六角義賢略記
1568年7月、織田信長は越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃に迎えて上洛の途についた。足利義昭を将軍に就けて室町幕府を再興するという名分を掲げてのことである。 尾張、美濃、伊勢の軍を率いて近江の琵琶湖東岸を南下したところで敵対していた六角義賢、義治親子は敗走し観音寺城は明け渡された。 京都に入ると三好三人衆(三好長慶の家臣:三好長逸、三好政康、岩成友通)の山城勝竜寺を落とし、摂津の芥川城、越水城を攻略し三好三人衆を敗走させた。 10月、足利義昭とともに京都に戻ると足利義昭は念願かなって15代将軍となり、従四位下にも叙任された。 織田信長は上洛により幕府と朝廷の復興をめざしたのである。 織田信長はこの9年前に一度上洛している。 桶狭間の戦いの前年で尾張の平定も終わっていない頃のことであるが、奈良等の見物をして13代将軍義輝に面会している。 この頃、細川氏などの管領家は力を失い、三好長慶は独自の政権を目指しており、権力基盤は弱かった。 従って義輝は戦国大名を上洛させて政権を支えてもらおうとしていた。 しかし国元が大事である大名は長くは在京できないことから、将軍は敵対する大名達に和睦を命じ上洛を命じるのであった。 将軍・義輝に会って忠節を誓った長尾景虎(上杉謙信)は関東・信濃への出兵を正当化する名分を必要としており、そこに上洛の真の狙いがあったのである。 守護代の家臣という家柄にすぎない父・信秀の代から急速に力を伸ばしたなり上がりであった織田信長の上洛も、尾張支配を正当化するためのものであった。 こうして戦国大名は常に中央政権との結びつきを怠らなかった。 織田信長は単なる将軍の補佐、室町幕府体制の復興だけではなく独自の天下統一の政権を志し、上洛を実現した最初の大名である。 1570年 織田信長は日乗上人と明智光秀宛にさらに五箇条の条書をだして足利義昭に承諾させた。 天下の支配権は織田信長にあり将軍の意向を伺うことなく自分が成敗権を行使するといっている。 足利義昭の行動はすべて 信長の監督下においた。 こうして織田信長が自己の覇権確立をめざす動きをあらわにすると、反勢力もでてくる。 その一人が越前の朝倉義景である。 信長が4月越前に出兵し敦賀郡の城をおとして木芽峠を越えるところで江北の浅井長政が挟み撃ちにすべく挙兵に踏み切った。 織田信長は湖西から京都に逃げ帰ったが、これを機に江南各地で一揆が起こり六角氏やその旧臣、伊賀・甲賀の侍衆と連携して織田信長軍に立ち向かった。 このため織田信長は浅井長政の小谷城攻めに出陣し家康も同盟軍として合流した。 織田信長軍が横山城を取り囲むと、浅井・朝倉軍は南下してきて姉川の合戦が展開された。 織田信長の勝利とはいえ反織田勢力にとっては勇気を与え、阿波に逃れていた三好三人衆はまもなく行動を開始し、摂津にはいると大阪本願寺の西方・野田・福島の城に立て篭もった。 織田信長は8月、三好三人衆を攻めるために岐阜を出発し、足利義昭も出陣した。 織田信長包囲網にあった大阪本願寺の顕如は9月、浅井長政からの同盟を申し入れに同意し宗門を守るための決意をした。 こうして大坂を中心とした本願寺・一向一揆は11年の長きに渡って織田信長と戦うことになるのである。 本願寺の決意に呼応して浅井・朝倉軍が動き、京都に攻め入ると、織田信長は野田・福島城を諦めて兵を引いた。 京都を経て近江にすすむと比叡山の僧を見方につけるべく、山門領をえさに忠節を促したが、叡山はこれを無視する。
土田弥平次
┣
生駒吉乃1528-1566
┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難
┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
┃┣森可隆1552-1570
┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ┣- 督姫(家康次女)
