・オーギュスト城壁@12世紀
          クーランジェ邸:セヴィニエ公爵夫人@幼少期
          ユダヤ人ヴィーガン料理;ファラフェル 
          シナゴーグ:ユダヤ人礼拝          
・260人の子供広場 :260ユダヤ人が虐殺されたByナチス

 

北マレ地区:お洒落な地区 昔は貴族の邸宅

  
・19世紀後半産業革命の後に職人が集まる
・サン・セバスチャンーフロワサール駅周辺
  ブティック・MERCI:マリーフランスコーエン
  子供服・ボンボワン  売り上げの一部を寄付
Rue de Turenne 
  エマニエル・
Perrotinアートギャラリー@18世紀の邸宅
  
  
・ピカソ美術館----スペイン人ピカソは仏で死亡1881-1973
  元々はホテル・サレ@17世紀
  塩の徴税人の邸宅:塩の館 
  所蔵画は20000点 
  子供達は天文学的な相続税が払えない⇒5000点を物納⇒美術館に収納
   @1901-1904青の時代 ----ラ・セレスティーナ:バルセロナの売春宿の主人
                友人カサゲマスが自殺
   @1904-1906薔薇の時代----
                恋人フェルナンドと知り合う
   @1912総合的キュビズム 
    仲間が第一次世界大戦に参戦:ブラック、アポリネール
    ショービジネス@ロシアバレー団・ディアギレフ
   @1918オルガ・コクローヴァ1891-1955と結婚
       子供はポール
   @1932マリー・テレーズと出会う----後に自殺
   @1934闘牛の連作@スペイン
   @1936写真家ドラ・マーラ1907-1997愛人と出会う
   @1947陶芸@ヴァロリス
       フランソワーズ・ジロー-2023と共同生活するが、強欲癖に愛想をつかして逃げる
       写真家ロベール・ドアノーがピカソを映す
   @1960「草上の昼食」マネの影響を受ける----古典作品の再解釈
   @1961ジャクリーヌ・ロックと結婚----ピカソの作品を管理 後に自殺
   @1970大スターとなり世界中がピカソの絵を欲する
       生前に実施された展示会は100を超える
   @1973死亡91歳
    死の直前描いたのは若かりし頃の自画像
     
   ピカソ没後50年記念特別展:ポール・スミス1946-演出
  
・Meertワッフルの店

Saint-Denys-du-Saint-Sacrement Church 
  シャルル10世の時代の教会
 
  「ピエタ」Byドラクロワ@1844

・Restaurant OGATA | Sabo@ドベレム通り  
  アンリ4世のヴォージュ広場が評判になりこの界隈に貴族が豪邸を建てた@17世紀  
・アンファン・ルージュ市場
  パリ最古のマルシェ----屋台風   
・Les Enfants Rouges----赤い子供:孤児院の子供
  日本人シェフによる本格的ビストロ


 

11区----サンマルタン運河界隈  

・レビュブリック広場    
  Monument à la République:共和制 マリアンヌ----自由の女神 
  第三共和制@1883 
  普通選挙@1789   
・シャルル5世1338-1380の城壁@14世紀  
・アポロ劇場 サーカス開設----フィリップ・アストレ曲馬師 
・サンマルタン運河 Paris Canal    
  映画アメリの舞台  
  セーヌ川へ続く 
  両脇にはプラタナスの街路樹   
  17世紀水不足問題@ルイ14世  
  清流を引いてくる計画がルイ14世死亡で頓挫⇒ナポレオン1世が計画再開@1803 
  清流はウルク川⇒ヴィレット貯水槽----19世紀中完成  
  仏産業革命@19世紀 1830~1860代----流通路   
  鉄道発達とともに運河は一時廃れる
    
・Passerelle Arletty  
  映画「北ホテル」@1949の女優・アルレッティイ----売春婦役 
・Plan D - DWICH & GLACE              
  サンドイッチの店  
  乾杯⇒サンテ、チンチン 

シャンティイ城:城の中にフランス有数のコンデ美術館がある。この城の奥深くに「世界で一番美しい本」があり門外不出。それは「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」で、15世紀に王族がつくらせた日々の祈りの本である。ラテン語で祈りの言葉が手書きされ、紙は牛皮紙で金やラピスラズリなどの高価な顔料が使われている。複数の画家が80年近くかけて作られた。描かれた絵は25cmほどの小さなもので600年前の生活が月ごとに描かれている。4月は婚約をした二人、5月は新緑の杜で繰り出す若葉狩りの行事(若葉を頭に飾った男女が王宮を離れて愛を語らう)。

ベリー公のいとも豪華なる時祷書
  ┣日々の祈りの本@修道院 ラテン語
  ┣中世ヨーロッパで大ブーム→財産として継承
  ┣国際ゴシック様式の最高峰
  ┣
  ┣複数の画家が80年近くかけて作
  ┃ ジャン2世1319-1364
  ┃  ┣シャルル5世  1338-1380 仏国王
  ┃  ┣ルイ1世    1339-1384 アンジュー公
  ┃  ┣ジャン1世   1341-1416 ベリー公(仏中央部の領地:ベルト・モリゾ出身地)
  ┃  ┃ ①小時祷書       @仏国立図書館
  ┃  ┃ ②いとも美しき聖母時祷書@伊トリノ          ---画家の一人がヤンファン・エイク
  ┃  ┃ ③いとも美しき時祷書  @ブリュッセル
  ┃  ┃ ④大時祷書       @仏ルーブル
  ┃  ┃ ⑤美しき時祷書     @              ---リンブルク兄弟:元々フィリップ2世に出仕
  ┃  ┃ ⑥いとも豪華なる時祷書 @仏シャンティ・コンデ美術館 ---リンブルク兄弟:ペストで死亡@1416
  ┃  ┃
  ┃  ┣フィリップ2世 1342-1404 ブルゴーニュ公
  ┃ ボンヌ・ド・リュクサンブール1315-1349
  ┣
  ┣紙は牛皮紙:実は牛の皮が大多数
  ┣金やラピスラズリなどの高価な顔料
  ┣サイズが29x21cm
  ┣リンブルク兄弟が制作開始@1411 1416死亡により制作停止
  ┃ ┗シャルル5世の玄孫サヴォイア公カルロ1世が相続
  ┃  ┗ジャン・コロンブなどの画家が完成@1485頃:実は未完成らしい
  ┃   ┗サヴォイア公フィリベルト2世死去@1504
  ┃    ┗妻のマルグリッド・ドートリッシュ1480-1530相続:ネーデルランド総督
  ┃     ┗スピノラ公爵所有@17世紀初 :スペイン王室傭兵--ベラスケスのブレダの開城に描かれている 
  ┃      ┗セラ家(スピノラ家の親族)が相続@1826
  ┃       ┗オマール公アンリ(仏王ルイ・フィリップの子)購入@1856
  ┃        ┗仏学士院に寄贈@1884
  ┣現在の装丁はスピノラ家の家紋

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【フランス-7-3】 パリ市郊外ヴェルサイユ宮 フォンテーヌブロー宮

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【郊外】

  ・ヴェルサイユ宮殿
    18 世紀の壮麗な宮殿。きらびやかな居室、シャンデリアが施された鏡の間、噴水ショーがある
  ・
モン・サン=ミシェル
    引き潮の時には渡れなくなるモンサンミッシェル(干満差は15m)
    
8世紀ミカエルがオベール司祭にお告げ
    
10世紀から1000年かけて今の姿になる
    
頂上の大天使・ミカエル(守護聖人)が竜の姿の悪魔を踏みつけている
    
悪魔:地獄に落とされた反逆天使 ボスはルシファー(光の子の意味 光;ルクス)
    
旧約聖書・イザヤ書にあるのはバビロニア王の没落を書いているが、後に堕天使ルシファーと結びつける
    
ミカエル信仰は14世紀~15世紀が最盛期
    
100年戦争の頃の要塞
    
ミサ:カトリック教徒が行う礼拝
    
14000人の囚人:革命家バルベスの独房 島は監獄化@フランス革命18世紀
  ・
ノートルダム地下礼拝堂@966Byベネディクト派⇒最古の礼拝堂(チャペル)

 

フォンテーヌブロー宮殿:フランスで最大のナポレオンゆかりの宮殿で世界遺産
  ・ルイ7世1120-1180が発起人 元々は要塞 王権が高まると要塞の様相は薄れる
  ・フランソワ1世在位1515-1547の胸像が宮殿入口にある
  ・フランソワ1世のギャラリー:奥行60m 頭文字F、伝説の生き物サラマンダー:炎の中でも死なないという
  ・奥にはトリニティー教会
  ・イタリアに攻め入った王はルネサンスに感銘 フランスの遅れを痛感
  ・浴室には「モナリザ」を置いていた
  ・「舞踏の間」@16世紀後半---宗教戦争和解の場 
    しかしながらその後アンリ2世以降カトリック/プロテスタント激戦 アンリ4世で一応終焉
  ・「狩猟の宮殿」として人が集まる
  ・18世紀にはマリーアントワネットが愛す
  
  ・徳川家から贈られた品々が保管されている
    佐野の渡図屏風:狩野春貞 @藤原定家の和歌
  ・1858年日米修好通商条約の後、フランスからの贈答品に対する返礼 by 徳川家定
  ・同様にオランダ・ライデン国立美術館にも所蔵在り :狩野派
  ・源氏蒔絵箪笥:留守模様
  ・1864年日本使節団が訪問:池田長発、田辺太一(岩倉使節団)、杉浦愛蔵(富岡製糸場)、益田孝(三井物産)
  ・1870年仏帝政崩壊後は多くの品々は宮殿に眠る

            

オルレアン:1429 年にイングランド軍に包囲されて陥落寸前だったのを救ったのはジャンヌ・ダルク

ブロワ城:中世のフランス王宮殿、ロワール古城巡りの玄関、駅から徒歩5~8分で着く

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【フランス-7-2】5区カルチェ・ラタン、6区サンジェルマン、13区うずら丘

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【セーヌ川の南側】

サン=ジェルマン=デ=プレ地区---6区

  ・サン=ジェルマン通りのフランス革命家ジョルジュ・ダントン1759-1794---ギロチン処刑
  ・プロコープ:パリ最古のカフェ---ロベスピエール、マーラー訪れた
  ・Grands Augustins修道院---今はない
  ・ピカソの邸宅、アトリエ---ゲルニカ製作 愛人ドラ・マーラ
  ・ルイ13世の旅館というレストラン
       クリスティーヌ(アンリ4世の娘)通りにある
       アンリ4世の時代に整備
       アンリ4世はシャトレ駅近傍で暗殺
       ここでルイ13世は即位@1610
  ・カフェ・パレット---ピカソ、セザンヌのたまり場
  ・サン=シュルピス教会---ドラクロワ壁画修復
  ・モロッコホテル&ディスコ---ジム・モリソン ローリングストーンズ
  ・フェルストンベル枢機卿---サン=ジェルマン修道院長

  ・サン=ジェルマン=デ=プレ修道院があった@6世紀---パリ最古の教会 今はカトリック学院のキャンパス
    聖ゲルマヌス---サン・ジェルマン埋葬@576
    アポリネールの為に制作したピカソによる胸像あり
    ロマネスク様式:窓が小さい    
  ・18世紀のフランス革命で多くの壁画破壊
    19世紀に修復活動
    ロマン派のドラクロワが修復担当
  ・ドラクロワ1798-1863
    独身 家政婦と暮らす
    Rue de Furstembergに移住
    現在はドラクロワ美術館:2階が住居
    ユーゴ、ショパンなどと団欒
  ・カフェドゥ•マゴが超有名---知識人のたまり場
    サルトル  1905-1980
    ボーボワール1908-1986
    ランボー  1854-1891
    ヴェルレーヌ1844-1896
    ピカソ   1881-1973---ここで写真家ドラ・マールと出会う
  ・カフェ・ド・フロール---同様
  ・レストラン・
リップ ---アルザス出身の店主 郷土料理はシュークルット
  ・
ベルナール・パリッシー1510-1590ルネッサンス時代の陶工@公園
  ・セーブルの陶器で制作した門:パリ万博@1900---パリ地下鉄開通の年

・リュクサンブール宮殿
  13世紀頃は修道院  

  1645完成
  宮殿内部非公、公園は一般解放
  サロモン・ド・ブロスによるバロック建築
  フィレンツェから来たマリー・ド・メディシス・アンリ4世妃がつくらせた
  リンゴ、洋ナシ、養蜂場がある

・モンパルナス
  
ラ・リューシュ(エッフェル創建)やシテ・ファルギエールなどの安アパートに住むパリ派(エコール・ド・パリ)
    モディリアーニ伊1884-1920
    スーティン露  1893-1943、
    シャガール露  1887-1985、
    キスリング   1891-1953ポーランド、
    リベラ     1886-1957メキシコ、
    藤田嗣治    1886-1968

 

5区----グランデモスク】

・グランデモスク@1926----3€
  礼拝は5回/日

  中庭パシオ

  モザイク装飾ゼリージュ@モロッコのフェズ職人

   ⇒偶像崇拝禁止

  コーラン文字でカリグラフィ----特殊フォント

  シ・カドゥール・ベンガブリットの墓----大モスクの創始者
    WW1で多くのイスラム教徒が戦死----仏の植民地からの応援

    WW2ではユダヤ人狩りByナチス----ベンガリットはユダヤ人を匿う

  藤の名所----仏語でグリシーヌ 花言葉は優しさと友情

・パンテオン
  キュリー夫人、ビクトル・ユゴー、アンドレ・マルロー、エミール・ゾラなどの偉人達が眠る
    
・藤田嗣治は1920年代パリのサロン・ドートンヌ(秋のサロン、アンネパンダン展とともに20世紀前半最も権威ある展覧会)
    で一世風靡したが、日本ではほとんど無視された。
    それは東京美術学校教授・黒田清輝とは犬猿の仲であったからと言われている。
    無名の時に世話になったフェルナンド・バレエ1893-1960と別れ、
    有名になるとリュシー・バドゥ1903-1966と結婚。
    1925年には仏からレジョン・ドヌール勲章、ベルギーからはレオポルド1世勲章受章を受賞して絶頂を迎える。
    エミリークレイン=シャドボーンの肖像でアメリカにも名声が届く。
    パトロンは薩摩治郎八1901-1976、パリに日本館を建てた人物(実家は木綿王豪商)
    1929年藤田はリュシーとともに凱旋帰国するが歓迎されず、ほとんど無視。
    日本人の嫉妬って酷いようです。そしてこの年、世界恐慌のなかフランスへ帰るが絵画市場は低迷、絵画はまったく売れない

 

5区----カルチェ(エリア)・ラタン(ラテン語)    
   この界隈はソルボンヌ大学、アンリ4世高校などの学校が多い地区    
   その昔学校ではラテン語で授業を行っていた

・Saint-Michel Notre-Dame駅   
・Rue du Chat Qui Pêche シャ(猫)キペシュ(釣り)通り  
・Rue de la Huchette   レストラン通り      
・サン・セヴラン教会  
   仏カトリック  
   13世紀の塔、門----炎のようなゴシック様式:フランボワイヨン@15世紀末   
   サンマルタン像----マントを分け与えた @19世紀門
   クレッシュ  ----クリスマスを飾る人形 
・サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会   
   ギリシャ正教メルキト派
   
   月に数回、心が楽しめるような音楽イベントが開催    
   パリ最古の木の横   
   フランス革命時に一部損傷   
・65 Bis Rue Galande     
   ガロ-ロマン ローマ時代からの古道   
   ジュリアンの彫刻onボート   
・フアール通り----干し草通り      
   パリ大学発祥地----校舎はない    
   神曲のダンテ1265-1321が干し草の上にすわって学んだ  
      →フィレンツェ出身   
   ダンテ通り   
   レストラン・ダンテ

   
・Rue des Anglais----イギリス人

・Romanian Orthodox Church of the Holy Archangels     
   大天使の教会----ルーマニア正教会     
     ミカエル @戦士      
     ラファエル@医療  
   
     ガブリエル@百合   
   コンスタンティン・ブランクーシ----彫刻家   
     →ロダンの弟子 
   ミハイ・エミネスク1851-1889の像----ルーマニアのロマン主義詩人  
・コレージュ・ド・フランス  
   最高学府・研究機関----Byフランソワ1世 
   市民大学----誰でも無料で授業を受けられる
   ここの教授になることが最高の権威    

