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【ロシア-7-5】東欧諸国 ・ハンガリー ・ルーマニア ・モルドバ

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【ハンガリー ルーマニア】

1100 ハンガリー王国成立             
1868 オーストリア-ハンガリー帝国           
1877 ルーマニア独立(ワラキア+モルダヴィア)               
1918 第一次世界大戦後分割されてハンガリー共和国           
    ・ルーマニアにトランシルバニア地方が加わる               
1922 オスマン帝国滅亡               
    ・ドラキュラ伯爵:ルーマニア・ワラキア地方の領主(ドラクル公1431-1476 オスマン軍と戦闘)          
1919 ロシア革命          
    ・ルーマニアはモルダヴィアの一部を取り戻す@ベルサイユ体制        
                   
1940 第二次ウイーン裁定          
    ・モルダヴィアの一部がソ連(スターリン)に奪われる          
    ・これが現在のモルドバ共和国+++ 
      1991:独立宣言 首都:キシナウ       
         欧州最貧国       
         言語はルーマニア本来のラテン文字宣言        
         困ったのはロシア、ウクライナからの移民(キリル文字)         
      1992:トランスニストリア戦争       
         沿ドニエストル共和国独立 首都:        
         現在もロシア軍駐留(モルドバによる奪還防止)        
         オデッサ争乱@2014(親露派多数焼死、暴行死)の時に、露軍の動きは??       
         
1945 ソ連の侵略によりハンガリー第2共和国           
1956 ハンガリー動乱 :ソ連支配に反発するデモ          
1958 率いていたナジ首相はソ連により処刑 
1989 東欧革命 :反共産主義革命      
1991 ソ連崩壊           
    ・モルドバ独立          
    ・ウクライナ独立          
    ・バルト三国独立          
    ・ハンガリーに外資参入----国の財産放棄----汚職政府          
    ・            
1998 ハンガリー・オルバーン首相1963-による政権奪取 :ナショナリズム転換      
    ・プーチン政権に似ている      
    ・ヨーロッパ最年少首相       
      ・民営化止める        
      ・汚職撲滅・治安回復                   
      ・中小企業支援        
      ・NATO加入       
    ・社会主義陣営からの圧力で降りる@2002が       
    ・再び再選@2010        
      ・社会主義時代の憲法改正      
      ・国会議員半減     
      ・国外ハンガリー人に国籍付与→選挙に勝ち続ける      
    ・近隣諸国との緊張が高まる       
      ・ウクライナとは犬猿の仲@現在     
2022 ロシア・ウクライナ戦争            
    ・EUはロシアからの石油輸入停止       
    ・ハンガリーはロシアから石油輸入継続       
    ・ウクライナへの軍事援助はしない      
       →ウクライナの反発は最高潮     
       →ハンガリー選挙@2022ではオルバーン圧勝 

  

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【ロシア-7-4】コーカサス地方への侵攻 カザフスタンは資源が豊富 アゼル、グルジア、アルメニア、チェチェン

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【カザフスタン】

1990 ソ連崩壊後独立        
    初代大統領:ナザルバエフ1940-       
     ・中国寄り       
     ・2020引退後も院政            
                
2020 2代大統領トカエフ1963-        
     ・ロシア寄り        
2020 政治腐敗が原因で暴動       
     ・ロシア軍が鎮圧     

   

【ベラルーシ】 

1990 ソ連崩壊後独立       
    ・白ロシア       
    ・ポーランド(カトリック)とは敵対      
    ・初代大統領:ルカシェンコ1954-       
     ・独裁、共産主義       
     ・人権状況は破滅的との評価 By国連人権理事会      
1992 CSTO集団安保条約加盟                 
2022 ウクライナ侵攻      
         

        
         
【コーカサス地方】            
   アゼルバイジャン :反ロシア、親日 バクー油田          
   アルメニア    :親ロシア、反アゼルバイジャン、反トルコ       
   チェチェン    :反ロシア、          
   トルコ      :親アゼルバイジャン、反アルメニア      
   ジョージア    :親ロシア     

1804 コーカサス地方へのロシア侵攻第一次       
1826 コーカサス地方へのロシア侵攻第二次          
1991 ジョージア独立(2015年に表記変更)      
     ・独立を阻んだのがオセチア人(ジョージア圏内にあるロシア人)      
        独立運動をジョージアが弾圧      
        2008 南オセチア紛争:ロシア勝利 :現在もロシア軍駐留         
     ・聖ジョージ→グルジア→ジョージア@2015      
      スターリン(鉄の男という筆名)の故郷:本名はシュガシビリ      
      ゴルバチョフ政権の外相シュワルナゼ1928-(ジョージア出身)が初代大統領       
      シュワルナゼが政権を奪取      
        2000頃ソ連崩壊とともに新保守主義が拡大する:急進的民主化    
        2000 セルビアのブルドーザ革命      
        2003 ジョージア(グルジア)の薔薇革命      
           サーカシビリ1967-の指導   
           米ジョージ・ソロスのカラー革命に影響を受ける :ソロス財団         
           サーカシビリ :NATO加盟を目指す      
        2004 ウクライナのオレンジ革命  :ジョージ・ソロス財団がカラー革命の資金源      
        2005 キリギスのチューリップ革命 :       
        2008 南オセチア紛争:ロシア勝利 :現在もロシア軍駐留      
        2013 サーカシビリはウクライナに亡命して親米政権の傘下      
        2013 ウクライナ・オデッサ州知事       
        2017 汚職でウクライナ国籍剥奪      
        2019 国籍奪回 Byゼレンスキー大統領        
      因みにレーニン(本名はウリヤノフ)      
     ・共産党国家では民族平等、ユダヤ人でも偉くなれる
                       
1988 1994迄:ナゴルノ・カラバフ紛争          
        ナゴルノ・カラバフ:アゼルバイジャンにあるアルメニアの飛び地          
        アルメニア勝利  :ロシア支援(キリスト教同志)          
        アルメニアの国外移民が800万人でユダヤ人的なネットワーク持つ          
1994 チェチェン紛争第一次         
    ソ連崩壊時に独立宣言するがエリツィンが拒否したため紛争が始まる         
      ソ連秘密警察KGBがチェチェンを取り締まっていた          
      時のプーチンはチェチェン対策責任者         
    独立派武装組織(イスラム原理主義国家独立目指す) VS ロシア           
     
1999 チェチェン紛争第二次            
    独立させろと言って無差別テロに走る@ロシア国内            
      →チェチェンゲリラによる自爆テロ@1999、モスクワ            
       モスクワ市民300人が犠牲             
       プーチンはチェチェン空爆            
    2002 モスクワ劇場占拠事件            
        特殊部隊のガスで観客129人死亡       
        犯人40人は逮捕されて射殺            
    2004 ベスラン学校選挙事件@ロシア北オセチア       
        386人死亡      
        カディロフ大統領1951-2004@2003就任が暗殺されるBy爆弾テロ      
        (外部から入ってきたイスラム原理主義テロリストに対抗した為)      
    2007 カディロフ息子1976-が親ロシア派チェチェン大統領      
        カディロフ部隊を構成(ロシアの手先)       
        →ウクライナに送り込まれてゼレンスキー大統領暗殺計画失敗             
        
    リトビネンコ:KGB中佐は英亡命中に爆破テロはロシアの自作自演と発言           
      →毒殺By致死量の放射性物質@2006         
           
    ドゥダエフ大統領 暗殺1951-2004 
    マスハドフ大統領が選出 暗殺1951-2005           
    チェチェン首都は絨毯爆撃を被る            
                                  
2022 ロシア・ウクライナ戦争          
    トルコはウクライナにドローン(バイラクタルTB2)を供与@2019に12機           
               →2020に6機           
               →ウクライナに製造工場建設予定                   
               →2億円程度           
               →アゼルバイジャンでも運用@2020-6          
               →ナゴルノ・カラバフ戦争で使用

      

【トルコ】

1950 第二次世界大戦後ドイツ復興のためトルコ人がドイツに移住      
1961 雇用双務協定 対西ドイツ      
1987 EU準加盟国      
    NATO加盟国としてボスボラス海峡管理:米協力     
    EUはトルコを加盟国にしない:移民を嫌う   
2014 エルドアン大統領1954-      
    西欧は諦めてイスラム国として     
    ・1994 イスタンブール市長     
    ・2003 トルコ首相     
    ・2014 大統領      
2015 ロシアはシリア・アサド政権へ軍事援助        
    →アメリカが苦言     
    トルコ軍によるロシア軍機撃墜事件     
    →アメリカは好都合だったが、トルコはロシアと和解++     
    トルコの立ち位置は??      
2016 シリア難民受入400万人     
2020 アゼルバイジャンに武器供給(ドローン:バイラクタルTB2)     
    見返りに石油、ガス買い入れ(ジョージア経由パイプライン)           
2022 トルコはウクライナにドローン(バイラクタルTB2)を供与@2019に12機           
    →2020に6機           
    →ウクライナに製造工場建設予定      
    →ロシアは抗議      
2024 現在トルコは米露両陣営にとって重要な位置を占める存在 

  

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【ロシア-7-3】戦後のウクライナの腐敗 ロシアによる侵攻@2014

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

1953   フルシチョフ登場(ウクライナ人)
     
  
 → クリミア(80%がロシア人)がウクライナ領となる
     
     ウクライナの懐柔が目的
          フルシチョフはウクライナ人というが、生まれはロシアでウクライナのドネツクに移住
          要するにウクライナ人の親ロシア化政策による移住民      

 

1964   ブレジネフ
1982   アンドロポフ
1984   チェルネンコ 
1985   ゴルバチョフ
 
1991   イワシコ   

1975   KGB(ソ連国家保安委員会)所属のプーチンは東ドイツでNATO情報収集

1986   ゴルバチョフによるペレストロイカ(再建)、グラスノスチ(情報公開)
     
     国家犯罪や人権侵害公表 → 新聞バカ売れ、禁書OK
     
     統制経済から資本主義経済へ
     
     ● スターリン時代の犠牲者の名誉回復
     
     ● 反体制派の自由回復
     
     ● 信仰の自由
     
 チェルノブイリ原子力発電所事故@ウクライナ → 情報隠蔽

1990   憲法改正法案

1991-8  ソ連崩壊:共産党活動停止 

1991-12  ゴルバチョフの辞任に伴いソ連崩壊
     ・
ウクライナ独立(緩衝地域の多くの国も独立)
     
    クリミア半島のセヴァストポリがソ連からウクライナの領地となる
     
    ウクライナは大規模な軍港都市を支配 (不凍港であるクリミア半島、アゾフ湾)
     
    ウクライナはこの軍港をレンタル契約協定を結ぶ
     ・
アメリカはウに対してロシア排除を忠言
     
    ウクライナがNATOに加入すれば、セヴァストポリは米が使用可能
     
    米は黒海制覇を画策
     
    緩衝地域の東欧諸国(リト、ポ、ギリ、ハン)をNATOに引き入れる

     ・初代ウクライナ大統領 レオニード・クラフチュク1934-2022 :脱ロシア、経済危機(資源無し)
     
  ソ連崩壊に伴いロシア系ユダヤ人の多くがロシア政界に進出(ソ連時代には多くのユダヤ人が虐殺された反動)
     
  侵略される歴史を持つウクライナがやっとひとつになって独立
     
  
この頃KGB(ソ連国家保安委員会)所属だったウラジミール・プーチンはKGBを脱退して政界へ入る。
     
  サンクトペテルブルク市副市長

1992   ロシア市場経済化→民間企業誕生、言論自由
     
  一方で経済不安
     
  GDP40%マイナス、物価26倍、失業者増、犯罪暴力増
     
  オリガルヒ誕生:国営企業の民営化 政界財界との癒着

1998   ロシアの経済破綻 :ドラッグ、自殺急増
     
  ロシア国民は民主主義が悪と考えたがこれは違う。
     
  原因は新自由主義政策、提案したのはアメリカ経済学者ジェフリー・サックス1954-というハーバード大学教授である。
     
  1994年までロシアの経済顧問を務め、国営企業を民営化して市場自由化、競争激化をはかった。
     
  この民営化により多くのノウハウは外資系企業に売却され、ロシアの天然資源はアメリカ等の外資系資本のものとなった。
     
  つまり外資系資本はロシアの天然資源を奪ったのである。
     
  かくしてロシアの物価は2500%、中流階級は没落して格差社会が生まれた。
     
  ロシアの若者は極貧状態、出生率は半減し、治安は悪化していった。
     
  資源は豊富にあるが技術力、工業力に乏しいロシアでは民間に競争力は無く、衰退する一方であった。      

1994   2代ウクライナ大統領はクチマ1938-
     
  EU、NATO加盟表明
(親ヨーロッパ) 
     
  財閥癒着(オリガルヒ)汚職
     
  チェルノブイリ原発完全停止した(事故は1986-4 8年も放置)
     
  指名した首相はユシチェンコ1954-@1999~ :EU派
     
        ヤヌコービッチ1950-@2001~ :ロシア派     

1999   エリツィン1931-2007(ロシア初代)によって、プーチンは秘密警察のトップ、第一副首相に任命される
     
  エリツィンの癒着保護(癒着を暴こうとする首相を排除)

1999-8  モスクワ等の各地でアパート爆破事件が発生 300人死亡
     
  プーチンはチェチェンのテロと断定し第二次チェチェン紛争を誘発
     
  プーチンの支持率が急上昇 また原油の高騰により経済成長を始める 

2000   プーチンが大統領に任命される(Byチェチェン独立紛争をテロ化→独立阻止)
     
  経済破綻を経験した国民は、もはやプーチンを救世主と考える 
     
   プーチン
中央集権体制確立
     
    ・チェチェン紛争を批判したオリガルヒとマスコミを攻撃 
     
    ・プーチンによる言論統制開始
     
    ・民営TVなどは潰されていく 
         ・ジャーナリストの不審死急増(2000年からの20年間で42人)
        2
万人規模の反対運動も起こる
     
    ・新興財閥オリガルヒと癒着、
     
    ・国有財産買収またはタダ同然の払い下げを受けて私物化
     
    ・やがてプーチンはオリガルヒを乗っ取ると身内をTOPに起用
     
    ・石油・天然ガスを中国に輸出することで富を得、TV局をも買収して私物化する 

2004   東欧8か国がEU加盟 
         
    

2004   3代ウクライナ大統領ユシチェンコ1954-
     
  ユシチェンコ(親EU) VS ヤヌコーヴィッチ(親ロ)1950- : 親ロシアでヤヌコーヴィッチ勝利する
     
  選挙前にヤヌコーヴィッチが暗殺未遂事件 Byロシア派
     
  ウクライナ西部の親EU側が暴動:オレンジ革命 
     
     →ユシチェンコ1954-と共に戦ったのがティモシェンコ1960-(ガス実業家)
     
      ジョージアでも同様の革命起こる
     
      革命の資金源はジョージ・ソロス(ユダヤ人投資家1930-)
     
              →莫大な財産を民主化の為に利用すべく
     
               Open Society財団作ったハンガリー人 
     
               米がプロパガンダ報道
     
                           
     
  再選挙により3代大統領ユシチェンコ勝利するが内紛
     
     →ユシチェンコ1954-と共に戦ったティモシェンコとの内紛 
     
      ウ第10代首相はティモシェンコ1960-(アルメニア系ユダヤ人) → 一時辞任
     
      ティモシェンコはロシアからのガス輸入で富豪となった実業家

2005   本当のウクライナ
     
  ウクライナはガスをロシアからの輸入に頼っている
     
  緩衝地帯8か国がEU加盟となったロシアはウクライナのEU加盟を阻止すべく・・・ガス供給を停止@2006       
     
  ウクライナ-ロシアガス紛争
     
   →共通パイプライン先のEU諸国にもガス供給が滞って大混乱
     
      
2006-8  ヤヌーコビッチ内閣成立 :ロシア派        
      
     
   →ユシチェンコ政策失敗

2008   大統領の任期4年2期を終えるとタンデム政権確立:メドベージェフ大統領はプーチンの傀儡

2010   4代ウクライナ大統領ヤヌコーヴィッチ1950-(ロシア派のウクライナ人)
       ティモシェンコが僅差で敗退 :不正選挙主張したが認められず
       ガス供給を条件にEU加盟を拒否
       激怒したのは 「革命の資金源ジョージ・ソロス(ユダヤ人投資家1930-)」              

