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湖西-2 森蘭丸の父・森可成公の墓

2020年09月24日 | 戦国時代

 元々は土岐氏の家臣であったが後に織田信長の家臣となり活躍した。系図を追って行くと、子の蘭丸、忠政をはじめとして錚々たるメンバーが名を連ねていることがわかる。森可成公の墓は琵琶湖湖西の聖衆来迎寺にあるが、当日は開門されておらず、入れなかった。

森可成1523-1570(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院) 宇佐山城の戦いで討死
┣森可隆1552-1570 朝倉方の籠もる越前敦賀・手筒山城攻めで討死
┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃  ┣-    
┃┏━池田せん
┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
┃                    
┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 
┗森忠政1570-1634 美作津山藩の初代藩主
 ┗森長継1610-1698 美作津山藩の2代藩主
  ┗①森長直1673-1722(播磨赤穂初代)
   ┗②森長孝1694-1723(森長直の娘婿)
    ┗③森長生1698-1731(赤穂藩重臣の各務利直の長男 養子として家督を継)
     ┗④森政房1710-1747(各務利直の六男 養子として家督を継)
      ┗⑤森忠洪(家老・森正典の子 文人による学問的な藩政改革を行なった)
       ┗⑥森忠興1752-1784(第5代藩主・森忠洪の長男 明和・安永期の飢饉などで塩田が大被害)
        ┗⑦森忠賛1758-1837(第5代藩主・森忠洪の三男 質素倹約や塩田開発、御用金調達、「国産塩専売仕法」による塩の専売
         ┗⑧森忠哲1788-1807(第7代藩主・森忠賛の四男) 
          ┗⑨森忠敬1794-1824(第7代藩主・森忠賛の十男 塩問屋との関係強化 博文館) 
           ┗⑩森忠貫1816-1827(第9代藩主・森忠敬の長男)   
            ┗⑩森忠徳1818-1881(第9代藩主・森忠敬の三男)   
             ┗⑪森忠典1848-1883(第10代藩主・森忠徳の次男 長州征伐では幕府方として大坂警備)   
              ┗⑫森忠儀1850-1885(第10代藩主・森忠徳の三男 戊辰戦争では新政府に与して姫路藩攻撃)   
               ┗森忠恕 廃藩置県    

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湖西-1 坂本城跡と明智光秀像と白鬚神社

2020年09月24日 | 戦国時代

 坂本町@琵琶湖湖西にある坂本城公園は、坂本城跡でもあります

 1582年6月2日に起こった本能寺の変は明智光秀の緻密な作戦のもとに遂行された。1582年5月29日織田信長は僅かな供回りとともに安土城から上洛し、本能寺に宿泊した。翌6月1日夕方5時頃光秀は13000の兵とともに丹波の亀山城を出陣し、毛利攻めを行う羽柴秀吉の援護に向かった。当時織田信長の軍は五つの方面に分けれれている。滝川一益関東方面軍、柴田勝家北陸方面軍、織田信孝四国討伐軍、羽柴秀吉中国方面軍、明智光秀近畿方面軍である。織田信長のすぐ近くで大軍を有していたのは光秀のみ、6月1日午後9時頃光秀は重臣を集めて謀反の計画を語ったという。応仁の乱以降京都の町は城塞都市と化していた。そのため光秀はあらかじめ町の門戸を開かせて行軍しやすいように図っている。そして1982年6月2日午前4時頃、信長に気づかれることなく本能寺を包囲し終えた光秀は一斉攻撃を命じた。戦いは僅かな時間で終わったが次の標的は信長の嫡男織田信忠である。この時織田家の代表は嫡男に移っており、信忠が正当な後継者であった。僅か1時間ほどの戦闘で信忠を討ち取った。

 緻密な計画を練った光秀の出自は定かではない。早くから室町幕府の足利義昭に仕えていた。その後信長に能力を見出されて、比叡山焼き討ちなどの武功を挙げて、近江の要衝・坂本城を任されるほど信長から厚い信頼を得ている。1583年光秀は丹波攻めの総司令官に抜擢される。丹波が平定されれば中国の覇者・毛利攻略の足掛かりとなる。この平定によって光秀は家中随一の称号を得たのである。丹波平定の光秀の居城は黒井城、標高は380m、周囲8km、重臣斎藤利光に命じて大土木工事を施した城である。光秀は築城術に秀でていたことがわかる。

