【ロマノフ王朝】 ロシア・ロマノフ王朝を最も強大な国家としたのは第8代皇帝・エカチェリーナ2世1729-1796である。
1801 アレクサンドル1世はアウステルリッツの三帝会戦(オーストリア、ロシア、フランス)で敗北。その後ロシアはナポレオンによる大陸封鎖令を無視して貿易を行ったために仏と戦争。この時仏兵は60万人がロシアの広大な土地と寒さで敗北した。
1821 オスマン帝国からのギリシャ独立戦争応援---見返りにバルカン半島の侵入権を得たかった
┣ギリシャのミソロンギの港がオスマン軍に包囲されて1万人が虐殺@1836
┣ギリシャ独立@1829
┗英仏が監視→ロシアは南下できず
1825 ニコライ1世は南下政策の一環でエジプト・トルコ戦争でボスボラス海峡の通航権を得たもののイギリスがその権利を取り消したことからクリミア戦争が勃発。ここでナイチンゲールが活躍したり、カーディガンが発明されたのは有名。
1831 オスマン帝国からのエジプト独立:エジプト・トルコ戦争
┣黒海からエーゲ海への航行権がほしかった
┗英が介入して航行権認めず@1840-ロンドン会議
1853 クリミア戦争 ロシア VS オスマン帝国 ---- ロシア惨敗
┣仏-ナポレオン三世が介入してオスマン帝国応援
┣英、サルデーニャも同様
┣黒海を失う → イラン、日本に南下(日英同盟)は失敗
┗1856 黒海中立化@パリ条約
⑪ニコライ1世1796-1855(即位1825)
1855 ┗⑫アレクサンドル2世1818-1881(即位1855)はクリミア戦争を反省して農奴制などの改革を行う。
┃ 再び南下政策としてオスマンと戦い勝利するが英仏独の抵抗があってベルリン会議で港の使用は禁止となる。
┃ アイグン条約@1858 アロー戦争で劣勢の清朝と結んだ不平等条約
┃ 北京条約 @1860 同上 で外満州、沿海州奪取
┃ ウラジオストク建設@1860---不凍港 1870年に沿海州首都
┃ →意味:東方支配
┃ 日露和親条約@1855 ---日露の境界線は択捉島の東 樺太は雑居の地(紛争頻発)
┃ 樺太千島交換条約@1875---樺太は露、千島列島は日本
┃ 樺太発展の為シベリア鉄道建設@1891-1905
┃ →出資は孤立していたフランス@ビスマルク死は1898
┃ →露仏同盟@1891 ;ドイツを挟み撃ち
┗⑬アレクサンドル3世1845-1894(即位1881)
┗⑭ニコライ2世1868-1918(即位1894)
1861 農奴解放令
1877 ロシア-トルコ戦争 ---- ロシア圧勝
┣仏-ナポレオン三世が引退
┣英は孤立政策
┗サンステファノ条約@1878ベルリン会議--オスマン帝国の領土割譲 → オーストリアと英の監視により露南下失敗
┣案:セルビア、モンテネグロ、ルーマニア独立
┗案:ブルガリア自治公国--露保護
→バルカン半島はヨーロッパの火薬庫といわれるようになる
┣パン-スラブ :ロシア+バルカン半島のスラブ人協力
┗パン-ゲルマン:オーストリア+英+バルカン半島のゲルマン人協力
1881 アレクサンドル2世はナロード・ニキ(社会運動家の総称)に暗殺され、アレクサンドル3世は無理な工業化を進めたために労働者に負担が重なり貧富の差が大きくなり平等を掲げたマルクス主義が出てくる。ロシア社会民主労働党ができ、金持ち層からは立憲民主党・カデットが登場する。
1894 日清戦争で日本勝利
┣遼東半島割譲→日本 : 極東をにらむ拠点
┣ 露独仏が三国干渉→遼東半島返還
┣ モンゴル満州を勢力圏にした露は旅順、大連を租借地とした →日露戦争勃発
┣
┗ヨーロッパ列強国が清を分割、半植民地化
1904 ニコライ2世のとき、ロシアは東側に不凍港を求めて南下したことから日露戦争が始まり、敗北
┣ 日本は旅順・大連奪取
