【絶対王政の頂点を極めたルイ14世】
┣17世紀後半から18世紀初頭にかけて絶対王政の頂点を極めたのがルイ14世1638-1715 : 即位4歳
┃ ┗宰相はルイ13世のときから引き続きマザラン
┣ルイ13世が築いた狩猟のための城をバロック時代の代表建築に改造してベルサイユ宮殿として完成
┣ 1662年に着工し1882年に完成
┣ 建築費用は74万ルーブル、国家予算の4倍
┣ 貴族1000人、従者4000人が暮ら
┣ 配置は太陽の運行に沿い、庭園にはセーヌ河から水を引くために200台もの揚水ポンプを設置
┣ 母はスペイン・ハプスブルグ家アンヌ・ドートリッシュ
┣絶対王政の象徴
┣ルイ14世の在位は72年:ギネス記録
┣太陽王、官僚王として権威を振う
┃ 重商主義:植民地化Byコルベール
┃ ナントの王令廃止@1685---プロテスタント亡命
┃ 財政難
┃ 王政神授説
┃ ┗国境はピレネー山脈、アルプス山脈、ドーバー海峡、ライン川
┃ ┗4大侵略戦争
┃ 南ネーデルランド継承戦争@1667
┃ オランダ侵略戦争@1672
┃ ファルツ継承戦争@1688
┃ スペイン継承戦争@1701
┃ ┗フランス・ブルボン家は断絶@1830
┣ ┗スペイン・ブルボン家は今も健在
┣北アメリカ植民地化
┃ ┗英に割譲:ユトレヒト条約@1714
┣ルイ14世の長すぎた治世---次はひ孫のルイ15世
┃ ルイ15世の治世は1715-1774
┃ ハプスブルグ家と同盟@7年戦争---プロイセン対抗
┃ 英との植民地戦争---惨敗
┗ルイ15世の孫ルイ16世の治世
1618-1648 30年戦争(ウエストファリア条約)
1638 ルイ14世生まれる 母はアンヌ・ドートリッシュ1601-1666(@スペイン) 愛あふれる母
マザラン宰相(枢機卿 イタリア人)から帝王学
マザランの姪マリーマンチーニ(伊へ嫁ぐ)と恋
1648 フロンドの乱@パリ:国民の不満--重税 コンデ大公 ⇔ マザラン 5年後に鎮圧
┗高等法院:法令が妥当かどうか判定
┗マザランは高等法院(王が作った法を審査)を潰そうとした:絶対王政には邪魔
┗使用された投石器のことをフロンド
┗使用された大樽:バリック→バリケード
┗国家は国民のためになりません --- 朕は国家なり
1659 ピレネー条約:西仏戦争終戦条約→仏は西に賠償金求めないが持参金付き王女を貰う
1660 マリー・テレーズ・ドートリッシュ1638-1683(カルロス2世の姉)と結婚
父はフェリペ4世 母はイザベル・ブルボン(ルイ13世の妹)
マリーは美人じゃないしあか抜けない 宮廷の笑いもの
1661 マザラン宰相死亡 この頃経済は安定 国王が宰相を兼ねる:真の専制
ルイ誕生@フォンテーヌブロー宮
翌年以降生まれるが5人夭逝
1664 フランス西インド会社設立 By 財務総監コルベール(戦争により悪化した財政立て直し 重商主義--植民地化)
軍制改革 BY ルーヴォア
1667 ネーデルランド戦争~1668:仏 VS スペイン(蘭、英、スウエーデンが干渉)
フェリペ4世没@1665によりスペイン王に名乗りを上げる
1668 ベルサイユ宮殿築城開始@ルイ13世狩猟用の森 完成は30年後
建築;ルヴォー 園芸;ルノートル
1670 初陣
1672 オランダ戦争 : ネーデルランド戦争の影響--英蘭同盟 ナイメーヘン条約@1678で収束
1680 フランソワーズ・ドービニエと結婚:マントノン夫人
1682 ベルサイユ宮殿に宮廷、政府を置く 部屋数700
1683 マリー・テレーズ病死
マリー・テレーズ:楽しい日は1日だけだった
ルイ14世 :彼女が余に迷惑をかけるのはこれが初めてだ
1685 ナントの王令廃止---亡命プロテスタント市民20万人
優秀な技術者、商工業者がプロイセンへ亡命
プロセインは富む
フランスは衰退する→財政難→侵略戦争→フランス革命へ繋がる
フォンテーヌブロー勅令 : プロテスタント弾圧 マントノン夫人の影響
1689 アウグスブルク同盟戦争~1697 : 列強の仏に対して蘭、英、スウエーデン、スペインが同盟
ベルサイユ宮殿の周囲に大貴族終結:反乱の芽摘む
┏マリア
┃ ┣
┃フェルディナンド3世(神聖ローマ皇帝)
┣アンヌ オーストリア・ハプスブルグ家