 

2011   反プーチン運動(反政府デモ)@モスクワ 15万人集結
     
下院選挙に不正があったとされる疑惑を発端に数度行われた
       
当時米大統領オバマの国務省で欧・露担当のビクトリア・ヌーランド1961-は(祖先がウクライナ系ユダヤ人)
       →次期ウクライナ大統領指名という内政干渉実施
         ヤツェニュク :1974- 首相@2014
       →内政干渉の電話はプーチンによって盗聴:暴露公表された(By Youtube)

2012   メドベージェフ大統領の任期4年を終えるとプーチン3期政権が再誕生(統制を強化)

 

---------ロシア*ウクライナ戦争の経緯-------------------------------------------
   ①西部ウクライナ :元々ハプスブルグ帝国の植民地、ロシア支配未経験のカトリック  
   ②中部ウクライナ :ウクライナ正教  
   ③東部ウクライナ :プーチン占領下、90%がロシア人、ロシア正教、住民はロシア人の認識 
    
1922 レーニン、トロツキー(ユダヤ人 ロシアもウクライナも憎む)が性質が異なる②と③を統合して、ウクライナ団結防止を目論んだ
1945 スターリン(グルジア人 ロシアもウクライナも憎む)が①②③を統合して内部不安定を目論んだ
1908 ブッシュはウクライナNATO推奨したが、戦争の火種になるとして、メルケルは反対
2014 米オバマ政権はロシアを憎むヴィクトリア・ヌーランドをキエフに送り込んでクーデターを起こさせる  
    →親露大統領・ヤヌコビッチはロシアに亡命 
    →次の大統領はヤツェニックにせよ・・というヌーランドの電話会話が盗聴、世界公開されている
2015 ミンスク協定 :③に自治権を与えるという条件で露VSウ停戦合意させた協定 
2021 ウクライナ軍は③のロシア人を16000人を無差別虐殺
2022 独メルケル、仏オランドは、ミンスク協定を守る(③に自治権を与える)意思は無く、う露ウ戦争を自白
    つまり2015年以降、英米(軍人数千人)によるウクライナ軍の教育、武器供与を継続して戦争準備をしていた
2022 とうとうプーチンは③に住むロシア人を救出すべく、戦争に踏み切った
    西側メディア、日本のメディアは、ある日突然プーチンはウクライナに攻め込んだ・・・と報道
   以上が米民主党政権(オバマ、バイデン)の活動であり、トランプが潰そうとしているものである
   
 
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2014-2  ウクライナ争乱(親EU派 VS 親ロシア派)
     
 →マイダン革命@キエフのマイダン広場
     
  親
露派 :第4代ヤヌコーヴィッチ大統領----ロシアからエネルギー供給うけてるし・・・ロシアを怒らせたくない
     
                       EU、NATO加入はしない
     
  親欧米派:武装勢力が暴動起こしてヤヌコーヴィッチ大統領を追い落とした@2014-2-22
     
       →武装集団       :私兵----アゾフ連隊、右派セクター
     
       →スポンサーはオリガルヒ:振興財閥 
     
       →ソ連崩壊時に共産党所有の財産を安く払い下げて儲けた財閥
     
       →多くがユダヤ系
     
 →ヤツェニュクが首相 :新自由主義
       アメリカが経済支援、IMFが投資
       国有財産を安く手に入れようとする新興財閥がでてくる(ロシア崩壊後と同様)
        →オルガルヒ
         ・実業家ポロシェンコ、
         ・金融・製造・マスメディアを握るコロモイスキー:ユダヤ系 アゾフ隊所有
 

         マイダン革命で破壊されたキエフ・マイダン公園

            

2014-2-24 親ロシア派によるクリミア & ドンバス地方 & オデッサ(ウクライナ領土)侵攻       

      ・クリミア危機 : クリミア半島は、ロシア人80% ロシア語90% セバストポリ要塞を有する軍港都市
     
           ・ソ連崩壊@1991によりウクライナ領となっている
     
            親露派住民がコサックを率いてウクライナ・タタール勢力と衝突
     
            プーチンは親露住民保護の目的でロシア軍投
     
            ウクライナ海軍総司令官はロシア派に投降、
     
            ウクライナ軍の兵はロシア軍人契約、ウクライナ軍艦3隻を撃沈 
     
           ・3月 プーチンはクリミア独立を承認
     
            クリミアはロシアの連邦構成となった----要は併合
     
           ・ウクライナ政府は認めない(住民投票)
    

2014-4  ・
ドンバス戦争 : ドンバス地方は傀儡ウクライナ政権に反発して独立宣言  
                 ⇔ ウクライナ政府の武装集団 
                    → 金融・製造・マスメディアを握るコロモイスキー:ユダヤ系所有のアゾフ隊
                      正規軍並みの武装集団
     
           2014-9 停戦調印 :ミンスク協定(ドイツ、フランス政府も参加)
     
                     (ルガンスク人民共和国 & ドネツク人民共和国採択)
     
           2015-9 小規模戦闘
     
           2020-7 停戦
     
           2022-2 ロシアのウクライナ侵攻に発展 2024-10現在も継続中
    
                
2014-5 
 ・オデッサ争乱 : 親露の街オデッサ(エカチェリーナ2世時代に発展)に露軍侵
               ・オデッサ地方に住む親露勢力が、武力によるマイダン革命に激怒して抗議デモ
                親欧米派の武装集団が火炎瓶攻撃で親ロシア派住民48人が焼死
                ビルから出てきた親露住民を殴り殺す
               ・西側メディアは報道しないのは何故?

     
   
     
  ロシアの言い分: 米手先のオリガルヒが雇ったネオナチ武装集団が攻撃したので、平和維持軍を送った
     
           ネオナチを取り締まるための作戦
      
 
西側諸国の言分: この併合はウクライナ憲法違反であり承認していない
     
           ロシア軍による民間人攻撃
     
 

2014-6-7
  ・5代ウクライナ大統領 ポロシェンコ1965-擁立 親欧米
      ・ロシアとの航空便停止 
      ・ロシアからのガス輸入停止
      ・ロシア製SNS使用禁止
      ・ウクライナ正教
      ・ロシアとの友好条約失効  
      ・ロシア語使用禁止 
            
     【ウクライナの腐敗とアメリカの介入
      ・米ウオール街資金でウクライナ国営財産を買収
      ・ハンター・バイデン1970-(米副大統領の息子)が突然ウクライナ瓦斯会社・ブリスマの重役になる@2014
        バイデンの口座には多額の報酬(2014-2019までに約3.5億円)

        ・2019 【ドナルド・トランプ大統領によるバイデン親子捜査】
          トランプはゼレンスキー大統領に、バイデン親子の活動@ウクライナについて捜査要請
          後に、この要請が明るみになるとナンシー・ペロシ下院議長らは反発
          大統領が国の安全保障を脅かし大統領宣誓と憲法に違反していると批判、大統領の弾劾手続
          しかし、バイデン親子は「企業の役員就任は、まずい判断だった」とABCニュース@2019-10で発言した

      ・ブリスマ社は数多くの不正       →ウクライナの検察が動いた
       バイデン副大統領がボロシェンコに電話 →検事総長除名命令
       米の経済支援をネタに脅す       →ロシアに盗聴され暴露された

      ・当時米大統領オバマの国務省で欧・露担当のヌーランドは(祖先がウクライナ系ユダヤ人)
       →次期ウクライナ大統領指名という内政干渉
       →内政干渉の電話はプーチンによって盗聴:暴露公表された
     【腐敗のポイント】
      ・バイデン+国務省+ウオール街がウクライナ内政干渉
      ・親欧米派の武装勢力(アゾフ隊等)は米及び親欧米派の配下
      ・汚職まみれの親欧米派富豪は国民やプーチンを刺激
    
                
   
  【2014以降のクリミア半島】 
     
 ・
この頃から西側諸国はウクライナに、対空ミサイル「スティンガー」、対戦車ミサイル「ジャベリン」、教育を供給
     
 ・ロシアはサミットへの参加拒否

     
 ・EU、米はロシアへ経済制裁
2014-9-5
 ミンスク協定
      ・ウクライナ、ロシアによるドンバス地域に於ける戦闘停止合意


           
          

2015   スフォボダ(ウクライナの民族主義政党):全ウクライナ連合がロシア人虐殺?

2019   第6代ゼレンスキー大統領誕生(芸人出身)
      ・ユダヤ系ウクライナ人
        ロシア語圏内で育ったのでロシア語しか話せない

      ・高校教師が腐敗と戦う大統領になるというドラマの主役で大人気
        ドラマ放送局のオーナーがコロモイスキー(アゾフ隊所有者)
      ・実際に大統領立候補したら当選(公約:反汚職 議員特権廃止 オルガルヒ政治献金停止
      ・プーチンに近接して和平交渉をする(条件は政府と癒着するオルガルヒの排除)
        しかしゼレンスキー大統領にはオルガルヒ排除の力が無い(公約違反
      ・従ってネオナチの傀儡政権とも言える
        +ネオナチとは武器勢力アゾフ
        +ネオナチとはウクライナ民族主義者:かつてヒトラーと組んでユダヤ人を虐殺
        +欧米から武器入手(米国務官僚が支援)
        +ウクライナ東部のロシア系住民を虐殺
        +イスラエル・メタニヤフ首相とは敵対
      ・イスラエルの立ち位置
        +ロシアとは敵対したくはない
          ----隣接シリア国境周辺の安全のため 
          ----イスラエルにはロシア系ユダヤ人が多い
          ----彼らはソ連崩壊時のユダヤ移民
          ----彼らの技術でイスラエルは支えられている
        +ゼレンスキーにアドバイスするメタニヤフ首相
        

2021   毒殺されかかった野党党首アレクセイの釈放を求めて30万人デモ発生→反体制派弾圧強化

2022-2-21 ロシアによるミンスク協定(戦闘停止協定)無視
      ・プーチンに近接して和平交渉
        条件は政府と癒着するオルガルヒの排除 →欧米に不利な情報はマスコミは伝えな
        しかしゼレンスキー大統領にはオルガルヒ排除の力が無い
      ・プーチンの言分は理解できるが他国への内政干渉であり侵略(2022-2-24)
   
     
 ・
ゼレンスキー第6代大統領拘束宣言 Byプーチン
     
   
バイデン大統領による逃亡手助け宣言に対してゼレンスキー大統領は「逃げ道より武器をくれ!」
  -
2-24 
ロシアがウクライナ侵攻:マリウポリの戦い(~5-20迄 マリウポリはウクライナのドネツク州にある)
     
 ・
ロシアの砲兵がマリウポリを砲撃、ウクライナ軍(アゾフ大隊)と戦闘
        
ウクライナ軍が勝利
      ・
ゼレンスキー大統領@ウクライナの背後に大富豪コロモイスキー(ユダヤ人で国家警備隊:アゾフ大隊を設立)
      ・
米は、対空ミサイル「スティンガー」800基、対戦車ミサイル「ジャベリン」2000基、戦術無人機100機などを供与
     【何故プーチンは2022年に侵攻したのか?】
      ・2014-09 ミンスク停戦協定
      ・2017-01 2021-1迄の共和党トランプ政権時は戦闘無し
      ・2021-01 民主党バイデン政権発足(ウクライナ腐敗政権とズブズブ)
            →ウクライナに住む米人非難呼びかけている
            →米は参戦しない宣言をしている(ロシア侵攻を促しているようにも見える)
               
2022-03-  ・日本はウクライナに1200億$(1.8兆円)支援
        +日本は欧米の言いなり政府    
2023-02-  ・中立国スイスがウクライナに200億円追加支援(以前1800億円支援)+銀行差し押さえ         
2024-04-  ・中立国フィンランドがウクライナに308億円支援:安全保障協定
        フィンランドは1939年にソ連と冬戦争
2024-05-  ・中立国スウエーデンがウクライナに2000億円支援         
      
2024-10-20 現在も尚ロシア-ウクライナ戦争は続いている
      ・現在3年目 停戦の見通し無し
      ・総兵力 ウクライナ:88万 ロシア:62万
      ・双方の被害状況
        ・ウクライナの被害は流れてくる
        ・ロシア側の被害は全く流れてこない → 疑問
        ・北朝鮮兵がロシア兵として参戦@2024/12頃のニュース
        ・欧米のマスコミに支配されている日本
        ・

      

【歴史の真実を知るには Follow the money  Follow the weapon】

     +ウクライナ東部出身のゼレンスキー第6代大統領(ユダヤ系)の背後にはユダヤ人、米武器供与はユダヤ人
     +
プーチン大統領の背後には、ソ連時代に迫害を受けてきたユダヤ人
    
 +英仏戦争(ナポレオン戦争)のときに、英仏に武器供与したのはユダヤ人
    
 +日露戦争のときに、日露に武器供与したのはユダヤ人 
    
 +幕末のときに、薩長・幕府に武器供与したのはユダヤ人 

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【ロシア-7-2】 18世紀~WW2迄のウクライナ&ユダヤ人 独立-併合-分割-独立 

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

1709   ピョートル1世1672-1725
     
    フメリニツキーの死後、コサック首長イヴァン・マゼーパ1639-1709を打倒
     
    スエーデンを制圧、
     
    モスクワ、ウクライナを統治
     
    中央集権体制ロシア(語源はルーシ)王国をつくる

         それまで北欧のほうが地位が高かったがロシアの地位を引き上げる
     
    当時ロシアは現在のウクライナの8割、残る2割はオーストリアが割譲 : ウクライナの悲劇

1729   エカテリーナ2世1729-1796の頃、
     
    
ロシアはウクライナ(辺境の意)を侵攻してロシア領土拡大
     
    クリミア半島・セバストポリ要塞建造はポチョムキン(エカチェリーナの愛人)
     
    
19世紀   ウクライナ民族主義(世界のナショナリズム運動)が高まる
         ロシアにとっては不都合
         ウクライナの穀倉地帯が魅力
         不凍黒海に軍港作る:ロシア黒海艦隊へのアクセス重要
         ウクライナ民族主義の矛先をユダヤ人に向けた     
    

1853   クリミア戦争勃発
     
    ロシア(ニコライ1世/アレクサンドル2世)はクリミア半島奪取のためオスマントルコ+英仏と戦い敗戦
     
    産業革命の英仏に追いつくべく急速な工業化を実施
     
    →劣悪な労働者環境と資本家との貧富差
     
    →1917ロシア革命に発展

1881-1910 ロシア系ユダヤ人300万人が他国へ亡命
     
    シオン賢者の議定書発見 :ユダヤ世界制覇の陰謀論が拡散された
     
     ・捏造されたものと判明、しかし拡散は止まらず
     
     ・ユダヤ人の長老による秘密会議が
     
     ・世界のさまざまな政府を裏から操っている影の世界政府
     
     ・世界の戦争を彼らが煽っている
     
     ・ロシア秘密警察による捏造文書だった
     
     ・帝政ロシア民衆の不満をユダヤ人に向ける目的
     
     ・これが各国の言葉に翻訳されて反ユダヤ主義が拡散される
     
    
1881   ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺@サンクトペテルブルク
         各地でユダヤ人が虐殺される:ポグロム@ウクライナが最も激しい
         ロシア政府は煽った
         ウクライナから米へ亡命したユダヤ人
           →米国務長官ブリンケン      1962-@バイデン政権  の祖先がユダヤ人
           →国務次官補ビクトリア・ヌーランド1961-@バイデン政権  の祖先がユダヤ人
            米の対ロシア政策が このあたりからも伺える              
    