┣ 樺太の南半分北緯50°より南を奪取
┣ 英露和解:ドイツ対策(三国協商) ⇔ 中央同盟国
┣ WW1
┣
┣ニコライ2世の国軍が無差別に民衆に発砲したことで血の日曜事件が起こる(1905年)
┣ 戦争反対の市民に対して銃で発砲して多くの死傷者を出した。これがロマノフ王朝崩壊の兆し
┣ 1917年(第一次世界大戦中)ロシア革命は起こって、ニコライ2世によるロマノフ王朝は滅亡
┣ ロシア共和国臨時政府
┣ 第一次世界大戦をやめなかった(2月革命)ので10月革命が起きた
┗ ソ連成立@1922
【ニコライ2世と皇后アレクサンドラ】 ここで最後の皇帝ニコライ2世1868-1918について触れる。ニコライ2世が皇后アレクサンドラ1872-1918と戴冠式を行ったのは1896年である。戴冠式の場所はロマノフ王朝の政治を行う首都サンクトペテルブルクではなく、モスクワにあるクレムリン宮殿。クレムリン宮殿は戴冠式を行うための宮殿、権威を示すための宮殿でもあった。赤の広場の横、周囲2kmの城壁に囲まれたクレムリンは17世紀に誕生したロマノフ王朝の権威の象徴である。今もロシアの政治の中枢として最も重要な場所である。門を入ると大統領府、その奥にあるクレムリン大宮殿には700もの部屋があり一般公開はされていない。以下NHK-BS放送で紹介があったので記載。ゲオルギーの間は5階建てのマンションがすっぽり入る大きさ、全長は61mという圧倒的な富と権力を表す空間である。
【歓迎されなかった皇后アレクサンドラ】 皇后アレクサンドラはドイツ小国出身(父:ルートヴィッヒ4世、母:メアリー)で22歳の時にロマノフ家に嫁いだ。戴冠式のには5000人が来賓として招かれ、世界最大とも言える式典は一か月も続いた。戴冠式に欠かせなかった秘宝(エカチェリーナ2世がつくらせたロマノフの王冠、189カラットのダイヤがはめ込まれた王笏)がクレムリン宮殿のダイヤモンド庫に眠っている。莫大な富を持つロシアと友好を築きたいと思わせるための戴冠式であった。黄金で埋め尽くされたアンドレイの間は玉座の間ともいわれて聖なる心を示す場所でもあるという。19世紀末、ロシアは200近い民族を統治、皇帝はこの統治の現れとして玉差の間をつくった。皇帝はこの部屋で使節と謁見した。ニコライ2世、アレクサンドラ、そして皇帝の母・マリアの玉座がある。これは社交的で国民に人気がある母マリアの影響力が大きかったことを意味する。母・マリアはアレクサンドラではなく、フランスのブルボン家からの嫁入りを望んでいた。つまりアレクサンドラは望まれない皇后であった。
【皇后アレクサンドラの出自】 ドイツに生まれたアレクサンドラは6歳の時に両親が他界して、姉たちと共にイギリスに渡り母方の祖母・エリザベス女王に引き取られて12歳迄育った。8歳年上の姉・エリザベータがニコライ2世の叔父・セルゲイと結婚してロマノフ家に嫁いだのである。エリザベータは数々の王侯貴族から求愛されるほどの美しさを持ち、結婚式に出席していたアレクサンドラが当時王太子であったニコライと出会った。しかし二人の愛に、ニコライの両親(マリアとアレクサンドル3世)は大反対。特に社交的だったマリアは内向的なアレクサンドラではロマノフの皇后は務まらないとしていた。思い悩むアレクサンドラを支えたのは姉・エリザベータであったという。出会ってから10年後にニコライは親を説得、かくして22歳のアレクサンドラをは結婚することとなった。ところが、結婚の数日前にアレクサンドル3世が病死、皇帝になることなど望んでいなかったニコライを励ましたのは妻・アレクサンドラであった。アレクサンドラはロシア語も満足に話せないまま戴冠式に臨んだのである。ここから想像を超える試練が待ち受けていた。