┃┃┏━━娘 ┣池田忠雄
┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
┃┃┣━━池田元助1559-1584
┃┃┣━━若御前 菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
┃┃┃日秀┣- ┣
┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
┃┃┃三好吉房1522-1600
┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ↑
┃┗森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
┗━━━━━━┓ ↓
┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退)
┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)
┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
織田信秀 ┣徳姫(見星院)1559-1636
1510-1551 ┃ ┣登久姫 毛利輝元娘
┃ ┃ ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-
┃ ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死
┃ ┃ ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
┣織 田 信 長1534-1582 (三男)
┣織田信包1543-1614(五男) ↑ ┃┃┃┃┃┗6信秀1571-1592(母稲葉氏)
┃ 【本能寺の変】┃┃┃┃┗7信高1576-1603(母お鍋 興雲院)
┃ ↓ ┃┃┃┗8信吉1573-1615(母お鍋 興雲院)
┃ 明智光秀1528-1582┃┃┗9信貞1574-1624(母土方雄久娘)
┃ ┃┗10信好-1609(羽柴秀吉家臣)
┃柴田勝家1522-1583賤ヶ岳で敗戦 ┗11長次1574-1600(母お鍋 興雲院 関ヶ原で戦死)
┃ ┣-
┣お市1547-1583
┃ ┃┏日秀1534-1625
┃ ┃┣旭姫1543-1590
┃ ┃┣羽柴秀長1540-1591 やや
┃ ┃┃┏やや ┣浅野幸長,長晟,長重
┃ ┃┃┗おね1542-1624(家康 尾張派 加藤清正 福島正則 浅野長政 細川忠興)
┃ ┃┃ ┣-
┃ ┃┗豊臣秀吉1537-1598⇔明智光秀【山崎戦】
┃ ┃ ┣鶴松1589-1591
┃ ┃ ┣豊臣秀頼1593-1615
┃ ┣茶々-1615(近江派 石田三成 増田長盛 小西行長 毛利輝元 上杉景勝)
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┣お初(京極高次正室)1570-1633
┃ ┣お江与(徳川秀忠正室)1573-1626 お振の方(信長娘)
┃浅井長政 ┣-離縁 ┣為成
┃ ┏佐治一成1569-1634伊勢湾佐治水軍→徳川家康側
┣お犬-1582 佐治信方妻→細川昭元妻
┣織田信興-1570(七男)伊勢長島一向一揆で討死→信長1574年長島一向一揆衆虐殺
┣織田秀孝-1555(八男)喜六郎
┣織田秀成-1574(九男)長島一向一揆で戦死
┣織田長益1547-1621(母:岩室殿 有楽斎如庵)千利休に学ぶ
┣織田長利 -1582(母:岩室殿)二条城で戦死
┣織田信行(信勝)1536-1557末森城主 信長により誅殺
土田御前 ┣津田信澄1555-1582柴田勝家下で養育→鳥羽城攻略→丹羽長秀に殺害される
┃ ┣織田昌澄1579-1641豊臣家→大阪冬の陣で活躍→道半斎