1899   万国平和会議@バーグ:ニコライ2世の平和主義

1905   日露戦争:まさかの露敗戦  --- 食糧難
     
 第一次ロシア革命:血の日曜日事件
     
          民衆の請願運動→近衛兵が射殺
     
 戦艦ポチョムキンの反乱:兵士の不満爆発   

1914   WW1ではドイツ/オーストリア ⇔ ロシア/英仏
     
 ここでウクライナは8割がロシア、2割がオーストリアなので、国内でWW1戦闘状態となる      

1915   WW1後はロシア、仏、独、ポーランドがウクライナに流入(世界一の穀倉地帯目的)して独立できず
     
 ウクライナ人は辺境の地(ソ連の一部)に追いやられる。
     
 そこで飢饉発生、数百万人が餓死 : ウクライナの悲劇
     
 
→ スターリンによる虐殺行為として認定   

1917   ロシア帝国崩壊By共産党(呼びかけたのはユダヤ人カール・マルクス)
     
  レーニンやトロツキーがソ連共産党を創設
     
    帝政ロシアで迫害を受けたユダヤ人は
     
     ・渡米 :アインシュタイン:ユダヤ人
     
     ・共産党:レーニン  :祖母がユダヤ人
     
          トロツキー :両親ユダヤ人
     
          ジノヴィエフ:ユダヤ人 コミンテルンの議長 
     
 
     
 ロシア二月革命:
     
 →
首都・ペトログラード暴動
     
 →ニコライ二世退位 (専制君主→穏健共和制)貴族も追放
     
  富裕層の政権
     
 ロシア十月革命:
     
 →
レーニン率いる組織ボリシェビキが共産主義(貧富拡大阻止:急進共和制)を掲げてロシア帝政崩壊
     
  労働者層の政権
     
 ウクライナでも組織ラーダが共産主義を掲げるがボリシェビキに敗れる(独立できず)
     
 レーニン1870-1924はロシア共産党政権を構築
      ・ユダヤ財閥はロシア革命に資金提供
      ・ユダヤ財閥はロシアと敵対する諸外国に資金提供
     
   →日露戦争では日本に資金提供
     
    ジェイコブ・シフ談:ユダヤを苦しめるロシアに立ち向かう日本は神の鞭
     
   →WW1ではドイツに亡命していた革命家レーニンがロシア革命
     
 ・ウクライナ独立宣言するがレーニンが承認せず、併合      

1918   ポーランド&ウクライナ--ソ連戦争、シベリア出兵の戦場
     
 ・ソ連はポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ジョージアの独立を認めたものの・・・
     
 ・極寒の地では穀物不足、不凍港不足
     
 ・ソ連はウクライナの内戦を煽って共産化
     
 ・ウクライナ抵抗運動
      ・11月WW1終結、ドイツ敗戦  
        ドイツは空爆を受けたわけではない  
        連合国軍がドイツ領土へ攻め入ったわけではない   
        革命運動で負けている  
        ドイツ共産党のスパルタクス団が革命@ベルリン→皇帝逃亡  
        ドイツ国内の裏切り者(共産主義者とユダヤ人)のせいでドイツ敗戦との噂が広がった   
  
     
  

1932~33 ウクライナ大飢饉:ホロドモール ホロド(餓)モール(死) 数百万人餓死
     
 ・この年は豊作であったが・・・・
     
 ・スターリンは抵抗運動するウクライナ農民の穀物を奪う By 赤軍
     
 ・「貧困をなくす」を掲げた共産主義・ソ連が行った事実(帝政ロシア時代はなかった)
     
 ・スターリンはこれを隠蔽 大成功のポスター、映画製作で世界に宣伝
     
 ・欧米諸国は知らなかった@1991以降に明らかになった By ウクライナ人
     
 ・『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』で映画公開
     
 ・今の日本ではソ連共産党の殺戮は教えない----何故?
     
 ・ウクライナ人はこの事実を忘れない(共産党に対する反発)
     
 ・大戦末期はソ連が独に侵攻、ベルリン陥落、ヒトラー自殺
     
 
      
ポーランド
     
 ・ポ :ウクライナのガリッツィア地方とベラルーシ半分を占領
     
 ・ウ :飢饉は免れる
     
 ・ウ :ポーランド抵抗が始まる
     
     ステパン・バンデーラ1909-1959がウクライナ民族解放運動:敵にユダヤ人が多くいる
     
     ステパン・バンデーラはポーランド側に逮捕投獄される
     
     ステパン・バンデーラを救ったのはヒトラー@1939
     
     最後は独に捕らえられてザクセンハウゼン強制収容所で終戦迎える----ウクライナではヒーロー
     
 ・独 :ポーランド侵攻でポーランド滅亡するとステパンに共に戦おうと言う
     
 ・ウ :ウクライナのステパンは独ナチと手を組んでソ連と戦う
     
 ・ウ :独がウクライナに侵攻すると、ウは歓迎しナチに協力した ----プーチンがネオナチと呼ぶ理由
     
     ソ連共産党のポロド(餓)モール(死)に比べてまともに見えた
     
     ユダヤ人の住居案内+自らユダヤ人殺戮----独以外にもポーランド、リトアニア等で行われた
     
 ・ウ :ガリッツィア地方は1950年代迄ソ連に対抗----米がバンデーラ派に武器支援
     
     ロシアVSウクライナ戦争はこの頃から実施
     
     ソ連はKGBを西ドイツ・ミュンヘンに送り込んでバンデーラ殺害@1959

1945   スターリン1878-1953   
          ロシア人ではなくジョージア人 
          
宗教破壊、大重税@ウクライナ → 農民混乱、豊作なのに大飢饉(人工的)
     
     WW2では独ソ戦の戦場となりウクライナは分裂(ウクライナは独についてソ連と戦う)
     
     ウクライナに居るユダヤ人虐殺         

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【ロシア-7-1】 18世紀までのウクライナ&ユダヤ人 コサックの反抗

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【紀元前5世紀--】 遊牧民スキタイ人による歴史:ウクライナ地方

BC700 ヘロドトスによれば、ウクライナ地方は遊牧民スキタイ人(司馬遷の史記では匈奴)がいた
     スキタイ人:騎馬民族 撤退焦土作戦(ナポレオンやナチスもこの焦土作戦を実施) 

6世紀  スラブ民族が移動してきて農耕を行い、自立

650  バザール王国(首都:アイティル 遊牧民)建国
     バザールマフィア<アシュケナージ・ユダヤ人(欧州・ロシア)
       9C:バザールの支配階級はユダヤに改宗
       988:バザール・ユダヤ人 VS 東ローマ帝国+キエフのロシア人  

862  ノルマン系のバイキング・リューリク830-879がスラブと融合し、ノブゴロド王国を建設する。
     【スラブ人国家について】---ノルマン人:ヴァイキングの奴隷:(Slaveの語源)
     東ヨーロッパのカルパティア山脈を中心に東、西、南へと移動。

       西:9世紀にチェック人によるモラヴィア王国誕生するが、マジャール人(今のハンガリー)に滅ぼされる。
         後にポーランド王国、ハンガリー王国誕生。
       東:ノブゴロド王国。キエフ公国が後にスラブ化し、
         ウラジミール1世(妻は東ローマ皇帝の妹・アンナ)の時には東ローマ皇帝の跡を継ぐ立場をとる
889       南:キエフ(ルーシー族首長リューリク:元々はバイキングと交易)を征服してキエフ大公国をつくるByオルグ
     
    キエフ・ルーシ大公国:ロシア、ウクライナのルーツ 
         国教はギリシャ正教からロシア正教へ

945   キエフ公国・スバトスラフ1世が即位する

966     東に隣接するバザール王国を倒し

968     西側に隣接するブルガリア王国を倒した

980   キエフ大公・ウラジミール1世955-1015は東ローマ皇帝の妹と結婚
988   
スラブ系であったキエフ国教をキリスト教(カトリック)に改宗
      ・ギリシャ正教:妻1人 酒OK
      ・イスラム教 :妻4人 酒NG
    

1240   モンゴル帝国の侵略(タタールのくびき:東スラブにとっては屈辱)によりキエフ王国は滅亡Byバトゥ
       タタールのくびき:200年間がアジア人に対する恐怖を植え付けた
         モンゴルのように強くなって世界を支配する
       ノブゴロドのモスクワ大公国(当時貴族 今のロシア)はモンゴルによる侵略は少なく、後にキプチャク-ハン国に従った
       モスクワ大公は当地を支配し、モンゴルに貢ぐ
       ジンギス-ハンの孫・バトゥーによりキプチャク・ハン国が成立する

1453   東ローマ帝国滅亡 Byイスラム・メフメト2世
      最後の東ローマ皇帝(コンスタンティヌス11世)の姪がモスクワ公国に嫁ぐ
       →東ローマ帝国の後継者がモスクワ公国
       →モスクワは第3のローマ:政治的主張
       →モスクワのトップは皇帝 ツアーリ(皇帝)の称号

1462   イヴァン3世1440-1505の治世に於いてキプチャク・ハン国から独立したモスクワ公国
        ┣ヴァシーリ3世1479-1533
        ┃ ┣イヴァン4世1530-1585雷帝
        ┃ ┃ ・オプリーチニナ制:私領、公領に分けて強制退去
        ┃ ┃ ・正式ツアーリ---戴冠式@生神女就寝大聖堂
        ┃ ┃ ・エリザベス1世に求婚
        ┃ ┃ ・息子イヴァンを撲殺@1581---リューリクの血統断絶
        ┃ ┃ ・遠縁のロマノフ家ミハイル君主1596-1645
        ┃ ┃
        ┃エレナ1510-1538 
        ┃ 
      ソフィア・パレオローク1440-1503(東ローマ皇帝コンスタンティヌス11世の姪)

      次のヴァシリー3世の時代に領土を拡大する

1585   コサック隊長イエルマーク1532-1585 :シビル・ハン国との戦いで戦死?
      コサック :
       ・トルコ語で自由人の意味
       ・大将のことをヘーチマンと言う
       ・ウクライナ国歌ではコサックが祖先とある

         
      
        コサックは日本の武士(血統)とは違って実力重視
        実力者が集団から推されてトップになる:民主主義
        後にウクライナ国家建国:民主主義
     
1598 コサック隊がモンゴルの残党シビル・ハン国を倒す

  【ウクライナの悲劇】
     モンゴルに破壊されたポーランドは西側で迫害されていたユダヤ人を受け入れる
     ポーランド繁栄
1569  
ポーランド=リトアニア共和国(当時西欧最強@1618のカトリック教)を作る
     
  コサック(正教会)の地に侵攻(今のベラルーシ、ウクライナ)征圧
     
  ウクライナは分割統治 
     
  ウクライナ、コサック、農民への徴税をポーランドユダヤ人が行う       
       ウクライナ+コサック+農民 VS ポーランド(ユダヤ人を使う) : 多くのユダヤ人が戦死
       ウクライナに於ける反ユダヤ主義が芽生える

       ウクライナに於いて、農奴となっていた農民は反発して武装:コサック → ウクライナ人のルーツ

1598   シビル・ハン国は滅亡Byコサック隊(モスクワ公国傭兵)
     
  モスクワ大公国の傭兵コサックは領地をモスクワ大公国イヴァン4世1530-1584に献上
     
  シベリアはイエルマークがシビルを探検開拓制覇したことが由来       

1613   遠縁のロマノフ家ミハイル君主1596-1645:ロマノフ朝
        ┗アレクセイ1629-1676
         ・会議法典---貴族の免税特権廃止@皇帝の独裁
              ---農民の移動禁止  @農奴 ---逃亡農奴の一部がコサック@ウクライナ 料理ボルシチ

1647   ポーランド=リトアニア共和国の貴族・フメリニツキー1595-1657
     
  コサックを指導して独立を名指す
     
    ポーランドはモンゴル民族タタール人を引き入れ、
     
    1648:台頭してきたモスクワ公国と協定を結んで反乱を起こして勝利
     
    ポーランドはウクライナの地から撤収
     
    自由だったコサックであったが・・・締め付けが増し、増税・・・
     
    かくしてコサックはモスクワ公国の管理下 :ウクライナがロシアに併合された始まり
     
  
     
  コサックは次第にモスクワ公国の傭兵化
     
    西:ポーランド側へ侵攻
     
    東:モンゴルの残党狩り

1648   コサック VS ガルシア地方(ユダヤ教中心地)
       ウクライナ人は50万人虐殺(ウクライナ小説家・ゴーゴリー1809-1852が描く)

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【ユーゴスラビア-1】 今は存在しないユーゴスラビアの分割と独立

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

極く最近7つの国に分割してそれぞれに歩むまでに多くの犠牲が伴った国、それは旧ユーゴスラビアである。1990年代にそれぞれが独立したが、順を追って説明していく。


今は存在しないユーゴスラビア
   ┣ユーゴ(南)スタビア(スラブ人)の国
   ┣6共和国 
   ┃ ┣セルビア 
   ┃ ┣モンテネグロ 
   ┃ ┣マケドニア 
   ┃ ┣スロベニア 
   ┃ ┣ボスニアヘルツェゴビナ 
   ┃ ┗クロアチア :ユーロ導入、シェンゲン協定@2022
   ┃  
   ┃3宗教
   ┃ ┣カトリックByフランク王国
   ┃ ┣東方正教 Byコンスタンティノープル教会--セルビア正教
   ┃ ┗イスラム教Byオスマン帝国      --20世紀まで続く
   ┃    
   ┣1920 民族自決
   ┃    ┗ユーゴスラビア王国独立@1918---セルビア人主導
   ┃      ┗クロアチア人不満---国王暗殺@1934
   ┃        ┗クロアチア自治州認める 
   ┣1941 ナチスドイツがユーゴスラビア全土占領 :バルカン全土 

   ┃    ┣ソ連反撃により東欧占領(ドイツから救うといいつつ)
   ┃    ┣英雄ティトー:パルテザンはドイツを追放
   ┃    ┗ソ連軍侵入を阻止 
   ┣1945 東西どちらにも属さず頭角を現す 
   ┣1980 ティトー死去
   ┃    ┣民族問題噴出
   ┃    ┣不況
   ┃    ┗東欧革命(民主化)@1989ベルリンの壁崩壊
   ┃   
   ┣1991 泥沼の内戦
   ┃    ┣スロベニア(十日間戦争でセルビアに勝利)が独立宣言
   ┃    ┣クロアチア(セルビアのミロシェビッチ大統領の民族浄化:大量虐殺)独立@1992
   ┃    ┃                       ┗国連介入
   ┃    ┣ボスニア・ヘルツェゴビナ(3-民族散財 ボスニア:イスラム人)@1995終焉NATO介入
   ┃    ┃   ┗死者20万 難民200万
   ┃    ┗モンテネグロはセルビア支援
   ┣1992 新ユーゴスラビア設立Byセルビアとモンテネグロ 
   ┃                     ┗モンテネグロ不満→独立の気配 
   ┃                       ┗セルビア・モンテネグロ@2003 
   ┃                         ┗モンテネグロ独立@2006
   ┣1998 コソボ自治州独立運動(アルバニア人多い)
   ┃    ┣NATO介入
   ┃    ┣セルビアのミロシェビッチ大統領は国連により拘束
   ┃    ┗2008独立---ユーゴスラビア紛争終焉
   ┗2024 現在 セルビアとコソボは緊張状態

  

 

  