 光秀の出自は不明であるが、江戸時代初めに編纂された「当代記」によると、当時67歳であったという。老い先短い光秀は変の理由についての手紙を後継者に出している。また川角太閤記によると、光秀軍の生き残りの証言では、老後の思い出に一夜たりとも天下の思い出をなすべき、とある。変の後、午後1時頃光秀は京から近江へ進軍し攻略平定にとりかかった。秀吉の長浜城や丹羽長秀の佐和山城を攻略し、6月4日には平定し終えると、6月5日光秀は信長の安土城に入城した。この素早い動きにより大和の筒井順慶や若狭の武田元明を味方につけた。6月7日安土城にいる光秀のもとに朝廷の勅使が派遣されてきている。つまり、安土城にある財宝を確保して朝廷をも味方につけたのである。また上杉、北条、毛利、長曾我部に密使を派遣して連携を求めたと考えられる。次に京の庶民に対して免税を実施、信長親子の死に際して人々は喜び天下が定まったといわれる。光秀は天下人になるための所要日数を100日と見積もっていた。

比叡山焼き討ちの経緯

1532  法華宗(日蓮宗)は細川晴元と連合して、浄土真宗本願寺を焼き討ち(全焼)にした:山科本願寺の戦い

    当時 浄土真宗本願寺は本拠地を山科に置いていた:親鸞の墓が山科

    9月 法華一揆衆と本願寺一向一揆衆が再び戦闘@山崎:一向一揆衆が勝利

      ↓ 両者の小競り合いは延々と続く

1536/7 天文法華の乱勃発

    法華宗と天台宗-比叡山延暦寺(浄土真宗本願寺が加勢)との闘い

      ↓ 僧兵勢力が力を持ちすぎる

1570  織田信長による石山本願寺攻め:1580年迄10年続く

1571  織田信長による延暦寺焼き討ち

      ↓

    宗教の違いで内乱殺戮は中世の全世界で起こっている

    信長は、この宗教戦争を止めさせた功労者ともいえる

 

         

   

 