┃┏明智光秀娘
┃┗細川ガラシャ 1563-1600
┃ ┣
┃ 細川忠興1563-1646 父は細川藤孝(幽斎)
┗織田信兼
佐和山城城主は井伊氏、石田三成(本格的に改修)
隣接する龍潭寺には石田三成、井伊大老が祀られている
近傍の石田三成屋敷跡は発見できず
1570年、ここで有名な金ヶ崎の戦いという織田信長と朝倉義景との戦闘が起きた。金ヶ崎の退き口は、金ヶ崎崩れとも呼ばれ、織田信長の撤退戦で有名である。織田信長が越前・朝倉義景を攻撃すると、織田と同盟関係にあった小谷城の浅井家の裏切りにあい、挟撃されることとなる。そのため木下藤吉郎と、徳川家康が後衛となって、信長が帰還するのを援護した戦いとなった。
1573年7月再び浅井から援軍要請がきたため、義景は自ら軍を率いて出陣。この時浅井の優力武将が信長側に寝返ったため、義景は撤退する。しかし信長は逃げる朝倉軍を一気に壊滅に追いやった。義景自身は僅かな手勢とともに一乗谷に逃げ込んだ。自害しようとしたが、側近にさとされ朝倉景鏡(義景の従弟)の元に落ちた。それがここ朝倉義景墓がある越前大野である。しかし朝倉景鏡の裏切りに会い、義景は自害して果てた。義景が一乗谷を捨てた直後に、信長軍は一乗谷のすべてを焼き払い朝倉は滅亡している。
手前:鳥居景近・高橋景倍の墓 向こう:高徳院・祥順院・愛王丸の墓
鳥居景近---義景の家臣、介錯を務めた後に自害
高徳院---義景の母
祥順院---義景の側室
愛王丸---義景の嫡男
瀧池家の墓
400年の時を経て奇跡的にその姿を現した朝倉義景の本拠地・一乗谷は、特別史跡、特別名勝、重要文化財という国の三重指定である。管領邸に匹敵するような規模であり、戦国時代の姿そのままであることがわかっている。戦に備えた強固な城塞、京都に匹敵する文化を持ち、1万人が暮らしていたという。上杉謙信、武田信玄、浅井長政らと関係を築いていた義景は、織田信長を早くに追い詰めていた人物(信長を討つチャンスがあった)であり、京都という中央勢力に絶大な影響を与えた人物でもある。
福井市南東部に位置し、細い谷が南北2kmに伸びている一乗谷の繁栄は豊かな実りと、日本海交易がもたらす富など、都にまで聞こえていた。朝倉氏が越前を支配するようになったのは、義景の治世から100年前の応仁の乱にさかのぼる。時の当主・朝倉孝景は越前の守護で幕府の管領でもあった斯波義廉に仕え、応仁の乱では西軍の主力を担った。これに対して東軍側の将軍・足利義政は孝景に寝返りを持ちかける。条件は越前の支配権を与えるというもの。これを受け入れた孝景は東軍に寝返り、壮絶な戦いの末に越前国主の座を手に入れたのである。孝景は名門・斯波氏にとってかわるという下克上を果たしたのである。戦国大名第一号である。
一乗谷には朝倉義景の邸宅だけではなく、諏訪館跡(義景の妻・小少将館)、南陽寺跡(3代貞景が娘の為に再興した尼寺で足利義昭を招いて観桜の宴を行っている)、湯殿跡(一乗谷では最も古い庭園)などもある。一方一乗谷の入口には上城戸が施され外敵の侵入を阻んでいた。また下城戸といわれる北側には巨大な石垣が見られる。これらで守られた城内の一般庶民家は間口6m、奥行き10mの同じような区画が並び、井戸が配置されている。されに奥には溜めますがありトイレとして使われていた。中心部の武家屋敷跡は間口30m奥行き60mで、向かい側には商店が並び、これらは発掘調査の結果に基づいて城下町が再現されている。