・サン エフレム教会@18世紀       
   シリア系カトリック教会   
・Sainte-Barbe Library, Sorbonne Nouvelle University@1460        
   @ヴァレット通り       
   フランシスコ・ザビエルが学ぶ----イエズス会      
   イグナチス・デ・ヨロラ   ----イエズス会       
   エッフェルも同様に学ぶ      
   1999迄大学
      
・サンテティエンヌ・デュ・モン教会    
   ゴシック様式     
   エピファニーの日----1月6日 三博士がイエスを訪ねてくる日     
   ガレットデロワ・パイ菓子を食べる     
     
・アンリ4世高校     
   クロヴィス通り     
   クロヴィスの塔      
   サント・ジュネビエーブ修道院が起源     
   フランス革命時にほぼ破壊された     
       
フランク王国の初代王がクロヴィス1世466-511      
   妃クロティルド475-544の勧めでカトリックに改宗     
   サンピエール教会建設     
   サント・ジュネビエーブ
 Sainte-Geneviève 420-500頃      
    パリの守護聖人    
    フン族が襲来@6世紀 の時にパリを守った     
    クロヴィス1世とジュネビエーブ の遺体はサンピエール教会に埋葬     
            →木棺は革命時に消失      
    やがてサント・ジュネビエーブ修道院が発達    
・サンテティエンヌ・デュ・モン教会(聖ステファン教会)     
   サンピエール教会が増築されたもの      
   ブレーズ・パスカル1623-1662が埋葬されている     
   ジュベ----祭壇と信者を隔てる柵     
        トレント公会議@1563以降すべて取り除かれた        
      
・パンテオン     
   仏の偉人たちが眠る      
   18世紀ルイ15世1710-1774が重病となったときサント・ジュネビエーブに祈る      
   かくしてサント・ジュネビエーブ修道院の立て直しとしてパンテオン建設     
   本来教会を立て直す予定であったが、時はフランス革命    
   教会ではなく霊廟に変更した       
      外壁の多くの窓----埋められた   
   パンテオン・ソルボンヌ大学      
      高校三年生でバカロレアという一斉試験を受ける     
      受かれば高校卒業&国立大学入学資格を得る      
      国立大学はどこへでも行ける:どこの大学もレベルは同じ     
      学費は安い     
      優秀な学生は国立大学には行かずに2年間予備校へ行き、3年目に受験してグランデ・エコールに行く      
                                →フランスでの昇進が約束される
   サント・ジュネビエーブ図書館     
     カルバン ----プロテスタント     
     エラスムス----神学者     
     イグナチス----イエズス会
       
・デカルト通り----1596-1650 哲学者、数学者
           
・エコール・ポリテクニック----現在は門のみ残る      
   理系最高学府Byナポレオン1世     
   壁には理系彫刻 
    

 

13区---うずらが丘

【14区----】
  ・モンスリー公園@1875----モンは山、スリーはネズミ
    
    Rue Nansouty
    オザンファンのアトリエ----コルビジェ設計
  ・給水塔
    Rue Beaunier
    ワラスの噴水
    普仏戦争@1870以降飲料水が高騰
  ・レーニン
  ・Poinconレストラン
    昔はモンルージュ駅舎@1867だったが廃線
  ・プチット・サンテュール----パリの環状線鉄道
    
    地下鉄メトロが開通@1900
    メトロと接続の予定が消え、荷物運搬専用@19世紀中頃
    荷物運搬も停止@1993
  
  ・国際大学都市
    アンドレ・オノラ----創始者
    約40か国が参加して自身の国の科学、芸術の発展のために建物を造った都市@WW1以降
    日本館@1927    

      出資は薩摩治郎八1901-1976
      バロン薩摩と言われた大富豪
      モンパルナスで活動していた画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男などを支援
      祖父は木綿王
      藤田嗣治の作品「馬の図1929」@日本館
  

コメント

【フランス-7-1】サンラザール8区、ヌーベルアテーヌ9区、モンマルトル18区

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【セーヌ川の北側】

【8区----サンラザール界隈】


・モンセー元帥の記念碑
  1814 年ロシア軍に対するパリ防衛
  ラチュイレ爺さんの居酒屋が司令部
  
・カフェ・ゲルボア@クリシー通り
  現在は洋服店「Celio」
  印象派展開催の原点
  近くにマネが住んでいた@1855年頃
  Le Weplerが溜まり場----シニャック、ボナール
  
・ポール・シニャック寓居@クリシー通り

・ローマ駅
・Rue de Moscou
  楽器店
  オスマン式建築
  詩人ステファン・マラルメのアパート----詩人は絵の評論家
    ⇒エドガーマネの友人
    ⇒高校の英語教師
  ギュスターヴ・カイユボット「パリの通り雨@1877」
    ⇒「ヨーロッパ橋@1876」
    ⇒マネのアトリエが描かれている
    ⇒ブルジョア階級
・Rue de Berne  
  マネ1832-1883「旗で飾られたベルネ通り」@1878-6-30万博記念日   
    ⇒アトリエから描く1872-1878  
    ⇒引っ越してすぐに「鉄道」@1873----モデルはヴィクトリーヌ・ムハン1844-1927   
                         ⇒オリンピアのモデル@1862  
                         ⇒ドガのモデル
  モネ1840-1926「モントログイユ通り@1878」も描く 
    
・サンラザール駅:19世紀代表駅----パリ初の駅舎@1832
    ⇒ブルジョワが出資
    ⇒国鉄化@1878 
    ⇒ノルマンディーへの途中でモネは絵を残す
    ⇒「サンラザール駅」12連作@1877 
・Galeries Lafayette Haussmann

・オペラ・ガルニエ
   隣りはギュスターヴ・カイユボット兄弟寓居
   「バルコンの男、オスマン大通り@1880」 


ヌーベル-アテーヌ区:9区

  ・サンジョルジュ広場@1820開発
    アドルフ・ティエール1797-1877----普仏戦争後の大統領
    ビスマルクと講和交渉
    アルザス、ロレーヌ割譲
      ドラクロワや小説家ジョルジュ・サンドが住んだ
      ヌーベルアテーヌ(新しいアテネ)と呼ばれた
      ポール・ガヴァルニの彫刻@広場----画家ガバルニー1804-1866
      画家カイユボット1848-1894が住む 

  ・ドーヌ家----広場を開発
    アドルフ・ティエールの妻の実家
  ・サンジョルジュ劇場の外壁にだまし絵
      映画「終電車」のロケ地
  
  ・娼婦テレーズ・ラックマン1819-1884の豪邸
    クルチザンヌ:高級娼婦
    1836 結婚するもテレーズと改名してパトロンを探す
        ピアニスト・エルツと結婚---サロン開設:ワグナー、ビューロー、ゴーティエが出入り
    1848 エルツ渡米
    1851 パイヴァ侯爵と結婚
    1871 ドナースマルク伯爵と結婚---シャンゼリゼ通りに豪邸ホテル建築
    1872 パイヴァ侯爵自殺 
    1884 死亡---
    
  ・タンギー爺さん 1825-1894
    35歳でパリに来て画材屋に勤め、店主エドワーが辞める時に店を継ぐ@クローゼル通り----現在はアクセサリーショップ

    貧乏画家に絵具を与えた画商 
    貧乏画家とは以下後期印象派たち面々 
     セザンヌ ----頻繁に通った貧乏画家  
     ベルナール
     ゴーギャン
     スーラ 
     シニャック
     カイユボット 
     ゴッホ
       ----グーピル商会挫折@1874
       ----神学校挫折
       ----伝道師挫折
       ----デッサン@1881
       ----弟のいるパリ@1886-2
       ----モネ、ドガ、ルノワール(第一世代の印象派)を発見
     ルノワール 
     ロートレック等々の後期印象派たちが集まった 
     
  ・ビクトル・マセ通り
    ドガが25-39歳まで住む@13番地
    マネとともにベラスケスを模写@ルーブル
    向かいはキャバレー・シャノワール:サリス1851-1897が開設
    ギター店並ぶ
    コットンクラブ
      兄画家ゴッホ 弟テオが住んでいた----後にモンマルトルに引っ越す
      ベルト-ベイル1865-1951がアヴァンギャルド(前衛)のギャラリー開設発祥
      ⇒骨董品屋の店員だったが以下の若者の絵を販売する  
        デュラン、
        ブラック、
        ピカソ、
        ベルナール、
        シャガール、
        ユトリロ
  ・フロショ通り----豪邸が並ぶ
    ロートレックのアトリエがあった
    カフェ「ヌーベルアテーヌ」があった
      ドガ----「アブサント@オルセー美術館」@1876
      ゾラが集まった@19世紀末
    カフェ「ル・ラ・モール」が隣接----意味は死んだねずみ
      マネ----「プラム酒」@1878
    ルノワールの息子ジャン(映画監督)が住んでいた
    ステンドグラス----富嶽三十六景の神奈川沖浪裏:葛飾北斎
    この裏側4番地にはドガのアトリエだった場所がある----現在は三星ホテル
      隣には音楽家デジレ・ディオー:ファゴット奏者---オペラ座オーケストラ員
      彼はロートレックの従兄 
      ドガは、これをきっかけにオペラ座の踊り子を描くようになる


  
  ・クリシー通り    
    テオフィル・デルカッセ1852-1923の館:外務大臣
    ルノワールもアトリエとして住む@1880頃
    ピカソも同上
  ・カルフール マーケット
    19世紀の印象派の画家が描いたサーカス(スーラ、ドガ)
      ドガ「フェルナンド・サーカスのララ嬢」@1879
    フェルナンド・サーカス1873-1897
    メドラノのサーカス  1897-1963
    モンマルトルのサーカス1963-1972
  ・
La Cigale:蝉の意味のレストラン----蟻とキリギリス 
  ・
La Fourmi:蟻の意味のカフェ  
  ・
Divan du Monde:キャバレー----ロートレックがポスター制作「ディヴァン・ジャポネ」
  ・クリシー通り 6番地:ドガが晩年を過ごす1912-1917

  ・クリシー通り 8番地:小説家ヴォリス・ヴィアン寓居+トランぺッター@タブー
  ・クリシー通り 10番地:作曲家ダリウス・ミヨー寓居
  ・クリシー通りBouillon Pigalle:安い!
    フランス人は19世紀初頭に牛肉を食べ始めるByデュバル
    1878万博の出店で大人気

  ・Villa Guelma通り----ピガール駅の北側
      スザンヌ・ヴァラドン1865-1938が息子のユトリロ1883-1955と住む@1910頃

        ⇒サーカス団員⇒モデル⇒画家⇒ドガに師事

        ⇒息子の友アンドレ・ウッターと結婚
  ・売春宿、キャバレー街
  ・カフェ・タンブラン:クリシー通り沿い 画家のたまり場
      ゴッホ   1853-1890、
      マネ    1832-1883、
      ロートレック1864-1901
    オーナーは伊女アゴスティーナ・セガトーリ1841-1910
    マネが肖像画を残す ゴッホの「イタリア女」----ゴッホの彼女

    ゴッホは1886に弟テオの元へきて、画塾コルモンに通う
  ・1883にパリに来たロートレック(南仏貴族)は画塾の生徒
    Pierre Fontaine通り19番に1887-1893迄住む 
    ドガも19番地に住む
  ・
La Sauvegarde de l’Art Français :
    アンドレ・ブルトン広場には
    作曲家ジョルジュ・ビゼー1838-1875寓居 カルメン
  ・ムーランルージュ@  
    オーナー:ジョセフィン・ベイカー1906-1975
    アフリカ系 セックスシンボル 6度の結婚  
    公民権運動 人種差別撤廃運動 黒人女性初のパンテオン祀られた
  ・アンドレブルトン寓居 
    シュルリアリズム創始者1918以降の潮流
  ・Moulin du Moulin Rouge@ブランシュ広場  
 
 

モンマルトルの丘:18区

  ・モン-mont--丘
  ・マルトル----殉教
  ・元々は石切り場----白い石:ギプス  

  ・アベス駅で下車
    アベス:女子修道院長@12世紀

    アールヌーボー様式の入口
    地下鉄開通は1900年@パリ万博
    近くにはジュテームの壁(300か国の愛の言葉)
    パッサージュ・アベス通り---ユトリロ描く
  ・聖ヨハネ教会@20世紀初 
  ・カフェ・デ・ムーラン
    映画の主人公アメリ(恋人はニノ)のバイト先  
  ・
毎日のように撮影 ラパン・アジル=シャンソニエ=居酒屋 ピカソ、モディリアーニも通った
  ・
モーリス・ユトリロ1883-1955の故郷
  ・
洗濯船Le Bateau-Lavoir---火災後に再現
    
モンマルトルの芸術家、文学者、俳優、画商らが活動の拠点としたアトリエ、集合住宅
     ジ
ョルジュ・ブラック 1882-1963、
     フアン・グリス    1887-1927、
     モーリス・ドニ    1870-1943、
     コンスタンティン・ブランクーシ1876-1957
     ピカソ@1905     1881-1973 ⇒極貧時代 アヴィニオンの娘たち
     ギョーム・アポリネール1880-1918
     マックス・ジャコブ  1876-1944
     アンドレ・サルモン  1881-1969
     
  ・
ダリダ1933-1987(エジプト生まれの歌手)の邸宅 1962-1987迄
    本名:ヨランダ・ジリョッティ
    アランドロンと共演---歌パローレ 
    恋人が相次いで自殺
    うつ病で自殺
    ダリダの胸像----好きだったモンマルトルの風景(Rue de l'Abreuvoir)を眺める@ダリダの広場
         
  
・マルセル-エルメ広場----小説家1902-1967 
    劇作家---「壁すり抜け男」が代表作
    皆に馬鹿にされていた男。ある日の停電で電気がついた途端に壁をすり抜けるようになっていた
    かくして嫌味な上司を驚かして仕返しをする物語   
    ルノアール寓居
    聖ドニ像----モンマルトルで首を斬られ@272、その首を抱えて歩いた先が聖サンドニ教会
          この丘は殉教の丘:モント・マルティーユ→モンマルトル
          パリに初めてキリスト教を伝道した 
     
  ・ムーラン・ド・ラ・ギャレット
    ガレット(焼き菓子)の風車:小麦粉を砕くための風車
    夕方になると飲んで踊れるギャレットになる
    ここで労働者階級のルノワールが描いた舞踏会
     
  ・聖ドニ像---聖ドニ大聖堂---フランス王家の墓
     
  ・
「ムーランルージュ」キャバレー@1889
     フレンチカンカンが名物
     天国と地獄Byオッペンバッハ1819-1880
      踊り子:ラ・グリュ(ルイーズ・ヴェヴェール)&骨なしヴァランタン
           ⇒洗濯屋から貴族夫人に声をかけられて大スター
     現在もダンサーによるショー、食事が楽しめる
     エッフェル塔建設の年
     
  ・画家ロートレック----晩年はここで多くの娼婦たちと共に暮らした
       南仏出身の貴族
       落馬して足の成長止まる
       画塾(フェルナン・コルモン)に入る@コンスタンス通り10番
          ⇒「カイン一族の逃亡」@オルセー美術館
       トゥルラック通り5番に住む
       隣にはスザンヌ・ヴァラドン1865-1938が住む
          ⇒花屋⇒空中ブランコ乗り⇒モデル⇒画家⇒ロートレックと恋仲
          ⇒ルノワールの「都会のダンス」のモデル
          ⇒「田舎のダンス」のモデルはアリーヌ----ルノワールと結婚
          ⇒スザンヌはロートレックが付けたあだ名
     
  ・ゴッホ兄弟の家@Rue Lepicレピック通り54番----1886-1888迄

       弟テオは画商勤務 
       兄ゴッホをパリに呼び寄せた
     
  ・スザンヌ・ヴァラドン1865-1938が住む@1883頃から 

       息子モーリス・ユトリロ1883-1955
       トロゼ通りを描いている
     

  ・魔女の岩伝説@
Witch's Passage
  
  ・La Maison Rose@Rue de l'Abreuvoir
     モーリス・ユトリロ1883-1955が描く
     ピカソが描く
     
  ・オ・ラパン・アジル
     ピカソが描く
     
  ・モンマルトル博物館----画家たちのアトリエだった
     ルノワール    :「ブランコ」を描く
     スザンヌ・バラドン:恋人はエリックサティ1866-1925@1890頃?
     ユトリロ     :「モン・スニ通り」を描く@オランジェリー美術館
     アンドレ・ウッター:スザンヌ・バラドンと結婚@1915頃
     ピカソ      :
     
  ・La Bonne Franquette---多くの著名人の肖像画
     ポール・ボキューズ  1926-2018:伝説のシェフ
     ロートレック     1864-1901
     ジャック・プレヴェール1900-1977:作家----シャンソン枯れ葉
     エディット・ピアフ  1915-1963:シャンソン歌手
     
  ・Le Consulat---多くの著名人の肖像画
     
  ・テルトル広場  
    多くの画家がいる広場   
    ルノーが世界初のガソリン車を運転@1898-12-24
     
  ・メール・カトリーヌ  
    ビストロ発祥の地@1814-3-30 コサック兵
    ナポレオンの次代にロシア兵が駐屯し、酒を早く出せ!(ビストロ!)と言った
    B級グルメ=ビストロ?
     