明智光継1468-1538明智長山城主 清和源氏の土岐氏支流                     
 ┣明智光綱1497-1535   
 ┃   ┃斉藤利賢?-1586  
 ┃   ┃┣斉藤利三1534-1582   
 ┃   ┃┃ ┣福1579-1643(春日局:徳川家光の乳母)       
 ┃   ┃┃あん(稲葉一鉄の娘)        
 ┃   ┃┃     
 ┃   ┣女   
 ┃   ┣明智光秀1526?-1582 桔梗紋
 ┃   ┃┃1556 明智城の戦い@斎藤道三✖⇔〇斎藤龍興      
 ┃   ┃┃   朝倉宗高         
 ┃   ┃┃   ┗□・・・孝景(越後の守護)         
 ┃   ┃┃        ┗□・・┓        
 ┃   ┃┃1565 朝倉義景1533-1573(第11代最後の当主、政務は宗滴)に出仕      
 ┃   ┃┃1570 金が崎の戦い@織田信長✖⇔〇朝倉義景       
 ┃   ┃┃   姉川の戦い@織田信長〇⇔✖浅井長政        
 ┃   ┃┃   野田、福島城の戦い@織田信長✖⇔〇三好三人衆         
 ┃   ┃┃1571 比叡山延暦寺焼き討ち@織田信長〇⇔✖延暦寺 ⇒近江坂本城主となる   
 ┃   ┃┃1573 槇島城の戦い@織田信長〇⇔✖足利義昭 ⇒室町幕府終焉、義昭追放     
 ┃   ┃┃1575 越前一向一揆鎮圧@織田信長〇⇔✖一向一揆衆  
 ┃   ┃┃1575 黒井城の戦い@織田信長✖⇔〇赤井直正/波多野秀治    
 ┃   ┃┃1577 黒井城の戦い@織田信長〇⇔✖赤井直正/波多野秀治 ⇒亀山城主  
 ┃   ┃┃1582 本能寺の変〇⇔✖織田信長/織田信忠 ⇒安土城、長浜城攻略  
 ┃   ┃┃1582 山崎の戦い@天王山✖⇔〇秀吉        
 ┃   ┃┣明智光春室    
 ┃   ┃┣明智光忠室    
 ┃   ┃┣珠(細川ガラシャ)1563-1600 丹後幽閉@1582
 ┃   ┃┃ ┣細川忠隆1580-1646  
 ┃   ┃┃ ┣細川興秋1583-1615 
 ┃   ┃┃ ┣細川忠利1586-1641(熊本藩初代藩主)-光尚-綱利
 ┃   ┃┃細川忠興1563-1646 縁@1584
 ┃   ┃┣織田信澄室    
 ┃   ┃妻木煕子?-1576(妻木範熙の娘)    
 ┃   ┣御ツマキ殿(織田信長側室)-1581    
 ┃お牧の方    
 ┃藤田伝五(明智重臣)?-1582    
 ┃    
 ┣明智光安1500-1556                     
 ┗小見の方(正妻)1513-1551                     
     ┣濃姫1535-1612帰蝶 信長との縁組は和睦の証    
     ┃   ┣信忠(養子)       桶狭間の戦い  
     ┃ ┏織田信長1534-1582@清須城〇3000 ⇔ 25000✖今川義元1519-1560/6/12@沓掛城   
     ┃ ┃佐久間盛重?-1560@丸根砦✖          朝比奈泰朝1538-?(掛川城主)   
     ┃ ┃飯尾定宗 ?-1560@鷲津砦✖          鵜殿長照?-1562@大高城   
     ┃ ┃佐々政次1522-1560@中島砦✖         岡部元信?-1581@鳴海城   
     ┃ ┃佐久間信盛-1582 @善照寺砦       葛山信貞?-1582@鳴海城   
     ┃ ┃織田信長-毛利良勝@桶狭間山〇     ✖今川義元@桶狭間山            
     ┃織田信秀1511-1552 ⇔ 格上の今川氏    
     ┣斉藤孫四郎?-1555 義龍に殺害された@稲葉山城    
     ┃ ⇅    
     ┃斯波義統1513-1554 (尾張守護14代当主) ✖⇔〇 織田彦五郎-1555(清州城主 尾張守護代)、家老・坂井大膳    
     ┃ ┃                        ⇅     
     ┃ ┗斯波義銀1540-1600 織田信長の庇護下に   ┏織田信光1516-1556              
     ┃                        ┗織田信秀1511-1552
     ┣斉藤喜平次?-1555 義龍に殺害された@稲葉山城     ┗織田信長1534-1582
    斉藤道三1494-1556   ⇔ 稲葉良通1515-1589(道三の家臣)                    
     ┃利政         ┣稲葉貞通  正室:斎藤道三娘   
     ┃岐阜常在寺で出家   ┣稲葉典通  正室:丹羽長秀娘                        
     ┃           ┗稲葉一通  正室:細川忠興娘・多羅     
     ┃                                         
     ┃長井家に仕官    ⇔ 織田信秀1515-1589(道三の家臣)                    
     ┃土岐家に仕官          ┣お市1547-1583   
     ┃                     ┣信長1534-1582(本能寺の変1582で、重臣・明智光秀に討たれる)   
      ┃                     土田御前?-1594   
    ┣斉藤義龍1527-1561(急死、土岐頼芸の子とも言われている)1554家督相続〇⇔✖道三1556長良川の戦い           
    ┃ ┗斉藤龍興1548-1573        美濃平定1563      
    ┃  織田信清?-?信長の姉婿(犬山城主)       柴田勝家1522-1583                  
    ┃  西濃:美濃三人衆                 丹生長秀1535-1585
    ┃  中濃:土岐一族/犬山城/鵜沼城・・   ⇔    小牧山城築城    
    ┃                 犬山城に進軍1565 丹生長秀、森可成、佐々成政 池田恒興         
    ┃                               猿啄城に進軍      丹生長秀、佐々成政    
    ┃                 烏峰城に進軍     森可成、池田恒興    
    ┃                大沢基康 ⇔  鵜沼城に進軍   藤吉郎             
    ┃       長井道利、佐藤忠能、岸信周 ⇔  信長軍                  
    ┃                   西濃:美濃三人衆 降伏                    
    ┃             稲葉山城斎藤軍 ⇔ 織田軍1567                  
    ┃       斎藤龍興は伊勢に逃亡、斎藤側竹中半兵衛は藤吉郎の軍師となる                        
   深芳野(側室)?-? ┏土岐頼芸1502-1582の愛妾、稲葉通則の娘、稲葉良通の姉 朝倉孝景急死に伴い美濃追放1548             
          ┃  ↕            
          ┗土岐頼武(政頼)?-?⇔斉藤道三                     
            ┣土岐頼純1524-1547                     
           朝倉貞景・娘 ┣                                      
               帰蝶(濃姫・北の方)1535-1612              
                  ┣                                      
               土岐八郎(自害)