【皇帝・皇后の重要なセレモニー】 クレムリン宮殿の奥にあるのはテレムノイ宮殿、テレムノイとは古代ロシア語で高級な住まいという意味で1635年頃に建てられた。当時のロマノフ家の女性たちは厳重な宮廷作法のもとにここで隔離された暮らしをしていた。この時代女性は夫と父親以外の男性に顔を見せることはできずにいた。そして合議制にもとづく会議が行われたのもここである。武器庫にロマノフ王朝の繁栄が友好外交にも支えられていたことを物語秘宝が数多くある。ニコライ2世と皇后アレクサンドラにとっての友好外交セレモニーは、戴冠式での晩餐会である。当時ロシアは隣国との情勢に緊迫していた。ドイツ・オーストリアとは敵対し日本や中国との対立もあった。かくして、晩餐会を行うグラノビータヤ宮殿(教会のような神聖な場所で、壁には聖書の物語絵)でのアレクサンドラの役割は、さまざまな国との関係作りであった。17世紀の晩餐会には女性は出席できなかったが、18世紀エカチェリーナ2世の時代になると女性はお客を振舞う主役になった。そして晩餐会には友好を支えるさまざまな国の料理がだされた。
【アレクサンドラの姉・エリザベータの苦難】 アレクサンドラが皇后として奮闘する一方で、もう一人ロシアの歴史に大きく翻弄された女性が居た。クレムリンから少し離れたところにあるマルファ・マリア修道院には今も尚多くの女性が訪れている。この修道院を建てたのはアレクサンドラの姉でニコライ2世の叔父と結婚したエリザベータである。ロシアに嫁いで以来、ロシアの貧しい人たちのための慈善活動に力を注いでいた。こうした頃の1905年に血の日曜日事件が発生、労働者の後進に軍隊が発砲して多くの死傷者がでた事件である。ロマノフ王朝に批判が集中した一月後に、エリザベータの夫でモスクワ総督のセルゲイがクレムリンに向かう途中で反政府活動の爆弾テロによって暗殺された。この時エリザベータは自分の財産の多くを困っている人々のためにと修道院建設の費用に充てた。その後修道女となったエリザベータは看護師を育成する施設や孤児院をもうけたという。
【アレクサンドラの悲劇】 1か月に及ぶニコライ2世の戴冠式祝賀会には50万人の民衆が集まったが、その中で1300人もの大勢が死亡する圧死事件(ホドウインカの大惨事)が起こった。この時夫妻はフランス主催の舞踏会を欠席しようとしたが、周囲の意見に押されて外交を重視、出席した。その行動が民衆の怒りを爆発させた。これらを境に民衆の皇帝への信頼は失墜し、アレクサンドラは孤立していった。皇帝と皇后には4人の子供が授かるが、32歳の時に待望の男の子アレクセイが1904年に生まれた。ところがアレクセイは血友病というエリザベス2世から引き継いだ血縁病に侵されていた。これは秘密とされて国民には知らされず、アレクサンドラは部屋に多くのイコンを飾って祈り続けたのである。この時に現れたのが怪僧グレゴリー・ラスプーチン、アレクセイの病は治るとそそのかして宮廷に入り込んだのである。公務に姿を現さず宮殿に引きこもってラスプーチンと会う皇后に、人々の信用は益々無くなっていった。これは国を揺るがすスキャンダルに発展し、皇后は国家の敵となった。心配した姉エリザベータは、アレクサンドラに忠告するが、全く聞く耳を持たず、兄弟は決裂してこれ以降会うことはなかったという。やがてラスプーチンは貴族たちによって惨殺された。しかし王朝に対する国民の不満は収まらず、1917年ロシア革命が勃発し帝政打倒を掲げた労働者が蜂起、これによってニコライ2世は退位したことで300年続いたロマノフ王朝は終わったのである。重圧に解き放たれたアレクサンドラであったが、1918年7月17日、皇帝一家は革命政府によって殺害された。
1917年ロシア革命は、ロシア国内で迫害されていたユダヤ人による革命である
・それまでロシア系ユダヤ人は迫害・虐殺されていた:ポグロム
1698----ピョートル1世はユダヤ人商人のモスクワ滞在を拒否