【1920年~1940年迄のユーゴ】   第二次世界大戦中に虐殺されたセルビア人の遺骨50年ぶりに発掘されたことを取り上げ、その虐殺がクロアチア人によって実行されたという祭典・報道が1991年にあった。セルビア人とクロアチア人の怨念は根深かったのである。1920年代民族の平等と融和を掲げてユーゴスラビアは誕生したが、セルビア人とクロアチア人は民族性も宗教性も異なり対立した。1930年代になるとユーゴを治めていたセルビア人国王・アレクサンドラ1世の頃からセルビアの独裁は色濃くなり、1934年10月に国王がフランスを訪問した際に、クロアチア民族主義者の手引きにより暗殺された。1930年代後半には反セルビア主義を掲げる軍事勢力・パバリッチ将軍が台頭、1941年にナチスドイツを後ろ盾にクロアチアの独立を宣言して政権の座に就いた。ところがセルビアは、ユーゴの解体を意味するこの独立を認めなかったために、クロアチアはドイツとの関係をさらに強化して、パバリッチ将軍とヒトラーは軍事同盟を締結。その直後に始まったのがセルビア人狩り、つまり大量虐殺である。セルビア人はヤセノバツ強制収容所(ユダヤ人絶滅収容所をモデルに造られた)に送られ、次々と処刑された。この時のヤセノバツでの虐殺は70万人に及び、情報・記録はすべて後のチトー政権下では封印されたという。戦後セルビアによる発表に対して今も尚クロアチアは認めていない。

【1944年  第二次世界大戦時のユーゴスラビア】に於いて、枢軸国ドイツの支配に抵抗した自民解放軍パルチザンは、ドイツに勝利して旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となった。大統領となったチトー1892-1980は、ドイツを後ろ盾に成立したクロアチアの独立を取り消し、ユーゴ連邦の中に組み込み、今度はセルビア人によるクロアチア人への迫害が始まった。チトー大統領は資本主義でも社会主義でもない中立的な立場を踏襲して民衆を引き付けていた。ところが、1971年大規模な民族主義運動(クロアチアの春)は起こる。これは格差による不満がチトー政権の崩壊の兆しを表すものである。

1991年  チトー大統領が1980年に亡くなり、1989年にはベルリンの壁が崩壊する頃、ユーゴスラビア連邦国家の中でセルビア人の利益が過度に擁護されているとして、クロアチアやスロベニアで独立の機運が高まってきた。1990年には共産党が大敗しクロアチア民主同盟が圧勝してトゥジマンが大統領に就任する。そして1991年6月にクロアチアとスロベニアが独立宣言を行った。するとセルビア主導の連邦政府はユーゴスラビア連邦軍を投入、独立宣言を凍結した。10月には連邦空軍は大統領官邸を爆撃し、クロアチア国内での内戦も激化した。

【1992年  クロアチアやスロベニアの独立がEC諸国に承認されると】、次はボスニアが3月に独立を宣言。しかしボスニア人の1/3を占めるセルビア人が独立に反目、ムスリム人44%・クロアチア人17%との間で内紛が生じて1995年迄続いた。(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争)この時、NATO北大西洋条約機構はセルビア人を空爆(1995)し、国連は経済制裁に及んでいる。かくしてセルビア共和国とモンテネグロ共和国のみがユーゴスラビア連邦に残されることとなった。

1998年  コソボ独立を求めるコソボ解放軍とセルビア人勢力との戦闘が起きる。1999年には再びNATO軍はユーゴスラビア・セルビア軍を相手に空爆を実施した。1000機の航空機、巡行ミサイル・トマホークが使用され、NATO軍の出撃は38000回にも及んだという。この間セルビア人による民族浄化作戦は激化して30万人のアルバニア人は隣接国に移動し、85万人が故郷を離れた。1999年6月、ユーゴスラビアが和平提案を受け入れると、NATO空爆は停止。コソボは2008年に一方的な独立を宣言した。

【ドブロブニク】   ドブロヴニクはアドリア海に面する南クロアチアの都市。16 世紀に完成した巨大な石の壁に囲まれた独特な旧市街で知られ、バロック様式の聖ブレイズ教会、ルネサンス様式のスポンザ宮殿、ゴシック様式のレクター宮殿などの建造物がいくつも残っている。

【セゲド】   ハンガリー南部に位置する都市。2014年当時の人口は約162,000人。南はセルビアと接し、国境を越えてシリアなどの難民数十万人がドイツへと移り渡った。今ではその国境175kmに渡って鉄条網が張り巡らされ、難民対策を行った。

     

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【ロシア-5】 第二次世界大戦後の東西冷戦と民主化運動

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【1941年 ヒトラーのバルバロッサ作戦】   独ソ不可侵条約があるにもかかわらず、ドイツは330万人の軍でロシアに侵攻。ロシア民間人、軍人が約2700万人が死亡。これをロシアでは「大祖国戦争」といっている。

 

   バルバロッサ:意味は赤ひげ フリードリヒ1世1122-1190の愛称であった。当時の様子はドイツ-ゴスラーのゴスラー皇帝居城(mperial+Palace+of+Goslar)の壁画に見て取れる。この居城には、白髭のヴィルヘルム1世1797-1888 はドイツ帝国を建国@1871 、 ビスマルク、ルートヴィッヒ2世などの壁画もある。

 

【1945年の第二次世界大戦後の東西冷戦】   第二次世界大戦後、ソ連は東欧諸国を占領して緩衝地政策を行った。これはチェコ、ハンガリー、ユーゴなどを自分の支配下に置いて直接敵国とは国境を持たないようにする政策である。これによってソ連圏の情報を西側には漏らさず閉ざした。この東西の境界線を「鉄のカーテン」と呼んだ。ドイツは東のドイツ民主共和国、西のドイツ連邦共和国に分断され、首都ベルリンも分断された。東ドイツは自由選挙は許されず、工場は国有化、紙幣は多量に発行して経済政策を行ったつもりだろうが、何しろ生産能力が無いのだから当然のことながらハイパーインフレを引き起こした。資本家は虐殺するか財産を取り上げて、生産手段を持たないプロレタリアートばかりでの社会主義国家を目指した結果である。これはソ連・スターリンや中国人民公社の政策と同じである。

耐えきれない国民約360万人は、鉄のカーテンを乗り越えて、東から西へ逃亡をはかるが失敗すれば射殺された。やがてこの鉄のカーテンはコンクリートの壁となって立ちはだかり、鉄道や道路も封鎖したため、(ベルリン封鎖)米を中心とする西欧諸国は西ベルリン市に住む225万人の救出作戦を行うのである。(空の架け橋作戦)

一方西ドイツは自由選挙で、独自のマルクを発行して分断に対応した。従って東ドイツから西ドイツへ逃亡するドイツ人は多く、ベルリン市を囲む壁は長さ45kmにも及び強固であったにもかかわらず、239人もの人が射殺され、今でも名を刻んだ十字架があるという。

【ゴルバチョフの時代にベルリンの壁崩壊】   ところがゴルバチョフ1931-の時代になると、このままではよくないとしてソ連の立て直しを考えるようになる。つまり、1956年のハンガリー動乱(民主化を叫ぶ市民に対して戦車が発砲、20万人が死亡)や1968年のチェコスロバキアへのソ連介入(プラハの春と呼ばれた民主化運動に対してワルシャワ軍20万の兵が市民を一掃)を反省して、東欧諸国の自由を認める政策に変化を見せたのである。

1989年11/17のビロード革命では、30万人の市民が集まり、チェコスロバキア共産党による全体主義を倒した民主化運動であった。血を流すことなく花束を差し出して治安部隊と向かい合ったことからビロード革命と言われた。後の大統領バーツラフ・ハベルのバルコニー演説には民衆全員が喚起したというが、その舞台となったのがプラハにあるバーツラフ広場である。

すると民主化が進んでいたハンガリーは1989年8月19日に鉄のカーテンを撤去した(民主化運動ヨーロッパピクニック@ショプロンという国境沿いの町)。これによって東ドイツ人はチェコ-ハンガリー-オーストリアを経由して西ドイツへとなだれ込んだ。一時東ドイツは出国ビザの発行停止処置を行ったが、これにたいして東ドイツは反政府デモが起きたため、西ドイツは東ドイツに対してTV放送で出国を認めると宣言したのである。

かくして1989/11/9にブランデンベルグ門のベルリンの壁に大勢が集まり、その壁は崩壊した。これによって自動的に1955年に設置されたワルシャワ条約機構(東欧諸国による集団的自衛権を行使する機構)も崩壊し、数多くの東欧諸国がNATO:大西洋条約機構(西欧米側諸国による集団的自衛権行使機構)に加入したのである。因みに日本はNATOに加入していない。加入すれば国内総生産GDPの2%以上の国防費が必要となるが、その額は約10兆円(GDP500兆円×2%)。一方日本の防衛費は2020年現在で約5.5兆円。つまりNATOに入っても国防費が払えないのである。

【ベルリンの壁崩壊時の東西ドイツの格差】  ベルリン封鎖1948年から壁崩壊1989年までの40年間の間に東西ドイツの格差は恐ろしいほどに広がっていた。例えば西ドイツの車、ポルシェ、ベンツ、BMWなどは性能向上は目覚ましく、世界に誇れる自動車工業国になっていた。しかし東ドイツのザクセンリンク社が生産していたトラバント(壁崩壊後に西ベルリンに入ってきた車で、購入するのに20年待ちだったらしい)は排気ガス濃度が高く、2008年からは排ガス規制で運転許可が出なくなった。従って東西ドイツ人はお互いに車を見て驚愕したという。

ベルリンの壁崩壊によって東西冷戦は終結したが、共産党保守派はクーデターを起こしてゴルバチョフを軟禁、しかしエリツィンがこれを阻止して次の大統領となった。かくして1991年に12共和国を含むCIS/独立国家共同体として独立する。 

 

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【ロシア-4】 ロマノフ王朝滅亡後のロシア:スターリンの恐怖政治

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【ロマノフ王朝】   ロシア・ロマノフ王朝を最も強大な国家としたのは第8代皇帝・エカチェリーナ2世1729-1796である。

1801  アレクサンドル1世はアウステルリッツの三帝会戦(オーストリア、ロシア、フランス)で敗北。その後ロシアはナポレオンによる大陸封鎖令を無視して貿易を行ったために仏と戦争。この時仏兵は60万人がロシアの広大な土地と寒さで敗北した。

1821  オスマン帝国からのギリシャ独立戦争応援---見返りにバルカン半島の侵入権を得たかった
      ┣ギリシャのミソロンギの港がオスマン軍に包囲されて1万人が虐殺@1836

      ┣ギリシャ独立@1829
      ┗英仏が監視→ロシアは南下できず

1825  ニコライ1世は南下政策の一環でエジプト・トルコ戦争でボスボラス海峡の通航権を得たもののイギリスがその権利を取り消したことからクリミア戦争が勃発。ここでナイチンゲールが活躍したり、カーディガンが発明されたのは有名。

1831  オスマン帝国からのエジプト独立:エジプト・トルコ戦争
      ┣黒海からエーゲ海への航行権がほしかった
      ┗英が介入して航行権認めず@1840-ロンドン会議

1853  クリミア戦争 ロシア VS オスマン帝国 ---- ロシア惨敗
      ┣仏-ナポレオン三世が介入してオスマン帝国応援   
      ┣
英、サルデーニャも同様   
      ┣黒海を失う  → イラン、日本に南下(日英同盟)は失敗

      ┗1856 黒海中立化@パリ条約


  ⑪ニコライ1世1796-1855(即位1825)
1855  ┗⑫アレクサンドル2世1818-1881(即位1855)はクリミア戦争を反省して農奴制などの改革を行う。
       ┃ 再び南下政策としてオスマンと戦い勝利するが英仏独の抵抗があってベルリン会議で港の使用は禁止となる。
       ┃  アイグン条約@1858 アロー戦争で劣勢の清朝と結んだ不平等条約
       ┃  北京条約  @1860 同上 で外満州、沿海州奪取
       ┃  ウラジオストク建設@1860---不凍港 1870年に沿海州首都
       ┃   →意味:東方支配
       ┃  日露和親条約@1855 ---日露の境界線は択捉島の東 樺太は雑居の地(紛争頻発)
       ┃  樺太千島交換条約@1875---樺太は露、千島列島は日本
       ┃  樺太発展の為シベリア鉄道建設@1891-1905
       ┃   →出資は孤立していたフランス@ビスマルク死は1898
       ┃   →露仏同盟@1891 ;ドイツを挟み撃ち

       ┗⑬アレクサンドル3世1845-1894(即位1881)
          ┗⑭ニコライ2世1868-1918(即位1894)    

1861  農奴解放令

1877  ロシア-トルコ戦争                                                                 ---- ロシア圧勝
      ┣仏-ナポレオン三世が引退
      ┣英は孤立政策
      ┗サンステファノ条約@1878ベルリン会議--オスマン帝国の領土割譲 → オーストリアと英の監視により露南下失敗
        ┣案:セルビア、モンテネグロ、ルーマニア独立
        ┗案:ブルガリア自治公国--露保護

         →バルカン半島はヨーロッパの火薬庫といわれるようになる
            ┣パン-スラブ :ロシア+バルカン半島のスラブ人協力 
            ┗パン-ゲルマン:オーストリア+英+バルカン半島のゲルマン人協力

1881  アレクサンドル2世はナロード・ニキ(社会運動家の総称)に暗殺され、アレクサンドル3世は無理な工業化を進めたために労働者に負担が重なり貧富の差が大きくなり平等を掲げたマルクス主義が出てくる。ロシア社会民主労働党ができ、金持ち層からは立憲民主党・カデットが登場する。

1894  日清戦争で日本勝利
      ┣遼東半島割譲→日本 : 極東をにらむ拠点
      ┣   露独仏が三国干渉→遼東半島返還
      ┣   モンゴル満州を勢力圏にした露は旅順、大連を租借地とした →日露戦争勃発
      ┣   
      ┗ヨーロッパ列強国が清を分割、半植民地化  

1904  ニコライ2世のとき、ロシアは東側に不凍港を求めて南下したことから日露戦争が始まり、敗北
      ┣   日本は旅順・大連奪取
      ┣   樺太の南半分北緯50°より南を奪取
      ┣   英露和解:ドイツ対策(三国協商) ⇔ 中央同盟国
      ┣                   WW1
      ┣   
      ┣ニコライ2世の国軍が無差別に民衆に発砲したことで血の日曜事件が起こる(1905年)
      ┣   戦争反対の市民に対して銃で発砲して多くの死傷者を出した。これがロマノフ王朝崩壊の兆し
      ┣   1917年(第一次世界大戦中)ロシア革命は起こって、ニコライ2世によるロマノフ王朝は滅亡
      ┣   ロシア共和国臨時政府
      ┣   第一次世界大戦をやめなかった(2月革命)ので10月革命が起きた
      ┗   ソ連成立@1922

   【ニコライ2世と皇后アレクサンドラ】    ここで最後の皇帝ニコライ2世1868-1918について触れる。ニコライ2世が皇后アレクサンドラ1872-1918と戴冠式を行ったのは1896年である。戴冠式の場所はロマノフ王朝の政治を行う首都サンクトペテルブルクではなく、モスクワにあるクレムリン宮殿。クレムリン宮殿は戴冠式を行うための宮殿、権威を示すための宮殿でもあった。赤の広場の横、周囲2kmの城壁に囲まれたクレムリンは17世紀に誕生したロマノフ王朝の権威の象徴である。今もロシアの政治の中枢として最も重要な場所である。門を入ると大統領府、その奥にあるクレムリン大宮殿には700もの部屋があり一般公開はされていない。以下NHK-BS放送で紹介があったので記載。ゲオルギーの間は5階建てのマンションがすっぽり入る大きさ、全長は61mという圧倒的な富と権力を表す空間である。