  ・サクレ・クール寺院  
    サクレ:聖なる 
    クール:心臓
    @18区1914完成 
    モンマルトルの丘の上にある白い寺院 
    ジャンヌダルクの騎馬像 
    ルイ9世の騎馬像---いばらの冠を持つ:十字軍遠征時に購入 
    モーリス・ユトリロ通り
    サヴォア:最も大きい鐘

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【フランス-7-0】1区パッサージュ 11区バスティーユ

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【セーヌ川北】

パリ市1区のパッサージュ

・パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅            
・Av. de l'Opéra            
・コメディ・フランセーズ          
  王立劇場          
  ゲネゴー座:喜劇作家モリエール1622 - 1673の衣鉢を継ぐ劇団           
  オテル・ド・ブルゴーニュは、悲劇を得意とした劇団
・パレ・ロワイヤル
  もともとはルイ13世の宰相リシュリューの城館パレ・カルディナル            
  ルイ14世の居城@1643           
  ルイ14世がルーブル宮殿に移ると、弟オルレアン公フィリップ1世が住む             
  オルレアン公フィリップ・エガリテ1747-1793は、ユダヤ人金貸しから膨大な借金            
     パレ・ロワイヤルの屋敷の一部を商人たちに貸出(1階回廊部は今も店)、革命家のたまり場となる
     「諸君、武器を取れ!!」とカミーユ・デムーラン1760-1794が演説@フランス革命
     特に景気が良かったのがカジノと売春            
・Pass. des 2 Pavillons :お洒落なパッサージュ----濡れたり汚れたりせずに歩けるアーケード
・Galerie Vivienne    :お洒落なパッサージュ----商業の神マーキュリー(メリクリウス)のアトリビュート            
  パレロワイヤルと同じく1階ショップ 2階オフィス 3階貸部屋             
  19世紀に大流行するが、やがて廃れるBy百貨店(パリ初----ボンマルシェ)            
  現在は歴史の一部としてパサージュは残っている            
・Bibliothèque Nationale de France - Richelieu:専門図書館            
・Un jour à Peyrassol - Restaurant de truffes :トリフの店          
・Rue du 4 septembre通り :普仏戦争1870-9-4          
・Pass. des Panoramas  :パッサージュ デ パノラマ----
界隈には小劇場が多数             
         
・現代美術館Byピノー財団          
  16世紀 :カトリーヌ・メディシスの邸宅+塔@1572           
        おかかえ占い師の提案         
  18世紀末:小麦倉庫@1749          
        食糧危機→フランス革命        
  19世紀末:鉄道整備 初は1830         
        食料巨大倉庫は不要→商品取引所@1889 万博会場にもなった           
                  アンリ・ブロンデル1821-1897設計          
  21世紀 :商品取引所不要→維持費莫大          
        →大富豪フランソワ・ピノー1962が借りる@50年契約          
         現代美術館とする         
         安藤忠雄1941-が改修設計          
         円形シリンダー構造          

             
パリ市8区             
・Rue Royale
・マドレーヌ寺院 
  クレッシュ:フランスのクリスマスの飾りつけに欠かせないもの
        キリストが誕生した場面を再現:マリア&ヨセフ
        生誕を告げられた羊飼いたちはどうやって見分けるのか@かいばおけ
        東方三博士は星に導かれた          
・ラデュレ パリ ロワイヤル店:現在のマカロン考案者がピエール・ラデュレ
  元祖マカロンはカルメラ?@1581
  アンリ3世の側近ジョワイユーズ公爵がマルグリッドと結婚時にだされたのが            
  イタリアのマカローネ
  改良したのはピエール・エルメPierre Hermé1961-@ボナパルト通り                   
  3月20日はマカロンの日
・シャンゼリゼ通り              
  シャン:野原
  エリゼ:英雄が死後に行く場所              
  ルノートル設計@ルイ14世時代           
  シラク大統領がパリ市長時代にシャンゼリゼ通りを大改造:駐車場を地下に設置           
  
・香水屋ゲラン:アールヌーボー建築            
  ナポレオン3世妃ウジェニーのお気に入り
・パリサンジェルマン公式ショップ 
  トマス・ジェファーソン寓居1785-1789@仏駐在公使----米大統領1801-1809
  米独立宣言起草者 バージニア大学創始者            
  大農園経営、奴隷相続、奴隷との間に子供あり
・フーケッツ:有名カフェ            
・パレス・エリゼ@ヴェルネ通り
  パリ万博@1900----鉄道敷設            
  オルセー駅建設
  アールヌーボー流行       
・ヒューゴ・ボス            
  ナチス党員が創設したアパレル会社
・エトワール凱旋門(戦没者慰霊碑)       
  ナポレオン1世がアウステルリッツの戦いに勝利@1805 現在のチェコ            
   対ロシア・オーストリア連合軍            
   凱旋門の内側には戦地、貢献した戦士の名前が刻まれている
   入場料:22€ 第一日曜日は無料       
  ナポレオン失脚時には未完成----王政復古ルイ18世1755-1824--シャルル10世1757-1836時には工事中断
  1870年7月革命でシャルル10世退位しルイフィリップ1773-1850時代に建設再開            
    王統派   ルイフィリップ主導の戴冠         
    共和派   マルセイエーズ:義勇兵が革命に合流の図
    ナポレオン 1810の勝利
    WW1の記念碑----シャンゼリゼに眠る英雄
    

                      

・オペラ・ガルニエ宮
    
1875年完成 シャガールの天井画
    

オペラ座
    
オペラ座の屋上やパリ市民のベランダなどで行われているのが養蜂。百花蜜と言われて色々な花の蜜が混ざった味だそうな。5個程度の巣箱に何十万匹というミツバチを飼えば年に数百キロもの蜂蜜が採れるということらしい。また、13区にあるオーギュスティンヌ修道院でも養蜂が行われ、自給自足がその方針らしい。いずれにも共通する特徴は、飼い主の年齢が70歳近いこと。パリ市が年行った市民の喜びのために取り計らっているのだろうか。リュクさサンール公園では毎週養蜂教室が開かれて多くの人がそのノウハウを学んでいる。実は1866年にこの教室は富裕層の間で始まった。

 

 

 

パリ市セーヌ川北 11区----バスティーユは家具職人の街

・バスティーユ広場  
  ・バスティーユ牢獄への襲撃でフランス革命が始まる  
・フォーブール・サンタントアン通り沿いには家具工房:中世から   
  サンタントアン修道院が家具作りを始める 
  近くの港から木材を運びやすかった  
  →木材パサージュ  
   木材に貼る革職人  
   革に貼る金箔は王室ごとに変わる   
  ・英産業革命後の自由貿易競争で高価な家具は競争力を失う 
   工房賃金カット  
   →民衆は工房を襲撃@1789-4-26  
   →民衆はバスティーユ牢獄を襲撃@1789-7-14  
  
・オペラ・バスティーユ 
・Cour DamoyeダモワPassage            
・ラップ通り 飲み屋街
            
  Le Balajo 有名なダンスホール         
  オーベルヌ地方の人々が作った界隈          
  Les Sans Culottes----貴族が履くようなパンツははかない飲み屋→革命派のバー           

・Le marché couvert Beauvau             
  パリで最も古い常設市場            
  アリグレ広場
・廃線跡----高架下は住居・店舗・難民工房 緑の回廊

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【フランス-6-2】 19世紀 ウイーン体制はナポレオンの戦後処理 激動時代

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

ブルボン絶対王政 1589- 
 ┃ 
 ┃  
ウエストファリア体制 @1648~
 ┃  
フランス革命@1789
 ┃  
 ┗ブルボン立憲王政 1791- 
   ┗第一共和制   1792- 
     ┃ 
国民公会 1792-
     ┃ 
総裁政府 1795-
     ┃ 
総統政府 1799-
     ┃    
     ┗第一帝政    1804-
       ┃ 
ナポレオン1世 
       ┗ブルボン王政復古 1814-
         ┃ ウイーン体制   @1815~
         ┃ 
ルイ18世  :英に亡命していたプロヴァンス伯
         ┃        
各地に亡命していた貴族を呼び寄せる
         ┃         
→無能な亡命貴族はアフリカ沿岸で座礁:メデューズ号の筏
         ┃ 
シャルル10世:@1830
         ┃ 
正統主義      
         ┗7月革命 by
上級平民 1830-
           ┃ 
ラファイエット復帰
           ┃ 
オルレアン7月王政:ルイ・フィリップ1773-1850
           ┃
 オノレ・ドーミエ(風刺画家)
           ┃  ┗
風刺画→逮捕→刑務所→食事:これを繰り返す貧乏画家
           ┗2月革命 by
下級平民  1848-
              ┃ 
              ┗第二共和政 1848-
                 ┃ 
共和派  --中級平民(ラマルティーヌ)
                 ┃ 
社会主義者--下級平民(ルイ・ブラン:リュクサンブール労働委員会)
                 ┃ 
投票権大拡大(四月選挙)--ナポレオン3世(ボナパルト)選挙で圧勝
                 ┃         ┗
農民保守化
                 ┃          
ルイ・ブラン等の社会主義者は惨敗
                 ┗第二帝政  1852-
                   ┃ 
ナポレオン三世1808-1873即位
                   ┃ 
・ パリ大改造(人口100万 現在のパリに仕上げる)
                   ┃     
┗ジョルジュ・オスマン:セーヌ県知事(1853-1870)
                   ┃      
第三回パリ万博@1855
                   ┃ 
・ 日仏修好通商 
                   ┃ 
・ 英仏通商条約@1860  
                   ┃ 
・ 第五回パリ万博@1867
                   ┃ 
・ スエズ運河1869
                   ┃ ・ 
普仏戦争敗退 対ビスマルク アルザス-ロレーヌ割譲
                   ┃
                   ┗第三共和政 1870-
                     ┃ 
・第一次世界大戦@1914
                     ┃
ベルサイユ体制@1919~
                     ┃

                     ┃ ・
ナチスドイツ侵攻
                     ┃
 ・第二次世界大戦@1940
                     ┗第四共和政 1946-
                      ┗第五共和政 1958-
                       
                       

1804年  ナポレオン・ボナパルトが皇帝即位 : ルイ18世は抗議声明@ワルシャワ

1805   トラファルガー海戦 仏 VS 英

      →英の帆船・戦艦テメレールが活躍 :ターナーの絵で有名『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』

     アウステルリッツ戦

1806   ナポレオンの兄:ナポリ王 弟:オランダ王 大陸封鎖令

1810年  オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリールイーズ1791-1847が ナポレオン妃となる(悲劇)

 

シャルル・ボナパルト    1746-1785        
 ┣ジョセフ・ボナパルト  1768-1844        :スペイン国王→反乱
 ┣ナポレオン・ボナパルト 1769-1821        :フランス皇帝
 ┃  ┃  ┣ジョセフィーヌ・ボアルネ 1781-1824
 ┃  ┃ ジョセフィーヌ@1796  
 ┃  ┃  ┣ウジェーヌ・ボアルネ   1781-1824
 ┃  ┃  ┣オルタンス・ボアルネ   1783-1837        
 ┃  ┃  ┃  ┣ナポレオン3世     1808-1873 :フランス皇帝          
 ┃  ┃  ┃ ルイ・ボナパルト    1778-1846    
 ┃  ┃  ┃
 ┃  ┃ アレクサンドル・ボアルネ   1760-1794    
 ┃  ┃     
 ┃  ┣ナポレオン2世    1811-1832
 ┃ マリア・ルイーザ  @1810
 ┃   
 ┗ルイ・ボナパルト    1778-1846  
   ┗ナポレオン3世     1808-1837 
      ┣ウジェーヌ  1856-1879 
    ウジェニー     1826-1920

 

1811年  ルイーズはナポレオン2世出産

     この頃マリーアントワネットの愛人フェルセン伯爵が渡英後、無実の罪で惨殺される

1813年  マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊するが流産

1814年  ナポレオン失脚 ルイ18世即位 : ブルボン復古王政

     以前;ウエストファリア体制

1815   ウイーン会議@シェーンブルン宮殿 By        メッテルニヒ1773-1859(墺外務大臣 後に宰相)

     以降:ウイーン体制 ~1948年まで

     【ウイーン体制崩壊】                                                              ↕

        旧勢力は革命前の状態に戻したい:正統主義 

         → タレーラン1754-1838(仏外相)
            ┣画家ドラクロア1798-1863:民衆を導く自由の女神
           ドラクロア卿の妻 

         → 民衆は怒る 

            独:ブルシェンシャフト(学生) @1815→失敗 by メッテルニヒ  

            伊:カルボナリ政党(貧民)蜂起 @1820→統一失敗 貧民でも食べれるカルボナーラ 

            西:立憲革命   @1820  失敗 By仏 

            露:デカブリスト @1825 失敗

            仏:7月革命   @1830  2月革命 @1848

        勢力均衡が良い : 穏健的 墺外相のメッテルニヒ

        領土拡大 : 英、露        → 後に帝国主義

        領土減少 : 墺、蘭、スウエーデン

 

1824年  シャルル・フィリップ10世即位 : 超王党派勝利 

     戴冠式では呪術で病を治す:王権神授説

     多くの亡命貴族を援助 出版の自由制限 : 絶対君主政策

     アンシャンレジウム復活 : ポリニャック内閣(反革命 右翼)⇔ 自由派

1830年  アルジェリア戦争 七月勅令:強権的実施 → 七月革命 Byパリ市民→英国亡命

     ルイ・フィリップ1773-1850(オルレアン公)即位 :オルレアン七月王政

       → ドーミエの風刺画 銀行家の王 株屋の王 (当時の選挙権は0.6%)

     教育改革 納税立憲 鉄道整備 植民地拡大 産業革命

1836年  シャルル・フィリップ10世没

     凱旋門完成 後にパリの町を整備 By ジョルジュ・オスマン1809-1891:コレラ拡大防止

1848年  二月革命 王政崩壊 第二共和制樹立 → ルイ・フィリップ1773-1850(オルレアン公):英国亡命

     共和派(ラマルティーヌ)+社会主義者(ルイ・ブラン:リュクサンブール労働委員会)

     投票権大拡大(四月選挙) → ナポレオン3世(ボナパルト)選挙で圧勝 ルイ・ブラン等の社会主義者は惨敗

                    80%の農民は社会主義になると土地が無くなる??