北へ30kmほど行くと白鬚神社。湖に浮かぶ鳥居で知られています。

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広島-21 尼子三兄弟ゆかりの墓

2020年08月18日 | 戦国時代

 尼子3兄弟というのは、秀久、倫久、義久である。父・尼子晴久の死により家督を継ぐが、石見銀山を巡る争いの中での急死であったため、尼子家臣団の動揺もあって密葬となる。その後、毛利氏は晴久急死を察知し、再び石見国への侵攻を開始。これに対して義久は、父の対決路線を変更し和平をすすめ、毛利元就は石見国への不干渉を申し入れた。この条件を義久が了承した。石見に駐屯していた尼子家臣など尼子方の国人も不利な立場に立たされ、尼子勢力の崩壊に繋がっていく。1564年には伯耆江美城の落城により、事実上月山富田城は孤立。1565年、遂に月山富田城が毛利軍に包囲された。義久は月山富田城を開城を決意したことで、出雲国内で抵抗していた尼子十旗の城将達も次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉、大名としての尼子氏は滅亡した。その後、義久は1589年に元就の孫の毛利輝元より毛利氏の客分として遇され安芸国志道に居館を与えられ、1610年、死去すると倫久の長男・尼子元知が尼子氏を継いだ。

人物

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┣妙玖 1499-1546   ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃┗経世          ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女┗経高1525-1601 ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃          ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┃   ┣秀久1554-1609            
   ┃   ┣倫久1546-1623        

   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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広島-20 尼子久幸の墓

2020年08月18日 | 戦国時代

 尼子久幸は、出雲守護代・尼子清定の次男に生まれ、京極氏からの自立を計った兄・尼子経久が月山富田城を追放された際に兄に従い、安芸守護・武田元繁の居城にて元服し、武田元繁の娘を娶った。兄・尼子経久が月山富田城を取り返すと、攻め込んできた大内義隆との戦いで戦功を上げる等、兄に従って活躍した。尼子経久が家督を譲ろうとしたとき、尼子久幸が固辞し尼子政久の子・尼子晴久が家督を受け継ぐこととなった。尼子晴久が尼子から大内へとついた毛利元就を討伐しようとした際には戦いに参加した。指揮系統の混乱により形勢は不利となり、敗走しはじめた尼子晴久を追撃してくる吉川元春ら毛利勢の前に立ちふさがり、壮絶なる最期を遂げた。尼子晴久が絶体絶命のその時、尼子久幸は、臆病野州の壮烈なる死をとくと見よと大内・毛利軍に突撃し、敵兵数十人を倒した後、矢を受けて壮絶なる最期を遂げた。

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┣妙玖 1499-1546   ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃┗経世          ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女┗経高1525-1601 ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃          ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)     

 ┣尼子久幸1473-1541       
尼子清定-1478(出雲守護代)

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広島-19 青光井山尼子陣屋跡

2020年08月17日 | 戦国時代

 ここ青光井山尼子陣屋は1540年の郡山合戦の際に、尼子詮久の軍によって築かれた巨大な陣城。郡山城に対峙するように築かれたこの2城は谷を挟んで隣合っており、4ヶ月間で築かれたと思えないほど、ともに長い尾根上に断続的に多数の郭を連ねた本格的な山城である。大内氏からの援軍である陶隆房の軍が光井山を攻め、詮久の大叔父・尼子久幸が討死にするなど大激戦の後、尼子軍は撤退した。

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広島-18 毛利元就と一族の墓

2020年08月14日 | 戦国時代

 

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┃  

      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┣妙玖 1499-1546   ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃┗経世          ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女┗経高1525-1601 ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃          ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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広島-17 毛利元就の三矢の訓

2020年08月14日 | 戦国時代

 ここは広島・安芸高田市にある石碑。激動の時代を生きぬくべく、毛利元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に与えた教訓として有名な「三矢の訓」。「一本の矢なら簡単に折れてしまうが、三本束ねれば簡単には折ることはない。三兄弟の結束が毛利の安泰には不可欠」と誓わせたもの。