   【歓迎されなかった皇后アレクサンドラ】    皇后アレクサンドラはドイツ小国出身(父:ルートヴィッヒ4世、母:メアリー)で22歳の時にロマノフ家に嫁いだ。戴冠式のには5000人が来賓として招かれ、世界最大とも言える式典は一か月も続いた。戴冠式に欠かせなかった秘宝(エカチェリーナ2世がつくらせたロマノフの王冠、189カラットのダイヤがはめ込まれた王笏)がクレムリン宮殿のダイヤモンド庫に眠っている。莫大な富を持つロシアと友好を築きたいと思わせるための戴冠式であった。黄金で埋め尽くされたアンドレイの間は玉座の間ともいわれて聖なる心を示す場所でもあるという。19世紀末、ロシアは200近い民族を統治、皇帝はこの統治の現れとして玉差の間をつくった。皇帝はこの部屋で使節と謁見した。ニコライ2世、アレクサンドラ、そして皇帝の母・マリアの玉座がある。これは社交的で国民に人気がある母マリアの影響力が大きかったことを意味する。母・マリアはアレクサンドラではなく、フランスのブルボン家からの嫁入りを望んでいた。つまりアレクサンドラは望まれない皇后であった。

   【皇后アレクサンドラの出自】    ドイツに生まれたアレクサンドラは6歳の時に両親が他界して、姉たちと共にイギリスに渡り母方の祖母・エリザベス女王に引き取られて12歳迄育った。8歳年上の姉・エリザベータがニコライ2世の叔父・セルゲイと結婚してロマノフ家に嫁いだのである。エリザベータは数々の王侯貴族から求愛されるほどの美しさを持ち、結婚式に出席していたアレクサンドラが当時王太子であったニコライと出会った。しかし二人の愛に、ニコライの両親(マリアとアレクサンドル3世)は大反対。特に社交的だったマリアは内向的なアレクサンドラではロマノフの皇后は務まらないとしていた。思い悩むアレクサンドラを支えたのは姉・エリザベータであったという。出会ってから10年後にニコライは親を説得、かくして22歳のアレクサンドラをは結婚することとなった。ところが、結婚の数日前にアレクサンドル3世が病死、皇帝になることなど望んでいなかったニコライを励ましたのは妻・アレクサンドラであった。アレクサンドラはロシア語も満足に話せないまま戴冠式に臨んだのである。ここから想像を超える試練が待ち受けていた。

   【皇帝・皇后の重要なセレモニー】    クレムリン宮殿の奥にあるのはテレムノイ宮殿、テレムノイとは古代ロシア語で高級な住まいという意味で1635年頃に建てられた。当時のロマノフ家の女性たちは厳重な宮廷作法のもとにここで隔離された暮らしをしていた。この時代女性は夫と父親以外の男性に顔を見せることはできずにいた。そして合議制にもとづく会議が行われたのもここである。武器庫にロマノフ王朝の繁栄が友好外交にも支えられていたことを物語秘宝が数多くある。ニコライ2世と皇后アレクサンドラにとっての友好外交セレモニーは、戴冠式での晩餐会である。当時ロシアは隣国との情勢に緊迫していた。ドイツ・オーストリアとは敵対し日本や中国との対立もあった。かくして、晩餐会を行うグラノビータヤ宮殿(教会のような神聖な場所で、壁には聖書の物語絵)でのアレクサンドラの役割は、さまざまな国との関係作りであった。17世紀の晩餐会には女性は出席できなかったが、18世紀エカチェリーナ2世の時代になると女性はお客を振舞う主役になった。そして晩餐会には友好を支えるさまざまな国の料理がだされた。

   【アレクサンドラの姉・エリザベータの苦難】   アレクサンドラが皇后として奮闘する一方で、もう一人ロシアの歴史に大きく翻弄された女性が居た。クレムリンから少し離れたところにあるマルファ・マリア修道院には今も尚多くの女性が訪れている。この修道院を建てたのはアレクサンドラの姉でニコライ2世の叔父と結婚したエリザベータである。ロシアに嫁いで以来、ロシアの貧しい人たちのための慈善活動に力を注いでいた。こうした頃の1905年に血の日曜日事件が発生、労働者の後進に軍隊が発砲して多くの死傷者がでた事件である。ロマノフ王朝に批判が集中した一月後に、エリザベータの夫でモスクワ総督のセルゲイがクレムリンに向かう途中で反政府活動の爆弾テロによって暗殺された。この時エリザベータは自分の財産の多くを困っている人々のためにと修道院建設の費用に充てた。その後修道女となったエリザベータは看護師を育成する施設や孤児院をもうけたという。

   【アレクサンドラの悲劇】    1か月に及ぶニコライ2世の戴冠式祝賀会には50万人の民衆が集まったが、その中で1300人もの大勢が死亡する圧死事件(ホドウインカの大惨事)が起こった。この時夫妻はフランス主催の舞踏会を欠席しようとしたが、周囲の意見に押されて外交を重視、出席した。その行動が民衆の怒りを爆発させた。これらを境に民衆の皇帝への信頼は失墜し、アレクサンドラは孤立していった。皇帝と皇后には4人の子供が授かるが、32歳の時に待望の男の子アレクセイが1904年に生まれた。ところがアレクセイは血友病というエリザベス2世から引き継いだ血縁病に侵されていた。これは秘密とされて国民には知らされず、アレクサンドラは部屋に多くのイコンを飾って祈り続けたのである。この時に現れたのが怪僧グレゴリー・ラスプーチン、アレクセイの病は治るとそそのかして宮廷に入り込んだのである。公務に姿を現さず宮殿に引きこもってラスプーチンと会う皇后に、人々の信用は益々無くなっていった。これは国を揺るがすスキャンダルに発展し、皇后は国家の敵となった。心配した姉エリザベータは、アレクサンドラに忠告するが、全く聞く耳を持たず、兄弟は決裂してこれ以降会うことはなかったという。やがてラスプーチンは貴族たちによって惨殺された。しかし王朝に対する国民の不満は収まらず、1917年ロシア革命が勃発し帝政打倒を掲げた労働者が蜂起、これによってニコライ2世は退位したことで300年続いたロマノフ王朝は終わったのである。重圧に解き放たれたアレクサンドラであったが、1918年7月17日、皇帝一家は革命政府によって殺害された。

  1917年ロシア革命は、ロシア国内で迫害されていたユダヤ人による革命である  
   ・それまでロシア系ユダヤ人は迫害・虐殺されていた:ポグロム  
     1698----ピョートル1世はユダヤ人商人のモスクワ滞在を拒否  
     1741----エリザベータ皇帝はウクライナ、ロシアからユダヤ人を追放、入国禁止  
     1743----元老院はユダヤ人商人の市場参加を否認  
     1800----パーヴェル1世はユダヤ人自治機構を危険視  
     1821----オデッサ暴動:ユダヤ人攻撃  
     1825----ニコライ1世は対ユダヤ強硬政策実施 同化政策 or 追放  
     1827----ユダヤ人徴兵法成立、軍事訓練+改宗  
     1840----ニコライ1世はポーランドユダヤ人調査 儀式殺人の嫌疑  
     1844----ユダヤ人自治機構カハルを解体 ユダヤ人書物検閲  
         プーシキンはユダヤ人を裏切り者スパイとして描く  
         ゴーゴリーはユダヤ人を卑怯な搾取者として描く  
         ドストエフスキーは反ユダヤ主義描写を継続  
     1873以降----ユダヤ人迫害が強まる   
   ・亡命していたレーニン1870-1924(母はユダヤ人)は革命家ポリシェビキのとロシア革命を起こす   
     亡命先はフランス・パリ14区@Rue Beaunier 1908 
     トロッキー1879-1940(ユダヤ人)やポリシェビキの多くはユダヤ人である  
   ・ロシア革命後はソ連政権を樹立、プロレタリア独裁体制を確立  
   ・1918ロシア共産党に改名  
   ・1952ソ連共産党に改名 
   ・カール・マルクス1818-1883は労働者階級が資本家を打倒すべきと主張した⇒フランス革命を扇動??  
     --父親はユダヤ教の指導者 
     --曾祖父はユダヤ系大富豪のコーエン家
     --エンゲルス1820-1895と親交 
     --ハインリッヒ・ハイネ1797-1856(鉄道王ジェームス・ロスチャイルドの部下)と親交 
     --ロスチャイルド家が欧州を牛耳っていると談話 
     --マルクス自身もロスチャイルド家の手中にあった 
     

 

   【エリザベータの悲劇】   一方エリザベータは革命後に周囲から亡命するように忠告されたが、ロシア国民と共に生きるとしてロシアから離れず、1918年7月18日、皇帝一家が殺害された翌日に殺害された。最後までロシアに捧げた人生であった。また、ニコライ2世の母、ロシア国民に人気があったマリア1847-1928は、一家の殺害を信じることができずにいたが、姉のイギリス王太子に急かされて、気が向かないままにロンドンに移った。つまりイギリス王・ジョージ5世が叔母・マリアを救出すべく戦艦・マールバラを派遣してマリアを救出した。ところが自分を救出してくれた姉・アレクサンドラ王太后が国民に人気があることへの嫉妬からデンマークへ帰った。やがて姉のアレクサンドラ王太后が1925年に死去、最後の身内をなくしたマリアは1928年に死去し、2005年に彼女の遺体はサンクトペテルブルクにある夫アレクサンドル3世の棺の隣に移された。これはマリアがロシアに渡って以来140年後のことである。 

 

実は遡ること50年、1870年代にロシアの学識者の間でナロード・ニキという社会運動家による農民の啓蒙と革命運動の組織化により皇帝を打倒する運動は起こっていた。またロシアに支配されていたポーランドでは、マリー・キュリーがロシア語教育を強要されていた中での活躍のエピソードがある。やがて彼女はノーベル賞を受賞する。

ドイツがロシアの内部崩壊を狙って亡命していたウラジミール・レーニン1870-1924をロシアに送り込むと、1917/10には社会民主労働党によりロシア革命が起こして政権をとりロシア共産党に名前を変える。そして建国された国家・ソビエト社会主義共和国連邦は15の共和国で構成された。ロシア連邦を中心としてカザフスタン、キルギス、タジキスタン、カザフスタンなどの共和国で構成された。実態は絶大な権力を持つロシア連邦がすべての共和国を牛耳る仕組みである。ソ連崩壊の後にできたロシアも同じような仕組みで運営している。

 

この頃1921年、革命後の共産党勢力による農業政策の失敗は多くの難民を生んだ。それに加えて大寒波がロシアを襲い3000万人に及ぶロシア人が餓死の危機に陥った。世界が初めて難民救済の重要性を知ったのはこの時である。救済を訴えたのはノルウエーの探検家、初代難民高等弁務官フリチョフ・ナンセンである。しかし西欧の多くはロシアに対して経済封鎖を行っており、援助はロシア共産党政権に流れるだけだとして援助は行わなかった。かくしてロシア革命から5年後の1922年にはロシアの難民餓死者は900万人にのぼった。(ロシア革命後、1922年までの5年間にわたって起きたのがロシア内戦) このように体力が激減したロシアに対して、ドイツ軍が侵攻。ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストニアを占拠した。カフカス地方にはトルコ軍が侵攻、日本軍陸戦隊もウラジオストクに上陸している。こうした経験からロシアは緩衝地帯を占拠して強い軍隊を派遣しようとする。(2022/2/24 ロシアがウクライナに侵攻、キエフを占拠した理由がここにある)

 

【ソ連の最初の指導者たち】   ウラジミール・レーニン1870-1924が亡くなった後後継したのはヨシフ・スターリン1878-1953(任期は1922-1952)である。彼が生きていた時代は偉大な指導者という宣伝が行われて絶大な支持があった。そして独裁による恐怖政治が行われたのである。スターリンが亡くなるとニキータ・フルシチョフ1894-1971(任期は1953-1964)が継いだ。そして1956年にフルシチョフの秘密報告(スターリン批判)が行われた。これはスターリンの恐怖政治に於いてどれだけの人が粛清されたのかといった内容は発表された。1934年の党大会で選ばれた中央委員139人のうち98人が銃殺されていたとか、代議員1956人の内1108人が逮捕されて900人が処刑されていたという内容であった。

また、ソ連軍の幹部がクーデターを起こそうとしているという噂をドイツが流した時には、軍幹部5000人が処刑されたという。かくしてドイツによるソ連侵攻は連勝していた。このようにして少しでも疑いのある者は次々と粛清され、800万人-1200万人が処刑された。

このフルシチョフによるスターリン批判によって、スターリンを理想に掲げてきた中国・毛沢東と対立が激化する。また米ソが歩み寄っていたことも一因する。これが影響してハンガリーやポーランドは社会主義羅脱運動を行うが弾圧された。

【スターリンの政策:原理社会制、一国社会主義】  1939年、ポーランド東部に住むウクライナ人の開放を掲げて侵攻し、共産化を進めた。このときポーランドの東半分がソ連に飲み込まれた。スターリンに反発する勢力は容赦なく強制収容所に送られた(ベロモルスク強制収容所)。1930年代ポーランド・ワルシャワには300万人以上のユダヤ人が暮らしていたが、ヒトラーによって排除された。 

世界革命論を掲げたトロツキー1879-1940は後継者に選ばれずに追放処分。ヨシフ・スターリン1878-1953の政策は次。コルホーズ:集団農場、ソホーズ:国営農場を強制し、富農を処刑して絶滅させた。つまり優れた経営者が絶滅したことで農業は壊滅し、肥よくな土地でさえも収穫が激減、食料不足、餓死者がでたのである。1932年の飢饉では食糧不足により1000万人以上の餓死者が出たという。しかしスターリンはこの政策の失敗は隠して、成功した!とアピールしたのである。因みに中国・毛沢東や北朝鮮・も金日成もこの嘘を真に受けて同じような改革を行って失敗している。実は北朝鮮では現在も尚このような政策が実施されて飢餓が続いているのである。で、こんな性格であることを知っていたレーニンは死ぬときに、スターリンを次の指導者から外すようにと遺書を残すが、スターリンに見つかって廃棄されたという。

【スターリンの政策:共和国の分断】   また、数多くのグルジア(1991年独立のキリスト教信仰国)、チェチェン(1990年独立のイスラム教信仰国)、カザフスタン(1991年独立のイスラム教信仰国)などの共和国については、数多くの民族を分断させるかのような国境を敷いて、独立運動をしにくい状態にした。ロシアに反抗的なチェチェン人が、ドイツ侵攻のときにドイツの味方をするのではないかと疑い、チェチェン人を全員カザフスタンに強制移住させた。抵抗したチェチェン人はその場で殺害した。このような分断政策が後にロシアに恨みを抱いて今でもロシアに対するテロ攻撃が繰り返されている。そもそもチェチェンはイスラム系、1990年のソ連邦からの独立以降、1991年の第一次チェチェン紛争では市民10万人以上を殺害した。また1991年の第二次チェチェン紛争では大統領に就任したプーチンは、第二代、第三代、第四代チェチェン大統領を暗殺し、のこ紛争によってチェチェン人の25%が死亡したと言われている。反チェチェン派は次の様に紛争を評価する。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。第二次チェチェン戦争は、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」恐ろしい話である。

【フルシチョフ1953-の次はブレジネフ1964-】  スターリンの後を継ぎ、スターリン批判をしたフルシチョフ(1894-1971:任期1953-1966)は1964年に権力闘争に負けて失脚し、レオニード・ブレジネフ(1606-1982:任期は1966-1982)が継いだ。この時代ソ連は長期停滞に入る。