                    社会不安が発生

1852年  ナポレオン三世1808-1873即位 第二帝政:父ルイ・ボナパルト1778-1846はオランダ王(ナポレオン1世1769-1821の弟) 

     パリ大改造(人口100万 現在のパリに仕上げる) 日仏修好通商 英仏通商条約@1860 パリ万博@1867 スエズ運河1869   

1870年  第三共和制

     普仏戦争敗退 対ビスマルク アルザス-ロレーヌ割譲 → 後にWW1では仏は独に勝つ

1875年  憲法制定 : 正式にはここからが 第三共和制     

 

【ウイーン体制による正統主義と勢力均衡】    ナポレオンの戦後処理として現れたのがウイーン体制、オーストリアのメッテルニッヒ1773-1859が率いてウイーン会議1814-1815が開かれて決められたものである。英はケープ植民地、スリランカを獲得、ロシアはポーランド、フィンランドを獲得した。その内容はタレーラン1754-1838が提唱した正統主義(ナポレオン以前の世界に戻す)と勢力均衡(強い国が居たら周りの国が抑える)というものである。そして神聖同盟や四国同盟が組まれた。これは多民族国家に於いて独立を目指そうといったナショナリズムを制約するものである。しかし国民は反発、ブルシェンシャフト運動、カルボナリの運動、デカプリストの乱、スペイン立憲革命、ラテンアメリカ諸国独立運動などが起こる。

【ウイーン体制による反動】    1824年、王政復古ブルボン朝最後のフランス国王シャルル10世1757-1836が絶対主義化を進めてアルジェリアに出兵する。これに対する不満により1830年に7月革命が起こる。これを経てオルレアン朝フランス国王・ルイ・フィリップ1773-1850が立憲君主制(憲法下に於ける王政)を開始。そして蘭からベルギーが独立1830、ポーランドの反乱1830、カルボナリの反乱1830@伊が起きた。考えてみればウイーン体制で正統主義が話し合われ、いわば王政復古が決まったにもかかわらず、民衆は自由・独立を求めて各所で蜂起したのである。

【1848年、2月革命という社会主義革命は失敗する】    資産の有る人(大ブルジョア:元貴族 中小ブルジョア:農民・富裕層)が参政権を求めるのが自由、資産の無い人(プロレタリアート)が参政権を求めるのが民主である。産業革命で生まれた労働者(プロレタリアート)が中心となって普通選挙を目指して暴動を起こしたのが2月革命である。これがヨーロッパ中に与えた影響が下図。仏の第二共和政でルイブラン1811-1882が男子普通選挙を定めるが4月の選挙で大敗して6月に暴動が起き、鎮圧されるとルイブランは亡命した。

つまり二月革命では「労働者よ団結せよ」といった社会主義思想(貧富の差をなくせ)が巻き起こったのであるが、資産の有る人(大ブルジョア:元貴族 中小ブルジョア:農民・富裕層)にとっては財産没収となることを恐れて、選挙は大敗して二月革命は失敗する。

【ナポレオン3世即位 1851年からの仏帝国主義】    1852年の国民投票で第二帝政になる。ナポレオン3世1808-1873はパリ改革やパリ万博を通じて現在のパリをつくったが、人気を維持するために戦争を繰り返す。クリミア戦争、アロー戦争参加、イタリア統一戦争、仏越戦争など、1870年の普仏戦争・セダンの戦いでプロイセンの捕虜となり失脚する。かくしてドイツ帝国樹立がベルサイユ宮殿で行われ(仏にとっての屈辱をWW1で晴らすこととなる)、アルザス・ロレーヌ地方割譲及び賠償金が臨時政府ティエール1797-1877により決まる。これに反発したのがパリ・コミューンという労働者政権である。

 アロー戦争1856-1860はアヘン戦争後の条約締結後に起こった事件で、英国とともに戦ったフランス軍は円明園(北京にある清時代の離宮の遺構)で略奪の限りを尽くし、英国は円明園を焼き払った。この時の略奪品はフランスのフォンテーヌブロー宮殿にある。飾らせたのはナポレオン3世1808-1873の皇后・ウージェニー1826-1920(スペイン出身)。しかしフランス国内では批判が相次いだという。

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【フランス-6-1】 18世紀 最後のブルボン朝: ルイ16世とナポレオン

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【仏のアメリカ入植地・ルイジアナ】   
  ・ルイ14世の治世から行われてきた重商政策  
    ・東インド会社を1664年に再建して、イギリスと同様にインドへ進出、拠点ポンディシェリ、シャンデルナゴル  
    ・北アメリカへも進出する  
    ・それは現在のカナダにケベック(ヌーベルフランス:1712年に頂点)を建設  
    ・ミシシッピ川流域にルイジアナ(1682年頃発見、命名)を建設  
  ・これによってイギリスが進出した入植者との戦いが始まる(第2次英仏100年戦争)

【最後のブルボン王朝はルイ16世】      
  ・最後のブルボン王朝はルイ16世1757-1793、  
  ・父はルイ・フェルディナンド1729-1765といってルイ15世の長男である。  
  ・母はマリー・ジョセフ1731-1767、  
    ザクセン選帝侯アウグスト3世1696-1767(マイセン白磁器の開発を命令した選帝侯アウグスト2世の父)の娘にあたる。  
  ・そして王妃はマリー・アントアネット1755-1793。  
    オーストリア皇帝フランツ1世1708-1765とマリア・テレジア1717-1780の娘にあたる。

【ルイ16世妃マリーアントアネット1755-1793】      
  ・二人は当初フランス国民に受け入れられた。  
  ・しばらくは子供ができなかったが手術後は問題なく子供は誕生した。  
  ・しかし誕生までの間マリーアントアネットは散財・軽率・わがまま放題で人気は次第になくなっていった。  
  ・それでフランスの財政は悪化、とはよく言われるが違う。  
  ・そもそもの財政難は先の国王ルイ14世(戦争、宮殿建設)ルイ15世(7年戦争、鹿の園建設)の時代のつけが回ってきただけのこと。  
  ・ルイ16世は公妾を持たなかったために、国民の非難はマリーに集中することとなる。

【ルイ16世による財政再建失敗とフランス革命】      
  ・当時はアンシャンレジウムといって聖職者0.5%、貴族1.5%、平民98%の身分社会の時代、  
  ・聖職者と貴族は免税されるが平民は貧困に苦しんでいる。  
  ・平民はこれを不合理と感じ出し、ルイ16世は財政立て直しのために特権身分の者にも課税しようと、三部会にて議論させた。  
  ・しかし対立、平民議員はベルサイユ右宮殿の球戯場にあつまり解散しないことを誓った。(1789年6月)  
  ・かくして平民議員は国民議会を開催したが、王族側は議定を閉鎖、  
  ・マリーアントアネットら実権を握る保守派は武力行使を見せたが、聖職者の多くは国民議会に合流  
  ・ルイ16世は国民議会を承認したものの、政府は軍隊をベルサイユに招集した。  
  ・かくしてバスティーユ牢獄事件が発生。(1789/7/14)これがフランス革命の始まりの日とされる。  
    フランス革命の資金提供はロスチャイルド家  
  ・そしてルイ16世一家がマリーアントアネットの実家オーストリアに逃亡する事件(ヴァレンヌ逃亡事件)  
  ・がきっかけとなって民衆の国王に対する信頼が失われて幻滅に変わる。

【マリーアントアネットの寵臣・ランバル公妃 マリールイーズ1749-1792】   
  ・北イタリアのサヴォイア家の公女、  
  ・ルイ14世とモンテスパン夫人の子・トゥールーズ伯爵の孫・ランバル公1747-1768と結婚するが、  
  ・ランバル公は性病で早くに病死。  
  ・21歳の時にベルサイユ宮殿に入り1770年から女官長になる。  
  ・マリーアントワネットの最初の寵臣であったが、後にポリニャック夫人に席を譲る。  
  ・フランス革命時にルイ16世一家がタンプル塔に幽閉されると、公妃はラフォルス監獄に入れられ、  
  ・1792-9-2~始まった「9月虐殺」で惨殺された。  
  ・タンプル塔 : 元々はテンプル騎士団が本部として建設@1240

【マリーアントアネットの寵臣・ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン1749-1793】     
  ・1766年、ヨランドは17歳でポリニャック伯爵と結婚する。  
  ・1775年、宮廷女官となった義妹・ディアーヌ・ド・ポリニャックの招待を受け、  
  ・ヨランドと夫はヴェルサイユ宮殿でのレセプションに出席。  
  ・そこで彼女を初めて紹介された王妃マリー・アントワネットは、ヴェルサイユに永住するよう懇願する。  
  ・女流画家ウイジェ・ルブランはヨランドの肖像画を残しているが、噂通りの絶世の美女である。  
  ・かくして王妃は、ポリニャック一族の抱える借金を清算(ルイ14世の治世での黒ミサ事件に関与したことで衰退していた)、  
  ・ヨランドの夫に実入りのよい官職を与えるなどしたという。  
  ・結果的にヨランドはマリーアントアネットの財産を目当てに宮廷に居座った。  
  ・ところがフランス革命ではヨランド夫妻は王妃を見捨てて国外へ逃亡  
  ・(マリーアントワネットの勧めでオーストリアに亡命したと思われる)。  
  ・その1年後にヨランドは病死。  
  ・ヨランドには子女4人、長女はアグラエ1768-1803といってはやりマリーに寵愛されてプチトリアン宮殿での劇団員であったが、  
  ・父母を追って亡命。  
  ・母・ヨランドの死の1年後に、女流画家ヴィジェ・ルブランと再会し肖像画を残している。  
  ・後にアルトワ伯爵(ルイ16世の弟:シャルル10世)の愛人となっている。  
  ・子孫にはモナコ大公レー二エ3世がいる。この御仁、女優のグレース・ケリーを王妃に迎えたことで有名。

  
  ・アンシャンレジウムによる平民の不満、  
  ・アメリカ独立戦争の影響(ラファイエット思想)、  
  ・財政危機、啓蒙思想(絶対王政の不審)が重なってフランス革命は起きた。  
  ・因みに保守主義のエドマンド・バークはフランス革命を批判している。  
  ・過去の蓄積は尊重すべき、抽象的理念で作った突発的人権は認めないと。  
  ・フランス革命は自由と平等を掲げたが、両者は矛盾している。  
  ・封制建度の廃止、人権在民を願うものであるが、これによりルイ16世は逃亡し平民を落胆させた。  
  ・立法議会内は対立し、オーストリア正規軍と全国から集まった平民革命軍が戦い革命戦争へと発展。(1792-1799)  
  ・かくしてルイ16世夫妻は処刑された。

【残されたマリー・テレーズ1778-1851】  はタンプル塔に幽閉されたが・・・、

1754   ルイ16世誕生(ルイ15世の子ルイ・フェルディナンの三男)

1766   ルイ16世王太子 父36歳病死 長男:病死 次男:
       ┣弱気+決断力欠如+引きこもり
       ┃押されるままにOKする 意思がない               
       ┣1769 マリーアントワネット1755-1793迎える
       ┃    贅沢三昧:宮殿改造、博打、お気に入りの配下へプレゼント@財政赤字
       ┃    平民に恨まれる
       ┣1774 即位
       ┣趣味は狩猟、錠前作り
       ┣愛人なし
       ┣財務総監ネッケル、テュルゴー:特権身分の不当な優遇廃止政策(貴族免税特権廃止・・・)
       ┃               貴族大反対→ネッケル、テュルゴー罷免Byマリー
       ┣米独立戦争中:ベンジャミン・フランクリン支援要請
       ┃       見返りは---仏植民地復活@北米 →20億リーブル支援 
       ┃                       借金2倍

       ┣新財務総監カロンヌ:聖域なき構造改革
       ┃          名士会@1787---有識者会議---カロンヌ辞任     
       ┣新財務総監グリエンヌ:三部会開催+リドジャスティス  
       ┃           オルレアン平等公は違法とし、ルイ16世は合意                  
       ┗1789-5月 三部会開催---議決方式で40日紛糾
              アベ・シェイエス(第三身分の聖職者)---合同審査開始@6/12 

              国民議会誕生---聖職者。貴族が徐々に国民議会へ流れる6/17  
       

     ナポレオン誕生@コルシカ島(ジェノヴァからフランス領になった年)     

1776   ベンジャミン・フランクリン1706-1790は仏訪問

     米独立戦争資金援助目的:仏出資は10億リーブル(今の2兆円 1783米独立)

     ラファイエット1757-1834出陣

1777   サラトガ戦 米VS英

     仏参戦

1781   ヨークタウン戦仏側勝利 米VS英

1778年  ベルサイユ宮殿で誕生 祖母マリア・テレジアの名を貰ってフランス読み

1780   マリア・テレジア死去

1783   米独立承認@ベルサイユ条約 ネッケル財務長官:財政難対策

1785   首吊り事件:マリーアントワネットを語った詐欺事件

     ルイ17世誕生 死亡は1795

1786   プロイセンのフリードリヒ死去

1787   仏露通商条約締結

1788   仏借金は45億リーブル(100兆円) 国家予算6億リーブル

     異常寒波で飢餓 農民暴動

1789   5/5 三部会開幕byルイ16世 : 貴族への課税問題議論---財政再建
         ┣絶対王政により1615年以降停止
         ┗僧300人+貴族300人+平民600人
                    ┣富裕層(ブルジョア:フイヤン派)→国民議会
                    ┣中間層(ジロンド派)      →立法議会
                    ┗下層(ジャコバン派)      →国民公会

     6/4 王子ルイ・ジョセフ死去

 フランス革命開始---国民議会封鎖→球戯場の誓→国王宣言→ネッケル罷免→バスティーユ襲撃→市民農民襲撃    
       ┣6/12 アベ・シェイエス(第三身分の聖職者)---合同審査開始
    
       ┣6/17 ミラボー伯爵--開明派貴族 第三議員が国民議会開催→ルイ16世は閉鎖 
       ┃    アルトワ伯爵+半藤派貴族は国民議会反対---ルイ16世に詰め寄る 
       ┣6/20 公会堂封鎖@ベルサイユ
       ┃    国民議会議員のオノレ・ミラボー(伯爵)---一触即発
       ┃    隣の球戯場(テニスの前身)で誓い---「憲法制定迄解散しない」
       ┃    ダヴィッドの絵は有名 
       ┃    議長はバイイ 
       ┃    無名のロベスピエールも参加

       ┣6/23 国王宣言:国民議会を解散して三部会を戻せ  
       ┃    国王側近ブレゼ ---出ていけ!  
       ┃    開明派ミラボー ---武力で追い出せばよい!
       ┃    国王前言撤回  ---離反者続出
       ┣6/27 ルイ16世は国民議会承認
       ┃    軍隊集結
       ┣7/9 憲法制定国民議会
       ┃   財務総監ネッケル再任(第三身分) ⇔ アルトワ伯爵(王の弟)、マリーアントワネット
       ┃ 
             軍撤退       軍侵攻
       ┣7/11 ネッケル罷免--市民動揺@パレロワイヤル:オルレアン公邸 
       ┃    啓蒙思想@パリ市民のカフェ---パレ・ロワイヤル 
       ┣7/12 カミーユ・デムーラン---ロベスピエールと同級     
       ┃    武器を取れ!   ---ネッケル罷免に憤慨  
       ┣7/13 軍組織By市民:国民衛兵     
       ┣7/1
4  廃兵院:傷痍軍人病院---ナポレオンの墓がある      
       ┃    小銃3万+大砲20門      
       ┃    
バスティーユ(軍事要塞)牢獄襲撃---牢獄の司令官ドローネイ    
       ┃    王権の象徴    
      
       ┃    守備兵は戦意喪失---陥落--ドローネイ虐殺される
     
       ┃    7/14は革命記念日で祝日               
       ┃     
       ┃    国内内戦開始     
       ┃    バイイ:パリ市長   
       ┃    ラファイエット:国民衛兵総司令官---米独立戦争、トリコロール--王家と市民の融和     
       ┣7/16   アルトワ伯爵(ルイ16世の弟 後のシャルル10世)などの貴族は国外亡命    
       ┃    仏全国の農民が貴族の屋敷襲撃 → 大恐怖:グランプール      
       ┃    民衆が武器をもって戦い始めた → 第三身分の議員は貴族ではないが金持ち市民     
       ┃          
       ┣8/4  封建的特権の廃止宣言      
       ┃    ・聖職者・貴族の免税特権廃止    
       ┃    ・領主裁判権廃止         
       ┃    ・1/10税廃止    
       ┃    ・年貢徴収権廃止---但し20年分の年貢を納めた農民に限る       
       ┃        
       ┣8/26  フランス国民人権宣言Byラファイエット → 暴動は収まる        
       ┃    ・トマス・ジェファーソンの助言     
       ┃    ・議会で採択
       ┃    ・自由・平等、圧政への抵抗、国民主権、三権分立、所有権不可侵      
       ┃    ・白人かつ市民権を持つ男性に限る      
                      
                   
           

球戯場での誓い : 「憲法制定迄解散しない」


           

     

1790   マリーアントワネットの頼み兄ヨーゼフ2世死去

1791   ルイ16世一家ヴァレンヌ逃亡失敗

 

ルイ13世  
  ┣ルイ14世
  ┗フィリップ(オルレアン公)
   ┗■-■-■-■
        ┗ルイ・フィリップ2世1747-1793 オルレアン公 ジャコバン派(恐怖政治) フランス革命で処刑
         ┗ルイ・フィリップ1773-1850:即位1830-1848 スイス亡命@1793 20年転々

ルイ15世  
  ┗ルイ・フェルディナンド
   ┣ルイ・オーギュスト 16世1754-1793 即位1774-   
   ┣ルイ・グザヴィエ  18世1755-1824 即位1814-(男色家)
   ┗シャルル・フィリップ10世1757-1836 即位1824-(アルトワ伯爵:ナポレオン暗殺計画)   
     ┣   
    ロザリー・デュテ1748-1830(娼婦、ダンサー、モデル:愚かなブロンド)フランス革命時に英亡命   
    【愛人】    
    アーサー・ディロン:大司教   
    クリスチャン7世 :デンマーク王    
    ルイ・フィリップ2世:オルレアン公  
    ジョージ・ウインダム:エグレモント伯