 

毛利隆元の墓

 

吉川元春の墓

 

小早川隆景像

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広島-16 毛利隆元の墓

2020年08月14日 | 戦国時代

 毛利元就の嫡男・隆元は1546年に毛利家の後を継いだが、1563年尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である備後の和智誠春からの饗応を受けた。その翌朝に急死した。父・元就は和智誠春など関係者を隆元暗殺の疑いで誅伐した。毛利家の家督は隆元の嫡男・輝元が継いだが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなる。

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┣妙玖 1499-1546   ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃┗経世          ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女┗経高1525-1601 ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃          ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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広島-13 毛利元就の養母・杉大方の墓

2020年08月14日 | 戦国時代

 ここは安芸高田・多治比猿掛城跡の近く。杉大方?-1545は毛利弘元の継室、毛利元就の養母で、安芸国から石見国にかけての豪族であった高橋氏の出身であったという。夫の毛利弘元が没すると、幼少の松寿丸(毛利元就)を不憫に思い、他の妻になることもなく松寿丸の養育に専念した。

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広島-14 北広島・上石製鉄遺跡

2020年08月14日 | 戦国時代

吉川氏繁栄の根本のひとつ、製鉄

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広島-15 今田氏城館跡

2020年08月14日 | 戦国時代

 今田城は、今田氏没落後は吉川氏が継承し、後には吉川元春の居城・日山城の支城としても利用された。城主・今田経高は、藤原南家の流れを汲む吉川氏の一門である吉川経世の次男として誕生。近隣の山県光頼の娘婿となり、後に所領であった今田を名字とし、今田経高を名乗る。1541年の毛利元就の吉田郡山城攻めでは、吉川興経の傘下として敗戦後の撤退戦でその武名を知らしめた。1550年に経高にとって従兄弟となる吉川元春が当主になるとそれに従い、元春の重臣として重用された。1600年の関ヶ原の戦い後は、広家と共に岩国に移み、今田氏は後も吉川家家老として岩国領の行政に深く関わった。

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┣妙玖 1499-1546   ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃┗経世          ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女┗経高1525-1601 ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃          ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代) 

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広島-12 吉川氏の財源・製鉄業

2020年08月14日 | 戦国時代

北広島上石地区には小見谷製鉄遺跡が無数に点在しています

 

旧豊平地区には200箇所以上の製鉄遺跡があり、坤束製鉄遺跡のみ復元されています

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広島-11 吉川元春館跡資料館(戦国の庭 歴史館)

2020年08月14日 | 戦国時代

吉川元春の館に隣接してあるのは元春、広家親子の歴史的資料を集めた歴史館がある

展示品の撮影は全て可能です

古文書の複製

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広島-10 吉川元長の別邸で菩提寺の万徳院跡

2020年08月14日 | 戦国時代

 岩国城の北隣にある万徳院の前身が吉川元春の嫡男・吉川元長が1575年頃に安芸国大朝に建立した万徳院である。元長の別邸としても利用され、死後、弟の吉川広家が菩提寺へと改修した。関ケ原の戦い以降、吉川氏の岩国転封により万徳院は岩国へと移転し、寺跡は放置されて廃墟となったが、最近になって「吉川氏城館跡」の一部として史跡に指定され、発掘調査を経て歴史公園となった。

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広島-9 吉川元春館跡と墓所 小早川秀秋の生い立ち

2020年08月13日 | 戦国時代

 吉川元春の館跡は現在の広島県山県郡北広島町海応寺にあります。毛利元就のあとを嫡男・隆元が後を継ぐが早くに亡くなったためにその子・輝元が後を継いだ。しかしまだ幼かったために、元就の次男・元春、三男・隆景が輝元を支えることとなる。