【ゴルバチョフ政権1985-】   ゴルバチョフ書記長(1931-:(任期1985-1991))はソ連の立て直しを図っていく政策をしようとしていた。スターリンが敷いた独裁による恐怖政治の改革である。これが東欧諸国(暴動が頻繁に起こっていた)に対して民主化への影響を与えた。1985年に書記長に就任すると、ペレストロイカ、グラスノッチ(チェルノブイリ原発事故を受けての情報公開)政策を打ち出す。

1986/4/26チェルノブイリ4号機(黒鉛型)の原発事故@ウクライナもベルリンの壁崩壊1989/11、ソ連の崩壊1991/12、冷戦の終結に繋がるのである。1991年、ゴルバチョフハ共産党保守派のクーデターによって軟禁されるが、エリルィンがこれを阻止して、エリツィンを大統領としたロシア共和国を含むCIS:独立国家共同体が独立する。

【チェルノブイリ原発と日本の福島原発の比較】   被害や影響については大きすぎて正確な値は出しようがないが、いずれにしても原発は事故が起これば世界中に何らかの被害をもたらす。

ソ連 : チェルノブイリ原発は黒鉛型。運転しながら燃料棒を核燃料に転用可能なシステム

事故原因 : 燃料棒取り換え試験運転中に操作ミスで冷却水系統停止 水蒸気爆発事故発生

水蒸気爆発と同時に原子炉建屋は崩壊して、高濃度の放射性物質が一気に漏洩、スウエーデン迄到達

放射性物質の拡散距離 : 約2500km

事後処理 : 数日報告せず、スウエーデンの原発警報により発覚。その後15年に及んで他号機運転継続

犠牲者 : 政府発表は50人程度が死亡で、その他報告はないが、60万人は死亡しているという説もある

 

 

 

 

日本 : 福島原発はBWR沸騰水型 放射性純度高の水が減速材と冷却材を兼ねる

事故原因 :   東日本大震災で非常用電源停止、冷却水系統停止で水素爆発

水素爆発と同時に原子炉建屋は崩壊、核燃料容器はやがてメルトダウンにより崩壊

高濃度の放射性物質の拡散距離 : 約300km

事後処理 : 即時報告、全面運転停止、他の原発も試運転を機に再起動せずに停止

犠牲者 : 間接的死亡者を含めて1700人が死亡

 

 

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【ロシア-3】 日露戦争の勝因はユダヤの資金

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

 

1806  文化露寇
      ┣ロシアからの通商要求に対して日本は拒絶
      ┣ロシア皇帝アレクサンドル1世の命で派遣されたニコライレザノフは幽閉状態@長崎
      ┣日本側の北方の拠点を攻撃させた事件

1811  ブローニン事件
      ┣ロシア艦隊ディアナ号艦長のブローニンが松前藩に捕縛される
      ┣千島列島測量中
      ┣回船商人・高田屋嘉兵衛の尽力により解決

1861  ロシアは対馬を占拠
      ┣対馬藩の抗議を無視して測量を実施、日本番兵を射殺

1884  ニコライ堂建設など文化交流
      ┣漁業@樺太
      ┣函館ハリスト正教会
      ┣アレクサンドル2世と明治天皇
      ┣ジャポニズムとロシア文学

1891  大津事件---陸軍軍人・津田三蔵がニコライ皇太子に切りつける

1894  日清戦争で日本勝利
      ┣遼東半島割譲→日本 : 極東をにらむ拠点
      ┣   露独仏が三国干渉→遼東半島返還
      ┣   モンゴル満州を勢力圏にした露は旅順、大連を租借地とした@1898 →日露戦争勃発
      ┣   北清事変:露が満州を占拠
      ┣   露による地中海侵略に倒して英が抵抗
      ┣
ヨーロッパ列強国が清を分割、半植民地化 日英同盟@1902 
      ┣   露の満州からの撤兵を条件に日露協商の動きをみせるBy小村寿太郎 
      ┣   露独仏三国干渉により遼東半島などを奪取された恨みとしてマスコミは国民を煽る--- 臥薪嘗胆

      ┗   露は満州からの撤兵を守らず---海戦論突き進む   

1904  ニコライ2世のとき、ロシアは東側に不凍港を求めて南下したことから日露戦争が始まり、敗北
      ┣   日本は旅順・大連奪取
      ┣   樺太の南半分北緯50°より南を奪取
      ┣   英露和解:ドイツ対策(三国協商) ⇔ 中央同盟国
      ┣                   WW1
      ┣   
      ┣ニコライ2世の国軍が無差別に民衆に発砲したことで血の日曜事件が起こる(1905年)
      ┣   戦争反対の市民に対して銃で発砲して多くの死傷者を出した。これがロマノフ王朝崩壊の兆し
      ┣   1917年(第一次世界大戦中)ロシア革命は起こって、ニコライ2世によるロマノフ王朝は滅亡
      ┣   ロシア共和国臨時政府
      ┣   第一次世界大戦をやめなかった(2月革命)ので10月革命が起きた
      ┗   ソ連成立@1922

 

【1897年、仇教運動】    中国で起こった仇教運動とはキリスト教排除運動のこと、これに対して1900年に義和団事件が起こり、これと西太后が手を組んだことから日露主力の連合軍が鎮圧、1901年に北京議定書が結ばれた。その後ロシアは中国から兵を引かないことで日露戦争は始まる。結果日本は勝利、小村寿太郎とウイッテ間でポーツマス条約が結ばれた。

【日露戦争の勝因】    1904年2月8日から1905年9 月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争では、圧倒的にロシアの軍事力が上回っていた。日露の軍事資金の日露比は20億:2.5億、平氏の日露比は300万:25万、海軍の日露比は80万T:25万T、ロシアの太平洋艦隊、バルチック艦隊に比べて日本は引退まじかの艦隊を含む連合艦隊である。これだけ国力差があるロシアと戦うには相当の資金が必要である。その資金調達を担ったのが高橋是清(1854-1936 226事件で暗殺された)である。彼はアメリカ経由でイギリスに渡り、ヤコブ・シフというドイツ生まれのユダヤ人銀行家に融資をしてもらっている。クーン・ローブ商会であり、全米ユダヤ人協会の会長である彼は吉田寅次郎という人物を通じて日本に大変友好的であったと考えられる。当時ロシアはユダヤ人迫害が強かった。日露戦争の前年、オデッサの郊外でユダヤ人大虐殺が発生したこともあり、ヤコブ・シフ(1847-1920)というドイツ生まれのユダヤ人銀行家に融資を受けれたともいえる。その金額は6回の支援で合計18億円(当時の国内総生産GDP=30億円)、これが成立したのは1902年の日英同盟が大きい。

ところが、このヤコブ・シフは日本だけではなくロシアに対しても戦費融資を行っていた。これは外国公債募集に携わっていた金融財政家で第13代総裁の深井英五1871-1945が語っている。ヤコブ・シフは日本が勝とうがロシアが勝とうがどちらでもよく、自分に利益が上がるように手配していたのである。ロンドン・ロスチャイルドのナサニエルとヤコブ・シフは、日本の戦艦購入費を用立てた。しかしそれ以上の戦費融通をロスチャイルド家は断った。その理由はロシアが持つ世界最大産出量を持つバクー油田の利権をロスチャイルド家が保有していたからである。つまりロシアと敵対する日本への全面支援はロスチャイルド家にとっては得策ではなかった。そこでロスチャイルド家の息がかかったヤコブ・シフが日本への資金調達を行った。

【日露戦争の戦後処理】  勝利した日本は、南満州での ①鉄道開発権 ②鉱山開発権 ③漁業権を得たが、賠償金は無し。最も重要なのは鉄道開発で、経済的・軍事的に圧倒的に有利となるが、建設反対の勢力も存在する。これを建設側から排除するために結成されたのが関東軍。当時満州の事を関東と呼んでいた。こうした状況の中で1929年に世界恐慌がおこり、日本は南満州だけではなく、満州全土に対してブロック政策を開始しようとした。つまり満州を植民地として、資源を安く輸入し、製品を高く輸出することで経済流通を確保しようとした。

【満州という財産】    このロシアから譲り受けた満州は、元々は清国の一部であったが清の国力が衰えるや否や、半ば強制的に清から取り上げていた。この満州全土を日本のものとしていたのではなく、南側の一部だけを日本の者として認めていた。日露戦争は日露両方が苦戦しながら戦い(日本の方が死者数多いし、露側はロシア革命で戦争どころではなかった)アメリカの仲裁により終結したという背景があり、満州の一部だけが日本の領土となった。つまり日本領土となった満州(清の人々が暮らしている)は、ロシア(敵対)、清(敵対)、モンゴル(敵対)といった国と接する土地であった。①鉄道開発権 ②石炭・鉄鉱山開発権 ③漁業権を獲得してヨーロッパとの交易を活発にすることにより日本の発展に繋がるというメリットと引き換えに、大きな問題も抱え込んだ。

【満州の治安解決】    そこで日本は満州の治安を守る為に関東軍(当時の満州は中国では関東と呼ばれていたらしい)という陸軍部隊を派遣し、満州開拓にやってくる日本の企業や移民の護衛を担った。この頃ロシアではロシア革命が起きてソ連になり、清は中華民国という国になった。つまり日本が①鉄道開発権 ②鉱山開発権 ③漁業権等々の獲得条件を交わした条約は清、ロシアであって中華民国、ソ連ではないため(国際法では何ら問題ないが・・・)問題は山積み、実際に小さな問題は多発していた。これらを一気に解決すべく関東軍は中華民国を攻める口実のために、南満州鉄道爆破事件を自作自演。かくして中国軍武力制圧の正当性を作り、満州を借りた土地ではなく満州国として独立させたのである。領土拡大目的ではなく、独立の手助けをしたという体裁を整えて日本の傀儡政権を作った。これにより日本にとっての軍事拠点としての満州国が成立したのである。

【ノモンハン事件】    これに反旗を翻したのがソ連である。ソ連は、日本に不信感を持っていたモンゴルと手を結び、日本と対抗しようとした。このようなときに、満州とモンゴルの国境にあるノモンハン(モンゴルの塚)を境に国境問題で揉めていた両者に、日本関東軍とソ連が介入。かくして関東軍は本部の意向(戦争は避けたい)とは逆に戦闘態勢に入った。1939年5月にモンゴル軍がハルハ川を越えて満州川に入ってきたために、関東軍はモンゴル軍を攻撃した。支援に来たソ連軍との戦いに発展したこの戦争を第一次ノモンハン事件という。関東軍は川を挟んで追い返したことで終結。

ところが1939年7月には全精力をつぎこんだソ連が300台の戦車で侵攻、関東軍は追い返されて2万人の死傷者をだした。これが第二次ノモンハン事件。この際中に独ソ不可侵条約が結ばれたこともあり、本部日本はソ連と停戦交渉を行った。この頃独はポーランドに侵攻していた・・・。

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【ロシア-2】 17世紀 リューリク朝-ロマノフ王朝とサンクトペテルブルグ

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【14世紀】 ドイツ騎士団の東方植民に対抗して、ポーランド、リトアニアが合併しヤゲヴォ朝が誕生した

      ドイツ騎士団の侵略を阻止する

【1440】  モスクワ大公としてキプチャク・ハンから自立したイヴァン3世は自身をツァーリ(皇帝)と自称

   1462 :イヴァン3世の治世に於いてキプチャク・ハン国から独立したモスクワ公国は、次のヴァシリー3世の時代に領土を拡大する
   1502 :キプチャク・ハン国滅亡

      ルーシー諸侯を併合、リトアニアに侵攻するなどして領土拡大を成功
   
   この頃ビザンツ帝国が亡びて国民は各所に散っていく
   
   イヴァン3世は最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世の姪・ゾイパレオロギナ1455-1503と結婚
   
   ビザンツ皇帝の世祖来な後継者ということでツァーリを名乗る。

【1530】  イヴァン4世1530-1584が3歳で皇帝に即位するとシェイスキー公が後見人となる

【1556】  ロシア・ツァーリ国を建国、全ルーシー諸侯を統一

      息子ヒョードル1世が智的障害で生まれたこともあり、リューリク朝は断絶し約15年間の動乱の時代にはいる
   
   この時期にコサックのイエルマーク1532-2585がシベリアに進出したことでロシアは飛躍的に領土を拡大する。

【1572】  ポーランド・リトアニア共和国となるが、18世紀には第一次-第三次ポーランド分割(Byロシア帝国)により滅亡。

【イヴァン4世1530-1584】 モスクワ大公国

  父・ヴァシーリ3世、母エレナ・グリンスカヤ(二番目の妃、タタール人) ギリシャ正教会では再婚できないはず
    
フランス :フランソワ1世がルネサンス導入
    
スペイン :インカ帝国征服
    
英国   :ヘンリー8世による妻アンブーリンの処刑
    
日本   :戦国時代
    
ドイツ  :ルターの宗教改革

  数十人の大貴族を粛清して国土拡大 

  1533 イヴァン4世は3歳で皇位を継ぐ

  1540 10歳で母エレナが大貴族により毒殺され、6年は惨めな生活 

  1546 母方グリンスキー家が実権を持つと、イヴァンはツアーリーとして戴冠
  

     モンゴルの残党大将・サインブラトを倒し、ハーンの直系子孫を名乗る
       ⇒ハーンの地位奪取
       ⇒シベリア民を従わせる

     花嫁コンテストで結婚 候補者1000人から次第に絞る
  
   アナスターシャと結婚(実家はロマノフ家 生年不明)子供は6人
  
   大貴族に対しては恐怖政治、民衆には人気ある
  
   イヴァン、ピョートル誕生

  1560 妃アナスターシャ死亡 毒殺?(後年の研究では水銀)

     犯人と思われる大貴族一族を抹殺 スターリン時代のソ連も同じ 

  1561 マリヤ・テムリュコヴナ1544-1569 毒殺死?

  1570 ノブゴロド事件:イヴァン4世は市民数万人を虐殺     

  1571 マルファ・ソバーキナ?-1571 ノブゴロド商人の娘 結婚直後に毒殺?

  1572 アンナ・コルトフスカヤ?-1626 東方正教会では結婚は3度迄 不妊で修道院行き

  1575 アンナ・ヴァシリチコヴァ?-1576 市民 DV死?

  1577 ヴァシリーサ・メレンティエヴァ?-? 臣下と不倫 臣下串刺し、妃毒殺?