1741----エリザベータ皇帝はウクライナ、ロシアからユダヤ人を追放、入国禁止
1743----元老院はユダヤ人商人の市場参加を否認
1800----パーヴェル1世はユダヤ人自治機構を危険視
1821----オデッサ暴動:ユダヤ人攻撃
1825----ニコライ1世は対ユダヤ強硬政策実施 同化政策 or 追放
1827----ユダヤ人徴兵法成立、軍事訓練+改宗
1840----ニコライ1世はポーランドユダヤ人調査 儀式殺人の嫌疑
1844----ユダヤ人自治機構カハルを解体 ユダヤ人書物検閲
プーシキンはユダヤ人を裏切り者スパイとして描く
ゴーゴリーはユダヤ人を卑怯な搾取者として描く
ドストエフスキーは反ユダヤ主義描写を継続
1873以降----ユダヤ人迫害が強まる
・亡命していたレーニン1870-1924(母はユダヤ人)は革命家ポリシェビキのとロシア革命を起こす
亡命先はフランス・パリ14区@Rue Beaunier 1908
トロッキー1879-1940(ユダヤ人)やポリシェビキの多くはユダヤ人である
・ロシア革命後はソ連政権を樹立、プロレタリア独裁体制を確立
・1918ロシア共産党に改名
・1952ソ連共産党に改名
・カール・マルクス1818-1883は労働者階級が資本家を打倒すべきと主張した⇒フランス革命を扇動??
--父親はユダヤ教の指導者
--曾祖父はユダヤ系大富豪のコーエン家
--エンゲルス1820-1895と親交
--ハインリッヒ・ハイネ1797-1856(鉄道王ジェームス・ロスチャイルドの部下)と親交
--ロスチャイルド家が欧州を牛耳っていると談話
--マルクス自身もロスチャイルド家の手中にあった
【エリザベータの悲劇】 一方エリザベータは革命後に周囲から亡命するように忠告されたが、ロシア国民と共に生きるとしてロシアから離れず、1918年7月18日、皇帝一家が殺害された翌日に殺害された。最後までロシアに捧げた人生であった。また、ニコライ2世の母、ロシア国民に人気があったマリア1847-1928は、一家の殺害を信じることができずにいたが、姉のイギリス王太子に急かされて、気が向かないままにロンドンに移った。つまりイギリス王・ジョージ5世が叔母・マリアを救出すべく戦艦・マールバラを派遣してマリアを救出した。ところが自分を救出してくれた姉・アレクサンドラ王太后が国民に人気があることへの嫉妬からデンマークへ帰った。やがて姉のアレクサンドラ王太后が1925年に死去、最後の身内をなくしたマリアは1928年に死去し、2005年に彼女の遺体はサンクトペテルブルクにある夫アレクサンドル3世の棺の隣に移された。これはマリアがロシアに渡って以来140年後のことである。
実は遡ること50年、1870年代にロシアの学識者の間でナロード・ニキという社会運動家による農民の啓蒙と革命運動の組織化により皇帝を打倒する運動は起こっていた。またロシアに支配されていたポーランドでは、マリー・キュリーがロシア語教育を強要されていた中での活躍のエピソードがある。やがて彼女はノーベル賞を受賞する。
ドイツがロシアの内部崩壊を狙って亡命していたウラジミール・レーニン1870-1924をロシアに送り込むと、1917/10には社会民主労働党によりロシア革命が起こして政権をとりロシア共産党に名前を変える。そして建国された国家・ソビエト社会主義共和国連邦は15の共和国で構成された。ロシア連邦を中心としてカザフスタン、キルギス、タジキスタン、カザフスタンなどの共和国で構成された。実態は絶大な権力を持つロシア連邦がすべての共和国を牛耳る仕組みである。ソ連崩壊の後にできたロシアも同じような仕組みで運営している。