1565年、京都で13代将軍・足利義輝が畿内を抑えていた三好一族によって暗殺された。時期将軍の有力候補に浮上したのは義輝の弟・覚慶。覚慶はこのとき興福寺一条院門跡、三好勢から逃れるために奈良を脱出した。この逃亡を援助したのが朝倉義景である。覚慶は還俗して義秋を名乗り、上洛して将軍の座に就くことを望んだ。かくして義秋は美濃の斎藤氏、尾張の織田氏、三河の徳川氏に支援を要請する。そして義景は一乗谷安養寺を御所として義秋を迎えた。つまり義景は自分を旗印に京都に行かないかと何度も義秋に誘われている。だが、義景は上洛により一乗谷が手薄になることを恐れた。隣国の加賀一向一揆勢力がたびたび越前朝倉領に侵入していたからである。かくして義秋は加賀と越前の和睦交渉をしている。1568年義景は自分の館で義秋の元服の儀を執り行い義昭と名を変えている。義昭を奉じて上洛するチャンスである。つまり織田信長を抑えるチャンスなのである。ところが義景は上洛はしなかった。1568年7月、義昭は織田信長との上洛を果たすと、15代将軍の座についた。
1570年、織田信長は、将軍への挨拶に来なかった朝倉義景を攻めるために敦賀に侵攻。朝倉方の城を陥落させる。だがこの時朝倉氏の盟友・北近江の浅井長政が信長軍の背後を襲った。信長は長政に妹お市を嫁がせていたことから裏切られるとは思っていなかった。朝倉は浅井とともに織田を挟み撃ちにすべく攻撃に転じるが、信長はいち早く戦場を脱出して京都に逃げたために打ち損じた。その五か月後、朝倉軍は信長が抑えている南近江に攻め込み京都に迫った。信長が摂津方面で三好勢と戦っている隙を突いた。この時朝倉軍には浅井軍だけではなく比叡山延暦寺も味方(食料、武器、宿泊など)したから、この時の信長は極めて危ない状況にあった。戦は義景有利のまま冬に向かっていたが、信長は和睦朝廷に将軍義昭を担ぎ出したのである。1570年11月将軍義昭は近江坂本に和睦の為に下向。ついに義景は和睦に応じて信長と人質を交換した。つまり信長を討つチャンスを二度逃したことになる。
その後、信長に対抗する浅井に援軍を送っていた朝倉軍にも疲労が高まる。1573年7月再び浅井から援軍要請がきたため、義景は自ら軍を率いて出陣。この時浅井の優力武将が信長側に寝返ったため、義景は撤退する。しかし信長は逃げる朝倉軍を一気に壊滅に追いやった。義景自身は僅かな手勢とともに一乗谷に逃げ込んだ。自害しようとしたが、側近にさとされ朝倉景鏡の元に落ちた。しかし景鏡の裏切りに会い義景は自害して果てた。義景が一乗谷を捨てた直後に、信長軍は一乗谷のすべてを焼き払い朝倉は滅亡した。
四方に堀を巡らせた5000坪の広大な館の跡
堀から発見された木簡から朝倉義景の館と確認された
敷地内には15もの目的に合わせた建物があり、京都の細川管領邸に匹敵する
応仁の乱では公家や僧侶の疎開先として使われており、京都の文化を吸収した
これはある意味政治的な行事であり、朝倉氏の文化政策でもある
曲水の宴での主賓で将軍足利義輝の叔父・大覚寺義俊は一乗谷をほめ称えた
つまり義景は文化の力で越前の武士たちを従えたといえる
明智光継1468-1538明智長山城主 清和源氏の土岐氏支流
┣明智光綱1497-1535
┃ ┃斉藤利賢?-1586
┃ ┃┣斉藤利三1534-1582
┃ ┃┃ ┣福1579-1643(春日局:徳川家光の乳母)
┃ ┃┃あん(稲葉一鉄の娘)
┃ ┃┃
┃ ┣女
┃ ┣明智光秀1526?-1582 桔梗紋
┃ ┃┃1556 明智城の戦い@斎藤道三✖⇔〇斎藤龍興
┃ ┃┃ 朝倉宗高
┃ ┃┃ ┃ 朝倉景高1495-?
┃ ┃┃ ┃ ┗朝倉義鏡1525-1574
┃ ┃┃ ┗□・・・朝倉孝景1493-1548(越後の守護)
┃ ┃┃ ┣朝倉義景1533-1573
┃ ┃┃ 高徳院?-? ┣愛王丸1570-1573
┃ ┃┃ (武田元信の娘) 小少将1573-?
┃ ┃┃1565 朝倉義景1533-1573(第11代最後の当主、政務は宗滴)に出仕
┃ ┃┃1570 金が崎の戦い@織田信長✖⇔〇朝倉義景
┃ ┃┃ 姉川の戦い@織田信長〇⇔✖浅井長政
┃ ┃┃ 野田、福島城の戦い@織田信長✖⇔〇三好三人衆
┃ ┃┃1571 比叡山延暦寺焼き討ち@織田信長〇⇔✖延暦寺 ⇒近江坂本城主となる
┃ ┃┃1573 槇島城の戦い@織田信長〇⇔✖足利義昭 ⇒室町幕府終焉、義昭追放
┃ ┃┃1575 越前一向一揆鎮圧@織田信長〇⇔✖一向一揆衆
┃ ┃┃1575 黒井城の戦い@織田信長✖⇔〇赤井直正/波多野秀治