  1580 マリヤ・ナガヤ?-1608 

      子はドミトリー1582-1591不審死でマリヤは修道院

  1581 息子イヴァンの妻・エレナ懐妊するが、イヴァン4世のDVにより流産

     イヴァン4世は息子を撲殺(イヴァン雷帝とその息子:画家レーピン)   

  1584 イヴァン4世死去 ピョートル1世即位 

     野心家ボリス・ゴドノフ実権(ピョードル妃の兄)

     ピョードル1世が死去するとボリスは即位 次に息子ピョードル2世が即位 二か月後に暗殺

     以降実は殺されていなかったドミトリーが王位:偽ドミトリー 暗殺

  1598 シビル=ハン国(シベリアの語源)滅亡 By イエルマーク1532-1585率いるコサック軍

 

 

【1605】   この間、ロシア-ポーランド戦争が勃発、モスクワクーデター1610によりヴァシーリ4世は廃位。ポーランド軍がモスクワを占領し、スウエーデンがノブゴロドを占領したが、ロシア国民軍これを打ち破

     ミハイル・ロマノフ1596-1645がツァーリに即位】してロマノフ王朝が誕生した@1613

【1699】 【ピョートル1世1672-1725】 は初代ロシア皇帝       
       ┣ピョートル1世の子供の時の教師がユダヤ人で、西の技術を導入すべしという教育を受けた 
       ┣オランダの造船所(西インド会社)で学んだ@1697あとは多くのユダヤ人技術者を持ち帰った@1698
       ┣スウエーデン・カール12世からバルト海海域の世界覇権を奪取@1721 :北方戦争 
       ┃  ┣焦土作戦
       ┃  ┗一般市民を巻き込み難民発生    
       ┣バルト海交易ルートを確保  
       ┣この時に建設したのがサンクトペテルベルグ(ピョートルは聖人ペテロ(初代ローマ教皇)の意味)@1703
       ┃  ┣東ヨーロッパ覇権 
       ┃  ┣ロシア帝国宣言@1713 
       ┃  ┣コサック隊を編成---領土拡大の前線部隊
       ┃  ┗西のシベリア経由南下して清国と衝突
       ┃       ┣康熙帝とネルチンスク条約1689
       ┃       ┣モンゴル国境キャフタ条約1727
       ┃       ┗ベーリング--アラスカ、カムチャッカ探索
       ┣次は黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標  
       ┗絶対王政を確立し、西欧化政策、シベリア経営

 

【1700】   北方戦争~1721 最強のスウエーデンを討ち、バルト海への出入り口港都市・ピョートル・ブルグを作った。

       後のペテルブルグ

【】   極東ベーリング制覇 By デンマーク人

【皇女ソフィア1657-1704】

  アレクセイ_モスクワ大公1629-1679    
   ┃ ┣ソフィア・アレクセーエヴナ1657-0704 
   ┃ ┃   銃兵隊の反乱を起こしてイヴァンを5世として復活@1682
   ┃ ┃   ソフィアは摂政として実権を握る
   ┃ ┃   愛人ヴァシーリが宰相
   ┃ ┃   クリミア戦で失敗---フョードル優位
   ┃ ┃   ソフィアは再び挙兵@1698
   ┃ ┃  
   ┃ ┣フョードル     1661-1682---病弱 即位1676         
   ┃ ┣イヴァン      1666-1696---病弱 即位1682          
   ┃マリヤ・ミロスラフスカヤ1625-1669 
   ┃
   ┣ピョートル1世1672-1725---世継ぎ候補@1682 
   ┃  反旗を翻したのが皇女ソフィアに対して軍備を整え向かってきたソフィア銃兵隊を殲滅
   ┃  姉のソフィアをノヴォジェービチ修道院へ幽閉 
   ┃  ソフィアは再び挙兵@1698---反乱は鎮圧されて処刑も済んだが首謀者がソフィアであるとの証拠がない
   ┃          
  ナタリヤ・ナルイシキナ1651-1694

  幽閉後の「ソフィア皇女」の肖像画を残したのはイリア・レーピン1844-1930、その容貌が相まって極めて有名な歴史画として残っている。

【ピョートル1世の妃エヴドキヤ・ロプーヒナ】

エヴドキヤは貴族のフョードル・アブラモヴィチ・ロプーヒンとその妻ウスティーニャ・ボグダノヴナ・ルティシチェヴァの娘、白羽の矢が立ち1689年にツァリーツァとして戴冠した。しかし美人とは言えない妻エヴドキヤを捨ててオランダ人の愛妾アンナに心を移した。カトリック信者は離婚できない。そこでエヴドキヤをノヴォビッチ修道院送りにする。つまりエヴドキヤはキリストと結婚することで、それ以外の契約は無効。つまりピョートル1世は再婚が可能となるのである。その代わりに修道院には莫大な金品を手にすることができた。これを利用してカトリックの貴族は金品と引き換えに離婚をするということが良くあったのである。

 

【1762】   ロシアを最も強大な国家としたのは

  第8代皇帝・エカチェリーナ2世1729-1796である。    
     ┣無能な夫ピョートル3世を暗殺するとすぐに即位@1772    
     ┣⑩ポーランド分割@1772 : プロイセン&オーストリア共同  
     ┣   ①シュラフタというポーランド式社会階級を退けて専制君主政治を行った。   
     ┣②1774第一次露土戦争(対オスマン帝国)で勝利してクリミア半島などの領土を拡大する。   
     ┣   クリム=ハン国を統合(クリミア半島の由来)   
     ┣   セバストポリ要塞建設@クリミア半島    --- 不凍港   
     ┣③県郡を細分化して知事を配置   
     ┣③1787第二次露土戦争でも勝利する   
     ┣④1792ポーランドやリトアニアにも侵攻   
     ┣⑤強大な権力を持つとサンクトペテルブルグにエカチェリーナ宮殿を建設して、その権威を誇った。   
     ┣⑥武装中立同盟を結び、農奴制を強化した。(アメリカ独立戦争やフランス革命の前後)   
     ┣⑦また世界中の美術品をコレクションしてエルミタージュ美術館建造(元々は勉強のための図書館:冬の宮殿の一部)   
     ┣   エルミタージュ:「隠れ家」の意味   
     ┣   (多くのレンブラント画、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ティツィアーノ、ベラスケス、などを所蔵)   
     ┣   1990年には世界遺産に指定され、年間400万人以上もの来館者数を誇っている。   
     ┣   因みにルーブル美術館の来場者は年間1000万人。   
     ┣⑧ラクスマン1766-1806が来日@1792   
     ┣⑨各地のピョートル大帝の騎士像を設置:尊敬の象徴

サンクトペテルブルグ(ソ連時代はレニングラード)は偉大な音楽の都でもある。

 また、エカチェリーナ2世は数多くの愛人を持ったことでも知られ、100人以上と言われていたが、ロシア学芸員の御仁がNHK特番で言っていたのは12人。おそらくこれが正しい人数だろう。一番有名なのがグレゴリー・ポチョムキン氏1739-1791。エカチェリーナ2世よりも10歳年下の愛人で、ロシア帝国の軍人である。陸軍主席大将に任命してクリミア地区の総督として、セバストポリ要塞を築いて黒海艦隊を設立した。クリミアの成長ぶりは凄く、今も尚オデッサ、ニコラーエフ、ヘルソンなどの主要都市は順調に発展しているという。

 

 学芸員:昔と違って日本に於ける学芸員の多くが有期雇用。これでは文化の発展・育成はとても見込めない。日本維新の会を筆頭にナショナリズムを軽視する傾向は益々広がるであろう。

 

【パーヴェル1世-アレクサンドル1世の治世】

1792   母が父を暗殺するという激しい境遇に生まれたパーヴェル1世-1807は母を恨んで育つ。そして選帝侯軍の軍人バニグセン1745-1826はパーウエル1世の即位とともに罷免されるが、1807年、パーウエル1世を襲撃して殺害。その子・アレクサンドル1世1778-1825が即位する。彼は神聖ローマ帝国のバーデン伯カール・ルートヴィッヒの娘エリザベータ、カタリーナ、カロリーネと会見しエリザベータを気に入る。翌年エリザベータはプロテスタントからロシア正教に改宗すると結婚。

1796   エカテリーナ2世が崩御してパーヴェル1世が即位

     このころエリザベータはポーランドの公爵アダム・イエジィを愛人とする

1799   第一子マリア・アレクサンドロヴィナが生まれるが夭折

1803   アレクサンドル1世はエカテリーナ2世の侍女マリアを愛人に持つ

     このころ?エリザベータはアレクセイ・オコトニコフを愛人とする

1806   第二子エリザベータ・アレクサンドロヴィナが生まれるが、オコトニコフの子か?

     オコトニコフが暗殺される。犯人はアレクサンドル1世の兄弟

1807   パーヴェル1世が暗殺さ、アレクサンドル1世が即位

1812   フランスがロシアに侵攻

1825   エリザベータはアレクサンドル1世とともにタガンログという田舎町へ療養に行くがアレクサンドル1世は病死

1826   エリザベータはアレクサンドル1世を追うように病死・心不全

 

 

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【ロシア-1】 9世紀 古代ロシア―リューリク朝

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【BC5世紀】 スキタイ人による歴史が最初

【3世紀】  には東ゴート人

【4世紀】  にはフン族(騎馬民族)がゲルマン民族(農民+遊牧民)の大移動を推した(原因は寒冷化)

【9世紀】  スカンジナビアのノルマン人がバイキングとして勢力を拡大

【862】   ノルマン系のバイキングがスラブ化し、ノブゴロド王国を建設する

【スラブ人国家について】 東ヨーロッパのカルパティア山脈を中心に東、西、南へと移動。

    西:9世紀にチェック人によるモラヴィア王国誕生するが、マジャール人(今のハンガリー)に滅ぼされる。

      後にポーランド王国、ハンガリー王国誕生。

    東:ノブゴロド王国。キエフ公国が後にスラブ化し、ウラジミール1世の時には東ローマ皇帝の跡を継ぐ立場をとる

【889】 南:やがて南部のキエフを征服して大公国をつくる。

【945】  スバトスラフ1世が即位すると、東に隣接するバザール王国を倒し966、西側に隣接するブルガリア王国を倒した968

【980】  キエフ大公・ウラジミール1世はスラブ系であったキエフ国教をキリスト教(カトリック)に改宗

【13世紀】 モンゴル帝国の侵略(タタールのくびきといって東スラブにとっては屈辱)によりキエフ王国は滅亡

      ジンギス-ハンの孫・バトゥーによりキプチャク・ハン国(イスラム教)が成立する
      ロシアはモンゴル化
      平和な時代 : パックス・モンゴリカ
              関税を廃止して自由な交易
              交易・交通・商業が発展
      モスクワ大公がモンゴルに従って自治実施
              モンゴルに替わって税の徴収
   1260 :モンゴル帝国継承戦争
   1274 :元寇
   1281 :元寇
   1340 :ペスト流行@順帝(元最後の皇帝)
   1368 :明建国≒元朝崩壊
 
   1388 :
モンゴル帝国崩壊
   

【14世紀末】 ティムール台頭@チャガタイ・ハン国 

       ⇒チャガタイ・ハン国の軍事指導者1336-1405:チンギス・ハーンの子孫ではない
        ティムール建国
   1469 :7代死亡で政権分裂(サマルカンド & ヘラート
   1500 :サマルカンド(ウズベキスタンの都市)滅亡  By 遊牧民ウズベク

   1507 :ヘラート  (アフガニスタンの都市)滅亡  By 遊牧民ウズベク 

【1462】  イヴァン3世の治世に於いてキプチャク・ハン国から独立したモスクワ公国は、次のヴァシリー3世の時代に領土を拡大する
   1502 :キプチャク・ハン国滅亡

   

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【民族大移動@ヨーロッパ-5】 スウエーデン系ヴァイキング----スラブ民族大移動

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【スウエーデン系デーン人によるスラブ制覇とスラブ人の大移動】

ルーマニアとウクライナの国境にカルパティア山脈が横たわっている。このカルパティア山脈を中心にスラブ民族が居た。やがて東スラブ、西スラブ、南スラブへと大移動をして領土拡大をしていた。

 

862年   デーン人のルーシ族・リューリク830-879
     ロシアのノブゴロド州に居た東スラブ人を征服してノブゴロド国を建設
      
1132年 デーン人(ルーシ人:スウエーデン系)とスラブ人は同化(→ロシア:ルーシの語源)
     ┗リューリク朝キエフ公国を建設

1240年 モンゴル・タタールによって占領され、キムチャプ・ハン国建設Byチンギス・ハンの孫バトゥ

1263年 イヴァン3世によりモスクワ大公国建設 自身をツアーリと称する

【東スラブ】 現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ : ビザンツ文化の影響を受けたギリシャ正教の国である。

【西スラブ】 ゲルマン民族の神聖ローマ帝国と隣接して、現在のポーランド、チェコ、スロバキア、リトアニアの地域に拡大する。西欧文化の影響を受けたカトリックである。

【南スラブ】 カトリックのクロアチア、スロベニア ギリシャ正教のマケドニア、モンテネグロ、ブルガール、セルビアに別れ、ユーゴスラビア内戦や第一次世界大戦の原因となっている。

その他--- 【民族大移動@北欧-黒海-アメリカ大陸ユーラシア-3】 バイキングは略奪ではなく交易で栄えた

 

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【民族大移動@ヨーロッパ-4】 ゲルマン民族の一部デーン人、バイキングの大移動(北欧方面)

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【ゲルマン民族の大移動方向】
  ┣4-6世紀 欧州方面移動(ゲルマン人)
  ┃ ┗地球寒冷化
  ┣8-12世紀 北欧方面移動(ノルマン人)
  ┃ ┗地球温暖化
  ┃  9世紀 スウエーデン系ノルマン人が東欧へ移動して建国:元々はスラブ人が居た
  ┃      ノブゴロド@ドニエプル川沿い → ルーシ族+スラブ=ロシア
  ┃      キエフ
  ┃      大都市コンスタンティノープルと交易開始
  ┃      
  ┣中東方面移動(イラン人)     
  インド方面移動(アーリア人)

 

【デーン人による欧州制覇】--- 8世紀~12世紀に活動

現在のデンマーク、スエーデンに移住した北方系のゲルマン人(ノルマン人)のことを言う。バイキング(入江(ヴィーク)に住む人の意)の時代にはイングランドに先住していたアングロサクソン人を圧倒して、西ヨーロッパに侵攻した。

793  ヴァイキングはイギリスのインディスファーン修道院を襲う

    ノルマン人はすべてキリスト教 : 国旗にはすべて十字架がある(スカンジナビア十字)

                    

                                ダンネブロ
                                 
世界最古

    デンマークのハーラル・ブロタン王?-986       ┓       
     ┃    ┣スヴェン王960-1014---スウエーデン王┣北海帝国@1016      
     ┃    クヌート王995-1035---イングランド王┛       
     ┃    
     ┣キリスト教に改宗@960
     ┣ノルウエーと無血統合
     Blue Toothの由来になった人物:無線統合--ロゴマークはハーラル・ブロタン
     

9 世紀 ヴァイキングとして西ヨーロッパ一帯に海賊活動を開始し7王国時代のイングランドに侵入、次々と国を滅ぼした。因みにアイスランドに最初に(874年)移住したバイキングはノルマン人のインゴールヴル・アルナルソンは、この地に定住して国をつくった。今のレイキャビックである(インゴールヴル・アルナルソンの像がある)。当時ここには絶対的な権力を持つ王はおらず、地域の代表者が合議制(アルシングという集会)で統治していたという。

878   ウエセックスのアルフレッド王はデーン人に勝利しブリテン島東部をデーン人の定住地として認めた。

911   ロロ846-933 バイキング、ギョーム2世1027-1087の7代祖先
     ┃┗ギョーム1世893-942の父
      
     ┃ ┗◇◇ギョーム2世1027-1087   
     ┃    ┃         
     ┃    ┣イングランド征服@1066:アングロサクソン滅亡         
     ┃    ┃ (ノルマン・コンクエスト:ヘイスティングの戦い)         
     ┃    ┃ この頃からヴァイキングをノルマン人と言う         
     ┃    ┗ウイリアム1世として即位---イギリス王室の開祖          
     ┃     
     ┣ 911年頃西フランク王国に侵攻移住 
     ┃ キリスト教への改宗を条件にフランス国王・シャルル3世879-929から領地(ノルマンディー公国)を貰い移住       
     ┗ シャルル3世の娘ジゼルと婚約          
 
    

1016年 デーン朝 : クヌート王990-1035(デンマーク人)はイングランド(エグバート770-839が統一)を征服

           エグバート:アングロサクソン人 エセックス王@802 Byカール大帝庇護 

1066年 ノルマン朝: 西フランクのギョーム2世がイングランドを征服 → 今の英の最初の王朝

           ヘイスティングの戦いでエセックス朝・ハロルド2世1022-1066に勝利(ノルマン・コンクエスト)

           ノルマンディー公ウイリアム1世1027-1087として即位

    フランスのルーアンにある大聖堂に眠っている。因みにこの物語はバイユータペストリー博物館に所蔵されている。

因みに12世紀頃にバイキングの歴史を書き記したものが「サーガ」というアイスランド初の歴史書(著者:アリソル・ギルッソン1067-1148)には最初のアルシングが930年に開催されたとある。有力者が法律をつくって争いを仲裁するなど、議会と裁判所の役割をしていた。その開催場所はレイキャビックから50km東のシンクベドリル、現在は国立公園となり、法律の岩がある。