この頃1921年、革命後の共産党勢力による農業政策の失敗は多くの難民を生んだ。それに加えて大寒波がロシアを襲い3000万人に及ぶロシア人が餓死の危機に陥った。世界が初めて難民救済の重要性を知ったのはこの時である。救済を訴えたのはノルウエーの探検家、初代難民高等弁務官フリチョフ・ナンセンである。しかし西欧の多くはロシアに対して経済封鎖を行っており、援助はロシア共産党政権に流れるだけだとして援助は行わなかった。かくしてロシア革命から5年後の1922年にはロシアの難民餓死者は900万人にのぼった。(ロシア革命後、1922年までの5年間にわたって起きたのがロシア内戦) このように体力が激減したロシアに対して、ドイツ軍が侵攻。ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストニアを占拠した。カフカス地方にはトルコ軍が侵攻、日本軍陸戦隊もウラジオストクに上陸している。こうした経験からロシアは緩衝地帯を占拠して強い軍隊を派遣しようとする。(2022/2/24 ロシアがウクライナに侵攻、キエフを占拠した理由がここにある)
【ソ連の最初の指導者たち】 ウラジミール・レーニン1870-1924が亡くなった後後継したのはヨシフ・スターリン1878-1953(任期は1922-1952)である。彼が生きていた時代は偉大な指導者という宣伝が行われて絶大な支持があった。そして独裁による恐怖政治が行われたのである。スターリンが亡くなるとニキータ・フルシチョフ1894-1971(任期は1953-1964)が継いだ。そして1956年にフルシチョフの秘密報告(スターリン批判)が行われた。これはスターリンの恐怖政治に於いてどれだけの人が粛清されたのかといった内容は発表された。1934年の党大会で選ばれた中央委員139人のうち98人が銃殺されていたとか、代議員1956人の内1108人が逮捕されて900人が処刑されていたという内容であった。
また、ソ連軍の幹部がクーデターを起こそうとしているという噂をドイツが流した時には、軍幹部5000人が処刑されたという。かくしてドイツによるソ連侵攻は連勝していた。このようにして少しでも疑いのある者は次々と粛清され、800万人-1200万人が処刑された。
このフルシチョフによるスターリン批判によって、スターリンを理想に掲げてきた中国・毛沢東と対立が激化する。また米ソが歩み寄っていたことも一因する。これが影響してハンガリーやポーランドは社会主義羅脱運動を行うが弾圧された。
【スターリンの政策:原理社会制、一国社会主義】 1939年、ポーランド東部に住むウクライナ人の開放を掲げて侵攻し、共産化を進めた。このときポーランドの東半分がソ連に飲み込まれた。スターリンに反発する勢力は容赦なく強制収容所に送られた(ベロモルスク強制収容所)。1930年代ポーランド・ワルシャワには300万人以上のユダヤ人が暮らしていたが、ヒトラーによって排除された。
世界革命論を掲げたトロツキー1879-1940は後継者に選ばれずに追放処分。ヨシフ・スターリン1878-1953の政策は次。コルホーズ:集団農場、ソホーズ:国営農場を強制し、富農を処刑して絶滅させた。つまり優れた経営者が絶滅したことで農業は壊滅し、肥よくな土地でさえも収穫が激減、食料不足、餓死者がでたのである。1932年の飢饉では食糧不足により1000万人以上の餓死者が出たという。しかしスターリンはこの政策の失敗は隠して、成功した!とアピールしたのである。因みに中国・毛沢東や北朝鮮・も金日成もこの嘘を真に受けて同じような改革を行って失敗している。実は北朝鮮では現在も尚このような政策が実施されて飢餓が続いているのである。で、こんな性格であることを知っていたレーニンは死ぬときに、スターリンを次の指導者から外すようにと遺書を残すが、スターリンに見つかって廃棄されたという。