┃ ┃┃1577 黒井城の戦い@織田信長〇⇔✖赤井直正/波多野秀治 ⇒亀山城主
┃ ┃┃1582 本能寺の変〇⇔✖織田信長/織田信忠 ⇒安土城、長浜城攻略
┃ ┃┃1582 山崎の戦い@天王山✖⇔〇秀吉
┃ ┃┣明智光春室
┃ ┃┣明智光忠室
┃ ┃┣珠(細川ガラシャ)1563-1600 丹後幽閉@1582
┃ ┃┃ ┣細川忠隆1580-1646
┃ ┃┃ ┣細川興秋1583-1615
┃ ┃┃ ┣細川忠利1586-1641(熊本藩初代藩主)-光尚-綱利
┃ ┃┃細川忠興1563-1646 縁@1584
┃ ┃┣織田信澄室
┃ ┃妻木煕子?-1576(妻木範熙の娘)
┃ ┣御ツマキ殿(織田信長側室)-1581
┃お牧の方
┃藤田伝五(明智重臣)?-1582
┃
┣明智光安1500-1556
┗小見の方(正妻)1513-1551
脇坂安治は、関が原の戦い当時は洲本城主で、かつて加藤清正・福島正則とともに賎ヶ岳七本槍の一人として名を上げた武将である。初め明智光秀に属したが、すぐに秀吉につき、賤ヶ岳で勇名を馳せると、その後は九州遠征・小田原の陣・朝鮮出兵などにも参陣して領地を加増されている。 脇坂軍は、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保とともに松尾山麓に布陣し、大谷吉継の配下に属していたが、戦が始まっても傍観するのみで、徳川家康とは早々に寝返る約束をし藤堂高虎らと密約を交わしていたといわれ、東軍に通じていた脇坂安治にとっては小早川秀秋の裏切りは願っても無いことで、東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、自ら槍を振るい、大谷吉継隊の側面に先頭をきって躍り込んでいったという。
小早川秀秋は跡継ぎがないまま21歳で死亡したので改易となったが、脇坂安治は毛利裏切りの汚名を晴らして幕末まで続いた。
明智光継1468-1538明智長山城主 清和源氏の土岐氏支流
┣明智光綱1497-1535
┃ ┃斉藤利賢?-1586
┃ ┃┣斉藤利三1534-1582
┃ ┃┃ ┣福1579-1643(春日局:徳川家光の乳母)
┃ ┃┃あん(稲葉一鉄の娘)
┃ ┃┃
┃ ┣女
┃ ┣明智光秀1526?-1582 桔梗紋
┃ ┃┃1556 明智城の戦い@斎藤道三✖⇔〇斎藤龍興
┃ ┃┃ 朝倉宗高
┃ ┃┃ ┗□・・・孝景(越後の守護)
┃ ┃┃ ┗□・・┓
┃ ┃┃1565 朝倉義景1533-1573(第11代最後の当主、政務は宗滴)に出仕
┃ ┃┃1570 金が崎の戦い@織田信長✖⇔〇朝倉義景
┃ ┃┃ 姉川の戦い@織田信長〇⇔✖浅井長政
┃ ┃┃ 野田、福島城の戦い@織田信長✖⇔〇三好三人衆
┃ ┃┃1571 比叡山延暦寺焼き討ち@織田信長〇⇔✖延暦寺 ⇒近江坂本城主となる
┃ ┃┃1573 槇島城の戦い@織田信長〇⇔✖足利義昭 ⇒室町幕府終焉、義昭追放
┃ ┃┃1575 越前一向一揆鎮圧@織田信長〇⇔✖一向一揆衆
┃ ┃┃1575 黒井城の戦い@織田信長✖⇔〇赤井直正/波多野秀治
┃ ┃┃1577 黒井城の戦い@織田信長〇⇔✖赤井直正/波多野秀治 ⇒亀山城主
┃ ┃┃1582 本能寺の変〇⇔✖織田信長/織田信忠 ⇒安土城、長浜城攻略
┃ ┃┃1582 山崎の戦い@天王山✖⇔〇秀吉
┃ ┃┣明智光春室
┃ ┃┣明智光忠室
┃ ┃┣珠(細川ガラシャ)1563-1600 丹後幽閉@1582
┃ ┃┃ ┣細川忠隆1580-1646
┃ ┃┃ ┣細川興秋1583-1615
┃ ┃┃ ┣細川忠利1586-1641(熊本藩初代藩主)-光尚-綱利
┃ ┃┃細川忠興1563-1646 縁@1584
┃ ┃┣織田信澄室
┃ ┃妻木煕子?-1576(妻木範熙の娘)
┃ ┣御ツマキ殿(織田信長側室)-1581
┃お牧の方
┃藤田伝五(明智重臣)?-1582
┃
┣明智光安1500-1556
┗小見の方(正妻)1513-1551