 吉川元春、毛利元就の3兄弟の真ん中で3本の矢でたとえられることで知られる。ということは吉川元春は元々吉川氏ではない。毛利家が領地獲得の末に吉川氏に入り込んだのである。わかりやすくいうと毛利は吉川を支配下に置いたのである。これは1550年のことであるが、吉川氏は実質的にはこの年に滅びた。吉川元春は吉川興経の養子になると、父・吉川興経と実子・吉川千法師は毛利元就に暗殺され、養子の吉川元春が吉川氏の当主となった。元々吉川氏は毛利よりもずっと血統は高く、藤原氏南家の流派である。まさに下克上の時代だったのである。遡ること100年前、吉川経基という安芸国の領主は足利将軍家に仕え、娘の吉川夫人は尼子経久の正室となっている。尼子経久は出雲を中心に中国地方の覇権をもつ大名である。しかも宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家である。吉川氏はこの尼子氏と手を組んで磐石の態勢を整えたが毛利に滅ぼされた。因みに吉川氏の初代は吉川経義といって平安時代末期の駿河の豪族、鎌倉御家人である。1183年に源頼朝から駿河国を得たときに吉川氏を名乗ったことが始まりである。この吉川氏を滅ぼした毛利家の反映は幕末まで続くのである。

 毛利輝元・長州藩初代藩主の祖父・毛利元就は安芸の国人に過ぎなかった毛利氏をわずかに一代で大大名とした人物である。輝元は父を早くに失い、当初は元就が、後には二人の叔父である吉川元春、小早川隆景が輝元を補佐した。信長の時代には、輝元は石山本願寺と同盟を結び、配下の村上水軍を使って石山に兵糧を運び、本願寺側の唯一の欠点である補給問題を 毛利がカバーすることで 信長を苦しめたのである。信長が本能寺で急死すると備中高松城で対峙していた羽柴秀吉を攻撃せず中立を守ることで毛利の大領土を守った。広島の土地に巨城と城下町を築いたのも輝元である。秀吉は天下をとった後五大老に輝元を加え、毛利の知将である毛利隆景を入閣させている。ところが知将・隆景を失い、秀吉がなくなると輝元の武将としての迷彩は欠いていくのである。そして毛利輝元は、石田三成の意を受けた安国寺恵慧の説得に乗って関ヶ原の戦いの西軍総大将に祭り上げられてしまった。結局関ヶ原の戦いは吉川元春の子である広家が小早川秀秋を裏切らせたために東軍の勝利で終わった。しかし輝元は秀頼という切り札をもって大阪城という難攻不落の要塞にいたのであるが、毛利の本領は安堵する、という家康の誘いに乗って大阪城をでていってしまった。これにより家康は毛利家を完全に取り潰そうとしたが、吉川広家の嘆願により毛利家は大名としてかろうじて生き残ることができたのである。二百数十年を経た長州から吉田松陰、久坂玄随、高杉周作で代表される幕末の志士を輩出し、ついには倒幕を果たすこととなる。これらの原動力になったのは関が原の戦いでの苦渋に違いない。

1582 小早川秀秋誕生 父は木下家定1543-1608(高台院の兄)   本能寺の変勃発

   秀吉の後継として養子となる(羽柴秀秋)

1588 毛利輝元上洛@聚楽第 上席には小早川秀秋

1593 秀吉に秀頼誕生 → 秀秋は小早川隆景の養子(毛利&豊臣の協定)

   小早川秀秋は筑前33万石の大名

1594 小早川秀秋は毛利輝元の養女を妻

1596 朝鮮出兵 : 小早川秀秋は総大将

1597 朝鮮出兵から帰任 : 越前29万石に減封

1598 秀吉死去

1600 6月 家康による上杉景勝討伐

   小早川秀秋は大阪で秀頼守護

   7月 石田三成が大阪城占拠:対家康クーデター

   8月 小早川秀秋は黒田長政、浅野と接触 :元々秀吉の政権下

   9月 家康と毛利輝元和議 :小早川秀秋は知っていた

      小早川秀秋は家康に忍びを派遣

      小早川秀秋は家康の忍び山岡道阿弥(甲賀の元締め)を取り込む

   9月15日 関ケ原開戦

   小早川秀秋は岡山美作40万石

1602 小早川秀秋急死 謎

 

 

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22 ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃            ┣小早川秀秋1582-1602(養子)   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代) 

吉川元春の居城・日山城の西南の山麓、志路原川沿いの河岸段丘の上に建築したが、

元長が死去、広家が出雲に移転、吉川氏が岩国へ移封され、完全に廃墟となる

 

石垣、礎石建物跡、曲輪、礎石、土塁、空堀、庭園、井戸などの遺構がある

 

館跡の石垣は、長さ80m、高さ3m、中央に2.6mの門

 

東西7m、高さ約4m、長さ10cm、幅8cmの石切りの工具の痕

 

吉川元春・元長・夭折した末子(4男禅岑法師)の墓所

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