【スターリンの政策:共和国の分断】 また、数多くのグルジア(1991年独立のキリスト教信仰国)、チェチェン(1990年独立のイスラム教信仰国)、カザフスタン(1991年独立のイスラム教信仰国)などの共和国については、数多くの民族を分断させるかのような国境を敷いて、独立運動をしにくい状態にした。ロシアに反抗的なチェチェン人が、ドイツ侵攻のときにドイツの味方をするのではないかと疑い、チェチェン人を全員カザフスタンに強制移住させた。抵抗したチェチェン人はその場で殺害した。このような分断政策が後にロシアに恨みを抱いて今でもロシアに対するテロ攻撃が繰り返されている。そもそもチェチェンはイスラム系、1990年のソ連邦からの独立以降、1991年の第一次チェチェン紛争では市民10万人以上を殺害した。また1991年の第二次チェチェン紛争では大統領に就任したプーチンは、第二代、第三代、第四代チェチェン大統領を暗殺し、のこ紛争によってチェチェン人の25%が死亡したと言われている。反チェチェン派は次の様に紛争を評価する。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。第二次チェチェン戦争は、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」恐ろしい話である。
【フルシチョフ1953-の次はブレジネフ1964-】 スターリンの後を継ぎ、スターリン批判をしたフルシチョフ(1894-1971:任期1953-1966)は1964年に権力闘争に負けて失脚し、レオニード・ブレジネフ(1606-1982:任期は1966-1982)が継いだ。この時代ソ連は長期停滞に入る。
【ゴルバチョフ政権1985-】 ゴルバチョフ書記長(1931-:(任期1985-1991))はソ連の立て直しを図っていく政策をしようとしていた。スターリンが敷いた独裁による恐怖政治の改革である。これが東欧諸国(暴動が頻繁に起こっていた)に対して民主化への影響を与えた。1985年に書記長に就任すると、ペレストロイカ、グラスノッチ(チェルノブイリ原発事故を受けての情報公開)政策を打ち出す。
1986/4/26チェルノブイリ4号機(黒鉛型)の原発事故@ウクライナもベルリンの壁崩壊1989/11、ソ連の崩壊1991/12、冷戦の終結に繋がるのである。1991年、ゴルバチョフハ共産党保守派のクーデターによって軟禁されるが、エリルィンがこれを阻止して、エリツィンを大統領としたロシア共和国を含むCIS:独立国家共同体が独立する。
【チェルノブイリ原発と日本の福島原発の比較】 被害や影響については大きすぎて正確な値は出しようがないが、いずれにしても原発は事故が起これば世界中に何らかの被害をもたらす。
ソ連 : チェルノブイリ原発は黒鉛型。運転しながら燃料棒を核燃料に転用可能なシステム
事故原因 : 燃料棒取り換え試験運転中に操作ミスで冷却水系統停止 水蒸気爆発事故発生
水蒸気爆発と同時に原子炉建屋は崩壊して、高濃度の放射性物質が一気に漏洩、スウエーデン迄到達
放射性物質の拡散距離 : 約2500km
事後処理 : 数日報告せず、スウエーデンの原発警報により発覚。その後15年に及んで他号機運転継続
犠牲者 : 政府発表は50人程度が死亡で、その他報告はないが、60万人は死亡しているという説もある

日本 : 福島原発はBWR沸騰水型 放射性純度高の水が減速材と冷却材を兼ねる
事故原因 : 東日本大震災で非常用電源停止、冷却水系統停止で水素爆発
水素爆発と同時に原子炉建屋は崩壊、核燃料容器はやがてメルトダウンにより崩壊
高濃度の放射性物質の拡散距離 : 約300km
事後処理 : 即時報告、全面運転停止、他の原発も試運転を機に再起動せずに停止
犠牲者 : 間接的死亡者を含めて1700人が死亡