┃ ┣ ルイ14世 ↑ 敵対
┃ ルイ13 ┃ ↓
┗フェリペ4世 ┣ルイ --- ブルボン家
┣マリーテレーズ┃
┃ ┣フェリペ5世(スペインブルボン朝)
┃ ┃┗・・・フェリペ6世@2024
┃ ┗ルイ
┃ ┗ルイ15世(フランスブルボン朝)
┃
1700 ┣カルロス2世死去 →スペイン断絶
┗マルガリータ
┣娘
レオポルト1世 VS ルイ14世 →スペイン継承戦争1701-1713
┣ヨーゼフ
┗カール
┗マリアテレジア
1701 スペイン継承戦争 スペイン王にはブルボン家
ルイ14世の戦争は全部で32年間:ルイ14世の軍事才能なし、が、ハプスブルク家との覇権争いでは優秀
重商主義 国内産業保護 外貨蓄積 徴兵制で軍強化 文化振興
1711 嫡男ルイ_(グラン・ドーファン)没@49歳
1712 オランダ侵略戦争~1718
グラン・ドーファンの嫡男ルイ_(ブルゴーニュ公)没@29歳
1714 スペイン継承戦争終結:ユトレヒト条約 スペイン・ハプスブルク家没落
ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世1683-1746:スペイン・ブルボン家
フェリペ5世 : ルイ14世の長男ルイ1661-1711の次男
1715 ルイ14世没@77歳:在位72年--最長
ルイ15世即位@5歳 オルレアン公フィリップ2世が摂政 :重苦しい太陽王おさらば 遊びまくろう
ルイ15世 : ブルゴーニュ公ルイ1682-1712(天然痘)の三男 ブルゴーニュ公ルイの弟はスペイン王フェリペ5世@1700
母はマリー・サヴォイア1685-1712
ルイ13世1610-1643
┗オルレアン公フィリップ1世1640-1701
┗オルレアン公フィリップ2世1674-1723
1725 マリー・レクザンスカ1703-1768と結婚:ポーランド王女(没落貴族) 11子
1726 親政宣言(フルリー枢機卿にお任せ 平和外交 商業活性 財政政権)
1733 ポーランド継承戦争に参戦(妻の手前 ウイーン条約)
1740 オーストリア継承戦争
1742 シャトールー夫人1717-1744が愛妾
ネール公爵の4女(因みに長女、次女、3女も妾)
1744 息子の披露宴・仮面舞踏会でポンパドール夫人と出会い踊る
1745 ポンパドール夫人1721-1764がルイ15世の公妾(正式)となる
幼名:ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(平民ブルジョアがピンクの馬車で登場)
資本家パリス兄弟を後ろ盾に 芸術文化の偉大なパトロンとなる
サロン、文化、ファッション、政治、教養、音楽、セーヴル磁器@セーヴル村、中二階クラブ
鹿の苑
1756 7年戦争(オーストリア(マリアテレジア) VS プロイセン) 外交革命:ペチコート作戦
ロシア・エリザベート急死で敗北 オーストリア、仏後退 プロイセン、英勝利(インド奪取)
ポンパドール夫人陰る アメリカ大陸の入植地(カナダ、ルイジアナ失う)
1757 ルイ15世暗殺未遂 Byダミアン
1764 ポンパドール夫人死去:@異例のベルサイユ宮殿居室
1770 デュバリー1743-1793を公妾(本名マリ=ジャンヌ・ベキュー)
1774 ルイ15世病死 天然痘 若い百姓娘と関係して感染(ルイ15世は数百人と関係)
サン・マルタン・ド・レ :仏西海岸沿線 街そのものが星型要塞@17世紀後半 敵は英国
ルイ14世は14か所?もの城砦を建造
稜堡式城郭 高さより広さBy大砲登場
当時の港は貿易港、軍港 今はリゾート地
サン・マルタン教会@15世紀
近くには仏艦隊工場
海側城壁には砲台跡

イアサント・リゴー1659-1743@ほとんど歯抜けのルイ14世63歳