1791   絶対王政@1789:アンシャンレジーム(旧制度--2%50万人の特権階級(免税)による政治)
      ┃ →国民議会
      ┃  バスティーユ牢獄事件  
      ┗立憲王政@1791  
        ┃ →立法議会
        ┃  オーストリアへ宣戦布告
        ┃  9月虐殺(暴徒化市民による貴族虐殺)
        ┗穏健共和制@1792(by 貴族) 
          ┃ →国民公会  
          ┃  ルイ16世処刑 
          ┃  ギロチン横行--ロベスピエールの恐怖政治
          ┃  ジャコバン派軍人としてナポレオン登場
          ┃  テルミドール事件
          ┗急進共和制@1793(by 市民) 
            ┃ →総裁(5人)政府
            ┃  ナポレオン台頭
            ┃  イタリア遠征開放:オーストリア制圧ナショナリズム
            ┃  エジプト遠征  :英インド航路を絶つ---スフィンクス爆破   
            ┃  ブリュメール事件:総裁政府打倒--シェイエスと共に
            ┗再穏健共和制@1796(貴族&市民=不安定;暴動)ナポレオン1世登場   
              ┃ →統領(3人)政府  
              ┗帝政:独裁@1799 Byナポレオン1世   
                ┃
                ┗絶対王政

1792   レオポルト2世突然死 暗殺? 息子フランツ2世即位

       フランス王家を支えたスウエーデングスタフ3世仮面舞踏会で銃撃死  

1793   ルイ16世ギロチン処刑 王権停止 ルーブル美術館オープン:画家ロベールは責任者

       ギロチン:開発者はパリの医学生ギオタン

       ジャコバン派恐怖政治:ロベス・ピエール : 政治的・社会的不安定時期を治めるのは軍人

1794   ヘルミドール9日の反動:ポール・バラス

1795年  タンプル塔を脱出してオーストリアのハプスブルグ家に引き取られる

1796-1月 オーストリア皇帝でマリーアントワネットの兄フランツ2世1768-1835オープブルグ宮殿で面会

       一方ルイ18世もテレジアの引き取りを希望。両者には思惑があったようだ

1796-2月 この時現れたのがマリーアントワネットと懇意(愛人)にしていたフェルセン伯爵

       マリーアントワネットが残したテレーズへの遺産の話をするためである

       マリーテレーズの放浪生活が始まる やがてあてもなく渡英

       王党派 --- アンシャンレジウム派 / 立憲王政派 → バンデミエールの蜂起:鎮圧したのがナポレオン

       テルミドール派 --- クーデター、実権

 

1796-3月 この頃ナポレオンの北伊への快進撃でルイ18世は伊ベローナを退却して放浪生活を強いられる

        北伊はオーストリアの支配下:墺敗戦

        カンポ・フォルミアの和約 :仏勝利

1798年  ルイ18世はロシアのパーヴェル皇帝からミタウ宮殿を授かる

        ナポレオンがエジプト遠征(オスマン帝国の支配下):目的は英のインド航路遮断

        この時仏はスフィンクスを砲撃

        仏✖ VS 〇英 :アブキール湾の戦い(ナイルの海戦)

       この時仏に呼び戻される Byシェイエス1748-1836(仏革命指導者)

1799-6月 マリーテレーズはルイ18世の甥ルイ・アントワーヌ(アングレーム公)と結婚

1799-11月 ブリュメール18日のクーデター@仏 ナポレオンがシェイエスと共に総裁政府を打倒し統領政府になる

        総裁政府 :首相が5人も居て不安定

        統領政府 :統領3人(第一統領がナポレオン) 
          ┣フランス銀行創設@1800 : アムステルダム銀行@1609

          ┣ローマ教皇と和約    : コンコルダート@1801
          ┃ (仏革命でキリスト教排斥していたから)
          ┃

          ┣イギリスと和約     : アミアン和約@1802 
          ┃ (仏の力を蓄積)

          ┗ナポレオン法典@1804

【ナポレオン1世の絶頂期】   
ナポレオン1世の時代、兵は国民軍
   ・
王政の頃の傭兵と違って祖国を守りたいという義を持つ 
   ・士気が高い
   ・祖国は戦死者を弔い(エトワール凱旋門)、負傷者の保証を行う
   ・これらは民主主義から発生し、ナポレオン1世が始めた
   ・やがて世界中に広がり戦没者慰霊碑が建つ
   ・これは日本にも波及し、侍という様兵制から徴兵制に変わる@明治維新
   ・明治前後に戦没した霊を弔うようになる@靖国神社@1853 By大村益次郎
   ・これは地方各県にも護国神社として存在する        
           

1804年  ナポレオン・ボナパルトが皇帝即位 : 第一帝政 ルイ18世は抗議声明@ワルシャワ

1805   トラファルガー海戦 仏 VS 英

     アウステルリッツ戦

1806   ナポレオンの兄:ナポリ王 弟:オランダ王 大陸封鎖令

1807   ティルジット条約 : 仏は露、プロイセンと和約

【ナポレオン1世の権勢は急降下】       

1808   ナポレオン1世のスペイン侵攻:兄ジョセフの願い?
      ┣ブルボン朝打倒してジョセフはスペイン王 → スペイン民衆のゲリラ抵抗
      ┗スペインで農民反乱 : ナポレオンの兄ジョセフスペイン王がしでかした
 

1810年  オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリールイーズ1791-1847が ナポレオン妃となる(悲劇) 

1811年  ルイーズはナポレオン2世出産

     この頃マリーアントワネットの愛人フェルセン伯爵が渡英後、無実の罪で惨殺される

1812年  ナポレオン1世のロシア遠征では英が露を支援 → 仏敗退 兵60万人死亡

        原因 : ロシアがティルジット条約違反

        カディス憲法制定:スペイン独自の憲法

1813年  マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊するが流産

        ナポレオン失脚@ライプツィヒ戦@1813 ルイ18世即位 → スペイン独立 ブルボン朝復位

        エルバ島(ピサ斜塔の近く)へ流罪 →エルバ島復興→パリへ帰還

1815年  ワーテルローで敗戦(対 英+オーストリア) セントヘレナ島流罪

1824年  シャルル・フィリップ10世即位 : 超王党派勝利--絶対王政 

     戴冠式では呪術で病を治す:王権神授説

     多くの亡命貴族を援助 出版の自由制限 : 絶対君主政策

     アンシャンレジウム復活 : ポリニャック内閣(反革命 右翼)⇔ 自由派

1830年  アルジェリア戦争 七月勅令:強権的実施 →七月革命 Byパリ市民→英国亡命  
      バスティーユ広場には英雄たちの名が刻まれた記念碑がある

     ルイ・フィリップ1773-1850:即位

     教育改革 納税立憲 鉄道整備 植民地拡大 産業革命

1836年  シャルル・フィリップ10世没

1848年  二月革命 王政崩壊 共和制樹立 → ルイ・フィリップ1773-1850:英国亡命

 

     

     

 

    【右翼、左翼の語源】  国王による絶対王政に反発した層が、改善を求めて三部会を開催。このときに保守派は会議場の右側に座り、改革派は左側に座ったことから、右翼、左翼という言い方が始まった。

                   右翼     左翼      理想

     伝統            必要     拘らない    伝統は尊重する

     天皇について        必要     不要      必要

     憲法改正          必要     不要      場合による

     色々改善(IT化)      不要     必要      必要

     金持ち           少ない    多い      努力の結果金持ちになればよい

     失敗            少ない    多い      失敗はつきもの、恐れる必要なし

 

 

【ジャコバン派の恐怖政治】    革命後は市民農民の支持をうけてロベス・ピエールによるジャコバン派恐怖政治が始まった。それは革命反対派はことごとく処刑するというもので、次第に中間市民層、生産者層から不満が高まり(テルミドールの反動)、やがてロベス・ピエールは処刑された1794。独裁政治を反省して生まれたのが総裁政府、この時私有財産制度を廃止しようとするバブーフの陰謀なる者がでたが失敗。これは今の共産主義の先駆である。

 

アンシャンレジーム

王---聖職者---貴族---富裕層(ブルジョア:フイヤン派)---中間層(ジロンド派)---下層(ジャコバン派)

                                       ロベスピエール 

 

【サロンの華 テレジア・カバリュス】    テルミドールの反乱が成功した陰には、テレジア・カバリュス1773-1835(テルミドールの聖母と言われた)がいる。当時、ナポレオン1世妃・ジョセフィーヌと並んでサロンの華と言われた。半裸のような格好に多くの宝石を身に着けた彼女は、美しさを武器にしてのし上がった典型である。革命家タリアン1762-1820は、バラス将軍1755-1829とともにテルミドールのクーデターを起こしてロベスピエールの恐怖政治を終わらせたことで知られるが、テレジアは、1793年にタリアンの愛人となった後、1795年にはバラスの愛人になり、1802年にはタリアンとは離婚。反革命家として投獄中にはナポレオンの妻ジョセフィーヌと出会ったりしている。このときナポレオン・ボナパルトはテレジアに近づいてきたが、まだ若かりしナポレオンは交際を断られている。

 

また、ハイパーインフレ、革命の嵐で世の中ひっくり返っている時に、ジョセフィーヌやテレジア・カバリュスと同じく社交界サロンで名を馳せた3美神のひとりがジュリエット・レカミエ1777-1849である。社交界にデビューしたときにはパリ一番の美女と言われた。そしてテレジア・カバリュスとはライバルであり親友であった。後にナポレオン皇帝から愛人になるよう強要されたが断ったため、財産を没収され追放されたそうである。晩年は修道院でひっそりと暮らしたが言い寄る男性は尽きなかったという。

【ナポレオンとジョセフィーヌ】   こうした混乱のなか登場するのがナポレオン・ボナパルト1769-1821である。1795年10月5日、軍事独裁政権をつくり、王政復活を狙う王党派が蜂起した。これを一瞬にして鎮圧(街中で大砲使用という大胆で迅速な方法)したことから一躍表舞台に躍り出たのがナポレオンである(ヴァンデミールの反乱を鎮圧して国内軍最高司令官に任命され、社交界でも一目置かれる)。一方妻、ジェセフィーヌ1763-1814は当時フランス領だった西インド諸島のマルティニーク島で16歳迄過ごしたが、フランス貴族に憧れてアレクサンドルと結婚する(1779)。しかしその素行に嫌気がさしたようで、別居。ジョセフィーヌは修道院(当時貴族の奥様が大勢いた)に入れられて、社交界での振舞いなどを教わったようだ。フランス革命でルイ16世が処刑されると、ジョセフィーヌの夫も処刑された。

やがて1795年にパリ市民に武装解除命令が出されると、父の形見の剣を取り戻そうとジェセフィーヌの息子オルタンス1783-1837は、ナポレオンを訪ねる。これが縁でナポレオン27才はジェセフィーヌ33才に恋して・・・すぐに結婚する。1795年。しかしジェセフィーヌはナポレオンに執心なわけではなく、ナポレオンの留守中は浮気三昧であったという。

シャルル・ボナパルト    1746-1785        
 ┣ジョセフ・ボナパルト  1768-1844        :スペイン国王→反乱
 ┣ナポレオン・ボナパルト 1769-1821        :フランス皇帝
 ┃  ┃  ┣ジョセフィーヌ・ボアルネ 1781-1824
 ┃  ┃ ジョセフィーヌ@1796  
 ┃  ┃  ┣ウジェーヌ・ボアルネ   1781-1824         
 ┃  ┃  ┃  ┣ジョセフィーヌ1807-1876スウエーデン王妃        
 ┃  ┃  ┃  ┃  ┗◇現在のスウエーデン国王の祖         
 ┃  ┃  ┃  ┃    ベルナドッテ王朝:1818年から現在まで続く         
 ┃  ┃  ┃  ┃ 
 ┃  ┃  ┃アウグステ1788-1851          
 ┃  ┃  ┃ 
 ┃  ┃  ┣オルタンス・ボアルネ   1783-1837        
 ┃  ┃  ┃  ┣ナポレオン3世     1808-1873 :フランス皇帝          
 ┃  ┃  ┃ ルイ・ボナパルト    1778-1846    
 ┃  ┃  ┃
 ┃  ┃ アレクサンドル・ボアルネ   1760-1794    
 ┃  ┃     
 ┃  ┣ナポレオン2世    1811-1832    
 ┃  ┃ 
 ┃ マリア・ルイーザ1791-1847  @1810王妃在位(⇔ナポレオン)    
 ┃  (母:マリアテレジア1772-1807 父:神聖ローマ皇帝・フランツ2世1768-1835) 
 ┃                      ┗マリーアントワネットの兄
 ┗ルイ・ボナパルト    1778-1846  
   ┗ナポレオン3世     1808-1837 
      ┣ウジェーヌ  1856-1879 
    ウジェニー     1826-1920

【ナポレオンの快進撃@伊、エジプト、シリア】   この頃ナポレオンは破竹の勢いで戦勝を重ねる。1796年にはアルプス越えによるイタリア遠征してオーストリアに勝利(アレコレの戦い)、1797年にはベネチアを支配してパリに凱旋している。また1798年からはエジプト・シリアに遠征(英をけん制するために、英とインドを往復する経由地であるエジプトを奪取にかかった:ピラミッドの戦い)するが、ここでは敗退。この時ナポレオンはロゼッタストーン(プトレマイオス5世により出された勅令が刻まれた石碑)を発見し、書かれたヒエログリフはエジプト研究者・シャンポリオン1790-1832により解読された。

【皇帝ナポレオン即位】    1804年にフランス皇帝として即位し(戴冠式はノートルダム大聖堂)フォンテーヌブロー宮殿で過ごすこととなった。いっときはヨーロッパの大半を征服し、ヨーロッパ経済の支配した。1805年にはロシア・オーストリアに侵攻し、神聖ローマ帝国を消滅させ対ドイツ・ライン同盟を結び、パリに凱旋すると、エトワール凱旋門の建設を命じている(完成は1836年)。一方ジョセフィーヌとはすれ違い、子もできないこともあって1809年に協議離婚した。ジョセフィーヌにはマルメゾン城と年30億円の年金支給を約束したことで後の暮らしは平穏であったようだ。1810年にハプスブルグ家の令嬢・マリールイーズと結婚、翌年に生まれたのが後のナポレオン2世1811-1832である。

【ナポレオンの敗北】    1812年にはロシアに遠征し独を手中にすべくプロイセン、ロシア連合軍と戦う(1813:ライプチヒの戦い)が敗北、大陸軍は壊滅状態に陥った。これを機会にフランスに陰りが現れ始めると、ヨーロッパ諸国は対フランス同盟を次々と結び、やがて1814年には同盟軍によってパリは陥落した。この頃ジョセフィーヌは病に倒れて50歳の生涯を閉じた。そしてナポレオン1世はエルベ島へ流されるが復活し、次はワーテルローの戦い(1815英独との戦い)で敗北し遠方の英領セントヘレナ島へ流され没した1821-5-5。

ところで、「皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を描いたことで有名なジャック=ルイ・ダヴィッド1748-1825はフランスの新古典主義のナポレオンの首席画家に任命されていた画家で、1815年のナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、1816年にベルギーに亡命して、9年後の1825年に時代に翻弄された77年の生涯を終えた。また、ダヴィッドの新古典主義を引き継いだドミニク・アングル1780-1867も同じくベルギーに亡命しているが、ロマン主義のドラクロアに対抗すべく台頭した。

 

アウステルリッツの戦い戦勝記念に、ナポレオン1世が命じて建てたエトワール凱旋門1836年

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【フランス-5】 18世紀 ブルボン朝のフランス絶対王政  ルイ14世、ルイ15世