【アメリカ大陸に最初にたどり着いたのはノルウエー系ヴァイキング:ノース人】

    フローキ・ビリガルズソン(?-?)     
860    ┣アイスランド発見      
      ┃ 配下のファクシが命名した湾→ファクサ湾    
      ┗ 渡りカラス道案内

    バイキング・赤毛のエイリーク(950-1003 ノルウエー国王の名もエイリーク)     
982    ┣
グリーンランド(レイキャビックから1000km)を発見:現在デンマーク領     
      ┃ 
極寒の地だからアイスランドと命名---人が寄り憑かなかった     
      ┣
グリーンランド発見の時には人を集めようとした     
      ┃ 
エイリークはグリーンランドを探索し入植可能な地、農業が可能な地・カッシアースックを発見     
      ┃ 
最盛期には3000人が暮らした。農業以外の収入源はセイウチの牙。     
      ┃ 
セイウチの牙による装飾品は10世紀頃から人気を集めるようになり、ヨーロッパとの交易を図った。    
      ┃ グリーンランドは50万年前は新緑の大地
      
      ┃ また日照時間が短く(極夜が二ヶ月もある)不眠症が多い→アルコール中毒が原因で自殺者が多い   
      ┃      
      ┣
エイリークの息子・レイフ-エリクソン970-1020は新大陸ビンランドを発見 By ヴィンランド・サンガ     
      ┃ 
アメリカ大陸のニューファンドランド島のこと     
      ┃ 葡萄の生息を見てワインの地---ヴィンランドと命名    
      ┃ 
ここにはバイキングの集落跡:ランス・オ・メドーが見つかっている     
      ┃ 
コロンブスが大陸を見つける400年以上も前の西暦1000年頃に150人ほどの集落で漁業を営んでいた     
      ┃ 1960年代---鍛冶、紡績など発掘調査で出土
     
      ┣
後にデンマークが1917年に全土を支配    
      ┃ 
現在88%は原住民・イヌイット    
      ┗ 

 

【デーン人による両シチリア制覇】

1130年 デーン人・ロベルト-イル-グイスガルド1015-1085
     ┣
イタリア・シチリア島遠征     
     ┃ 弟:ルッジェーロ1世1031-1101:シチリア伯

     ┃    ┗ルッジェーロ2世1095-1154
      
           両シチリア王国建国(シチリア+南イタリア)

 パレルモにあるモンレアーレ大聖堂には典型的なノルマン様式の柱がある。イスラムに侵攻されたシチリアはローマ教皇領。そこでローマ教皇はデーン人(バイキング)にイスラム撃退を依頼した。北欧諸国の国旗にはローマ教皇との繋がりが深かった証が、十字として読み取れる。 

モザイクタイルなどはアラブ様式、ビザンツからもたらされた技術。これはバイキングにとってあこがれだった。さらに西のコンスタンチノープル迄辿り着いた。聖母子像のあるモスクには、バイキングのルーン文字の後が残されているという。(北欧には多くのルーンストーンが発見されている)

【今も残る多くのシチリア貴族、宮殿】    海上交易の要所・シチリア島には多くの民族が訪れて「文明の十字路」とも言われる地域であり、多くの民族が覇権を争った地でもある。州都パレルモには世界有数のオペラ会場・マッシモ劇場(映画ゴッドファーザーの舞台となった)やヴァルグアルネーラ・ガンジ宮殿(ガンジ公爵家が維持する完全な形で残されている数少ない宮殿)がある。フランス国王ルイ15世はガンジ宮殿の魅力に取りつかれて、愛人の為にこれとそっくりな部屋をフランスの宮殿につくらせたという。16世紀のベネチアンガラスが残るダイニングルームでは音楽会が開かれ、豪華なサロンが開催された青の間には18世紀に流行した数々の絵画、扇子がある。華やかな舞踏会が行われたダンスホールは18世紀半ばに莫大な費用を投じてピエトロ王子により改装されたが、1960年に映画・山猫(イタリア・フランス合作のイタリア統一戦争のさなかのシチリア島を舞台とし、伊の堕落を描いたもので、アランドロンも出演)で舞踏会のシーンが撮影された。そして莫大な費用を投じて修復を行ったばかりという鏡の間、舞踏会の合間に休憩をする部屋として使われていたという。建設されたのは1750年。

中世に巨万の富を築いた貴族の多くが現在もシチリアには残っているのはブルボン・ナポリ継承法のおかげだという。1734年、初代ブルボン王朝カルロス3世によって制定され、女性も継承できるということから現在も一族が衰退せずに残っている。アッリアータ・ディ・ピエトラタッリャータ宮殿はパレルモでは最も古く、1476年建造。ここの住人はアッリアータ公爵とパイチーナ公爵夫人で、1476年にアッリアータ公爵が建てた後、18世紀にパイチーナ公爵がそれを購入、そして1976年にアッリアータ公爵家とパイチーナ公爵家が結婚して二人が住んでいる。窓は1800年代に流行したネオクラシック様式。天井はアラビア様式で木製彫刻のように見える絵を施している。

次はシチリアの中でも比較的新しい貴族・タスカ伯爵家、16世紀に建てられたタスカ伯爵邸は1840年にシチリア北部で農業を営む富豪・タスカがこの屋敷を持つ貴族の娘と結婚し屋敷を譲り受けた。床には19世紀後半につくられたベネチアンモザイクデザイン、壁のフレスコ画は18世紀末に流行っていただまし絵、スイートルームは一般人も宿泊可能で一泊70万円。音楽室にはヴェルディーやルービンシュタイン直筆の楽譜、タスカ家は多くの音楽家のパトロンにもなっていた証だといい、ワグナー1813-1883(独生まれの作曲家でシチリアを舞台にした名作オペラを残している)がタスカ・ダルメリータ伯爵夫人に贈った楽譜@1882/3/20が宝物らしい。そしてここタスカ家でワグナーはオペラ「パルジファル」第3幕を完成させている。当主タスカは標高1100mの場所で家畜を飼い農業を営んでいた。そして200年前から以降8代に渡ってワイン事業を行い今では600haに及ぶ畑を所有している。シチリアの中央レガレアーリは一族の出発点とも言えるワイナリーで、質の高いワイン作りを70年前から始め、世界的に評価を得ている。

オスロ博物館所蔵 バイキング船・オーセベルグ号

878 ウエセックスのアルフレッド王はデーン人に勝利しブリテン島東部をデーン人の定住地として認めた。

10世紀 デンマーク王ハーラル1世はデーン人を含めた国家を統一、現在のデンマークの祖を作った。

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【民族大移動@北欧-黒海-アメリカ大陸ユーラシア-3】 バイキングは略奪ではなく交易で栄えた

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【北欧諸国の民族性】

北欧@6世紀

    北方ゲルマン  :ノルマン人---ノルウエー、デンマーク、アイスランド
    
バルト諸族   :フィンランド、エストニア --- ウラル語族系
    
スラブバルト  :ラトビア、リトアニア
    
スラブ族    :ロシア

以下の変遷を見れば、現在フィンランドがロシアを恐れてNATOの加盟国になった@2023-4-4 ことがうなずける。
  ・以下のように国旗を見ればすべて十字が組み込まれている。
    これはノルマン人がキリスト教であったことを示す。
  ・しかし唯一フィンランドだけは北方ゲルマン(ノルマン人)ではなくバルト諸国である。
    しかもロシアとは仲が悪いが弱体なので支配されるのを甘んじて受け入れていた。
    ところが、ロシア--ウクライナ戦争を見てフィンランドはロシアによる侵攻を現実の物と考えNATOに加盟。
    
今日本はアメリカの傘下、アメリカが守ってくれると信じて?NATOにも入っていない。
    少し前のフィンランドに似ている。日本は本当にこれでいいのか?
 
  
       北方戦争@1700-21

        

 

                 


【フィンランド】
        

 

1016  北海帝国    :デンマークのクヌートがイングランド、ノルウエーを征服して三国の王

12世紀 ノルウエー   :アイスランドを征服

13世紀 スウエーデン  :フィンランドを征服

    ハンザ同盟   :独商人(軍隊を持つ)が北欧の経済を握る

1397  カルマル同盟  :デンマーク・マルグレーテによる同盟(北欧4国+アイスランド)---カルマル城@スウエーデン

              → ハンザ同盟衰退

1523  スウエーデン自立:絶対王政・ヴァーサ朝(フィンランド含む) --- カール12世、グスタフ・アドルフ

             カルマル同盟側はデンマーク、ノルウエー、アイスランドとして分離して終焉

17世紀 バルト帝国   :この頃が全盛期 --- 北独、バルト三国、ロシアの一部を制覇 

1700  北方戦争    :露のピョートル1世によるバルト帝国スウエーデン領・フィンランドを侵攻

             ペテルブルグ奪取して港とする

             やがてバルト帝国の絶対王政は衰退 --- 露の繁栄

1808  フィンランド戦争:ナポレオンによるスウエーデン侵攻 --- スウエーデンからフィンランドを奪取

              仏+露協力              フィンランドがロシア領になる

    ウイーン会議  :スウエーデンにはノルウエー・・・デンマークにはアイスランドだけが残る             

1905  ノルウエー独立 :From スウエーデン ノーベル賞@ストックホルム だが 平和賞のみノルウエー@オスロ

 

 

北欧@9世紀

 

北欧@21世紀

 

【8世紀から11世紀】  にかけてバイキングは全盛時代を迎え北欧を拠点にしてイベリア半島--地中海--黒海を経てサンクトペテルブルグへ進出するとともに、スコットランドのシェトランド諸島--アイルランド--グリーンランドを経て北アメリカ大陸のニューファンドランド島へと遠征し集落をつくっていた。

① サンシュリアック遺跡@10世紀頃のものでワインや羊毛の貿易を行ってきた。

② オスロには有名なバイキング船・オーセベリが博物館に展示されている。発見されたのは1905年、船は800年頃のものと推定。また2020年には墓からバイキング船が発見された。当時持ち主が死亡すると船と一緒に埋葬されたようである。バイキング船の速度は22km/h、大きな帆がその速さを生み出し以下に示す遠方への航行を可能にした。また戦士キングハラルドの航海術につかったのがワタリガラス、方位磁石に代わるものである。烏は海鳥ではないので陸を求めて飛ぶ性質を利用したのである。

デンマーク・コペンハーゲン郊外のロスキレにあるバイキング船博物館には世界最大:30m、70人乗りのバイキング船がある。

③ 英国の北、シェトランド諸島にはバイキングの火祭りの行事が残る。

⑤ シチリアのサンミケーレ・デル・ゴルフォ協会で、男性バイキングの骨が発掘されている。(2018年)

  11世紀にはバイキングの子孫が王国を築き、アラブ(ビザンツ文化:9世紀)・ノルマン様式のモンレアーレ大聖堂を残した。

⑥ イスタンブールにあるモスク(アヤソフィアなど)にはバイキングの文字と思われるルーン文字が確認されている。

  バイキングのルーン文字を刻んだルーンストーンは北欧の国々に約2800ヵ所残されている(主にスウエーデン:90%)

⑦ フランス・ノルマンディー地方には多くのバイキングが移り住んだ フランク王国に属するノルマンディー公国

 (指導者ロロ:846-933)

⑧ 1016年 デーン人・クヌート王990-1035はイングランド(エグバート770-839が統一)を征服してデーン朝@イングランドを建てた

      ゲルマン人のアングロサクソン族がエグバート770-839

⑪ 1066年 西フランクのノルマンディー公ウイリアム1世1027-1087がイングランドを征服してノルマン朝@イングランドを建てた。

 

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【民族大移動@ユーラシア-2】 モンゴル帝国が繁栄したのはイスラムのおかげ

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

モンゴル帝国の初代ハーンはチンギス・カン1162-1227、最後第40代はリンダン1590-1634。1290年の時代には世界最大の帝国となり、極東と欧州が繋がっていた。モンゴルは民族、宗教には寛容で、世界的な商業体制を整備した(陸の道、海の道でユーラシア大陸を囲むネットワークで平和圏構築)。キリスト教徒、イスラム教徒、漢民族、南人(漢民族の支配下)などで構成されたモンゴル帝国であったが、やがて滅亡する。その理由は

・ペストの流行、

・後継者争いで内紛、

・チベット仏教に金をつぎ込み

・交鈔乱発で超インフレ化と言われている。

【モンゴルの家系】

①チンギス・ハン1162-1227: 父は毒殺、妻は誘拐される     
 ┃   遠征路:1219-1225
 ┃   ナイマン、ホラズム、西夏を滅ぼす

 ┃
 ┣ジュチ  1177-1225 : 本当の子ではないという意味   
 ┃  ┗バトゥ     : キプチャク・ハン国 
 ┃   キエフ公国、金を滅ぼす  
 ┃   遠征路:1236-1242
 ┃      
 ┣チャガタイ1185-1224 : チャガタイ・ハン国    
 ┣②オゴタイ1186-1241 : オゴタイ・ハン国  民主的に首長に選ばれた    
 ┃  ┣③ダユク
 ┃  ┗カシン1209-1234  
 ┃    ┗ハイドゥ?-1301 VS フビライ 戦死 :
ハイドゥの乱1266-1301 
 ┗トゥルイ 1192-1232 : 末子相続    
     ┣④モンケ 1209-1259
    ┃  チベット、大理を滅ぼす マムルーク、朝鮮遠征
    ┃ 
     ┣⑤フビライ1215-1294 :モンゴル→元と命名 ルールを破って勝手に5代即位
    ┃  ┃民主的ハーン選出のモンゴルから武力制圧の元へ
    ┃  ┃東南アジア、日本へ遠征(失敗-元寇) :目的は南宋攻めの拠点
    ┃  ┗チンキム1243-1286
    ┃    ┗⑥テムル1265-1307
    ┃  遠征路:1260-1294

    ┣フラグ  1218-1265 :イル・ハン国 :アバース朝バグダッド攻略 エジプト・マムルーク朝攻略は失敗
    ┃(フビライと同母)           キリスト教と連携してイスラム攻略 
    ┗アリクブケ1219-1266 :本来の5代王--暗殺 Byフビライ   

 

東西を繋ぐ道には海路(スパイスロード:遭難すると全滅)、砂漠路(シルクロード:繁栄を極めた)、草原路(ユーラシアステップ:遊牧民が活用した)があるが、遊牧民が活用したのが最も古いとされている交易路・ユーラシアステップである。この領域は、降水量は少なく、昼夜の気温差は激しいが、ステップと呼ばれる背の低い草原が広がる。従って遊牧民であるモンゴルは草を求めてウクライナ、ハンガリーまで広がっていった。遊牧民はいつも草の支配権をめぐって隣国と衝突するが、馬上から弓で狩猟を行う騎馬民族であるから最強である。しかしこの最強の軍事力が通商の安全を保障することになる。

かくしてモンゴルによる東西交流は盛んであった(パクス・タタリカ:タタール=地獄から来たモンゴル)

日本の瀬戸内海を支配した村上水軍が、貿易船の安全を保障したのと同じである。やがて安全に商売ができるようになったムスリムやウイグルの商人たちは、モンゴル帝国に資金や物資を提供するようになり、後に共同出資組織「オルトク」を形成する。そしてムスリム商人はモンゴル帝国の財務を管理するようになる。通行税を廃止し、最終売却地に於ける売上税3%のみにすることによって、遠距離交易が急速に発展した。この時に人類史上初の紙幣が導入されたという。かくして組織「オルトク」は、道中の安全と安い税金を両立させたのである。

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