【絶対王政の頂点を極めた背後には農民の貧困】 ところが国民の80%以上を占める農民は、戦争・重税・不況・疫病などで苦しみ、悲惨な時代であった。フランス国内のユグノー戦争(プロテスタントとカトリックの戦い)は収束したが、オーストリア、スペイン、ドイツと敵対することによる30年戦争1618-1648を経験した。30年戦争は、元々神聖ローマ帝国内のプロテスタントとカトリックの戦いであったが、カトリック教徒のハプスブルグ家を牽制するために、プロテスタントの味方をして、周りの大国を巻き込み政治的優位性を巡る戦争に発展していった。結果ウエストファリア条約でハプスブルグ家の後退に成功しアルザス、ロレーヌ地方を獲得する。30年戦争の後は、国王の暴走を恐れた貴族が反乱(フロンドの乱1648-1653)を起こしたが、宰相マザランが鎮圧。重商主義政策でフランス東インド会社を再建1664年して国富増を目指すが、多くの戦争やフランス王家の贅沢を尽くす生活によって国民は重税に苦しんだのである。これはやがて18世紀後半に起こったフランス革命へと発展する。因みに北米の植民地化地域・ルイジアナはルイ14世からきている。
● かくしてロレーヌ地方では貧しい農民の暮らしを描いたルナン兄弟1607-1677、ジョルジュ・トゥール1593-1652が活躍。一方でルイ13世の母、マリー・メディチはフランドル派(ネーデルランド地方の画家が残した絵画)のルーベンスを寵愛して宮廷画家としている。
● また、ナントの勅令を廃止したことでカルバン派(商業を推進する)は再び重税に苦しめられ国外に移住する。これによりフランス経済は停滞しはじめた。
● 南ネーデルランド継承戦争1667失敗、オランダ戦争1672でオランダ併合失敗、ファルツ戦争1688で併合失敗
● ハプスブルク家断絶を機に、スペイン継承戦争で孫をスペイン王フェリペ5世(ブルボン最初の王)としたが、仏・西併合は永久に禁止
フランス貴族はカロリング、カペー(フランク王国)→ヴァロワ(ハプスブルク最盛期)→1589ブルボンと派生⇔ハプスブルク家
ドイツ30年戦争(カトリックVSプロテスタント)では仏とハプスブルク家の対立最大
仏・ルイ13世はハプスブルク家をつぶすためにプロテスタントを支援→人口30%減 一方でナントの王令廃止
スペイン継承戦争:仏強大化阻止のために英、蘭がハプスブルク家に味方する→世界戦争に発展
1648年のウエストファリア条約:神聖ローマ帝国が連邦化
【ルイ14世の妃はマリー・テレーズ1638-1683】 父親はフェリペ4世、母親はイザベル(アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘、ルイ13世の妹)であるから最高峰のハプスブルグ家出身であり、政略結婚1660であった。
【ルイ14世の妻マントノン夫人1635-1719】 フランソワーズ・ドービニエは貴賤結婚であったため王妃ではない。1669年にルイ14世と出会い、以降モンテスパン夫人の子供の世話係となる。その世話は献身的で王は多額の給料で報いたという。彼女が40歳を過ぎてからルイ14世からマントノン侯爵夫人の称号を得ている。これがモンテスパン夫人の嫉妬をかったが、マントノン夫人が45歳の頃にルイ14世は彼女を第二女官長とした。これによりモンテスパン夫人は宮廷を去ったという。そしてその頃にルイ14世と結婚した。
【ルイ14世の愛妾の一人 ヘンリエッタ1644-1670】 はルイ14世の弟・フィリップ1世の妃でイングランド、スコットランドの王族であるが、フィリップ1世が男色であったためにルイ14世の妾になる。英チャールズ2世1630-1685やジェームズ2世1633-1701の妹にあたる。
【ルイ14世の愛妾の一人 ルイーズ・ヴァリエール1644-1710】 は元々ヘンリエッタの侍女であり、ヘンリエッタとの関係を隠すための関係であったが次第に本当の恋仲になった(17才頃)。彼女は最初、フォンテーヌブローに居たがルイ14世と恋仲になったあとは公認の愛妾となった。親友モンテスパン夫人をルイ14世との食事に誘ったことから運命は変わる。モンテスパン夫人に敵視され、やがて宮廷を去る。
【ルイ14世の愛妾の一人 モンテスパン夫人1640-1707】 フランフォワーズ・モルトゥマールは元々はマリー・テレーズの信頼する侍女であったが、野心家の彼女は寵妾の地位を狙っていた。快活と話術に優れていたが、このときはまだルイ14世はルイーズがお気に入り。モンテスパン侯爵はこの屈辱に耐えきれずルイ14世を非難。かくしてルイ14世はモンテスパン侯爵を追放する。これを機会に自由の身をなったフランソワーズはルイ14世の第一公妾として、17年もの長期にわたって権力を振るうようになる。そして王妃マリー・テレーズを非難さえする。
