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大山守命・那羅山墓

2007年10月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

応神天皇皇子 大山守命・那羅山墓

 大山守命墓は宇和奈辺陵の東、奈良ドリームランド(現在は閉館になっております)の西にあります。 住宅地の一角にひっそりと位置しているので、しっかり探さないとわかりません。 アクセスも悪くて駐車場も周りにはありません。 大山守命は応神天皇の第一皇子(第二皇子かも。。)にあたり、菟道稚郎子、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)とは異母兄弟にあたります。この異母3兄弟には以下の王位継承の物語が伝えられています。

 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われている応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ)の女・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいて父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。 皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。

大山守命・那羅山墓(撮影:クロウ)

 

 

 大鷦鷯尊は父応神天皇の命に従い、末弟の菟道稚郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命は弟の即位を認めず、菟道稚郎子を殺そうと謀った。菟道稚郎子は大鷦鷯尊から兄の計画を聞き知り、逆に計略を以て大山守命を宇治川に葬った。船とともに沈んだ大山守命の屍を引き上げたときに菟道稚郎子が詠んだのが、次の歌であるという。 「宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。それで弓を作るために、木を伐ろうと(大山守命を殺すことを言う)、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、結局伐らずに来てしまったよ、梓弓・檀の木を。」 古事記より

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