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【絶対王政の頂点を極めたルイ14世】 
   ┣17世紀後半から18世紀初頭にかけて絶対王政の頂点を極めたのがルイ14世1638-1715 : 即位4歳
   ┃
  ┗宰相はルイ13世のときから引き続きマザラン
   ┣ルイ13世が築いた狩猟のための城をバロック時代の代表建築に改造してベルサイユ宮殿として完成
   ┣  1662年に着工し1882年に完成
   ┣  建築費用は74万ルーブル、国家予算の4倍
   ┣  貴族1000人、従者4000人が暮ら
   ┣  配置は太陽の運行に沿い、庭園にはセーヌ河から水を引くために200台もの揚水ポンプを設置
   ┣  母はスペイン・ハプスブルグ家アンヌ・ドートリッシュ
   ┣絶対王政の象徴
   ┣ルイ14世の在位は72年:ギネス記録
   ┣
太陽王、官僚王として権威を振う
   ┃  重商主義:植民地化Byコルベール
   ┃  ナントの王令廃止@1685---プロテスタント亡命
   ┃  財政難
   ┃  王政神授説
   ┃   ┗国境はピレネー山脈、アルプス山脈、ドーバー海峡、ライン川
   ┃   ┗4大侵略戦争
   ┃      南ネーデルランド継承戦争@1667
   ┃      オランダ侵略戦争@1672
   ┃      ファルツ継承戦争@1688
   ┃      スペイン継承戦争@1701
   ┃       ┗フランス・ブルボン家は断絶@1830
   ┣       ┗スペイン・ブルボン家は今も健在
   ┣北アメリカ植民地化
   ┃   ┗英に割譲:ユトレヒト条約@1714
   ┣ルイ14世の長すぎた治世---次はひ孫のルイ15世
   ┃  ルイ15世の治世は1715-1774
   ┃  ハプスブルグ家と同盟@7年戦争---プロイセン対抗
   ┃  英との植民地戦争---惨敗
   ┗ルイ15世の孫ルイ16世の治世  

 

1618-1648 30年戦争(ウエストファリア条約) 

1638 ルイ14世生まれる 母はアンヌ・ドートリッシュ1601-1666(@スペイン) 愛あふれる母

    マザラン宰相(枢機卿 イタリア人)から帝王学

    マザランの姪マリーマンチーニ(伊へ嫁ぐ)と恋   

1648 フロンドの乱@パリ:国民の不満--重税 コンデ大公 ⇔ マザラン 5年後に鎮圧
     ┗高等法院:法令が妥当かどうか判定
       ┗
マザランは高等法院(王が作った法を審査)を潰そうとした:絶対王政には邪魔
                              ┗使用された投石器のことをフロンド
                              ┗使用された大樽:バリック→バリケード
       ┗国家は国民のためになりません --- 朕は国家なり

1659 ピレネー条約:西仏戦争終戦条約→仏は西に賠償金求めないが持参金付き王女を貰う

1660 マリー・テレーズ・ドートリッシュ1638-1683(カルロス2世の姉)と結婚

     父はフェリペ4世 母はイザベル・ブルボン(ルイ13世の妹)

     マリーは美人じゃないしあか抜けない 宮廷の笑いもの

1661 マザラン宰相死亡 この頃経済は安定 国王が宰相を兼ねる:真の専制 

     ルイ誕生@フォンテーヌブロー宮

     翌年以降生まれるが5人夭逝

1664 フランス西インド会社設立 By 財務総監コルベール(戦争により悪化した財政立て直し 重商主義--植民地化)

     軍制改革 BY ルーヴォア

1667 ネーデルランド戦争~1668:仏 VS スペイン(蘭、英、スウエーデンが干渉)

     フェリペ4世没@1665によりスペイン王に名乗りを上げる

1668 ベルサイユ宮殿築城開始@ルイ13世狩猟用の森 完成は30年後

     建築;ルヴォー 園芸;ルノートル

1670 初陣

1672 オランダ戦争 : ネーデルランド戦争の影響--英蘭同盟 ナイメーヘン条約@1678で収束

1680 フランソワーズ・ドービニエと結婚:マントノン夫人

1682 ベルサイユ宮殿に宮廷、政府を置く 部屋数700

1683 マリー・テレーズ病死

    マリー・テレーズ:楽しい日は1日だけだった

    ルイ14世    :彼女が余に迷惑をかけるのはこれが初めてだ

1685 ナントの王令廃止---亡命プロテスタント市民20万人

             優秀な技術者、商工業者がプロイセンへ亡命

             プロセインは富む

             フランスは衰退する→財政難→侵略戦争→フランス革命へ繋がる

   フォンテーヌブロー勅令 : プロテスタント弾圧 マントノン夫人の影響 

1689 アウグスブルク同盟戦争~1697 : 列強の仏に対して蘭、英、スウエーデン、スペインが同盟

    ベルサイユ宮殿の周囲に大貴族終結:反乱の芽摘む  

             
     ┏マリア                 
      ┣                 
     ┃フェルディナンド3世(神聖ローマ皇帝)                
     ┣アンヌ   オーストリア・ハプスブルグ家          
        ┣      ルイ14世       ↑ 敵対           
       ┃ ルイ13     ┃       ↓ 
     ┗フェリペ4世   ┣ルイ --- ブルボン家  
         ┣マリーテレーズ            
         ┃       ┣フェリペ5世(スペインブルボン朝)  
                ┃┗・・・フェリペ6世@2024 
                ┗ルイ  
                  ┗ルイ15世(フランスブルボン朝)
               
1700       ┣カルロス2世死去 →スペイン断絶         
           ┗マルガリータ               
            ┣娘  
         レオポルト1世 VS ルイ14世  →スペイン継承戦争1701-1713
              ┣ヨーゼフ
              ┗
カール
                ┗
マリアテレジア      

1701 スペイン継承戦争 スペイン王にはブルボン家

    ルイ14世の戦争は全部で32年間:ルイ14世の軍事才能なし、が、ハプスブルク家との覇権争いでは優秀

    重商主義 国内産業保護 外貨蓄積 徴兵制で軍強化 文化振興

1711 嫡男ルイ_(グラン・ドーファン)没@49歳

1712 オランダ侵略戦争~1718

    グラン・ドーファンの嫡男ルイ_(ブルゴーニュ公)没@29歳

1714 スペイン継承戦争終結:ユトレヒト条約  スペイン・ハプスブルク家没落 

    ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世1683-1746:スペイン・ブルボン家

    フェリペ5世 : ルイ14世の長男ルイ1661-1711の次男

1715 ルイ14世没@77歳:在位72年--最長 

    ルイ15世即位@5歳 オルレアン公フィリップ2世が摂政 :重苦しい太陽王おさらば 遊びまくろう

    ルイ15世 : ブルゴーニュ公ルイ1682-1712(天然痘)の三男 ブルゴーニュ公ルイの弟はスペイン王フェリペ5世@1700

          母はマリー・サヴォイア1685-1712 

          ルイ13世1610-1643       
           ┗オルレアン公フィリップ1世1640-1701
             ┗オルレアン公フィリップ2世1674-1723  

1725 マリー・レクザンスカ1703-1768と結婚:ポーランド王女(没落貴族) 11子

1726 親政宣言(フルリー枢機卿にお任せ 平和外交 商業活性 財政政権)

1733 ポーランド継承戦争に参戦(妻の手前 ウイーン条約)

1740 オーストリア継承戦争

1742 シャトールー夫人1717-1744が愛妾

   ネール公爵の4女(因みに長女、次女、3女も妾)

1744 息子の披露宴・仮面舞踏会でポンパドール夫人と出会い踊る 

1745 ポンパドール夫人1721-1764がルイ15世の公妾(正式)となる

    幼名:ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(平民ブルジョアがピンクの馬車で登場) 

    資本家パリス兄弟を後ろ盾に 芸術文化の偉大なパトロンとなる

    サロン、文化、ファッション、政治、教養、音楽、セーヴル磁器@セーヴル村、中二階クラブ

    鹿の苑

1756 7年戦争(オーストリア(マリアテレジア) VS プロイセン) 外交革命:ペチコート作戦

    ロシア・エリザベート急死で敗北 オーストリア、仏後退 プロイセン、英勝利(インド奪取)

    ポンパドール夫人陰る アメリカ大陸の入植地(カナダ、ルイジアナ失う)

1757 ルイ15世暗殺未遂 Byダミアン

1764 ポンパドール夫人死去:@異例のベルサイユ宮殿居室

1770 デュバリー1743-1793を公妾(本名マリ=ジャンヌ・ベキュー)

1774 ルイ15世病死 天然痘 若い百姓娘と関係して感染(ルイ15世は数百人と関係)

 

サン・マルタン・ド・レ :仏西海岸沿線 街そのものが星型要塞@17世紀後半 敵は英国

             ルイ14世は14か所?もの城砦を建造

             稜堡式城郭 高さより広さBy大砲登場

             当時の港は貿易港、軍港 今はリゾート地

             サン・マルタン教会@15世紀

             近くには仏艦隊工場

             海側城壁には砲台跡

 

イアサント・リゴー1659-1743@ほとんど歯抜けのルイ14世63歳

【絶対王政の頂点を極めた背後には農民の貧困】    ところが国民の80%以上を占める農民は、戦争・重税・不況・疫病などで苦しみ、悲惨な時代であった。フランス国内のユグノー戦争(プロテスタントとカトリックの戦い)は収束したが、オーストリア、スペイン、ドイツと敵対することによる30年戦争1618-1648を経験した。30年戦争は、元々神聖ローマ帝国内のプロテスタントとカトリックの戦いであったが、カトリック教徒のハプスブルグ家を牽制するために、プロテスタントの味方をして、周りの大国を巻き込み政治的優位性を巡る戦争に発展していった。結果ウエストファリア条約でハプスブルグ家の後退に成功しアルザス、ロレーヌ地方を獲得する。30年戦争の後は、国王の暴走を恐れた貴族が反乱(フロンドの乱1648-1653)を起こしたが、宰相マザランが鎮圧。重商主義政策でフランス東インド会社を再建1664年して国富増を目指すが、多くの戦争やフランス王家の贅沢を尽くす生活によって国民は重税に苦しんだのである。これはやがて18世紀後半に起こったフランス革命へと発展する。因みに北米の植民地化地域・ルイジアナはルイ14世からきている。

● かくしてロレーヌ地方では貧しい農民の暮らしを描いたルナン兄弟1607-1677、ジョルジュ・トゥール1593-1652が活躍。一方でルイ13世の母、マリー・メディチはフランドル派(ネーデルランド地方の画家が残した絵画)のルーベンスを寵愛して宮廷画家としている。

● また、ナントの勅令を廃止したことでカルバン派(商業を推進する)は再び重税に苦しめられ国外に移住する。これによりフランス経済は停滞しはじめた。

● 南ネーデルランド継承戦争1667失敗、オランダ戦争1672でオランダ併合失敗、ファルツ戦争1688で併合失敗

● ハプスブルク家断絶を機に、スペイン継承戦争で孫をスペイン王フェリペ5世(ブルボン最初の王)としたが、仏・西併合は永久に禁止

  フランス貴族はカロリング、カペー(フランク王国)→ヴァロワ(ハプスブルク最盛期)→1589ブルボンと派生⇔ハプスブルク家

  ドイツ30年戦争(カトリックVSプロテスタント)では仏とハプスブルク家の対立最大

  仏・ルイ13世はハプスブルク家をつぶすためにプロテスタントを支援→人口30%減  一方でナントの王令廃止

  スペイン継承戦争:仏強大化阻止のために英、蘭がハプスブルク家に味方する→世界戦争に発展

  1648年のウエストファリア条約:神聖ローマ帝国が連邦化

   

【ルイ14世の妃はマリー・テレーズ1638-1683】  父親はフェリペ4世、母親はイザベル(アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘、ルイ13世の妹)であるから最高峰のハプスブルグ家出身であり、政略結婚1660であった。

【ルイ14世の妻マントノン夫人1635-1719】 フランソワーズ・ドービニエは貴賤結婚であったため王妃ではない。1669年にルイ14世と出会い、以降モンテスパン夫人の子供の世話係となる。その世話は献身的で王は多額の給料で報いたという。彼女が40歳を過ぎてからルイ14世からマントノン侯爵夫人の称号を得ている。これがモンテスパン夫人の嫉妬をかったが、マントノン夫人が45歳の頃にルイ14世は彼女を第二女官長とした。これによりモンテスパン夫人は宮廷を去ったという。そしてその頃にルイ14世と結婚した。

【ルイ14世の愛妾の一人 ヘンリエッタ1644-1670】 はルイ14世の弟・フィリップ1世の妃でイングランド、スコットランドの王族であるが、フィリップ1世が男色であったためにルイ14世の妾になる。英チャールズ2世1630-1685やジェームズ2世1633-1701の妹にあたる。

【ルイ14世の愛妾の一人 ルイーズ・ヴァリエール1644-1710】 は元々ヘンリエッタの侍女であり、ヘンリエッタとの関係を隠すための関係であったが次第に本当の恋仲になった(17才頃)。彼女は最初、フォンテーヌブローに居たがルイ14世と恋仲になったあとは公認の愛妾となった。親友モンテスパン夫人をルイ14世との食事に誘ったことから運命は変わる。モンテスパン夫人に敵視され、やがて宮廷を去る。

【ルイ14世の愛妾の一人 モンテスパン夫人1640-1707】 フランフォワーズ・モルトゥマールは元々はマリー・テレーズの信頼する侍女であったが、野心家の彼女は寵妾の地位を狙っていた。快活と話術に優れていたが、このときはまだルイ14世はルイーズがお気に入り。モンテスパン侯爵はこの屈辱に耐えきれずルイ14世を非難。かくしてルイ14世はモンテスパン侯爵を追放する。これを機会に自由の身をなったフランソワーズはルイ14世の第一公妾として、17年もの長期にわたって権力を振るうようになる。そして王妃マリー・テレーズを非難さえする。

  1678年、王弟のオルレアン公フィリップ1世の後妻エリザベート・シャルロットの侍女マリー・アンジェリクが王の新たな寵姫になる。モンテスパン夫人は、若く美しいマリー・アンジェリクに激しい嫉妬心と脅威を感じる。王の寵愛を取り戻そうとモンテスパン夫人は、魔女と呼ばれ、黒魔術、堕胎、毒殺を請け負っていたラ・ヴォワザンに接近し、黒ミサの儀式を行なうようになる。そんな中、衝撃的な出来事が起こった。1679年にラ・ヴォワザンや360人もの黒ミサ参加者が逮捕される。事態の深刻さを知ったルイ14世は特別審問会を設置し、徹底的に真相の究明をさせた。逮捕者の1人のギブール神父の証言により、フランソワーズまでが彼らの顧客だった事が明らかになった。黒ミサ事件は、ルイ14世の治世で最大の醜聞となった。1680年2月20日にヴォワザンは火刑にされ、ギブール神父は終身刑にされた。フランソワーズは1686年に宮廷を出て、サン・ジョゼフ修道院に入った。

【ルイ14世の愛妾の一人 マリー・アンジェリク1661-1681】 ルイ14世は、モンテスパン夫人よりも20才以上若いマリーに惹かれるようになる。彼女は元々ルイ14世の弟・フィリップ1640-1701の二番目の妃・シャルロット1652-1722の侍女であったが、18さいの頃に王に見初められた。ルイ14世の子を身ごもるが死産、そののち宮廷を出て修道院に入ったが死亡。モンテスパン夫人に毒を盛られたとの噂が流れたという。モンテスパン夫人とラ・ヴォクザンによる黒魔術による毒殺である。 

 

 

【ルイ15世即位は天然痘流行】    次はルイ15世1710-1774。ブルボン朝第4代のフランス国王である。ルイ14世1638-1715は祖父母にあたる。王太子ルイの嫡子ブルゴーニュ公ルイとマリー・サヴォワの子として生まれる。1711年に王太子ルイが急死したためブルゴーニュ公ルイが王太子となる。この時ブルゴーニュ公ルイの妃マリーが天然痘にかかり死去すると、看病していた夫・ルイも天然痘にかかって死亡する。こうして残されたアンジュー公ルイが王継承権を得て王太子となった。1715年に72年間王位にあったルイ14世は崩御すると、5歳のルイがルイ15世として即位した。5歳のルイ15世に代わって、オルレアン公フィリップ2世が摂政に就き、成人後はブルボン公アンリやフルーリー枢機卿が執政した。私生活は多くの愛人を持つ奔放さ。

【7年戦争の意義】   また、彼の治世では戦争により財政は圧迫、特に7年戦争ではフランスの衰退を招く。プロイセンとオーストリア(仏と組む)という因縁の戦争(シュレジェン争奪)もあるが、当時北アメリカ大陸の覇権を狙ってイギリスと争っていた(フレンチインディアン戦争(7年戦争1754-1763の一部で、北アメリカを舞台に繰り広げられた戦争))。英植民地(ニューイングランド)と仏植民地(ヌーベルフランス、ルイジアナ)が主な激戦地。その中央のオハイオ地域を取り合っていた。結果フランスは負けて北アメリカのすべての植民地を失うこととなる。