1678年、王弟のオルレアン公フィリップ1世の後妻エリザベート・シャルロットの侍女マリー・アンジェリクが王の新たな寵姫になる。モンテスパン夫人は、若く美しいマリー・アンジェリクに激しい嫉妬心と脅威を感じる。王の寵愛を取り戻そうとモンテスパン夫人は、魔女と呼ばれ、黒魔術、堕胎、毒殺を請け負っていたラ・ヴォワザンに接近し、黒ミサの儀式を行なうようになる。そんな中、衝撃的な出来事が起こった。1679年にラ・ヴォワザンや360人もの黒ミサ参加者が逮捕される。事態の深刻さを知ったルイ14世は特別審問会を設置し、徹底的に真相の究明をさせた。逮捕者の1人のギブール神父の証言により、フランソワーズまでが彼らの顧客だった事が明らかになった。黒ミサ事件は、ルイ14世の治世で最大の醜聞となった。1680年2月20日にヴォワザンは火刑にされ、ギブール神父は終身刑にされた。フランソワーズは1686年に宮廷を出て、サン・ジョゼフ修道院に入った。
【ルイ14世の愛妾の一人 マリー・アンジェリク1661-1681】 ルイ14世は、モンテスパン夫人よりも20才以上若いマリーに惹かれるようになる。彼女は元々ルイ14世の弟・フィリップ1640-1701の二番目の妃・シャルロット1652-1722の侍女であったが、18さいの頃に王に見初められた。ルイ14世の子を身ごもるが死産、そののち宮廷を出て修道院に入ったが死亡。モンテスパン夫人に毒を盛られたとの噂が流れたという。モンテスパン夫人とラ・ヴォクザンによる黒魔術による毒殺である。
【ルイ15世即位は天然痘流行】 次はルイ15世1710-1774。ブルボン朝第4代のフランス国王である。ルイ14世1638-1715は祖父母にあたる。王太子ルイの嫡子ブルゴーニュ公ルイとマリー・サヴォワの子として生まれる。1711年に王太子ルイが急死したためブルゴーニュ公ルイが王太子となる。この時ブルゴーニュ公ルイの妃マリーが天然痘にかかり死去すると、看病していた夫・ルイも天然痘にかかって死亡する。こうして残されたアンジュー公ルイが王継承権を得て王太子となった。1715年に72年間王位にあったルイ14世は崩御すると、5歳のルイがルイ15世として即位した。5歳のルイ15世に代わって、オルレアン公フィリップ2世が摂政に就き、成人後はブルボン公アンリやフルーリー枢機卿が執政した。私生活は多くの愛人を持つ奔放さ。
【7年戦争の意義】 また、彼の治世では戦争により財政は圧迫、特に7年戦争ではフランスの衰退を招く。プロイセンとオーストリア(仏と組む)という因縁の戦争(シュレジェン争奪)もあるが、当時北アメリカ大陸の覇権を狙ってイギリスと争っていた(フレンチインディアン戦争(7年戦争1754-1763の一部で、北アメリカを舞台に繰り広げられた戦争))。英植民地(ニューイングランド)と仏植民地(ヌーベルフランス、ルイジアナ)が主な激戦地。その中央のオハイオ地域を取り合っていた。結果フランスは負けて北アメリカのすべての植民地を失うこととなる。
【ルイ15世の妃はマリー・レグザンスカ1703-1768】 ルイ15世は11歳の時に、叔父フェリペ5世の娘マリアナ・ビクトリアと婚約していたが、マリアナは3才。嫡子が得られるまで先が長すぎるとの理由で破断。代わって王妃になったのがポーランド王女・レグザンスカ。1725年の結婚から13年間の間に10人の子をもうけたが、その後ルイ15世の寵愛は妾に向けられた。愛人もおらず、ファッションにも政治にも興味がない。興味があったのは髑髏礼拝、そのドクロとはかつての社交界の華・ニノン・ド・ランクロ1620-1705という枢機卿リシュリーなどを相手にした高級娼婦。
【フランスの高級娼婦:クルティザンヌ】
ラ・パイヴァ1819-1884 19世紀最も有名なクルティザンヌ
マリー・ディプレシ1824-1847 椿姫のモデル 裏社交界で知性と教養ある女性として花形に上り詰める
コーラ・パール1835-1886 皇帝ナポレオン3世の弟モルニー公や従兄弟ナポレオン公などの愛人
エリサ・リンチ1833-1886 ソラーノ・ロペスがパラグアイ第2代大統領に就任すると、エリサは社交界を主導する存在となる
ヴィルジニア1837-1899 ナポレオン3世の愛人
