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第48代称徳天皇・高野陵

2007年10月27日 | 天皇・皇后陵

第46代孝謙天皇/第48代称徳天皇・高野陵

 高野陵は奈良・平城宮跡の北西すぐ、成務天皇陵、日葉酢媛命陵の南に隣接しています。 この辺一帯は自動車の通行を許可していない生活道路が多く、渋滞が慢性化していて近寄りにくいところです。成務天皇陵、日葉酢媛命陵は参拝したにもかかわらず、隣接する高野陵へは参拝していなかったので、再度の訪問です。

 

 孝謙天皇(718-770)の父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后で、史上6人目の女帝である。 天武系からの最後の天皇であり、即位前の名は阿倍内親王と言います。 淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(稱天皇) 以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいません。

 744年、聖武天皇が難波宮へ引越しを始めた頃に、安積親王が恭仁宮(くにのみやこ)で急死した。安積親王は光明子が皇后になったきっかけの人である。 光明子の息子・基皇子が生まれて間もなく病死した頃に、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた皇子が、その人である。 738年に光明子の娘・阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にすえていたものの、朝廷内には反論も多く、藤原四兄弟が亡くなった今では藤原反省力が盛り返していた。 大伴家持などはその筆頭であった。聖武天皇と分かれて恭仁宮にいた安積親王は、同じく留守番をしていた藤原仲麻呂に毒殺されたのかもしれない。後に仲麻呂は孝謙天皇とともに政界を握ることになる。 聖武天皇の彷徨がおさまったのは745年のことである。橘諸兄の政権に指導制が欠如していたために、天皇の専横を許したともいえる。 749年聖武天皇は孝謙天皇に譲位した。安積親王の謎の死によって阿部内親王が女帝として即位したのである。そして光明皇后は孝謙天皇の補佐を行う機関(紫微中台)をつくり、天皇にかわって皇太后が勅をだすのである。 そして紫微中台の長官には藤原仲麻呂がついた。756年、聖武天皇が崩御されたときの遺言には孝謙女帝の次には道祖王(ふなどおう)を立てるようにとあった。 道祖王は新田部皇子の子で、天武天皇の孫に当たる。朝廷内が藤原一族で固められるのを懸念していた。 翌757年に橘諸兄が死去すると公卿のトップには藤原豊成がつき、藤原南家の全盛時代が到来し、反藤原勢力の道祖王は朝廷機密漏洩事件を起こしたとして皇太子を廃し、右大臣・豊成、藤原永手らは、道祖王の兄・塩焼王を推薦。 また他にも船王、池田王、など推薦されるが孝謙女帝は仲麻呂推薦の大炊王を皇太子とした。大炊王の妻は仲麻呂の長男・真従の先妻であった。 皇太子大炊王を手中にした仲麻呂は独裁政権の道を歩み始めるが、反藤原勢力として橘諸兄の長男・奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂が動き出す。 ところが、757年、長屋王の子山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告する。 そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に440人余りが処された。仲麻呂の独裁に対する反感の大きさが伺える。

 橘奈良麻呂の某反後の758年、孝謙天皇は皇太子大炊王を立てて、淳仁天皇を即位させると、藤原仲麻呂は天皇より恵美押勝という名を贈られている。 そして760年に太政大臣に、762年には正一位という最高潮を極めた。 その後息子・真先、弟・久須麻呂を参議にしたが、次第に仲麻呂に翳りが見え始める。 760年に光明皇太后が死去した。 淳仁天皇の後ろ盾はあったものの、孝謙太上天皇に近づいた看病禅師・道鏡との仲が親密になると、仲麻呂と孝謙との間に亀裂がはいるようになった。 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙の態度を戒めると逆に孝謙は、国家の大事に対しての決済を行うようになり、仲麻呂の権力を奪ってしまった。 763年、仲麻呂側の僧を追放し、道鏡を少僧都とすると、益々孝謙と仲麻呂の確執は深まる。 そして仲麻呂は兵を集めて反乱にでるが、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)に阻まれ、 逆賊となった仲麻呂は官位を奪われ、764年処刑される。 その後、淳仁天皇は廃され孝謙は復位して称徳天皇となった。 そしてその後称徳天皇が亡くなるまでの約7年間、女帝と道鏡による政治が行われる。しかし769年、道鏡を天皇にするか、聖武天皇の血を残すか 悩むときがきた。 そして女帝は和気清麻呂を呼びよせ、決断をゆだねる。 和気清麻呂の姉・広虫は紫微中台の官人で、尼法均として女帝に仕えていたため、清麻呂は秀才官僚としてのし上がってきていた。 そして清麻呂は、道鏡の即位は律令制度の王位継承権に違反するとの判断を下すが、これに憤慨した称徳天皇は、清麻呂の官位を剥奪し、姉も備後に流罪となった。この事件後、称徳天皇は継承者を指名しないまま病死し、道鏡も朝廷から姿を消したのである。

   ┏ 蘇我娼子娘-693
   ┣ 安麻呂  ┣ 武智麻呂(南家)680-737

           ┃   ┗ 仲麻呂706-764 後に恵美押勝
 
          ┣ 房前  (北家)681-737元正の内臣
 
           ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737
 
           ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱        白壁王709-781光仁天皇

           ┃  ┣ 良継 白壁王支持           ┣ 他部親王

  ┏許米━大嶋  ┃  ┗ 百川 道鏡追放   県犬養広刀自 ┣ 酒下内親王

┏□ 金(反大海)
 ┃                            ┣ 井上内親王717-775
 
┣□□意美麻呂  ┃五百重669-695(天武夫人)      ┣ 安積親王728-744 
  
┃舒明┓      ┃┣ 麻呂 (京家)695-737       ┃

┃   鏡女王    ┃┃          文武天皇683-707  ┃
 
┃    ┣氷上娘 ┃┃ 賀茂比売         ┣ 首皇子(45代聖武724)701-756

┃    ┣五百重 ┃┃  ┣ 藤原宮子682-754┛     ┣ 基皇太子727-728
  
┗□ 鎌子614-669┃┃  ┣ 長娥子694-(長屋王妾)  ┣ 阿部内親王46代孝謙718-770

           ┣ 藤原不比等659-720               ┃
       ┣ 定恵644-667 ┣━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
        與志古娘       ┃     
       
          県犬養(橘)三千代668-733                   
              ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
 
            ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757  
  
           美努王

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