【ルイ15世の妃はマリー・レグザンスカ1703-1768】  ルイ15世は11歳の時に、叔父フェリペ5世の娘マリアナ・ビクトリアと婚約していたが、マリアナは3才。嫡子が得られるまで先が長すぎるとの理由で破断。代わって王妃になったのがポーランド王女・レグザンスカ。1725年の結婚から13年間の間に10人の子をもうけたが、その後ルイ15世の寵愛は妾に向けられた。愛人もおらず、ファッションにも政治にも興味がない。興味があったのは髑髏礼拝、そのドクロとはかつての社交界の華・ニノン・ド・ランクロ1620-1705という枢機卿リシュリーなどを相手にした高級娼婦。

 

   【フランスの高級娼婦:クルティザンヌ】

    ラ・パイヴァ1819-1884 19世紀最も有名なクルティザンヌ

    マリー・ディプレシ1824-1847 椿姫のモデル 裏社交界で知性と教養ある女性として花形に上り詰める

    コーラ・パール1835-1886 皇帝ナポレオン3世の弟モルニー公や従兄弟ナポレオン公などの愛人

    エリサ・リンチ1833-1886 ソラーノ・ロペスがパラグアイ第2代大統領に就任すると、エリサは社交界を主導する存在となる

    ヴィルジニア1837-1899 ナポレオン3世の愛人

    クレオ・ド・メロード1875-1966 ベルギー王レオポルド2世の愛人、画家グスタフ・クリムトやドガのモデル

 

 

【ルイ15世の愛妾の一人 ルイーズジュリー1710-1751】  ロココ時代のフランス宮廷に登場したネール侯爵家の姉妹5人の内3人がルイ15世の公妾となった。母のマイイ夫人がマリー・レグザンスカ付きの女官であったことが縁で、23歳ころにルイ15世と関係を持つ。寵愛を受ければ高官の叙勲を要求できるのが常だったが、彼女は興味がなく、国王から愛されることのみに終始。しかしルイ15世は他にも浮気をするので、味方として妹を宮廷に招いたが逆効果。

【ルイ15世の愛妾の一人 ポーリーヌ・フェリシテ1712-1741】 ルイ15世の寵愛を姉から奪ってします。しかし第一子を産んだ直後に死亡。

【ルイ15世の愛妾の一人 マリー・アンヌ1717-1744】  姉たちの宮廷での活躍を見ていたマリーも宮廷に出入りするとたちまち男性たちに言い寄られ、リシュリュー元帥(リシュリュー枢機卿の大甥)と関係する。王が彼女に興味を持っていると感じたリシュリュー元帥は彼女をルイ15世に引き合わせた。彼女は姉たちとは違ってしたたかに振舞う。姉を追放し邸宅・宝石・身分・地位を要求。かくして彼女はシャトールー侯爵夫人として権力を手に入れて王から寵愛された。しかしあえばく急死。毒殺説もささやかれる。

【ルイ15世の愛妾の一人 ポンパドール夫人1721-1764】 ジャンヌ・アントアネットは公妾。その権力を大いに利用して政治に強く干渉し、オーストリア、ロシアの女帝と組んでプロイセン、イギリスに対抗したペチコート作戦は良く知られている。平民でありながら高い教育を受け、超一流のサロンに出入りするようになる。あの欲深いシャトールー侯爵夫人の死に悲しむルイ15世の目にとまり、ポンパドール侯爵夫人の称号が与えられて、夫と別居後正式にルイ15世の妾になった。するとあちことに邸宅を建てさせ、政治に無関心なルイ15世に代わって権勢を振うようになる。夫人に推されて大臣になったエティエンヌは事実上の宰相となった。オーストリアとは宿敵であったが和解。かくして後にマリーアントアネットがフランス王室に嫁ぐことになる。芸術にも秀でてサロンを開催し優雅なロココ様式(ロケイユ調)に発展時代となった。ルイ15世と寝室を共にすることがなくなると、自分の息のかかった女性を紹介するべく、鹿の園を建てて好みの女性200人を住まわせたという。現在のリーゼント髪型はポンパドール夫人が好んだ髪型で、当時はポンパドールと呼んだらしい。かくしてルイ15世は夫人が42歳で亡くなる迄寵愛したという。

 ・セーブル焼工場(王立陶器工場)支援

 ・百科全書出版支援

 ・コケットリー手法 映画リディキュール:パトリスルコント監督

 ・啓蒙思想

 

   【絵画から見たフランス王朝の堕落】 フランス革命前のフランス政治体制をアンシャンレジームという。芸術にはサロンを開催するなど優雅なロココ様式が発展した時代というが、困窮した一般庶民からすれば堕落である。当時もてはやされたのが宮廷画家のアントワーヌ・ヴァトー1684-1721、フランソワ・ブーシエ1703-1770、ジャン・オノレ・フラゴナール1732-1806である。雅宴画(フェート・ギャラント)と言われるものが流行した。元々はポンパドール夫人の遊び心から始まったものである(コケトリー)。こうした堕落したフランス宮廷を描いた映画に「リディキュール」がある。

 

フリードリヒ2世が購入

【ルイ15世の愛妾の一人 デュバリー夫人1743-1793】  ジャンヌはシャンパーニュ地方の貧しい家庭に生まれ、家庭の事情もあって男性遍歴を繰り返す娼婦同然の生活をしていた。ルイ15世と彼女はポンパドール夫人が亡くなった5年後に出会い、彼女の虜になる。デュバリー侯爵と結婚して正式に公妾となると社交界にデビュー。その頃、皇太子時代のルイ16世に嫁いでいたマリーアントワネット(愛妾や娼婦は大嫌い)と対立。1774年、天然痘に倒れたルイ15世の看病をしていた彼女であったが、修道院に入るよう命じられルイ15世からは遠ざけられた。しかし元々陽気な彼女は伯爵たちの愛人になって優雅に余生を送っていたが、フランス革命によって愛人は虐殺され、自身も逃亡先からの帰国の際に捉えられて処刑されたという。

 

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【フランス-4】 17世紀 ヴァロワ朝最後のアンリ3世 ブルボン朝のアンリ4世・ルイ13世

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【アンリ2世概略年表】

【ヴァロワ-アングレーム朝 1515-1589】

1525年  パヴィアの戦いでフランス敗退 アンリ2世は父の代わりに人質となってスペインで牢獄生活(1525-1530) 

1533年  アンリ2世はカトリーヌ・メディシスと結婚 

      カトリーヌ・メディシスに仕えていたのがノストラダムス(医者:青酸カリ生成)

      しかしアンリ2世は、宮廷に君臨する愛人ディアーヌ・ポアチエ1500-1566を愛す

      ロワール地方のシュノンソン城を与える     

1544年  フランソワ2世誕生

1545年  エリザベート誕生

1547年  フランソワ1世が没し、アンリ2世は王位継承し カトリーヌ・メディシスは王妃となる

       アンリ2世は愛人ディアーヌ・ポアチエの周囲を重用する

       モンモランシー1493-1567:パヴィア戦で捕虜、マドリード条約締結

                    フランソワ1世に追放されていたが・・(和平論者)

       ギーズ公(カトリックのリーダー)

       サボイア公国、ブーローニュ侵攻

       異端弾圧裁判所設置(プロテスタント弾圧:火刑) 異端撲滅勅令

1553年  マルグリッド誕生(アンリ2世の娘・マルゴ)後にギーズ公アンリと恋仲@1570

      このときカトリーヌ・メディシスはギーズ公アンリを宮廷から追放

1558年  フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート結婚

      メアリー・スチュアートにとってはギーズ公は叔父

      カレーを約200年ぶりに奪還(Byギーズ公)→ギーズ公優勢(カトリック)→モンモランシーを追放

1559年  カトーカンブレッジ条約 : イタリア戦争終結(仏は伊を放棄)

      馬上の槍が突き刺さり、アンリ2世死去

      愛人ディアーヌ・ポアチエはシュノンソン城から退散

      フランソワ2世即位するが翌年死去 メアリースチュアート(後にエリザベス1世により斬首)はスコットランドへ帰国

      カトリーヌ・メディシスは摂政@シャルル9世

      エリザベートとフェリペ2世(息子ドン・カルロスと婚約していた)結婚

1560年  シャルル9世即位1550-1574

      ギーズ公がプロテスタント弾圧 コンデ大公ルイ逮捕(ナバラ王の弟)

     

1562年  1月勅令 → ユグノー戦争勃発-1598年迄 

      ギーズ公フランソワ(アンリの父)没 プロテスタントのコリニー提督が首謀者

      ナバラ王アントワーヌ没(カトリックに改宗しアンリ4世にも改宗強要)

      ヴァシーの虐殺 3/1 最初の宗教戦争 

1564年  シャルル9世全国行脚

1565年  オランダ地方独立運動(プロテスタント)

1567年  第二次、第三次宗教戦争 

      コンデ大公ルイ没@1569      

1570年頃 アンリ3世1551-1589の治世(フランス王&ポーランド王でカトリック・ヴァロワ家)ポーランド女王との結婚が破断

     (破断理由)マリード・クレーブ1553-1574(プロテスタントのナバラ王アンリ1553-1610とは従妹)に思いを寄せる

1572/6/9 ナバラ王アンリの母・ジャンヌ・ダルブレ1528-1572(プロテスタント フランソワ1世の姪)が死去

      アンリ2世の娘・マルグリッドとナバラ王アンリ(プロテスタント)婚約      

      → アンリ3世の母・カトリーヌの提案でカトリック&プロテスタントの和議?

1572/8/24 ギーズ公アンリ(カトリックのリーダー)がプロテスタントのコリニー提督を暗殺(ギーズ公の恨み)     

      サン・バルテルミ@パリの虐殺に発展(カトリックによるプロテスタント市民の虐殺(約5万人)@パリ)

      → 祝日名 プロテスタント殲滅 ミシェル・ノストラダムスの計画?---「預言書」@1555    

      ナバラ王アンリはギーズ公アンリによって宮廷に監禁される

      が、マルグリッドの提案でプロテスタントからカトリックに改宗することで難を逃れた

      ナバラ王アンリとマルゴとの結婚生活は上手くいくはずもなく、お互いに多くの愛人を作る

1574年  マルグリッドの兄シャルル9世死去(結核)、アンリ3世即位

1575年  アンリ3世はルイーズ・ド・ロレーヌ1553-1601と結婚

      後継問題;男色

1576年  アンリ2世の息子アンジュー公フランソワがプロテスタントに改宗(国王への反旗)

      ボーリューの勅令(プロテスタントの礼拝許可) → カトリック市民勢力の反発

      カトリックとプロテスタントの反乱

1584年  アンジュー公フランソワ死亡 → ナバラ王アンリに王統継承権

      カトリック市民勢力はギーズ公アンリを推す

1585年以降  アンリ3世 / ギーズ公アンリ / ナバラ王アンリの戦い → 第8次宗教戦争:最後

1588年  アンリ3世(国民に不人気)はギーズ公アンリを国外追放、暗殺

      市民は国王軍を圧倒してアンリ3世をパリから追放

【ブルボン朝 1589-1792】

1589年  ローマ教皇はアンリ3世を破門 アンリ3世は暗殺される → ヴァロワ朝終焉

      アンリ4世即位(ナバラ家プロテスタント)反感80%  → ブルボン朝絶対王政の始まり

    【絶対王政が始まる条件】

     ・封建制度の没落---諸侯・騎士の没落

       十字軍失敗、100年戦争-で敗退した英の絶対王政は仏より100年早い

       イタリア戦争-1559で仏敗退

       ユグノー戦争-1598

     ナント(ナバール王の領地)の勅令 : ユグノー公認--宗教戦争終結

     アンリ4世はマルグリッドと離婚(ローマ教皇への多額の献金BYメディチ家)

     カトリーヌ・メディシス死去

1593年  アンリ4世カトリックに改宗

1594年  アンリ4世カトリックとして戴冠 ブルボン王朝(カペー王朝の傍流) 

      改宗繰り返す

1599年  愛妾ガブリエル・デストレ死去(犯人はマルゴー?メディチ家?) 

     アンリ4世マルゴーと離婚   

1600年  アンリ4世はマリー・メディシス27歳(不思議なほど遅い)と結婚 

      持参金は国家予算 お供数千人 ガレー船18隻でマルセイユ到着 愛は無い

      この時アンリ4世は愛妾と旅行中 

      マリーはフランスを見下し語学勉強などしない

      マリー・ド・メディシスの生涯Byルーベンス @リュクサンブール宮殿   

1601年  アンリ4世の子・ルイ13世1601-1643誕生

1602年  アンリ4世の子・エリザベート(イザベル)1602-1644誕生:フェリペ4世王妃

1609年  アンリ4世の子・ヘンリエッタ1609-1669誕生:英チャールズ1世王妃

1610年  マリー・ド・メディシスのサン=ドニの戴冠式 5/13

      翌日アンリ4世暗殺 5/14 王妃マリー黒幕説?

      ルイ13世即位  
       ┣母マリー・メディシスが摂政
       ┣母マリーをブロワー城に追放・政務願望
       ┃       ┗ジャンヌダルクが司教から祝福
       ┣元帥はリシュリーが補佐
       ┃   ┗三部会停止(フランス革命の直前まで約170年停止)→ 絶対王政
       ┃                               ┗国王は法に従う必要無し
       ┣ハプスブルグ家との対立(ドイツ、スペインの狭間)
       ┃   ┗後の30年戦争(カトリックVSプロテスタント)ではプロテスタントに加勢
       ┃             
       ┣傲慢な反プロテスタント
       ┣宗教戦争再燃
       ┗
       

1615年  コンデ大公ルイをバスティーユ監獄へByマリー・メディシス

1617年  ルイ13世はマリーが引き立てた元帥コンチーニ1575-1617を暗殺 母マリーをブロワー城に追放

      新元帥はリシュリーも追放 

1619年  母子戦争 

1624年  リシュリュー枢機卿--国王顧問会議

1627年  ラロッシェル包囲戦:プロテスタント側蜂起

 

  ユッセ城@ロワール渓谷 ナント市の東 現在も貴族が住む --- 財力を誇示する象徴

     15世紀建造 城主はピュイエ伯--ジャンヌダルクとともに100年戦争で戦う戦士

     童話作家シャルル・ペローが眠れる森の美女を執筆 

     16世紀に礼拝堂

     17世紀には華麗な城に変貌:正面の城壁をなくして広場にした

     現在はブラカス公爵(フランス復古王政時代の貴族)の住居

     国王の間は城主の地位象徴

     マンサールの大階段--ルイ13世に仕えたフランソワ・マンサール設計1598-1666

     ルイ4世のタペストリー

     ルイ18世の肖像画---仏革命後ルイ18世を助けたことでブラカス家が公爵に・・の来歴だという

     1階の大回廊---17世紀の農村の暮らしを示すタペストリー

     フランス式庭園---ベルサイユ宮殿の庭師による

 

 

 

     ヘンリエッタがチャールズ王妃となったときに持参した絵画がレオナルド・ダ・ヴィンチ作と言われる「サルバトール・ムンディ:世界の救世主」である。この絵画を巡って「ダヴィンチは誰に微笑む」という映画が公開された@2021-11。約4万円で取引された薄汚れた絵が、やがて510億円という世界最高の金額でサウジアラビアの皇太子によって落とされたのである。しかしそれが真作であるという確証はない。ルーブル美術館のモナリザの横に展示したいというサウジ。真作の確証がないとして展示を拒否するフランス。

カトリーヌ・メディチ1519-1589(伊メディチ家)    
 ┃ ロレンツィオのひ孫    
 ┃ 
今のフランス料理の始まり---元々は伊料理 
 ┣フランソワ2世1544-1560(ヴァロワ朝第11代フランス王)    
 ┃ ┣ ✖   
 ┃メアリー・スチュアート1542-1587(スコットランド女王)
 ┃
   ┣シャルル9世1550-1574(ヴァロワ朝第12代フランス王)
 ┃ 狂気的 プロテスタント援助(コリニー提督側)
 ┃     コリニー提督はオランダ独立戦争に加勢
 ┃ 摂政カトリーヌは傍観していたが---諸侯の没落狙い
 ┃ 
 ┃ルイーズ・ロレーヌ1553-1601(仏ロレーヌ公爵家)
 ┃  ┃              ジャンヌ-1568再婚
 ┃  ┃               ┣
 ┃  ┃ 父:メルクール公二コラ・ロレーヌ
 ┃  ┃ 母:マルグリッド      ┣
 ┃  ┃              カトリーヌ再再婚  
 ┃  ┣✖流産