クレオ・ド・メロード1875-1966 ベルギー王レオポルド2世の愛人、画家グスタフ・クリムトやドガのモデル
【ルイ15世の愛妾の一人 ルイーズジュリー1710-1751】 ロココ時代のフランス宮廷に登場したネール侯爵家の姉妹5人の内3人がルイ15世の公妾となった。母のマイイ夫人がマリー・レグザンスカ付きの女官であったことが縁で、23歳ころにルイ15世と関係を持つ。寵愛を受ければ高官の叙勲を要求できるのが常だったが、彼女は興味がなく、国王から愛されることのみに終始。しかしルイ15世は他にも浮気をするので、味方として妹を宮廷に招いたが逆効果。
【ルイ15世の愛妾の一人 ポーリーヌ・フェリシテ1712-1741】 ルイ15世の寵愛を姉から奪ってします。しかし第一子を産んだ直後に死亡。
【ルイ15世の愛妾の一人 マリー・アンヌ1717-1744】 姉たちの宮廷での活躍を見ていたマリーも宮廷に出入りするとたちまち男性たちに言い寄られ、リシュリュー元帥(リシュリュー枢機卿の大甥)と関係する。王が彼女に興味を持っていると感じたリシュリュー元帥は彼女をルイ15世に引き合わせた。彼女は姉たちとは違ってしたたかに振舞う。姉を追放し邸宅・宝石・身分・地位を要求。かくして彼女はシャトールー侯爵夫人として権力を手に入れて王から寵愛された。しかしあえばく急死。毒殺説もささやかれる。
【ルイ15世の愛妾の一人 ポンパドール夫人1721-1764】 ジャンヌ・アントアネットは公妾。その権力を大いに利用して政治に強く干渉し、オーストリア、ロシアの女帝と組んでプロイセン、イギリスに対抗したペチコート作戦は良く知られている。平民でありながら高い教育を受け、超一流のサロンに出入りするようになる。あの欲深いシャトールー侯爵夫人の死に悲しむルイ15世の目にとまり、ポンパドール侯爵夫人の称号が与えられて、夫と別居後正式にルイ15世の妾になった。するとあちことに邸宅を建てさせ、政治に無関心なルイ15世に代わって権勢を振うようになる。夫人に推されて大臣になったエティエンヌは事実上の宰相となった。オーストリアとは宿敵であったが和解。かくして後にマリーアントアネットがフランス王室に嫁ぐことになる。芸術にも秀でてサロンを開催し優雅なロココ様式(ロケイユ調)に発展時代となった。ルイ15世と寝室を共にすることがなくなると、自分の息のかかった女性を紹介するべく、鹿の園を建てて好みの女性200人を住まわせたという。現在のリーゼント髪型はポンパドール夫人が好んだ髪型で、当時はポンパドールと呼んだらしい。かくしてルイ15世は夫人が42歳で亡くなる迄寵愛したという。
・セーブル焼工場(王立陶器工場)支援
・百科全書出版支援
・コケットリー手法 映画リディキュール:パトリスルコント監督
・啓蒙思想
【絵画から見たフランス王朝の堕落】 フランス革命前のフランス政治体制をアンシャンレジームという。芸術にはサロンを開催するなど優雅なロココ様式が発展した時代というが、困窮した一般庶民からすれば堕落である。当時もてはやされたのが宮廷画家のアントワーヌ・ヴァトー1684-1721、フランソワ・ブーシエ1703-1770、ジャン・オノレ・フラゴナール1732-1806である。雅宴画(フェート・ギャラント)と言われるものが流行した。元々はポンパドール夫人の遊び心から始まったものである(コケトリー)。こうした堕落したフランス宮廷を描いた映画に「リディキュール」がある。


フリードリヒ2世が購入

【ルイ15世の愛妾の一人 デュバリー夫人1743-1793】 ジャンヌはシャンパーニュ地方の貧しい家庭に生まれ、家庭の事情もあって男性遍歴を繰り返す娼婦同然の生活をしていた。ルイ15世と彼女はポンパドール夫人が亡くなった5年後に出会い、彼女の虜になる。デュバリー侯爵と結婚して正式に公妾となると社交界にデビュー。その頃、皇太子時代のルイ16世に嫁いでいたマリーアントワネット(愛妾や娼婦は大嫌い)と対立。1774年、天然痘に倒れたルイ15世の看病をしていた彼女であったが、修道院に入るよう命じられルイ15世からは遠ざけられた。しかし元々陽気な彼女は伯爵たちの愛人になって優雅に余生を送っていたが、フランス革命によって愛人は虐殺され、自身も逃亡先からの帰国の際に捉えられて処刑されたという。