   ┣アンリ3世1551-1589(アンジュー公⇒(ヴァロワ朝最後-第13代フランス王)&ポーランド王@1573)
 ┃   1567年第二次、第三次宗教戦争で活躍 
 ┃  
 ┃   1570年頃:ポーランド女王と婚約⇒ポーランド王兼務
 ┃        1574年兄・シャルル9世崩御⇒仏王即位⇒ポーランド女王と破断⇒ルイーズと結婚@1575   
 ┃   原因:マリード・クレーブ1553-1574(父:フランソワ1世 母:マルグリッド アンリ4世の従妹)
 ┃        ┣--
 ┃      コンデ公アンリ1世1552-1588
 ┃        ┣アンリ2世 
 ┃      シャルロット1568-1629
 ┃
 ┃ ギーズ公アンリ1550-1588(カトリックのリーダ 父ギーズ公はコリニー提督に殺害される)
 ┃  ┃  
 ┃  ┣

   ┣マルグリッド1553-1615(カトリック 愛人多数)
 ┃  ┣ この結婚式が惨劇・サン・バルテルミの虐殺に発展
 ┃  ┃  コリニー提督暗殺される
 ┃  ┃  惨劇の首謀者はカトリーヌ?
 ┃  ┃  マルグリッドはナバラ王アンリ(カトリックに改宗)を匿う
 ┃  ┃  離婚@1599
 ┃  ┃ 
 ┃  ┃ マリー・メディチ1575-1642
 ┃  ┃  ┃1600結婚:持参金目当て
 ┃  ┃  ┃マリーの生涯@ルーブル美術館 by ルーベンス1577-1640
 ┃  ┃  ┣ルイ13世    1601-1643---3部会停止:絶対王政
 ┃  ┃  ┣エリザベート 1602-1644---フェリペ4世の王妃
 ┃  ┃  ┣クリスティーヌ1606-1663---サヴォイア公妃  ---パリ6区のSt名残る
 ┃  ┃  ┣ドルレアン  1607-1611
 ┃  ┃  ┣ガストン   1608-1660---オルレアン公
 ┃  ┃  ┣ヘンリエッタ 1609-1669---英チャールズ1世王妃
 ┃ アンリ4世1553-1610(プロテスタント 愛人は50人とも)
 ┃  ┃        カトリック派に暗殺される@シャトレ駅の近く
 ┃  ┃        ナバラ王の父:アントワーヌ
 ┃  ┃        ナバラ女王の母:ジャンヌ・ダルブレ
 ┃  ┃        ジャンヌ・ダルブレの父:エンリケ2世1503-1555
 ┃  ┃        ジャンヌ・ダルブレの母:マルグリッド1492-1449はフランソワ1世の姉
 ┃  ┃ 
 ┃  ┣ルイ13世1601-1643 1610即位@Relais Louis XIII
 ┃  ┃ ┣ルイ14世(太陽王)1638-1715
 ┃  ┃ ┣オルレアン公フィリップ1640-1701         
 ┃  ┃アンヌ・ドートリッシュ1601-1666 Anne d'Autriche フェリペ4世は弟      
 ┃  ┃ ┃ ┣                     
 ┃  ┃ ┃バッキンガム公       
 ┃  ┃ ┣                    
 ┃  ┃マザラン枢機卿1602-1661 
 ┃  ┃ 
 ┃  ┣エリザベート(イザベル)1602-1644        
 ┃  ┃ ┣カルロス1629-1646            
 ┃  ┃ ┣マリア・テレサ1638-1683  
 ┃  ┃ ┃ ┣ルイ1661-1711 唯一成人             
 ┃  ┃ ┃ ┣多数早世      
 ┃  ┃ ┃ルイ14世1638-1715      
 ┃  ┃ ┃        
 ┃  ┃ ┣他多数 早世                     
 ┃  ┃フェリペ4世1605-1665             
 ┃  ┃             
 ┃  ┣ガストン1608-1660 ブロンドの乱で蟄居     
 ┃  ┃                          
 ┃  ┣ヘンリエッタ・マリア1609-1669     
 ┃  ┃ ┣        
 ┃  ┃チャールズ1世1600-1649     
 ┃  ┃                
 ┃ マリー・メディシス1575-1642                
 ┃  

   ┣フランソワ1555-1584(アンジュー公)
 ┃ ポリティーク派 : プロテスタント側 → ムッシュの和平
 ┃ 

 ┃ 
アンリ2世1519-1559(槍事故死 ヴァロワ朝第10代フランス王)

【アンリ4世はナントの勅令により宗教内乱戦争は収束】    アンリ4世1553-1610はフランス国民の間で人気の高い王で、紙幣の肖像に使用されている。最初の妻はマルグリッド・ヴァロワ1553-1615(父はアンリ2世、母はカテリーナ・メディシス)婚礼の直後にサンバルテルミの虐殺が発生1572/8/24。これはカトリック(ギーズ公アンリ1世155-1588を中心とする勢力)と対立するユグノー勢力(コリニー提督を中心とする貴族だけではなく一般大衆も含む)が大勢惨殺されるというものであった。

また国王アンリ3世1551-1589とも対立していたギーズ公アンリは1588年12月23日、アンリ3世に呼び出され(@ブロワ城王の居室)暗殺された。アンリ2世1519-1559の事故死の後を継いで国王となっていたアンリ3世1551-1589の時代はフランスが大混乱の時代で、後継ぎがなかったアンリ3世はユグノーとの和解に向けてアンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)という国王継承権のある貴族でユグノーのリーダーと会合を持った。場所はブロワ城の下流にあるプレシレトゥール城、1589/4/30のことでる。アンリ3世はナヴァラ王アンリにカトリックへの改宗(人生で5回改宗している)を条件に国王の後を託したのである。これを機にアンリ4世とマルグリッドの仲は冷え切って宮廷を去った。二人の間に子は無く、そののち離婚すると、メディチ家のマリー1575-1642と結婚する。

やがて、アンリ3世もカトリック宗教会に暗殺されると(バロア朝断絶)、ナバラ王アンリがアンリ4世1553-1610としてフランス王に即位、最後まで抵抗していたロワール川の河口ナントの総督を降伏させた。ブルターニュ大公城があるナントは16世紀迄はフランスとは独立したブルターニュ公国の首都であった。ナント勅令はここブルターニュ大公城で発せられ、ユグノーに対する宗教の自由を宣言した。1598年ナントの勅令により宗教内乱戦争は収束し、国土再建(経済再生、農業促進、開墾拡大、公共事業、教育、森林保護、運河整備などなど)の時代にはいる。ルーブル宮殿の大ギャラリー建造もこの頃に行われ次の王へと継承された。しかし1610年に熱狂的なカトリック教徒に暗殺された。

カトリックとユグノーの間で宗教戦争が激しかったアンリ3世の治世、1560年ユグノーが当時の国王を誘拐する計画が発覚。首謀者はアンボワーズ城内で処刑され、城のバルコニーに吊るされた。この頃ブロワ城は政治の中心地、ルネッサンス様式の傑作といわれるフランソワ1世の階段がある。また城の敷地内にある礼拝堂にはフランスの歴史を彩った人々(フランソワ1世、ジャンヌダルク、アンリ3世など)のステンドガラスで埋め尽くされている。

【ルイ13世の治世にユグノー台頭】    アンリ4世とメディチ家のマリーとの間には6人の子をもうけるが、ルイ13世1601-1643は次の王、エリザベート1602-1644はフェリペ4世妃となる。ルイ13世が王位に就いたのは9才なので母マリーが摂政を務め、有能なリシュリュー枢機卿を重用した。因みにこの頃ナントの勅令により権力を取り戻したユグノー勢力は、根強い宗教対立を生む結果にもなっている。1615年にスペイン・フェリペ3世の王女アナ1601-1666と結婚(スペインカトリックとの同盟)したが、この結婚がより一層ユグノー勢力を警戒させることとなる。この頃母マリーの寵臣コンチーニを重用することで数々の反乱を招く。かくしてルイ13世は、母を排除追放してブロワ城に幽閉すると母の寵臣コンチーノと母の侍女レオノーラは処刑された。

【宗教統一が発端で始まった30年戦争】    この頃1618年に中央ヨーロッパに広がったのが30年戦争と言われる宗教戦争である。発端は神聖ローマ皇帝に選ばれたフェルディナント2世がカトリックに宗教統一しようとしたこと。ドイツのプロテスタント勢力が結集。フランスはプロテスタント側に参戦、この戦争はヨーロッパ全土に大きなダメージを与える結果となる。

【ルイ13世によるユグノー弾圧】    ルイ13世は1624年にリシュリュー枢機卿を宰相とし、以降の約20年間を統治し、ルイ13世は絶対君主となる。かくして敬虔なカトリックであるルイ13世はユグノーを徹底的に制圧する。不満分子は幽閉されている母・マリーを担いでクーデターを企てるが失敗。母マリーは再び追放された。リシュルー宰相が1642年に死去すると、その5か月後にルイ13世も崩御。その後を継ぐことになったのは僅か4歳のルイ14世である。

今ルーブル美術館にはルーベンス1577-1640という宮廷画家による「マリー・ド・メディシスの生涯」が残されている。これはマリーの反乱和解の後にルーベンスにオファーがあったもので、ルイ13世の母マリーの誕生、教育、縁談、結婚、出産、戴冠、王女交換、摂政政治、ブロア城逃亡、和解、真実の勝利などなど24点の連作絵画である。彼はバロック期のフランドル画家(オランダ)で、外交官でありながらフランスだけではなく、スペイン皇族・貴族などの絵画を残し数多くの画家に影響を与えた。

 

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【フランス-3】 16世紀 ヴァロワ朝のフランスとフランソワ1世

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【フランソワ1世とイギリス国王・ヘンリー8世はライバル】    神聖ローマ皇帝であり、スペイン王・カルロス1世(カール5世)が世界を席巻していた頃、フランスではヴァロワ朝第9代・フランソワ1世1494-1547が統治していた。妻はクロード・フランス1499-1524で、彼女の父はフランス国王ルイ12世、母はアンヌ・ブルターニュである。ルイ12世は、晩年にヘンリー8世の妹・メアリー・チューダーとも結婚したが、その翌年に死去する。彼には男子が居なかったためにフランソワ1世が王位を継承した。フランソワ1世にはアンブーリン・メアリー1501-1536という愛妾(しかもヘンリー8世の妻でエリザベス1世の母)がいたが、彼女は元々メアリー・チューダー1496-1533の侍女であった。このあたりが極めて複雑な人間関係になっているのは、フランソワ1世1494-1547とイギリス国王・ヘンリー8世1491-1547が政治的にも個人的にもライバル関係にあったからだと言われている。

【フランソワ1世はダ・ヴィンチを呼んでフランスを芸術の国に高めた】    実はこのフランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチ1452-1529のパトロンでもあった。かくしてフランソワ1世はフランスを芸術の国に高めた。イタリアに侵攻したフランソワ1世はイタリア・ルネッサンスの華やかさに魅了され、それをフランスに持ち帰ります。1516年フランソワ1世は晩年のモナリザを携えたダビンチをフランスに招いた。この時モナリザは完成していなかったのである。そして王宮、庭園、農地等々の設計をダビンチに依頼したという。しかし間もなくダビンチは亡くなり、フランソワ1世の構想は幻となった。シャンポール城にはレオナルドが設計した二重らせん階段が残っている。

【ユグノーとカトリックの対立が激化】    フランソワ1世は妻・クロード・フランスとの間に後のアンリ2世1519-1559をもうけた。彼はカテリーナ・メディシス1519-1589を妻とした。当時ユグノーとカトリックの対立が激化してカトリーヌは融和を図ろうとするがユグノー戦争を止めることはできなかった。1572年にサンバルテルミの大虐殺が起こり、彼女は悪名を残すこととなる。ユグノー戦争に終止符をうったのはナバラ王あんり。アンリ4世として即位するとナントの勅令を発して戦争を鎮め、以降ブルボン王朝が始まった。

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【フランス-2-3】 15-16世紀 中世ヴァロワ朝フランス国王ルイ12世とフランソワ1世

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

シャルル8世1470-1498はヴァロワ朝国王の主流 フィリップ6世-ジャン2世-シャルル5世-シャルル6世-シャルル7世と辿って来た。シャルル8世が27歳の若さで没した時、跡継ぎ問題が発生。そこで思いがけなくも候補に挙がったのが傍流のオルレアン公ルイ2世1462-1512。オルレアン公初代はオルレアン公ルイ1世1372-1407で、シャルル6世とは兄弟にあたる。1498年に即位したルイ12世は妻を3人娶った。1番目はジャンヌ・フランス1464-1505、2番目はアンヌ・ド・ブルターニュ1477-1514・・・シャルル8世の王妃であったが1498年にシャルル8世が没した後で結婚した。もちろんブルターニュ地方を治めるための政略結婚である。3番目はイギリス国王ヘンリー8世の妹メアリー・チューダー。男子に恵まれなかったルイ12世は、アンヌ王妃が没した1514年にメアリーと結婚、この時52歳どいう年齢にも関わらず息子を欲しての結婚であったが、その甲斐なくルイ12世は翌年死亡。

跡を継いだのはフランス美術に大きく貢献したフランソワ1世1494-1543である。王妃となったのはルイ12世とアンヌの子クロード1499-1524。何故突如フランソワ1世が登場したかというと、彼の父はアングレーム伯シャルル・ドルレアン1459-1496。アングレームはルイ・オルレアン1372-1407(ルイ12世の祖父)の孫であり、極めて近い縁がある。

フランソワ1世が即位した4年後に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(王妃はフランドル地方出身のマリー)が没した。当時神聖ローマ皇帝は選挙で選ばれており、次期皇帝に名乗りを上げたのはマクシミリアン1世の孫カール5世1500-1558とフランソワ1世1494-1543である。カール5世の父はフランドルのフィリップ美公、母はハプスブルク家のファナ女王。とてつもない財産の持ち主であるから、当然のことながら選挙に勝利するためには、神聖ローマ帝国の数多くの選帝侯に賄賂を贈って選挙に勝利する。カール5世はフランス・ブルゴーニュ家の子孫、フランソワ1世はフランス・アルマニャック派・・・・14世紀の両者の争いが100年以上の時を超えて再来したとも言える。

 

1470 シャルル8世誕生

1488 シャルル8世 VS ブルゴーニュ公フランソワ2世 : コルミエの戦い

【ヴァロワ-オルレアン朝 1498-1515】

1498 シャルル8世死亡 ルイ12世即位(オルレアン公2世)

1514 アンヌ王妃死亡

【ヴァロワ-アングレーム朝 1515-1589】

1515 ルイ12世死亡 フランソワ1世即位

1516 ボローニャの政教協定(コンコルダ)---ローマ教皇レオ10世のフランス教会に対する支配権後退   
     ┣聖職者叙任権はフランス国王   
     ┗公文書はフランス語    
          
   フランソワ1世

     ┣戸籍取り纏め---情報収集   
     ┣オスマン帝国(ウイーン包囲@1529)と同盟@1536:カール5世に対抗   
     ┗ユグノー弾圧

1517 マルチン・ルター

1519 マクシミリアン1世死亡 神聖ローマ皇帝選挙(カール5世 VS フランソワ1世)

   アンリ2世誕生

1525 パヴィアの戦い 仏 VS ナポリ フランソワ1世捕虜となる

フランソワ1世が最初に行ったのがイタリア侵攻、これはシャルル8世、ルイ12世の代からの継続である。これをパヴィアの戦い@1525という。ここでは将軍のブルボン大元帥の寝返りなどもあってフランス軍は大敗し、こともあろうにフランソワ1世が捕虜となった。この時フランソワ1世はカール5世の姉・エレオノール1498-1558を口説いていたという。フランス・フランソワ1世はマドリード条約によって解放。代わりにブルゴーニュ、ミラノ、ナポリ、フランドル地方などを放棄、息子二人(フランソワ1518-1536とアンリ2世1519-1559はスペインへ)を人質にすることとなる。

ところが1527年にはこのマドリード条約を無視、英国(ヘンリー8世)や教皇と手を組んでカール5世・・つまりハプスブルグ家と対抗するのである。かくして人質の息子のスペイン生活は長く、最後は牢獄のような部屋での人質であったという。

1529 カンブレ条約 : 人質解放

1530 王立教授団設立

イタリア侵攻を継続するフランソワ1世であるが、イタリア芸術の高さに感銘して。ルーブル宮殿の建設にはイタリア様式は採用されている。

 

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